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愛の花畑
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朝食は、王城で供されるそれに比べると、ずっと質素で素朴なものだった。
香ばしく焼かれたパンに、薄くスライスされたベーコン、ふんわりと炒められたスクランブルエッグ、そしてコップ一杯のミルク。卵は早朝、鶏小屋から採れたばかりの新鮮なもので、ミルクもまた、裏庭で飼われている山羊から搾ったばかりのものだという。ベルグローヴ・ハウスには専属の料理人がいないので、食事は全てメアリの手作りだ。食後には、近場の果樹園で採れた桃が切って出され、それらをきっちり食べ終えた頃には、お腹はすっかり満杯だった。
料理はどれもやさしい味付けで、とても美味しかった。一口食べる度に、ふわりと心までほどけてゆくようで、思わず頬が緩む。けれど、それらを本当の意味で美味たらしめているのは、料理そのものの味ではなく、誰かと一緒に同じテーブルを囲んで、食事をする――ただそれだけの、些細な、それでいてとても幸福な事実だった。
フローレット家にいた頃も、王城へ来てからも、食事はいつもひとりだった。華やかな器も、麗しい料理も、孤独の前では何の意味もなければ、気分を持ち上げる役にも立たない。“美味しい”と感じることはあっても、それはただの感想というだけに過ぎず、深く感動をするということは殆どなかった。
けれども今は、スプーンを動かしたり、パンをちぎったり、そういった何気ない所作のひとつひとつにすら、心が震えた。前を向けばルイスがいて、横を向けばメアリやエリオット、それにセドリックの姿がある。そんな彼らと、和やかな空気に包まれながら交わされる談笑に、そっと耳を傾けつつ摂る朝食は、今までに食べたどんな料理よりも美味しく感じられた。“誰かと一緒に食べる”というだけで、こんなにも違うものなのか、と、やさしいぬくもりで胸の中がいっぱいになったものだ。食事というものは、“何を食べる”のではなく“誰と食べる”のかが大事なのだと、リリアはこの時初めて痛感した。
――ここは王城ほど人の出入りもなく、暮らしぶりもずっと穏やかで、形式張ったところもありませんから。
食後のお茶を淹れながら、エリオットがふわりと笑った。ルイスはベイウィンドウの下に設けられたベンチに腰掛けて、届いたばかりの新聞に目を通している。窓から差し込む朝陽に照らされた白銀の髪の毛が、きらきらと淡く輝いていてとても美しい、と思った。つい見惚れてしまうほど。
「きっと殿下は、ここならリリア様がゆったりと、気持ちよく過ごせるのではないかと、そうお考えになったのでしょうね」
まるで記憶の中のエリオットの言葉を引き継ぐように、メアリが笑みの含んだ声で軽やかに紡いだ。そうする間も、髪の毛を整えるてきぱきとした手の動きは少しも休まらない。丁寧にブラシを通してしっかりと梳いた髪の毛を、左肩へ流れるようにゆるく編み込み、細くなった毛先にローズグレイのリボンを結ぶ。
プライベートな散歩なので、装飾品はなるべく少ない方が良いかもしれません、という彼女のアドバイスをもとに、控えめでシンプルなデザインのネックレスだけを首に通す。メアリの手つきは、まるで母が娘にするそれのようだ、と思った。もちろん、そんな経験はまるでないので、実際にそうであるのかは分からない、あくまでも想像のものでしかないのだけれど。
「さあ、出来ましたよ」
差し出された手に軽く指先をのせ、ゆっくりと椅子から立ち上がる。散歩の邪魔にならないように、ドレスはなるべく質素な、飾り気の少ないやわらかな生地のものを、そして靴もまた比較的足に馴染んだ歩きやすいもの選んだ。鏡に映るその姿を、メアリは真剣な面持ちで矯めつ眇めつし、そうして満足気に微笑むと、最後の仕上げに控えめな香りのコロンを軽く忍ばせる。庭園に満ちる草花の匂いを打ち消してしまわないように、ほんの少しだけ。
「殿下がお待ちでしょうから、そろそろ参りましょうか」
扉を開けるメアリに促され、リリアはそっと顔を綻ばす。扉の向こう側は、まるで四角く区切られた光の世界のように、朝陽でいっぱいだった。随分と立派に育った、樹齢数十年という欅の枝葉が、艷やかに磨き上げられた床板に葉漏れ日を散らしている。
散歩に行こう、とルイスに誘われたのは、食後のお茶を飲み終えてすぐのことだった。目を合わせることもない、とてもぶっきらぼうな物言いだったけれど。それでも、ルイス自身の口から誘われたのは初めてで、思わず耳を疑ってしまった。他の誰かへ向けて言ったのではないだろうか、と。或いは、単純な聞き間違い、空耳だったのではないだろうかとも思ったほどだ。
けれど、ちらと向けられた赤い一瞥が、正に自分へ向けられたものだと理解した途端、どくりと胸が高鳴ってしまった。お茶などに誘うにしても、今まではクラリスやセドリックを通してでしか伝えられたことはなかったというのに。初めてルイス本人の口から、彼自身の意思をしっかりと聞けたことが、嬉しくて嬉しくて、その感情がつい表情に滲んでしまうほど嬉しくてたまらなかった。全身があたたかく満たされ、心がふわふわとして。声をかけてもらえただけで、こんなにも幸せになってしまう自分が、少しだけ可笑しかった。
思えば、ここへ来てからというもの、初めて尽くしだ。初めての同室、初めて共にする食事、そして初めての誘い――。彼が意図的にそうしているのかは分からないけれど。それでも心は自然と浮き立ち、階段を降りる一歩一歩までもが、まるでステップを踏むみたいに弾んでいる。他人からすれば、たったそれだけのことで、と思われるかもしれない。でも、“たったそれだけのこと”ですら、ルイスとの間ではとても貴重なものなのだ。気持ちを舞い上がらせずして、どうしろというのだろう。
メアリに連れられて表へと出ると、そこには既に身支度を整えたルイスの姿があった。彼は庭の一角に置かれたベンチに腰掛け、大きな身体をした犬と親しげに戯れている。白と赤茶がまだらに混ざったふわふわの分厚い毛並み、ぺたりと垂れた耳、おっとしとした愛らしい表情。ルイスに遊んでもらえていることがよほど嬉しいのか、毛先の白いふさふさの尻尾が、勢いよく左右に振られている。どうやら近くに住む庭師が飼っている、雄のセント・バーナードであるらしい。
「こらこら、バルド。殿下に甘えすぎてはいけませんよ。こちらへいらっしゃい」
メアリの呼ぶ声に、やわらかそう垂れた大きな耳がぴくりと動いた。彼は律儀に一度ルイスを見上げると、視線だけで了承を得たのか、ぱっと顔を輝かせながらメアリの元へと駆け寄ってくる。柔らかな足音を立てながら、大きな体をゆさゆさと揺らして。
その姿は、巨体に似合わぬほど無邪気で、どこまでも忠実で愛らしかった。やがて足元に辿り着くと、バルドは喜びを隠しきれないように尻尾をぶんぶんと振り、メアリの前にちょことんと座る。そんな彼の目が、ふと隣に立つリリアを見上げた。まるでオニキスのように真っ黒い、円な瞳。
「ご安心下さい。大人しくて、とてもやさしい子ですから」
恐る恐る手を伸ばし、ふわふわとしたやわらかな毛並みをそっと撫ぜる。触れた皮膚の先から、リリアの緊張を敏感に感じ取ったのか、バルドは「くぅーん」と高い、どこか幼気な声で鳴いた。相変わらずふっさりとした尻尾を元気よく振りながら。そんな心優しい彼に、リリアはふわりと相好を崩し、そうしてゆっくりと手を離す。思えば犬に触れるという経験も、また初めてのことだった。
「さあ、殿下がお待ちですよ、リリア様。おふたりでごゆっくりと、楽しい時間をお過ごし下さいね」
メアリの柔和な笑みに見送られ、リリアは日傘を差しながら、白昼の陽光にあたためられた庭へと足を踏み出す。繊細なレースの施された白い日傘の奥には、雲ひとつない、清々しく澄んだ青空が一面に広がっている。頬を撫でる風には、夏の始まりの気配が、仄かに滲んでいるような気がした。
ルイスの前で足を止めると、彼は暫し無言でリリアを見つめ、それからすぐに視線を逸らしてベンチから腰を上げた。先に歩き出しても、彼は口を噤んだままで、一歩後ろをついてくるリリアを肩越しに見遣ることもない。けれど、怒っているわけでも不機嫌でもないということは、なんとなく、彼の醸す気配から感じ取れた。その上、リリアが遅れをとらないように、或いはしっかりと庭園を見て回れるように、歩調を合わせてくれている。そういう些細な気遣いに、胸の奥がぽうっとあたたかくなるような気がして、リリアは静かに微笑んだ。
ベルグローヴ・ハウスの庭はとても広い。正門のある南側を除いた三方には、趣向を凝らした、いずれも異なる主題を持つ庭園が設えられ、更にその外側には、広々とした草原や静かな林、小さな森までもが連なっている。
小さくうねる小道を模して敷き詰められた赤煉瓦、大理石と鮮やかなタイルを組み合わせた噴水、蔓薔薇や葡萄の絡まるアーチ、木造りの小ぢんまりとしたガゼボ。小さな池には睡蓮が幾つも浮かび、石の縁を、黄緑色の雨蛙がぴょんと跳ねてゆく。草花の種類は実に豊富で、黄色い花を垂らすキングサリや、こんもりと育ったサルビア、白く清楚な花をつけたオルレアなどが、他の草花と織り交ぜながらあちこちに植えられている。
庭園を進むルイスの足取りには、少しの迷いもない。まるでどこか目的地でもあるかのような、明確な意図を感じられるような歩み。もちろんそれがどこであるのかなど、まるで分からない。けれどそんな彼の背中を、リリアは信頼しながらついてゆく。移り変わる豊かな景色を存分に楽しみながら。
小川に架かる板橋を渡り、木苺の茂る場所を通り過ぎ、そうしてリスの住処があるのだという林を抜けると、途端に視界がぱっと開けた。その瞬間、リリアは眼の前に広がる光景に思わず足をとめ、息を呑んだ。
今までの庭園とは比べ物にならないほど広大な敷地に、色とりどりの花々がまるで身を寄せ合うようにしてぎっしりと植わっている。地平線まで続くのではと思うほど、見渡す限り一面に。
淡い色と白色が幾重にも折り重なり、まるで絹細工のように薄く波打つ無数の花弁。そのひとつひとつが、陽の光を柔らかく透かしながら、ゆるやかに揺れていた。やわらかな風が吹き抜けると、それらがさざ波のように一斉に身を捩り、仄かな香りをふわりと立ち上らせる。甘く瑞々しい、とても上品な香り。風に乗って鼻孔に届いたその香りは、どこか懐かしく、けれど初めて出会うような、とても不思議なものだった。
「あの……少し近くで見ても、宜しいでしょうか」
おずおずと尋ねると、ルイスは花畑を眺めたまま、「好きにしろ」と短く返した。いても立ってもいられず、リリアは僅かばかりの階段を降り、花畑を突っ切るようにして伸びる細い畦道を、まるで踊るような足取りで進む。右を見ても左を見ても、前を見ても後ろを見ても、そこには長閑に揺れる花ばかりが広がっている。恐らくはアマリシアだろう。六代前の国王が、部下に命じて品種改良させた、王妃へ捧げる為の愛の花。
「とても、美しい景色ですね」
階段を降りてくる足音を聞きながら、リリアはうっとりとした表情で花畑を眺める。唇から漏れた言葉は、風にかき消されそうなほど小さな呟きだった。胸の奥で揺れた感情がそのまま声へと乗り移り、微かに震えるように滲み出た、儚く小さなひとこと。
初めて見るはずの光景なのに、じっと見つめていると、何故だか涙がこぼれてしまいそうになる。何がそんなに心を揺さぶるのか、自分でもうまく分からなかった。ひとつの色では言い表せない、幾層にも重なるやわらかな色彩。それらはどこまでもやさしい色だった。風に揺れる一輪一輪に、胸の奥をそっと撫でられるような、深いあたたかさがある。
リリアはそっと瞬き、そうしてゆっくりとルイスへ目を向けた。こんなにも素敵な場所に連れてきてくれたことへの感謝を告げようと、そう思って。
けれども、視線が交わった瞬間、彼の目に宿る深い影に、言葉が喉の奥でふいにほどけた。しんとした二人の間を、風がふわりと吹き抜け、花の靡くさわさわとした音だけが満ちる。
時間が、どこまでもとまったような、不思議な一瞬。その静けさの後、彼はリリアの双眸を真っ直ぐに見据えたまま、ゆっくりと唇を開いた。
「――すまなかった」
香ばしく焼かれたパンに、薄くスライスされたベーコン、ふんわりと炒められたスクランブルエッグ、そしてコップ一杯のミルク。卵は早朝、鶏小屋から採れたばかりの新鮮なもので、ミルクもまた、裏庭で飼われている山羊から搾ったばかりのものだという。ベルグローヴ・ハウスには専属の料理人がいないので、食事は全てメアリの手作りだ。食後には、近場の果樹園で採れた桃が切って出され、それらをきっちり食べ終えた頃には、お腹はすっかり満杯だった。
料理はどれもやさしい味付けで、とても美味しかった。一口食べる度に、ふわりと心までほどけてゆくようで、思わず頬が緩む。けれど、それらを本当の意味で美味たらしめているのは、料理そのものの味ではなく、誰かと一緒に同じテーブルを囲んで、食事をする――ただそれだけの、些細な、それでいてとても幸福な事実だった。
フローレット家にいた頃も、王城へ来てからも、食事はいつもひとりだった。華やかな器も、麗しい料理も、孤独の前では何の意味もなければ、気分を持ち上げる役にも立たない。“美味しい”と感じることはあっても、それはただの感想というだけに過ぎず、深く感動をするということは殆どなかった。
けれども今は、スプーンを動かしたり、パンをちぎったり、そういった何気ない所作のひとつひとつにすら、心が震えた。前を向けばルイスがいて、横を向けばメアリやエリオット、それにセドリックの姿がある。そんな彼らと、和やかな空気に包まれながら交わされる談笑に、そっと耳を傾けつつ摂る朝食は、今までに食べたどんな料理よりも美味しく感じられた。“誰かと一緒に食べる”というだけで、こんなにも違うものなのか、と、やさしいぬくもりで胸の中がいっぱいになったものだ。食事というものは、“何を食べる”のではなく“誰と食べる”のかが大事なのだと、リリアはこの時初めて痛感した。
――ここは王城ほど人の出入りもなく、暮らしぶりもずっと穏やかで、形式張ったところもありませんから。
食後のお茶を淹れながら、エリオットがふわりと笑った。ルイスはベイウィンドウの下に設けられたベンチに腰掛けて、届いたばかりの新聞に目を通している。窓から差し込む朝陽に照らされた白銀の髪の毛が、きらきらと淡く輝いていてとても美しい、と思った。つい見惚れてしまうほど。
「きっと殿下は、ここならリリア様がゆったりと、気持ちよく過ごせるのではないかと、そうお考えになったのでしょうね」
まるで記憶の中のエリオットの言葉を引き継ぐように、メアリが笑みの含んだ声で軽やかに紡いだ。そうする間も、髪の毛を整えるてきぱきとした手の動きは少しも休まらない。丁寧にブラシを通してしっかりと梳いた髪の毛を、左肩へ流れるようにゆるく編み込み、細くなった毛先にローズグレイのリボンを結ぶ。
プライベートな散歩なので、装飾品はなるべく少ない方が良いかもしれません、という彼女のアドバイスをもとに、控えめでシンプルなデザインのネックレスだけを首に通す。メアリの手つきは、まるで母が娘にするそれのようだ、と思った。もちろん、そんな経験はまるでないので、実際にそうであるのかは分からない、あくまでも想像のものでしかないのだけれど。
「さあ、出来ましたよ」
差し出された手に軽く指先をのせ、ゆっくりと椅子から立ち上がる。散歩の邪魔にならないように、ドレスはなるべく質素な、飾り気の少ないやわらかな生地のものを、そして靴もまた比較的足に馴染んだ歩きやすいもの選んだ。鏡に映るその姿を、メアリは真剣な面持ちで矯めつ眇めつし、そうして満足気に微笑むと、最後の仕上げに控えめな香りのコロンを軽く忍ばせる。庭園に満ちる草花の匂いを打ち消してしまわないように、ほんの少しだけ。
「殿下がお待ちでしょうから、そろそろ参りましょうか」
扉を開けるメアリに促され、リリアはそっと顔を綻ばす。扉の向こう側は、まるで四角く区切られた光の世界のように、朝陽でいっぱいだった。随分と立派に育った、樹齢数十年という欅の枝葉が、艷やかに磨き上げられた床板に葉漏れ日を散らしている。
散歩に行こう、とルイスに誘われたのは、食後のお茶を飲み終えてすぐのことだった。目を合わせることもない、とてもぶっきらぼうな物言いだったけれど。それでも、ルイス自身の口から誘われたのは初めてで、思わず耳を疑ってしまった。他の誰かへ向けて言ったのではないだろうか、と。或いは、単純な聞き間違い、空耳だったのではないだろうかとも思ったほどだ。
けれど、ちらと向けられた赤い一瞥が、正に自分へ向けられたものだと理解した途端、どくりと胸が高鳴ってしまった。お茶などに誘うにしても、今まではクラリスやセドリックを通してでしか伝えられたことはなかったというのに。初めてルイス本人の口から、彼自身の意思をしっかりと聞けたことが、嬉しくて嬉しくて、その感情がつい表情に滲んでしまうほど嬉しくてたまらなかった。全身があたたかく満たされ、心がふわふわとして。声をかけてもらえただけで、こんなにも幸せになってしまう自分が、少しだけ可笑しかった。
思えば、ここへ来てからというもの、初めて尽くしだ。初めての同室、初めて共にする食事、そして初めての誘い――。彼が意図的にそうしているのかは分からないけれど。それでも心は自然と浮き立ち、階段を降りる一歩一歩までもが、まるでステップを踏むみたいに弾んでいる。他人からすれば、たったそれだけのことで、と思われるかもしれない。でも、“たったそれだけのこと”ですら、ルイスとの間ではとても貴重なものなのだ。気持ちを舞い上がらせずして、どうしろというのだろう。
メアリに連れられて表へと出ると、そこには既に身支度を整えたルイスの姿があった。彼は庭の一角に置かれたベンチに腰掛け、大きな身体をした犬と親しげに戯れている。白と赤茶がまだらに混ざったふわふわの分厚い毛並み、ぺたりと垂れた耳、おっとしとした愛らしい表情。ルイスに遊んでもらえていることがよほど嬉しいのか、毛先の白いふさふさの尻尾が、勢いよく左右に振られている。どうやら近くに住む庭師が飼っている、雄のセント・バーナードであるらしい。
「こらこら、バルド。殿下に甘えすぎてはいけませんよ。こちらへいらっしゃい」
メアリの呼ぶ声に、やわらかそう垂れた大きな耳がぴくりと動いた。彼は律儀に一度ルイスを見上げると、視線だけで了承を得たのか、ぱっと顔を輝かせながらメアリの元へと駆け寄ってくる。柔らかな足音を立てながら、大きな体をゆさゆさと揺らして。
その姿は、巨体に似合わぬほど無邪気で、どこまでも忠実で愛らしかった。やがて足元に辿り着くと、バルドは喜びを隠しきれないように尻尾をぶんぶんと振り、メアリの前にちょことんと座る。そんな彼の目が、ふと隣に立つリリアを見上げた。まるでオニキスのように真っ黒い、円な瞳。
「ご安心下さい。大人しくて、とてもやさしい子ですから」
恐る恐る手を伸ばし、ふわふわとしたやわらかな毛並みをそっと撫ぜる。触れた皮膚の先から、リリアの緊張を敏感に感じ取ったのか、バルドは「くぅーん」と高い、どこか幼気な声で鳴いた。相変わらずふっさりとした尻尾を元気よく振りながら。そんな心優しい彼に、リリアはふわりと相好を崩し、そうしてゆっくりと手を離す。思えば犬に触れるという経験も、また初めてのことだった。
「さあ、殿下がお待ちですよ、リリア様。おふたりでごゆっくりと、楽しい時間をお過ごし下さいね」
メアリの柔和な笑みに見送られ、リリアは日傘を差しながら、白昼の陽光にあたためられた庭へと足を踏み出す。繊細なレースの施された白い日傘の奥には、雲ひとつない、清々しく澄んだ青空が一面に広がっている。頬を撫でる風には、夏の始まりの気配が、仄かに滲んでいるような気がした。
ルイスの前で足を止めると、彼は暫し無言でリリアを見つめ、それからすぐに視線を逸らしてベンチから腰を上げた。先に歩き出しても、彼は口を噤んだままで、一歩後ろをついてくるリリアを肩越しに見遣ることもない。けれど、怒っているわけでも不機嫌でもないということは、なんとなく、彼の醸す気配から感じ取れた。その上、リリアが遅れをとらないように、或いはしっかりと庭園を見て回れるように、歩調を合わせてくれている。そういう些細な気遣いに、胸の奥がぽうっとあたたかくなるような気がして、リリアは静かに微笑んだ。
ベルグローヴ・ハウスの庭はとても広い。正門のある南側を除いた三方には、趣向を凝らした、いずれも異なる主題を持つ庭園が設えられ、更にその外側には、広々とした草原や静かな林、小さな森までもが連なっている。
小さくうねる小道を模して敷き詰められた赤煉瓦、大理石と鮮やかなタイルを組み合わせた噴水、蔓薔薇や葡萄の絡まるアーチ、木造りの小ぢんまりとしたガゼボ。小さな池には睡蓮が幾つも浮かび、石の縁を、黄緑色の雨蛙がぴょんと跳ねてゆく。草花の種類は実に豊富で、黄色い花を垂らすキングサリや、こんもりと育ったサルビア、白く清楚な花をつけたオルレアなどが、他の草花と織り交ぜながらあちこちに植えられている。
庭園を進むルイスの足取りには、少しの迷いもない。まるでどこか目的地でもあるかのような、明確な意図を感じられるような歩み。もちろんそれがどこであるのかなど、まるで分からない。けれどそんな彼の背中を、リリアは信頼しながらついてゆく。移り変わる豊かな景色を存分に楽しみながら。
小川に架かる板橋を渡り、木苺の茂る場所を通り過ぎ、そうしてリスの住処があるのだという林を抜けると、途端に視界がぱっと開けた。その瞬間、リリアは眼の前に広がる光景に思わず足をとめ、息を呑んだ。
今までの庭園とは比べ物にならないほど広大な敷地に、色とりどりの花々がまるで身を寄せ合うようにしてぎっしりと植わっている。地平線まで続くのではと思うほど、見渡す限り一面に。
淡い色と白色が幾重にも折り重なり、まるで絹細工のように薄く波打つ無数の花弁。そのひとつひとつが、陽の光を柔らかく透かしながら、ゆるやかに揺れていた。やわらかな風が吹き抜けると、それらがさざ波のように一斉に身を捩り、仄かな香りをふわりと立ち上らせる。甘く瑞々しい、とても上品な香り。風に乗って鼻孔に届いたその香りは、どこか懐かしく、けれど初めて出会うような、とても不思議なものだった。
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おずおずと尋ねると、ルイスは花畑を眺めたまま、「好きにしろ」と短く返した。いても立ってもいられず、リリアは僅かばかりの階段を降り、花畑を突っ切るようにして伸びる細い畦道を、まるで踊るような足取りで進む。右を見ても左を見ても、前を見ても後ろを見ても、そこには長閑に揺れる花ばかりが広がっている。恐らくはアマリシアだろう。六代前の国王が、部下に命じて品種改良させた、王妃へ捧げる為の愛の花。
「とても、美しい景色ですね」
階段を降りてくる足音を聞きながら、リリアはうっとりとした表情で花畑を眺める。唇から漏れた言葉は、風にかき消されそうなほど小さな呟きだった。胸の奥で揺れた感情がそのまま声へと乗り移り、微かに震えるように滲み出た、儚く小さなひとこと。
初めて見るはずの光景なのに、じっと見つめていると、何故だか涙がこぼれてしまいそうになる。何がそんなに心を揺さぶるのか、自分でもうまく分からなかった。ひとつの色では言い表せない、幾層にも重なるやわらかな色彩。それらはどこまでもやさしい色だった。風に揺れる一輪一輪に、胸の奥をそっと撫でられるような、深いあたたかさがある。
リリアはそっと瞬き、そうしてゆっくりとルイスへ目を向けた。こんなにも素敵な場所に連れてきてくれたことへの感謝を告げようと、そう思って。
けれども、視線が交わった瞬間、彼の目に宿る深い影に、言葉が喉の奥でふいにほどけた。しんとした二人の間を、風がふわりと吹き抜け、花の靡くさわさわとした音だけが満ちる。
時間が、どこまでもとまったような、不思議な一瞬。その静けさの後、彼はリリアの双眸を真っ直ぐに見据えたまま、ゆっくりと唇を開いた。
「――すまなかった」
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