『異世界ごはん、はじめました!』 ~料理研究家は転生先でも胃袋から世界を救う~

チャチャ

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第6章女神の真意と、“料理の奇跡”

第6話 王の朝餉——旗は低く、匙は一つ

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 夜明け前。魔都の城壁の内庭は、黒い石に朝露が宿り、薄い靄が地面すれすれを流れていた。私たちは月影の残る芝の上に、静かに台所を組む。

 

「旗、低く。——結び目、胸より下」

 

「了解!」
ルークが走って旗を結び、紐を掌幅ぶんだけ下げる。

 

「耳の鍋、低火で点けます」
マリナが火力石をひとつだけ灯し、薄和薬湯を温め始めた。

 

「護衛は視認線の外へ。剣は抜かず、鍋の蓋を持て」
グラドが冗談とも本気ともつかない声で言い、部下たちが蓋を掲げて散る。

 

「香り文は三種。“甘二口”“塩半月”“出汁一滴”。——余計な言葉は風に任せます」

 

 私は自分に言い聞かせるように小さく頷き、巾着を胸元に押し当てた。内庭の中央には黒い石の卓、その向こうに低い玉座。まだ誰も座っていない。

 

「緊張してる?」
セイル王子が囁く。

 

「ちょっとだけ。……でも、湯気は嘘をつきませんから」

 

「よし、いつも通りだ」

 

 鍋に手をかけると、指先がすっと落ち着いた。今日の朝餉は三椀構成。
 一椀目——“始まりの湯”。
 二椀目——“王の雑穀”。
 三椀目——“甘は二口”。

 

「——来る」

 

 内庭の端で足音が止まり、黒い外套の列が扇形に広がった。先頭の影が外套を外し、ゆっくり歩み出る。角はない。肌は浅褐色。瞳は深い紫。

 

 魔王、だった。

 

「女神の匙の持ち主」

 

「——料理研究家、カスミアーナです」

 

 礼を終え、私は合図の香を最小で焚く。甘さは薄く、安心は長く。

 

「始まりの椀を、どうぞ」

 

 耳の鍋から汲んだ薄和薬湯を、掌に収まる黒椀で差し出す。魔王は視線だけを落としてひと口すすり、短く目を細めた。

 

「……音が、静かになる」

 

「はい。腹の中の火を、良い位置に置き直します」

 

 魔王の左右に控える黒衣の監察たちが、わずかに肩の力を抜いた。私の胸も、その分だけ軽くなる。

 

「二椀目。“王の雑穀”」

 

 鍋の前に立ち、私は段取りを口の中で繰り返す。
 塩は半月。
 甘は角砂の面を一つだけ。
 香辛は七——セリカ、クミーネ、黒胡籽、干柑、香葉、白胡籽、そして“風”。

 

「王子、混ぜ癖、お願いします」

 

「胸の高さで八、四、二」

 

 王子の腕が滑る。湯気が胸で揃い、内庭の風がその高さを覚える。私は雑穀を一握り、ゆっくり落とす。ナミロ玉はとろ火、スィーレン根は薄く。香辛を低い油で目覚めさせ、鍋に戻す。

 

「焦げ線、手前」
グラドが鍋底を覗いて頷く。

 

 私は香り文“出汁一滴”を爪先ほどにちぎり、風の端へそっと乗せた。鼻先で輪郭が整っていく。

 

「——どうぞ」

 

 黒椀に盛り、橋の粥のように少し濃度を出す。魔王が一口。

 

 静寂。

 

 二口。

 

「塩は控えたのに、足りている」

 

「出汁を“風”で運びました」

 

「風?」

 

「はい。香り文に書いた出汁を、湯気の高さで解かして、広げています」

 

「低い旗と、胸の湯気。……規則を使っている」

 

「規則は、不安を減らします」

 

 魔王の口元が、ほとんどわからないほど僅かに上がった。監察たちが互いに視線を交わし、黒卓の前の空気が柔らかくなる。

 

「三椀目。“甘は二口”。——合図のあと、二口だけで止めてください」

 

 私はぷりんの表面に小さく香葉を一片浮かべ、冷えた器を手渡した。最初の一口で目がほどけ、二口目で肩の力が落ちる。三口目に行こうとした指先を、魔王は自ら止めた。

 

「二口、でよい」

 

「ありがとうございます。……喧嘩が止まりますから」

 

「喧嘩は、止めるものだ」

 

 魔王が匙を置いた音が、内庭に小さく響く。私は胸の中でそっと息を吐いた。

 

「質問を、ひとつ」
魔王が言う。

 

「はい」

 

「塩を半量にして、どうして“満ちる”味を作れる」

 

「“帰る”成分を、増やすからです」

 

「帰る?」

 

「匂いで、帰る道を思い出せる味。干柑は記憶を呼び、香葉は息を整えます。雑穀の甘みは遅れて戻るので、塩の仕事を半分肩代わりします」

 

「……なるほど。『焦がすな』を守ったな」

 

「はい。焦げは残り、熱は分ける、が私の規則です」

 

 魔王は立ち上がり、黒卓の前で短く手を叩いた。音は一度だけ。

 

「王の朝餉、合格。——大市での鍋、期限つき常設を許す。条件は一つ、『旗は低く』」

 

「ありがとうございます」

 

 私が深く頭を下げると、魔王は踵を返しかけて、ふと思い出したようにこちらを見た。

 

「女神の匙。——時に、重くはないか」

 

「重いです。けれど、温かいです」

 

「なら、持て」

 

 黒衣が翻り、扇形の列が音もなく遠ざかっていく。内庭に薄い風が残り、香葉の匂いが石に淡く染みた。

 

「やったぁ……!」
ルークが小声で飛び跳ねる。

 

「まだ跳ねない。鍋、落ちる」
マリナが慌てて腕を掴む。

 

「合図を一回だけ足して、片付け開始」
私は笑って香り文を一枚、風へ溶かした。

 

 緊張がするりと溶けていく。王子が肩で息をつき、グラドが蓋を鳴らして満足そうに頷いた。

 

「大市、期限つき常設か。上出来だ」
ラウモンドが記録板にさらさら書く。

 

「期限、どれくらいだと思う?」
ルークが覗き込む。

 

「まずは一月。……いや、“風”次第だ」
私は空を見上げる。朝日が黒い城壁の上を薄く縁取り、湯気の高さを教えてくれる。

 

「ステータス、確認しておこう」
王子が微笑む。

 

「はい」

 

《名:カスミアーナ/年齢15/職:料理研究家》
《即興調理 12→13/場制御 13→14/香り文作成(風伝達) Lv.3》
《称号:鍋の約束/副称:沈黙の調理師》

 

「上がってる。……でも、まだ足りない」

 

「十分以上だ」
王子がいつもの台詞で笑う。

 

「君が旗を低くする限り、湯気は迷わない」

 

「私が鍋を焦がさない限り、香りは橋になる」

 

「次は——?」

 

「魔都常設の段取りと、王都の旧在庫の洗い直し。順番は鍋が知ってます」

 

「頼りにしてる、“料理研究家カスミアーナ”」

 

「任せてください。——耳の鍋も、毎朝連れていきます」

 

 内庭の門が開き、外の市のざわめきが戻ってくる。私は旗の結び目を指で撫で、胸の匙を軽く叩いた。

 

「さあ、鍋を運びましょう。湯気は、待ってくれませんから」
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