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六月十四日
31・大部屋2
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香西医師は、まだ診察中らしかった。
待合室は人の姿もまばらで、とくに小児科診察室の前に置かれた長椅子には、もう誰も座っていなかった。今診察を受けているのは、恐らく最後の患者に違いない。
暫くすると、小学校5年生くらいの男の子を連れて、その母親らしい人が出て来た。診察を終えたのだろう。
奥の方から、香西医師が私を呼んだ。彼女の声は、もはや耳慣れた声であった。
私が入ると、「どうぞ掛けて下さい」と、患者が診察を受けるための椅子を差し出した。なんだか、自分が患者になった気分に陥りそうである。
「突然、個室から大部屋に移ってもらいましたが、小夜ちゃんの反応はどうですか?」
「今のところは元気そうに見えますが、何分まだ移ったばかりですから、今後のことを心配しています。急に大勢の知らない人たちとの交流が始められたために、変に神経質になったり、そのために熱を出したりするんじゃないかと……。私の希望としては、あのまま個室に置いてもらった方がよかったのですが。というのは、小夜の精神面の心配もありますが、それと同時に、私たちが出入りするたびに、他の患者さんに迷惑がかかるんじゃないかと思いまして……」
「いいえ、その心配はいりません。他の患者さんにも、面会の方は沢山来られると思いますし、第一、小夜ちゃんほどの重病人はありませんから、むしろ他の患者さんたちが重症患者の小夜ちゃんに気を使うんじゃないでしょうか……。それから、大部屋に移って頂きましたのは、小夜ちゃんの病気がそれだけ快復に向かっているということなんです。ですから私としては、他人との交流をさせてみて、それに耐え得るだけの体力が出来てきたかどうかを試してみたいと思ったからなんです。それに、そうやって他人の吐く息の中での生活に、体を慣れさせることも必要だと判断しています。万一にも、それによって何らかの病気が出たりするようなら、また個室へ戻ってもらいますが、まずその心配はなさそうに思います。それから、少し歩行訓練を始めて下さい。最初は無理のない程度に、くれぐれも注意しながらお願いしたいと思います」
「小夜の体は、かなり良くなりつつあるんですね」
私は、喜び勇んでそう言った。恐らく声を弾ませていたことだろうと、我ながら思うのだ。
「先ほど歩かせてみましたが、とても立っていることさえ不安な状態で……。あれで歩けるようになるんでしょうか?」
親馬鹿というのだろうか。快復の兆しが見えて来ると、最初は命だけでもと願っていたことが急に欲が出て、今度は歩けるようになってほしいと願うようになるものなのだ。
「それは何とも言えません。ただ言えることは、歩けなければ歩けるまで、何年かかってでもマッサージやリハビリテーションを続けて、根気よく治療に励むことが大切です」
私は、もう一つ聞きたいことがあった。それは小夜の左手のことだ。以前よりは、やや握力も出て来たように思える。しかし、それでもまだまだ人並に自由の効く手ではなかったからである。
だが、また同じような答えが返って来るだろうと思ったのでそれは質問しなかった。答えを聞くのが恐ろしく思えた。
歩行困難で、左手が不自由……。
そんな小夜を想像するだけで、それは地獄絵図であった。
だが小夜の命だけは、なんとか救われそうになった。
快復に向かっていることは確かだと、香西医師が言った。
それだけでも喜ばなければならない。
私はこの1ヵ月半、どれほど香西医師からその言葉を聞きたいと待ち望んでいたことか。
「それから、これはついでの時で結構ですので、かかりつけ病院の院長先生に渡して下さい」
と香西医師は、白い封筒を私に託した。
「今までの小夜ちゃんの病気に対する経過を、手紙に書きました。恐らく、かかりつけ病院の院長先生も心配されていると思いますから……」
私はその手紙を受け取ると、なぜかふと不安に襲われた。
もしかしたら、私に知れてはならないような恐ろしい病状が、小夜に現れているのではないだろうか……? 快復に向かっているというのは、私を安心させるためのいつわりであったのだろうかと……。
病室に戻ると、妻と里志の姿はなかった。
小夜は、あれからずっと富子ちゃんの世話になっていたらしく、彼女のベッドに座って絵本を読んでいた。
富子ちゃんの隣のベッドには、小学5年生の恵美ちゃんという入院患者がいた。彼女もやはり腎臓が悪く、入院してから何ヵ月にもなるという。その恵美ちゃんも、小夜を可愛くて仕方がないといった表情で、うまく遊び相手をしてくれている。
小夜は母親がいなくても、全くそんなことは気にも留めていないらしく、屈託のない笑顔で大人しく座っているのだ。
それはやはり、富子ちゃんと恵美ちゃんの遊ばせ方が、余程上手だったということだろう。
富子ちゃんが私に気付いて、
「ほら、パパが帰って来たよ」
と言うと、初めてその時我に返ったように振り向いて、
「あ、パパ……。パパ……」
と言って、抱かれて来た。
妻と里志のことを訊ねると、売店から一度戻って来たが、里志が廊下で寂しそうにしていたので、再び出て行ったということだ。
私の予想では、多分屋上へでも上がって電車が走る風景でも見下ろしているのだろうと思う。
私は小夜を抱いて、廊下を右往左往しながら、妻と里志の帰りを待った。
暫くすると、里志と妻の話し声が高い所から聞こえ、二人の姿が階段を下りて来た。
「お父さん。特急が6輌で走って行ったよ」
と、御機嫌そのものの表情で、里志が私に報告する。やはり予想通りであった。電車を好きな里志は、いつもそれを飽きることがない。
私は、そろそろ帰らなければならなかったので、富子ちゃんと恵美ちゃんに礼を言って部屋を出た。
見舞品にもらった品や、不要になった衣類などを家に持ち帰ることになった。今までの個室のように、やたら荷物を置くことは出来ない。私は荷物を両手一杯に持ち、それでも持ちきれない分は軽い物を里志に持たせた。
妻は、小夜を抱いてエレベーターの乗降口まで見送りに来た。
小夜は、一緒にエレベーターに乗りたいらしく、
「パパ……。パパ……」
と言って、手を差し延べている。
連れて行けないのが、残念で仕方がない。
「お母さんバイバイ……。小夜、バイバイ……」
と、里志も非常に名残惜しそうで、寂し気な声で別れを告げている。
私はその一瞬が辛く、どんな時よりも嫌いであった。
家に帰ることが出来ない小夜の気持ち、子供のために必死で耐え抜こうとしている妻の気持ち……。その二人を残して去らなければならない里志の気持ち……。
それはいつものことであり、1ヵ月半もの間に、ある程度慣れてしまったとはいうものの、そのたびに里志は涙を浮かべている。
一体、こんなことがいつまで続くのだろうか。
私や妻は耐えられる。しかし子供だけは、この悲惨な生活から早く開放してやりたい。幸せな毎日を送らせてやりたい。
悪夢なら、早く醒めてほしいと祈るばかりである。
待合室は人の姿もまばらで、とくに小児科診察室の前に置かれた長椅子には、もう誰も座っていなかった。今診察を受けているのは、恐らく最後の患者に違いない。
暫くすると、小学校5年生くらいの男の子を連れて、その母親らしい人が出て来た。診察を終えたのだろう。
奥の方から、香西医師が私を呼んだ。彼女の声は、もはや耳慣れた声であった。
私が入ると、「どうぞ掛けて下さい」と、患者が診察を受けるための椅子を差し出した。なんだか、自分が患者になった気分に陥りそうである。
「突然、個室から大部屋に移ってもらいましたが、小夜ちゃんの反応はどうですか?」
「今のところは元気そうに見えますが、何分まだ移ったばかりですから、今後のことを心配しています。急に大勢の知らない人たちとの交流が始められたために、変に神経質になったり、そのために熱を出したりするんじゃないかと……。私の希望としては、あのまま個室に置いてもらった方がよかったのですが。というのは、小夜の精神面の心配もありますが、それと同時に、私たちが出入りするたびに、他の患者さんに迷惑がかかるんじゃないかと思いまして……」
「いいえ、その心配はいりません。他の患者さんにも、面会の方は沢山来られると思いますし、第一、小夜ちゃんほどの重病人はありませんから、むしろ他の患者さんたちが重症患者の小夜ちゃんに気を使うんじゃないでしょうか……。それから、大部屋に移って頂きましたのは、小夜ちゃんの病気がそれだけ快復に向かっているということなんです。ですから私としては、他人との交流をさせてみて、それに耐え得るだけの体力が出来てきたかどうかを試してみたいと思ったからなんです。それに、そうやって他人の吐く息の中での生活に、体を慣れさせることも必要だと判断しています。万一にも、それによって何らかの病気が出たりするようなら、また個室へ戻ってもらいますが、まずその心配はなさそうに思います。それから、少し歩行訓練を始めて下さい。最初は無理のない程度に、くれぐれも注意しながらお願いしたいと思います」
「小夜の体は、かなり良くなりつつあるんですね」
私は、喜び勇んでそう言った。恐らく声を弾ませていたことだろうと、我ながら思うのだ。
「先ほど歩かせてみましたが、とても立っていることさえ不安な状態で……。あれで歩けるようになるんでしょうか?」
親馬鹿というのだろうか。快復の兆しが見えて来ると、最初は命だけでもと願っていたことが急に欲が出て、今度は歩けるようになってほしいと願うようになるものなのだ。
「それは何とも言えません。ただ言えることは、歩けなければ歩けるまで、何年かかってでもマッサージやリハビリテーションを続けて、根気よく治療に励むことが大切です」
私は、もう一つ聞きたいことがあった。それは小夜の左手のことだ。以前よりは、やや握力も出て来たように思える。しかし、それでもまだまだ人並に自由の効く手ではなかったからである。
だが、また同じような答えが返って来るだろうと思ったのでそれは質問しなかった。答えを聞くのが恐ろしく思えた。
歩行困難で、左手が不自由……。
そんな小夜を想像するだけで、それは地獄絵図であった。
だが小夜の命だけは、なんとか救われそうになった。
快復に向かっていることは確かだと、香西医師が言った。
それだけでも喜ばなければならない。
私はこの1ヵ月半、どれほど香西医師からその言葉を聞きたいと待ち望んでいたことか。
「それから、これはついでの時で結構ですので、かかりつけ病院の院長先生に渡して下さい」
と香西医師は、白い封筒を私に託した。
「今までの小夜ちゃんの病気に対する経過を、手紙に書きました。恐らく、かかりつけ病院の院長先生も心配されていると思いますから……」
私はその手紙を受け取ると、なぜかふと不安に襲われた。
もしかしたら、私に知れてはならないような恐ろしい病状が、小夜に現れているのではないだろうか……? 快復に向かっているというのは、私を安心させるためのいつわりであったのだろうかと……。
病室に戻ると、妻と里志の姿はなかった。
小夜は、あれからずっと富子ちゃんの世話になっていたらしく、彼女のベッドに座って絵本を読んでいた。
富子ちゃんの隣のベッドには、小学5年生の恵美ちゃんという入院患者がいた。彼女もやはり腎臓が悪く、入院してから何ヵ月にもなるという。その恵美ちゃんも、小夜を可愛くて仕方がないといった表情で、うまく遊び相手をしてくれている。
小夜は母親がいなくても、全くそんなことは気にも留めていないらしく、屈託のない笑顔で大人しく座っているのだ。
それはやはり、富子ちゃんと恵美ちゃんの遊ばせ方が、余程上手だったということだろう。
富子ちゃんが私に気付いて、
「ほら、パパが帰って来たよ」
と言うと、初めてその時我に返ったように振り向いて、
「あ、パパ……。パパ……」
と言って、抱かれて来た。
妻と里志のことを訊ねると、売店から一度戻って来たが、里志が廊下で寂しそうにしていたので、再び出て行ったということだ。
私の予想では、多分屋上へでも上がって電車が走る風景でも見下ろしているのだろうと思う。
私は小夜を抱いて、廊下を右往左往しながら、妻と里志の帰りを待った。
暫くすると、里志と妻の話し声が高い所から聞こえ、二人の姿が階段を下りて来た。
「お父さん。特急が6輌で走って行ったよ」
と、御機嫌そのものの表情で、里志が私に報告する。やはり予想通りであった。電車を好きな里志は、いつもそれを飽きることがない。
私は、そろそろ帰らなければならなかったので、富子ちゃんと恵美ちゃんに礼を言って部屋を出た。
見舞品にもらった品や、不要になった衣類などを家に持ち帰ることになった。今までの個室のように、やたら荷物を置くことは出来ない。私は荷物を両手一杯に持ち、それでも持ちきれない分は軽い物を里志に持たせた。
妻は、小夜を抱いてエレベーターの乗降口まで見送りに来た。
小夜は、一緒にエレベーターに乗りたいらしく、
「パパ……。パパ……」
と言って、手を差し延べている。
連れて行けないのが、残念で仕方がない。
「お母さんバイバイ……。小夜、バイバイ……」
と、里志も非常に名残惜しそうで、寂し気な声で別れを告げている。
私はその一瞬が辛く、どんな時よりも嫌いであった。
家に帰ることが出来ない小夜の気持ち、子供のために必死で耐え抜こうとしている妻の気持ち……。その二人を残して去らなければならない里志の気持ち……。
それはいつものことであり、1ヵ月半もの間に、ある程度慣れてしまったとはいうものの、そのたびに里志は涙を浮かべている。
一体、こんなことがいつまで続くのだろうか。
私や妻は耐えられる。しかし子供だけは、この悲惨な生活から早く開放してやりたい。幸せな毎日を送らせてやりたい。
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