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第6章女神の真意と、“料理の奇跡”
第5話 大市の雑踏、風はどっちへ
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出立の朝。王都の東門で、私たちは荷馬車二台ぶんの台所を組み直した。
鍋、火力石、風よけ布、旗竿、香袋、予備の柄杓。——そして“耳の鍋”。
「結び目、低めで」
「うん!」
ルークが立ち上がり、旗の紐をきゅっと結ぶ。
「ぷりん箱、冷却石よし」
マリナが両手を腰に当てて胸を張る。
「護衛は前後に二分。途中の峠で一度休む」
グラドが手短に指示を出す。
「香り文の束は?」
セイル王子が訊く。
「ここに」
私は胸元の巾着を軽く叩いた。
“甘二口”“塩半月”“出汁一滴”。三種類を十枚ずつ。風への手紙は、今日も味方だ。
「では、行こう」
車輪が石畳を転がり、城壁の影が背中から離れていく。
頬を撫でる風は南東。——悪くない。
---
峠の茶屋跡で小休止。私は“朝の味噌湯”を人数分だけ温め直した。
そこへ、黒封の使いが馬を降りる。昨日と同じ角印、違う文面。
「魔都監察局より。——『本日の大市、検分あり。素材の持ち込み制限:塩半量、甘味半量、香辛七種まで。即興鍋を一刻で供せ』」
「ふむ、やる気だな」
王子が肩をすくめる。
「いいですよ。——耳の鍋は制限に入ってませんから」
私は笑った。
「即興に強いのが君の良さだ」
ラウモンドが紙束を鳴らす。
「素材は半量、でも“風”は無限です」
私は香り文の束を握り直した。
---
正午前、魔都の大市に到着。
石畳は黒く、店の軒は低い。人、人、人。香り、香り、香り。
魚を焼く匂い、甘く煮詰める匂い、革をなめす匂い——何百の湯気が交差している。
「ここだ」
王子が示したのは、東端の広場。昨夜と同じ場所。
先に来ていた魔都の係吏が腕を組んで待っていた。
「規定、確認する。塩半量、甘半量、香辛七。……遅延は減点だ」
「焦がしは、即退場ですか?」
私は念のため訊く。
「当然だ」
「承知しました。——旗、低く」
ルークが結び、私は“始まりの湯”を落とす。
風よけ布を張り終える前に、雑踏から罵声がひゅっと飛んだ。
「王都鍋は帰れ!」
屋台夫の一団。昨日まで“黒印”を掲げていた顔が混じっている。
鍋の前に斜めの列ができ、通り道が塞がれる。
「耳の鍋、低火」
私は囁き、マリナが頷いた。
「はい、“薄和薬湯”——注ぎます」
小さな器を十個、十五個。無言で差し出す。
ざわめきが一拍、石の床に吸い込まれる。
私は香り文を二枚、風に掲げた。
“塩半月”
“出汁一滴”
風が紙を撫で、低く流れる。
塞がっていた斜めの列に、自然な“ほころび”ができはじめた。
「通りを空ける」
係吏が短く言い、屋台夫たちは互いに視線を交わし——半歩、退いた。
(よし、湯気の通り道ができた)
---
制限下の“即興鍋”。
私が選んだのは——“雑穀と根の香味煮(市・即興式)”。
「塩は半量。甘は角砂を砕いて表面だけ。香辛は七種ぴったり」
「七種……なに使う?」
ラウモンドがメモを構える。
「セリカ粉、クミーネ、黒胡籽、干柑、香葉、白胡籽……あと一つは、“風”」
「風?」
王子が片眉を上げる。
「はい。——香り文“甘一滴”を最後に砕いて、風で混ぜます」
「反則では?」
係吏が目を細める。
「原材料は蜜と出汁。規定内です」
私は笑って肩をすくめた。
鍋が鳴る。
スィーレン根を薄く、ナミロ玉はとろ火で。雑穀は洗って、ざるのまま湯気で温める。
塩は半月。角砂はすり鉢で軽く、粉にならない程度。
香辛は油で低く目覚めさせ、鍋に戻す。
「王子、混ぜ癖、覚えてますよね?」
「胸の高さで八、次に四、最後に二」
「そう、それです」
王子の腕が滑らかに描く“八”。湯気が胸でそろい、群衆の呼吸が重なる。
私は香り文を細かく千切った。“甘一滴”。
風の端に、そっと乗せる。
「——今」
柔らかな甘い匂いが、鍋の上でほどけた。
角のある少年が、ふわっと目を丸くする。
「なんか……帰ってくる匂い」
「いただきますは、合図してから」
私は優しく釘を刺す。
係吏が腕を組むのを解き、器を一つ受け取った。
一口。沈黙。
二口。喉の奥で、熱がほどける音がした。
「評価は後ほどだ。——次」
列の圧が変わった。敵意は淡く、好奇心は濃い。
私はテンポを上げる。雑穀を一握りずつ投じ、塩を“焦げ線”の手前で止める。
耳の鍋は低火のまま、途切れさせない。
---
中盤、風が急に回った。
北から冷たい筋。湯気が乱れ、香りが散る。
「風向き、変わった!」
マリナが旗を押さえる。
「布を反転、結び目半尺下げ!」
私は即答。ルークが地面を蹴って走る。
風よけ布が左右逆になる瞬間、湯気が一段、胸に戻った。
私は味を一つ、下げる。——塩、紙一枚ぶん。
次に、香葉を一枚だけ追う。
香りの輪郭がふたたび揃う。
「焦げ線、維持」
グラドが鍋の底を覗いて頷く。
私は息を一つ吐き、合図の香を極小で焚いた。
雑踏のざわめきが、再び“食べる音”に戻る。
---
終盤、屋台夫の頭目らしい男が列の最後に無言で並んだ。
皿を受け取ると、少しだけ躊躇して——一口、二口。
「……塩、半月なのに、足りてる」
「出汁の一滴を、風で広げただけです」
「お前の風は、喧嘩を連れてこないのか」
「喧嘩の火は蓋で抑えます。——“耳の鍋”で」
男は短く笑い、器を返した。
その手は、昨日よりわずかに軽かった。
---
夕刻。
検分所で結果が読み上げられる。
係吏は帳面を閉じ、こちらを見た。
「王都鍋、合格。即興鍋“雑穀と根の香味煮”、大市配給許可。条件は従来どおり——『焦げさせるな』」
「ありがとうございます」
私は一礼し、肩の力を抜いた。
人波がすこし開き、黒封の使いが進み出る。
封はさっきより小さい。香りは新しい墨。
「魔王より。——『明朝、城の内庭で“王の朝餉”を。条件はひとつ、“旗は低く”。匙は用意した』」
王子が文を受け取り、私のほうへ差し出す。
封に、薄く香葉の匂いが移っていた。
「……来ましたね」
私は胸の匙を撫でる。
「怖いか?」
「いいえ。——嬉しいです」
女神の匙が、ひとつ明るく鳴った。
鍋の火は落ちていくのに、胸の火は、静かに強くなる。
「明日は“王の朝餉”。三行規則はそのまま。
一、旗は低く。
二、湯気は胸。
三、甘は二口——で、いきます」
「焦がすなよ」
グラドが口角を上げる。
「焦がしません。……耳の鍋も持っていきます」
夜風が大市を撫で、店じまいの鈴が遠くで鳴った。
私は《ステータス》を開く。
《名:カスミアーナ/年齢15/職:料理研究家》
《即興調理 10→12/場制御 13(維持)/香り文作成(風伝達) Lv.2》
《称号:鍋の約束/副称:沈黙の調理師》
「上がってる。——でも、まだ足りない」
「十分以上だ」
セイル王子が笑う。
「君が旗を低くする限り、湯気は迷わない」
「私が鍋を焦がさない限り、香りは橋になる」
「明朝、内庭で」
「はい。——“王の椀”を、もう一度」
私たちは荷をまとめ、夜の城門へ向かった。
風は南東。明日の香りは、きっとよく回る。
鍋、火力石、風よけ布、旗竿、香袋、予備の柄杓。——そして“耳の鍋”。
「結び目、低めで」
「うん!」
ルークが立ち上がり、旗の紐をきゅっと結ぶ。
「ぷりん箱、冷却石よし」
マリナが両手を腰に当てて胸を張る。
「護衛は前後に二分。途中の峠で一度休む」
グラドが手短に指示を出す。
「香り文の束は?」
セイル王子が訊く。
「ここに」
私は胸元の巾着を軽く叩いた。
“甘二口”“塩半月”“出汁一滴”。三種類を十枚ずつ。風への手紙は、今日も味方だ。
「では、行こう」
車輪が石畳を転がり、城壁の影が背中から離れていく。
頬を撫でる風は南東。——悪くない。
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峠の茶屋跡で小休止。私は“朝の味噌湯”を人数分だけ温め直した。
そこへ、黒封の使いが馬を降りる。昨日と同じ角印、違う文面。
「魔都監察局より。——『本日の大市、検分あり。素材の持ち込み制限:塩半量、甘味半量、香辛七種まで。即興鍋を一刻で供せ』」
「ふむ、やる気だな」
王子が肩をすくめる。
「いいですよ。——耳の鍋は制限に入ってませんから」
私は笑った。
「即興に強いのが君の良さだ」
ラウモンドが紙束を鳴らす。
「素材は半量、でも“風”は無限です」
私は香り文の束を握り直した。
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正午前、魔都の大市に到着。
石畳は黒く、店の軒は低い。人、人、人。香り、香り、香り。
魚を焼く匂い、甘く煮詰める匂い、革をなめす匂い——何百の湯気が交差している。
「ここだ」
王子が示したのは、東端の広場。昨夜と同じ場所。
先に来ていた魔都の係吏が腕を組んで待っていた。
「規定、確認する。塩半量、甘半量、香辛七。……遅延は減点だ」
「焦がしは、即退場ですか?」
私は念のため訊く。
「当然だ」
「承知しました。——旗、低く」
ルークが結び、私は“始まりの湯”を落とす。
風よけ布を張り終える前に、雑踏から罵声がひゅっと飛んだ。
「王都鍋は帰れ!」
屋台夫の一団。昨日まで“黒印”を掲げていた顔が混じっている。
鍋の前に斜めの列ができ、通り道が塞がれる。
「耳の鍋、低火」
私は囁き、マリナが頷いた。
「はい、“薄和薬湯”——注ぎます」
小さな器を十個、十五個。無言で差し出す。
ざわめきが一拍、石の床に吸い込まれる。
私は香り文を二枚、風に掲げた。
“塩半月”
“出汁一滴”
風が紙を撫で、低く流れる。
塞がっていた斜めの列に、自然な“ほころび”ができはじめた。
「通りを空ける」
係吏が短く言い、屋台夫たちは互いに視線を交わし——半歩、退いた。
(よし、湯気の通り道ができた)
---
制限下の“即興鍋”。
私が選んだのは——“雑穀と根の香味煮(市・即興式)”。
「塩は半量。甘は角砂を砕いて表面だけ。香辛は七種ぴったり」
「七種……なに使う?」
ラウモンドがメモを構える。
「セリカ粉、クミーネ、黒胡籽、干柑、香葉、白胡籽……あと一つは、“風”」
「風?」
王子が片眉を上げる。
「はい。——香り文“甘一滴”を最後に砕いて、風で混ぜます」
「反則では?」
係吏が目を細める。
「原材料は蜜と出汁。規定内です」
私は笑って肩をすくめた。
鍋が鳴る。
スィーレン根を薄く、ナミロ玉はとろ火で。雑穀は洗って、ざるのまま湯気で温める。
塩は半月。角砂はすり鉢で軽く、粉にならない程度。
香辛は油で低く目覚めさせ、鍋に戻す。
「王子、混ぜ癖、覚えてますよね?」
「胸の高さで八、次に四、最後に二」
「そう、それです」
王子の腕が滑らかに描く“八”。湯気が胸でそろい、群衆の呼吸が重なる。
私は香り文を細かく千切った。“甘一滴”。
風の端に、そっと乗せる。
「——今」
柔らかな甘い匂いが、鍋の上でほどけた。
角のある少年が、ふわっと目を丸くする。
「なんか……帰ってくる匂い」
「いただきますは、合図してから」
私は優しく釘を刺す。
係吏が腕を組むのを解き、器を一つ受け取った。
一口。沈黙。
二口。喉の奥で、熱がほどける音がした。
「評価は後ほどだ。——次」
列の圧が変わった。敵意は淡く、好奇心は濃い。
私はテンポを上げる。雑穀を一握りずつ投じ、塩を“焦げ線”の手前で止める。
耳の鍋は低火のまま、途切れさせない。
---
中盤、風が急に回った。
北から冷たい筋。湯気が乱れ、香りが散る。
「風向き、変わった!」
マリナが旗を押さえる。
「布を反転、結び目半尺下げ!」
私は即答。ルークが地面を蹴って走る。
風よけ布が左右逆になる瞬間、湯気が一段、胸に戻った。
私は味を一つ、下げる。——塩、紙一枚ぶん。
次に、香葉を一枚だけ追う。
香りの輪郭がふたたび揃う。
「焦げ線、維持」
グラドが鍋の底を覗いて頷く。
私は息を一つ吐き、合図の香を極小で焚いた。
雑踏のざわめきが、再び“食べる音”に戻る。
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終盤、屋台夫の頭目らしい男が列の最後に無言で並んだ。
皿を受け取ると、少しだけ躊躇して——一口、二口。
「……塩、半月なのに、足りてる」
「出汁の一滴を、風で広げただけです」
「お前の風は、喧嘩を連れてこないのか」
「喧嘩の火は蓋で抑えます。——“耳の鍋”で」
男は短く笑い、器を返した。
その手は、昨日よりわずかに軽かった。
---
夕刻。
検分所で結果が読み上げられる。
係吏は帳面を閉じ、こちらを見た。
「王都鍋、合格。即興鍋“雑穀と根の香味煮”、大市配給許可。条件は従来どおり——『焦げさせるな』」
「ありがとうございます」
私は一礼し、肩の力を抜いた。
人波がすこし開き、黒封の使いが進み出る。
封はさっきより小さい。香りは新しい墨。
「魔王より。——『明朝、城の内庭で“王の朝餉”を。条件はひとつ、“旗は低く”。匙は用意した』」
王子が文を受け取り、私のほうへ差し出す。
封に、薄く香葉の匂いが移っていた。
「……来ましたね」
私は胸の匙を撫でる。
「怖いか?」
「いいえ。——嬉しいです」
女神の匙が、ひとつ明るく鳴った。
鍋の火は落ちていくのに、胸の火は、静かに強くなる。
「明日は“王の朝餉”。三行規則はそのまま。
一、旗は低く。
二、湯気は胸。
三、甘は二口——で、いきます」
「焦がすなよ」
グラドが口角を上げる。
「焦がしません。……耳の鍋も持っていきます」
夜風が大市を撫で、店じまいの鈴が遠くで鳴った。
私は《ステータス》を開く。
《名:カスミアーナ/年齢15/職:料理研究家》
《即興調理 10→12/場制御 13(維持)/香り文作成(風伝達) Lv.2》
《称号:鍋の約束/副称:沈黙の調理師》
「上がってる。——でも、まだ足りない」
「十分以上だ」
セイル王子が笑う。
「君が旗を低くする限り、湯気は迷わない」
「私が鍋を焦がさない限り、香りは橋になる」
「明朝、内庭で」
「はい。——“王の椀”を、もう一度」
私たちは荷をまとめ、夜の城門へ向かった。
風は南東。明日の香りは、きっとよく回る。
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