祈りの日々ー家族の闘病記ー

草加奈呼

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五月十四日

19・狼狽

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 クロポースの効果が表われ始め喜んでいた矢先だと言うのに、一体どうしたと言うのだろう。
 恐れていたことが、遂にやって来たと思った。
 副作用が起きたのだ。そのために、小夜の容態が急に悪化してしまったのだ。恐らく、そうに違いないと思った。その場に腰が砕けてしまいそうであった。

 小夜が死んでしまう。
 そう思わずにいられなかった。

 意識不明の時でさえ見舞客を迎えていたのだから、それより更に悪化したと考えるのは当然である。
 もしかしたら病室の中で、妻が瞼を腫らして泣いているのではなかろうか。
 音を立てないように、静かに静かにドアを押し、半開きの状態で小夜の姿を覗き見た。
 鼻の穴に入れられている細い管も、手首に向かって伸びた点滴の管も、以前と変わりない様子である。
 死んでしまったとは思われない状態に安心して良いものかどうか、私は迷いながら、里志の手を引いて中へ入った。

 小夜はよく眠っている。やはり、再び昏睡状態になってしまったのだろうか。
 今までなら、よく眠ることは健康の源だとしか考えたことがなかったのだが、この頃は眠ることに不安を感じ始めていた。
 うちの子はよく眠る子でして、などと言う話を聞くと、その子には髄膜炎の前兆のような、軽度の症状が表われ始めているのではないかと疑うほどになっている。
 面会謝絶になってしまった理由を、早く妻から聞かなければならない。だが、聞くことに対する恐怖感もあった。
 ところが、妻の表情をよく見ると、二、三日前より明るくなっているように思われる。面会謝絶になったほどの暗い状況と、そのことに対する私の予感が、妻の表情と合致しないことに困惑した。

 私の予想は、全く外れていた。
 小夜は、今のところ副作用もなく、順調にクロポースの効果が表われ始めていると言う。そして昨日あたりから、病室の花瓶に差したオレンジ色に近い黄色の花を見て、「みかん」と口走ったそうだ。
 そして今日は、妻が洗濯などの用のため病室を出ようとすると、「ママ、ママ」と泣き出すようになったと言うのだ。
 妻は、その嬉しさを私や里志に知ってもらいたかったのか、里志のスナップ写真を持ち出して来て、私たちの声に目覚めたらしい小夜に見せた。
「これ、誰?」
 と、妻が小夜に聞いた。
 小夜は以前と違ってはっきりと目を開けて、その写真を見た。そして、「お兄ちゃん」と言ったのだ。
 それは寝ぼけたような声ではあったが、確かにそう聞き取ることが出来た。
 白衣を着た医師や看護婦を見ると、怯えて泣くようになった。医師が、小夜の胸をはだけて診察を始めると、「ばあばあり」と言いながら泣き叫ぶようになったと言う。
 ばあばあり、と言うのは、家族以外の人には理解できかねる言葉である。
 香西医師は、その言葉を「バイバイ」と言っているものと解釈していたと言う。

「ばあばあり」は、小夜が病気になる以前にも言っていた言葉であり、それは「もう終わり」と言っているのであった。
 髄液検査などで苦痛を味わっている小夜は、白衣の天使が悪魔に見え、診察が恐ろしく、聴診器は凶器に見えたのかもしれなかった。早く終わって欲しいという意志を持って、「もう終わり」「もう終わり」「ばあばあり」と、叫び続けるのである。
 しかしそれは、それだけ意識が戻って来たということであり、病気の回復を表わす証拠であった。
 そして、目覚めている時間が長くなったと妻は言う。
 私は嬉しかった。狂喜した。クロポースの効果は大きかった。このまま副作用さえ起きなければ、クロポースという薬剤は、小夜にとって救いの神であり、医学界の宝物だと思う。まだまだ安心できる状態ではないが、もしかしたら、命だけは救われるかもしれないという希望が、胸一杯に膨らみ始めた。
 面会謝絶は、意識が回復した小夜の昂奮こうふんを避けるためらしかった。

 病院からの帰り道、車の座席にもたれて眠そうにしている里志に、私は言って聞かせた。

「小夜が退院するまでは、我慢しなきゃいけないよ。里志はおりこうなんだから。そして、お兄ちゃんなんだから」

 すると里志は、

「退院ってなに?」
 と、聞き返して来た。耳慣れない言葉だったのだろう。

「退院って言うのは、小夜の病気が治って、おうちへ帰って来ることだ」
 と、私は説明した。不幸にして、生きて帰れない場合もあることを考えながらである。
 里志は、退院という言葉の意味を理解したらしかった。

「小夜、早く退院して欲しいな」

 と、その場で直ぐ退院という言葉を使っていた。
 そして、「お母さんと寝たいな」とも言った。
 半月以上も、私と二人だけの生活を強いられて、里志はどれほど寂しさに耐えているか計り知れない。
 チラリと里志の方を見ると、眠そうに目をこすっていた。

「おうちへ帰って、歯を磨いてから寝ないといけないよ。まだ眠っちゃいけない」
「そうだけど、眠いよ……」
「あ、そうだ。どこかにお菓子屋さんがまだ開いていたら、何か好きなもの買ってやる。だから、眠くても我慢しなさい」
「ほんと……。じゃあ、チョコレート買ってくれる?」
「うん。チョコレートでも何でも買ってやる。その代わり、ちゃんと歯を磨くんだよ」
「うん。それなら僕、もう眠くない」

 あどけない里志の言葉に、私は言い知れぬ愛を感じながら運転を続けた。
 だが里志は、その約束も裏切らなければならないほど、睡魔に襲われていたのだろう。会話が途切れたと思うや、途端に眠り込んでしまった。
 今までは、眠ることが人間にとっていかに大切なことか、とばかり考えていた私であったが、今は違っていた。小夜の病気によって、眠り過ぎることがいかに恐ろしいかを知らされたからである。

 家に着くと、里志を車の座席に寝かせたまま布団を敷いて寝床の準備をした。そして、里志を車から抱きかかえて降ろし、そっと布団に寝かしつけた。
 愛しさと哀れみとの、がんじがらめの私の気持ちが、里志に頬ずりすることを強要する。

 少し熱いように感じた。
 早速、体温計を探し出して里志の脇に挟んでみる。
 37度2分。平熱よりはやや高い筈であった。暫くすると、軽い咳をした。

 しまった。里志に風邪を引かせてしまった。私はやや狼狽していた。
 毎夜毎夜、遅くまでやらねばならない仕事が山積みされていて、疲れ果てている私である。この上、里志に寝込まれたら一体どうなるのかと、不安が私の胸をかすめた。
 そして、もしかしたら、朝になっても里志が目覚めることなく、小夜と同じように昏々と眠り続けていたとしたら……と、考えると戦慄が走った。
 あたふたと仕事を終えると、やはり午前3時になっていた。床に就いてからも、里志のことが気になって眠れず、朝になるまで、何度も何度も里志の額に手を当てていた。
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