祈りの日々ー家族の闘病記ー

草加奈呼

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五月十六日

20・食欲

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 病院の売店で売られている、ありきたりの弁当ばかり買って食べている妻は、食物に飢えていたのだろう。
「味噌汁が飲みたい」とか「生野菜が食べたい」などと、私に訴えていた。

 買って来る弁当には蒲鉾や天ぷら、佃煮などは入っているが、味噌汁や生野菜は望めない。そこで私は、時々私の作った弁当を持って行って食べさせてやることにしていた。
 トマトや胡瓜やレタスなどの生野菜を妻は嬉しそうに食べ、魔法瓶に入れた味噌汁をおいしそうにすすり込んでいた。
 意識が回復した小夜は、食べ物や飲み物を見ると欲しがって泣くほどになっている。だが、医師の許可がない限りうかつに与えて失敗したら大変だ。
 妻は、私の陰に隠れて落ち着かない食事をしなければならなかった。

 里志の風邪は幸い大したことはなく、軽い咳が出る程度で済んだ。その後も熱はなかったので、薬局で買って来た薬を飲ませてその場をしのぐことが出来た。
 だが、もしも小夜に感染したらいけないと、里志をなるべく小夜から遠ざけるようにしなければならなかった。
 里志は、病室の片隅から「小夜」と優しい声で呼んだりしていて、いかにも寂し気であった。

「お兄ちゃんが呼んでるよ」
 と、妻が言うと、

「お兄ちゃん」
 と、小夜がはっきりした口調で言った。

 私が、便所へ行こうとして部屋を出ると、「パパ」と呼びながら小夜は泣いていた。

 左手首から右手首へ点滴の針が移されたことは、急速な意識の回復を喜んでばかりはいられないことを物語っている。右手首へ移されたということは、この先暫くの間は点滴が続くと言う証に他ならないからである。

 点滴によって右手が自由にならなくなった今は、左手だけが頼りである。ところがどうした訳か、自由になった筈の左手が思うように動かせない様子なのだ。
 ガーゼを持たせても直ぐ落としてしまうし、痒いところもかけなくなっている。
 ガーゼは、病気になる以前から持たないと眠らない癖があったので、なんとももどかしい気持ちでいるに違いなかった。

 やはり、どこかに麻痺を残すだろうと言った、医師の言葉通りになってしまったのだと、私は愕然とした。
 実際、小夜の左手には握力など全くなかった。せいぜい、腕を上下に動かすことができる程度である。

 妻は、そのことを非常に苦にして、「このまま左手が動かなかったら、嫁にもやれない」と言って嘆いた。

「右手じゃなくて、よかったじゃないか……」
 と、私は慰めにもならないことを口走った。

 そして今日は、忘れられない感動の日になった。
看護師が鼻注の管を抜き取り、今までうっとうしそうにしていた小夜の表情が明るくなった。それと同時に香西医師が入って来て、丹念に診察した後、

「お茶かジュースを、少量飲ませてみて下さい」
 と、言ったのだ。

 私も妻も、狂喜した。

 里志が飲んでいた缶ジュースなどを見て、欲しがって泣いていた小夜である。恐らく、狂うほど喉の渇きを覚えていたに違いない。
 妻が早速、香西医師に言われた通り楽飲みを買って来て、番茶を飲ませてみた。
 楽飲みは案外、多量の番茶が喉へ流れ込むのか一口飲んだ小夜は、たちまち咳き込んでしまった。
 そこで、楽飲みを止めてコップに番茶を入れ、ストローで飲ませてみた。今度は上手く飲めた。

「どうですか。上手に飲めますか」
と、香西医師は、いつもの穏やかな表情で言った。

「楽飲みでは無理ですから、ストローで飲ませてみました」
 と、私は言った。

「楽飲みで飲ませて無理ということは、まだ飲む力が回復していないのかもしれませんね。もう一度飲ませてみて下さい」

 香西医師の指示に従って、もう一度、妻が楽飲みの口を小夜の唇にあてがった。ゆっくりと傾けて行って、少量の番茶が小夜の口に入るようにすると、やはり咳き込んだ。

「楽飲みは、飲む意志のない時でも、容器を傾けるだけで自然に喉へ流れ込んでしまいます。だからむせるんじゃないでしょうか。その点、ストローなら、小夜が飲みたい分量だけ、自分の意志で吸い上げる訳ですから、無理な分量が流れ込むことはありません。そこに違いがあると思うのですが」

 と、私は香西医師に説明した。

「そうかもしれませんね。それじゃ、ストローで飲ませてみて下さい」

 妻がストローに換えて、小夜に番茶を与えた。今度は上手に飲んだ。
 飲み物を与えられるようになれば、今度は早く食べ物を与えてやりたい、と願うのが親心であった。
 そんな私たちの気持ちを知ってか知らずか、香西医師が言った。

「プリンを食べさせてみて下さい。この分なら、多分食べられると思います」

 それを聞いた私は、胸がキイーンと鳴ったように思えた。
 それは、感動の音であったと思う。狂喜の叫びであった。
 妻が再び売店へ素っ飛んで行った。里志も、何か買ってもらおうと後を追った。

「小夜、良かったな。プリンを食べられるぞ。ほんとに良かったな」
 と言いながら、私は小夜に頬ずりした。

「プイン、ほしい」
 と、小夜が言った。

 私は、思わず大粒の涙をこぼしてしまい、妻と里志が戻って来ないうちに急いで涙を拭いた。

 小夜は、絶食していた18日間の空腹を一気に取り戻そうとするかのごとく、物凄い勢いでプリンを食べた。あっという間に食べ終わると、

「もっとほしい」
 と言うのである。

 だが、一度に食べさせて腹を壊しては大変である。

「もうないの。からっぽ」

 と、妻がプリンの容器を逆さにして見せたりするが、小夜は「もっとほしい」を連発して、大弱りである。

 だが、一口食べて「もういらない」と言うよりは、「もっとほしい」と駄々をこねてくれる方が嬉しかった。
 何度ねだっても、プリンは食べさせてくれないと諦めた小夜は、病室のあちこちに目を走らせる。すると、妻が食べるために買って置いてあったパンを見つけてしまった。プリン以外の物なら、食べさせてくれると思ったのだろう。

「パンほしい。パンほしい」
 と言って、妻と私を困らせた。

「食べさせてやりたいけど、もし喉に引っ掛かったりしたら困るし、どうしよう」
 と、妻は私の顔を窺うように見た。

「お茶に浸して、食べさせてやれ。少し位なら大丈夫だろ」
 と、私は妻に言った。
 小夜が可哀想で、どうしても耐えられない気持ちだったのだ。
 それに、プリンが大丈夫なら、パンの濡らしたものに限り喉を通るだろうと考えたからであった。

 パンは、ほんの一欠けらしか与えなかったが、小夜は上手に食べることが出来た。
 死なせてしまうかと思った小夜に、食べ物を与えることが出来るという喜び、この絶頂感。一体、この気持ちをどう表現したらいいのか、私には見当がつかない。
 小夜の病気を悲しむ気持ちが強過ぎて、余りに激し過ぎて、今日のこの日の喜びは計り知れないものであった。その嬉しさのあまり、ついついもう一口、番茶に浸したパンを与えてしまう妻も、その気持ちは同じだったろうと思う。
 僅か二口か三口のパンではあったが、小夜は今までにない食欲を見せて全くうまそうに食べた。里志も、「小夜、おいしいか」と嬉しそうに語りかける。ただ、里志は風邪を引いていて、小夜の傍に寄れないのが残念そうだった。
 再び様子を見に入って来た香西医師が、目を細めて喜んでくれた。

「パン、もっとほしい」
 と、小夜の食欲は限りないものであった。
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