美しすぎる王太子の妻になったけれど、愛される予定はないそうです

榛乃

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安らかな眠り

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 ふと遠くで、何かが揺れる気配のようなものを感じた。水面が揺れ、小さな波紋が広がるように、夢と現の境目がふわりとほどけていく。
 それはまるで、真綿で掬い上げられるような、静かでやわらかな目覚めだった。意識が浮上し、少しずつ現実へと引き戻されてゆく度、瞼の裏に夜のつめたさが、すうっと沁み込んでくる。

 ゆっくりと目を開くと、ぼんやりと滲んだ景色が一面に広がっていた。それを見るともなく眺めながら、リリアはぼうっとした意識のまま数度瞬く。薄闇に埋もれた天蓋、どこからともなく薫る甘く華やかな香り、一定の速度で進む秒針の音。ひんやりと澄んだ空気が頰や首筋をやさしく撫ぜ、意識はどんどんと明瞭になってゆく。眠りに就いて、もうどれくらい経ったのだろう。そう思いながら窓へ目を遣ると、そこは厚手のカーテンに覆われ、隙間から微かに月の白い光が漏れているだけだった。どうやら夜明けには、まだ程遠いらしい。

 ゆったりと身を起こし、リリアはひとつあくびをこぼしてから、隣へと視線を移す。使われた痕のまるでない、ぽっかりと空いたひとり分のスペース。枕にそっと指先を触れさすと、メアリが整えた時のまま皺ひとつなくピンと張ったそこには、人のぬくもりは僅かもなく、ただ夜の冷たさだけがしっとりと滲んでいた。

 ――終わり次第、殿下もすぐに参りますので。どうかご安心ください。

 小さく息をつき、リリアは乱れた横髪を耳にかけながら、そっと目を伏せる。すぐに行く、とセドリックは言っていた。相手を安心させるような、いつもの朗らかな笑みを湛えて。それは、メアリもエリオットもまた同じだった。夜になってもなかなか訪れないことに不安を覚えていたリリアへ、ふたりは揃って顔を綻ばせ、そして声を揃えて言うのだった。大丈夫ですよ、と、自信満々に。必ずリリア様のもとへいらっしゃいますから、とも。

 けれど――。再び溜息をつき、リリアはゆっくりとベッドを降りて、サイドテーブルの上に置かれた硝子の水差しへと手を伸ばす。傍らには花瓶に活けて飾られた白い薔薇と、丸いシェードを被った小さなランプ。グラスの半分ほどに水を注ぐと、細く滑らかな水音が、夜の沈黙に微かな波紋を描くように空気を震わせる。あたたかくもなければ冷たくもない、程よくぬるい水で一口喉を潤すと、いつの間にか乾ききっていたらしい身体は、驚くほど貪欲にそれを奥深くまで吸い込んでゆく。まるで砂のようだ、と思った。恵みの雨を喜ぶ砂のような身体のようだ、と。

 グラスから唇を離し、そっと息をつく。そのままもう一杯水を注ごうとして、しかしふと、リリアは視界の端に映り込む“それ”に気が付いた。薄闇の中でも、決して紛れることなくはっきりと分かる、白銀のそれ。まさか、と思いながら、リリアは恐る恐る目を向ける。水差しとグラスを手に持ったまま。錆びついた人形のような、ぎこちない動きで。

 そこにあったのは、肘掛けにのせられた小さな頭と、それから、夜目に眩い白銀の髪の毛だった。それが誰のものであるかなんて、もちろん考えるまでもない。視界に映り込んだ瞬間、リリアはぎょっと肩を飛び跳ねさせ、息を呑んだ。力の抜けた両手から水差しやグラスが滑り落ちそうになり、慌てて握り締めたそれらを、そそくさとサイドテーブルの上へ戻す。そうする間も、心臓は常に忙しなく、どくん、どくんとひときわ力強く鳴っていた。胸を突き破って飛び出してくるのではと思うほど、激しく。

 一旦落ち着こう、と、リリアはベッドの端に腰掛け、それから深く吸い込んだ息を細く長く吐き出す。それからどさりとベッドに上半身を倒し、リリアはふっくらとした白い枕に顔を埋め、更にぎゅっと目を閉じた。まるで意識の外側にある世界を、全て拒むかのように。

 同じベッドに寝ているわけではない。ただ同じ部屋にいるだけ。そうだというのに、どうしてもこんなにも――こんなにも猛烈に羞恥が押し寄せてくるのだろう。熱を帯びた頰は、きっと真っ赤に染まっているだろうことは、鏡を見ずとも分かる。小さく呼吸を繰り返す度、肌に触れる吐息が生ぬるい。このままでは頭が沸騰してしまいそうだ、と思った。身体の内側から茹でられて、湯気でも立ってしまいそうだ、と。息を潜めたつもりでも、喉の奥が変な音を立てそうになるし、胸の鼓動は相変わらずうるさくてたまらない。

 今まで一度も経験がないのだ。同じベッドだろうが、同じ部屋だろうが関係なく。“誰かと一緒に眠る”という経験が、リリアにはただの一度もなかった。
 初めての相手が、たとえばクラリス等の女性だったなら、まだ良かっただろう。安心していられただろうし、何も考えずにいられたに違いない。
 けれども今この部屋にいるのは、クラリスではなく、ルイスだ。一国の王太子であり、そして夫である男性。もちろん彼が手を出さないことは、分かっている。そんなつもりが微塵もないことは、考えるまでもない。しかし、理解しているからといって、緊張も羞恥も和らぐわけではないのだ。

 いや、そもそも、そんなことを考えている時点で――。一瞬脳裏を過ったいかがわしい考えを、リリアは慌てて頭の中から追い払う。期待しているわけでは、決してない。何もかも違う。全然違う。少しも当てはまらない。そんな気は微塵もない。全く以てそうじゃないのだ――と、まるで呪文のように、何度も何度も胸の内で繰り返しながら。身悶えそうになるのを、必死に堪えて。

 暫くそのまま枕に突っ伏して、声にならない声を噛み殺しながら悶えていたリリアは、荒々しく暴れ回っていた羞恥が薄らいだところで、漸くのっそりと、気怠げに身体を起こした。数度たっぷりと深呼吸をし、吸い込んだ夜気を隅々に行き渡らせるようにして、軽く息を整える。そうしてリリアは、手触りの良い毛布を手繰り寄せると、それを両腕に抱えてソファへと足を向けた。眠っているルイスを起こさぬよう、細心の注意払いながら、そっと足音を忍ばせて。

 ソファに横たわるルイスの寝顔には、薄っすらと疲労の影が差しているように見えた。夢の中でまだ政務でもこなしているのか、白い眉間には僅かばかり皺が寄っている。眠る時は、いつもこんな表情なのだろうか。ふとそんなことを思いながら苦笑をこぼし、リリアは抱えていた毛布をそっと広げ、ゆっくりと丁寧にルイスの身体へやさしくかけてやる。ただそれだけのことなのに、毛布を摘む指先には、知らぬ間に緊張が滲み、微かに震えていた。それでも、よほど疲れているのか、ルイスが目を覚ます気配はまるでない。

 そんな彼の寝顔を暫く見つめた後、リリアはそっと息を吐き、踵を返した。部屋の隅に設けられたフックへ歩み寄り、そうして、深い赤色をした厚手のショールに手を伸ばす。ふわふわとしたやわらかな布地は気持ちが良く、それを肩に羽織ってやさしく身体を包み込むと、夜のひんやりとした空気が少しだけ和らいだような気がした。

 そのままベッドへは戻らず、リリアは迷いのない足取りで、ルイスと向かい合うように配置されたもうひとつのソファへと歩を進める。彼がソファで眠っているというのに、自分だけがベッドで休むというのは、どうしても気が引けた。

 そっと腰を下ろし、肩に羽織ったショールを整える。夜の帳に包まれた静謐な寝室に、カーテンの細い隙間から差し込む、蒼白い月明かり。それにほんのりと淡く照らされたルイスの寝顔はどことなく険しくて、彼の心がまだ休まっていないことがひしひしと感じられた。そんな彼のかんばせをじっと見つめながら、リリアは僅かに目を細める。
 彼が心置きなく、ぐっすりと眠りに就けたことは、果たしてあるのだろうか。兄を亡くし、父が病に臥せり、その後ひとりで政務をこなし始めてから、ルイスは一度でも、全てを忘れ、疲れが癒えるまでゆっくりと休むことはあったのだろうか。

 そう思いながら彼の寝顔を眺めていると、どうしようもなく胸が締めつけられた。静かな寝息が聞こえる度に、その安らぎがほんの一時のものではなく、どうか深く、穏やかであってほしい、と、思わずにはいられない。

 (……どうか、安らかな眠りでありますように)

 せめて、そう願うことしかできなくても。胸の内でそっと囁いた瞬間、ルイスの眉間に寄っていた皺がほんの僅か、まるでふわりとほどける糸のように、すっと緩んだような気がした。その些細な変化に、リリアは思わず目を見開く。見間違いかもしれない、気の所為かもしれない、と、そう思えるような小さなものではあったけれど。しかし、それでもなんだか嬉しくて、リリアはふっと顔を綻ばし、静かに目を伏せる。

 彼の見る夢が、どうか幸せで、あたたかなものでありますように――そんな願いを、そっと胸に抱き締めながら。


***


 瞼の裏側が薄っすらと白く明るみ、まるで霧が晴れていくように、深い眠りの底からゆっくりと意識が浮かび上がってくる。
 聞こえたのは、小鳥の囀りだった。それから、裏庭の小屋で飼っている鶏のけたたましい鳴き声。ルイスは僅かに眉を動かし、くぐもった声を小さくこぼす。いつもなら、枕元に差し込む光や、遠くの物音で即座に目が覚めるというのに。今日は何故か、ほんの少しだけ、心と身体が眠りを名残惜しんでいるような気がした。もっとこのままでいたい、と。せめてあと数分だけでも、と。

 けれどそんな望みに反し、掬い上げられた意識はどんどんと明るみを帯びてゆき、やがて、まどろみの縁で瞼がすっと開かれる。カーテン越しに淡く漏れ込む朝陽にぼんやりと色付いた天井。白く霞むようなそれを、暫くぼうっと見つめたまま、ルイスは小さく息を吐く。気の所為か、身体も心も、不思議と軽い。肩からも四肢からも、程よく力が抜けている。それは、久しく感じたことのない、“休息”の感覚だった。

 深く眠った後特有の、妙に心地の良い軽やかさを噛み締めながら、ルイスはゆっくりと身体を起こす。ソファの背に片肘をつき、寝乱れた前髪をくしゃりと掻き上げる。そうして、深く吸い込んだ空気をそうっと吐き出していると、するり、と、やわらかな重みが滑り落ちてゆく感触がして、ルイスはぱちりと目を瞬かせた。見下ろせば、そこには何故か、手触りの良いふんわりとした毛布がある。もちろんそれに、全く憶えはない。少なくとも、昨夜自分で掛けたという記憶は微塵もなかった。

 いったい誰が、と、訝りながら眉を顰めた――その時。視界の端で、ふと何かが揺れた。ルイスは眉間に皺を寄せたまま、ゆっくりと横へ顔を向ける。横長のテーブルを挟んだ向こう側の、同じ造りをしたソファへ。そこには、薄明かりの中に仄かに照らされた小さな人影があった。

 目を凝らさずとも、それが誰であるのかなど、すぐに分かった。分かると同時に、ルイスはぎょっとして目を見開かす。厚手のショールに包まり、華奢な体を丸めるようにしてソファに横たわる彼女は、どこからどう見てもリリアだ。何度目を瞬かせても、無論目に映るものは何も変わらない。彼女は穏やかな顔で、吐息に合わせて胸を上下させながら、静かに眠っている。心做しか、とても気持ち良さそうに。

 ルイスは暫し、その光景から目を離せなかった。リリアが、そこにいる――それは、分かる。けれど、理解しようとすればするほど、その光景は急に現実味を失ってゆく。昨夜、彼女は確かにベッドの上で眠っていたはずだ。だからこそソファで寝ることを選んだのだし、眠る直前まで、彼女が歩み寄ってくるような気配はまるでなかったことも、はっきりと憶えている。

 それなのに、いったいどうして彼女が、そこにいるのだろう――。
 考えれば考えるほど訳がわからなくなっていき、それに比例して、眉間の皺はみるみる深まってゆく。何をどう繋げてみても、釈然としないし、ひとつも辻褄が合わない。目の前の光景は確かに“現実”のはずなのに、頭がそれを受け入れきれず、思考の足場ばかりがぐらぐらと揺らぐ。

 追いつかない理解と、じわじわ押し寄せる困惑。その混乱が限界に達したところで、ルイスはぽつりと呟いた。

 「――は?」
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