36 / 44
六月十九日
36・アルバム
しおりを挟む
紳士服工場へ行く時刻になった。
仕上げた背広を車に積み込むにも、目まいと吐き気は、否応なしに私の仕事に対して抵抗を加えて来る。
ハンドルを握れば、道路が左右に揺れている。大丈夫だろうかと、不安が募る。しかし、10分足らずの距離だからと、必死に目を凝らしながら頑張らなければならない。
「お父さん、大丈夫……?」
助手席に乗っている里志が、心配そうである。
幼い子供に心配させるほど、私は悲痛な表情で運転していたのだろうか。こんな状態では、遠出は無理だと思った。
そうやって工場で背広の交換をして家へ帰ると、すぐ配達の準備をした。
配達を済ませて夕食の準備に取りかかった。
里志は、いつもと違う私を気遣って、やけに静かに大人しく一人で遊んでいる様子である。いつもなら、
「お腹すいた。何か食べるものちょうだい」
などと言って来る里志が、全く静かに一人で本を読んでいる風である。
私は、少し心配になって里志の傍に行ってみた。
すると、それは本ではなくアルバムであった。
私たち夫婦は、妻のアイデアで、里志と小夜の写真を別々のアルバムに貼ってある。それは、我が子たちが独立する時、自分のアルバムを自分の生活の場へ持ち込めるように配慮したものであった。
シャッターを切る時にも、私は2冊のアルバムに貼りやすいように考えていた。家族全員で写したものや、里志と小夜の兄妹が二人で写っているもの。そして一人ずつ別々に写っているものという具合に、同じ場所で撮影する場合でも、一度に何回ものシャッターを切っていた。
里志が先ほどから一心に見入っていたのは、なんと小夜のアルバムであった。
写真に写っている小夜の姿を見て、里志は私に気づいていない風である。だが、それは私に気づかないのではなかった。私が近づいても、顔を上げられなかったのである。
里志の態度を見て、私は胸に一撃を加えられたかのように慄然となった。
「泣いてるのか……」
私は、とりあえずそう言った。それ以外に言葉がなかった。
私のその声に、初めて里志はアルバムから目を離し、私を見た。
里志の頬を伝って落ちる涙が、想像を絶するほど大粒多量だった。
一体、誰がこんな幼い子供までを傷つけるのか。どうしてこんな辛い思いをしなければならないのかと、私は地団太を踏みたくなる思いであった。
風邪を引いているために、暫く妹の顔を見に行っていない里志は、私の知らないうちに、写真だけでも見たいという寂しい心境に陥っていたのだ。
「お父さん……。僕、小夜に会いたい……」
涙にむせびながら、里志はそう言った。
私は、慰めの言葉も出なかった。
アルバムには、小夜の写真が一杯である。
自動車のボンネットの上に、両足を前に出して座っている小夜。妻の実家の庭で、砂遊びをしている姿。里志と小夜が仲良く手をつないだもの。レジャー施設の遊園地で私に抱かれているもの。妻に抱かれたもの。それらの写真一枚一枚が、里志の胸に悲しみを伝えて来るのだ。
小夜の入院当初は、初めての経験で半信半疑であり、それが長く続けば、どのような重大な事件であるかということも理解出来なかっただろう。しかし、今となっては事の重大さを身にしみて感じ、それを事実として受け止めなくてはならなくなってしまったのだ。小さな胸を傷めている、哀れな里志の姿がそこにあった。
「小夜が死んだらいやだ……」
里志は、とめどもなく流れる涙を手の甲で拭いながら、ある一枚の写真に見入っていた。
それは、小夜が自動車の前に裸足で立ち、左手で前方にあるらしい何かを指差していて、小夜のすぐ後ろに、里志がボンネットに手を置いて立っている、二人の写真であった。
小夜は、指差す方向を見ながら可愛らしく微笑み、里志も満面に微笑みを浮かべながら、全く小夜と同じ方向に目を向けている。
この写真は、小夜が1歳になったばかりの頃に撮影したものだと、私は記憶している。そして、私が写したものである。兄弟の親しみと、切っても切れない絆の美しさが表現された、特に私の気に入った写真でもあった。
そういった写真は、やはり幼い子供の心にも何かを訴える、魔力のようなものが秘められているのだろうか。ひとしきりその写真を見つめていた里志は、やがてアルバムを第1頁へ戻した。
最初の頁には、産まれた直後、産湯に入れられている小夜の姿があった。
この写真は、家族の宝物である。まだ臍の緒がぶら下がったままの小夜の裸体を、助産婦が大切そうに、頭だけを湯の中へつけないように抱えている姿であった。その助産婦の息子が、私の高校時代の同級生であった縁から、このような写真を残してくれたものらしい。シャッターは、その息子が押してくれたと聞いている。
なかなか、このような写真を残すのは難しいだけに、貴重な記録をそれとなく贈ってくれた同級生に、私は感謝している。
欲を言えば、里志の時にもこんな写真が欲しかったと思う。
里志は涙を拭いて、その写真をしっかりと見た。
そして言った。
「僕の大事な妹……」
再び、里志の目には涙が一杯にあふれた。
私は思った。産まれて来る者は皆、いつかは死ぬ。早いか遅いかの違いこそあれ、必ず死というものは避けて通ることの不可能な道なのだ。
小夜の場合、生命は救われそうになって来た。だが、もしも急に症状が悪化して儚い命となった時、一体産まれるということに何の重要性があったのだろう。何の必要性があったのだろうと考える。ままならぬ乳児期をも満足に生き延びられず、人生に半歩も踏み入れることを許されないままに死んで行くことほど悲しい運命の人間があれば、これを哀れと言わずに何を哀れむべきかと思う。
「せっかく産まれて来たのに……」
と里志が、しゃくり上げるのを耐えながら言った。
全く私と同感であった。私の考えていた複雑な気持ちを、里志は見事に、たった一言で表現し終えていた。
「せっかく産まれて来たのに……」
本当にその通りである。
もう大丈夫。小夜は助かったさ……。だけど、手足は不自由になるかもしれないから、その時はお父さんが背負って歩く。だから、里志も小夜を大事に大事にしてやってほしい……。と私は言った。
「小夜が退院して来れるんなら、その時は僕……、お菓子なんか食べるの我慢して、全部小夜に食べさせてやる……」
と、里志は子供ながら精一杯の努力によって、妹が帰って来る時の喜びを表現してみせようとしていた。
仕上げた背広を車に積み込むにも、目まいと吐き気は、否応なしに私の仕事に対して抵抗を加えて来る。
ハンドルを握れば、道路が左右に揺れている。大丈夫だろうかと、不安が募る。しかし、10分足らずの距離だからと、必死に目を凝らしながら頑張らなければならない。
「お父さん、大丈夫……?」
助手席に乗っている里志が、心配そうである。
幼い子供に心配させるほど、私は悲痛な表情で運転していたのだろうか。こんな状態では、遠出は無理だと思った。
そうやって工場で背広の交換をして家へ帰ると、すぐ配達の準備をした。
配達を済ませて夕食の準備に取りかかった。
里志は、いつもと違う私を気遣って、やけに静かに大人しく一人で遊んでいる様子である。いつもなら、
「お腹すいた。何か食べるものちょうだい」
などと言って来る里志が、全く静かに一人で本を読んでいる風である。
私は、少し心配になって里志の傍に行ってみた。
すると、それは本ではなくアルバムであった。
私たち夫婦は、妻のアイデアで、里志と小夜の写真を別々のアルバムに貼ってある。それは、我が子たちが独立する時、自分のアルバムを自分の生活の場へ持ち込めるように配慮したものであった。
シャッターを切る時にも、私は2冊のアルバムに貼りやすいように考えていた。家族全員で写したものや、里志と小夜の兄妹が二人で写っているもの。そして一人ずつ別々に写っているものという具合に、同じ場所で撮影する場合でも、一度に何回ものシャッターを切っていた。
里志が先ほどから一心に見入っていたのは、なんと小夜のアルバムであった。
写真に写っている小夜の姿を見て、里志は私に気づいていない風である。だが、それは私に気づかないのではなかった。私が近づいても、顔を上げられなかったのである。
里志の態度を見て、私は胸に一撃を加えられたかのように慄然となった。
「泣いてるのか……」
私は、とりあえずそう言った。それ以外に言葉がなかった。
私のその声に、初めて里志はアルバムから目を離し、私を見た。
里志の頬を伝って落ちる涙が、想像を絶するほど大粒多量だった。
一体、誰がこんな幼い子供までを傷つけるのか。どうしてこんな辛い思いをしなければならないのかと、私は地団太を踏みたくなる思いであった。
風邪を引いているために、暫く妹の顔を見に行っていない里志は、私の知らないうちに、写真だけでも見たいという寂しい心境に陥っていたのだ。
「お父さん……。僕、小夜に会いたい……」
涙にむせびながら、里志はそう言った。
私は、慰めの言葉も出なかった。
アルバムには、小夜の写真が一杯である。
自動車のボンネットの上に、両足を前に出して座っている小夜。妻の実家の庭で、砂遊びをしている姿。里志と小夜が仲良く手をつないだもの。レジャー施設の遊園地で私に抱かれているもの。妻に抱かれたもの。それらの写真一枚一枚が、里志の胸に悲しみを伝えて来るのだ。
小夜の入院当初は、初めての経験で半信半疑であり、それが長く続けば、どのような重大な事件であるかということも理解出来なかっただろう。しかし、今となっては事の重大さを身にしみて感じ、それを事実として受け止めなくてはならなくなってしまったのだ。小さな胸を傷めている、哀れな里志の姿がそこにあった。
「小夜が死んだらいやだ……」
里志は、とめどもなく流れる涙を手の甲で拭いながら、ある一枚の写真に見入っていた。
それは、小夜が自動車の前に裸足で立ち、左手で前方にあるらしい何かを指差していて、小夜のすぐ後ろに、里志がボンネットに手を置いて立っている、二人の写真であった。
小夜は、指差す方向を見ながら可愛らしく微笑み、里志も満面に微笑みを浮かべながら、全く小夜と同じ方向に目を向けている。
この写真は、小夜が1歳になったばかりの頃に撮影したものだと、私は記憶している。そして、私が写したものである。兄弟の親しみと、切っても切れない絆の美しさが表現された、特に私の気に入った写真でもあった。
そういった写真は、やはり幼い子供の心にも何かを訴える、魔力のようなものが秘められているのだろうか。ひとしきりその写真を見つめていた里志は、やがてアルバムを第1頁へ戻した。
最初の頁には、産まれた直後、産湯に入れられている小夜の姿があった。
この写真は、家族の宝物である。まだ臍の緒がぶら下がったままの小夜の裸体を、助産婦が大切そうに、頭だけを湯の中へつけないように抱えている姿であった。その助産婦の息子が、私の高校時代の同級生であった縁から、このような写真を残してくれたものらしい。シャッターは、その息子が押してくれたと聞いている。
なかなか、このような写真を残すのは難しいだけに、貴重な記録をそれとなく贈ってくれた同級生に、私は感謝している。
欲を言えば、里志の時にもこんな写真が欲しかったと思う。
里志は涙を拭いて、その写真をしっかりと見た。
そして言った。
「僕の大事な妹……」
再び、里志の目には涙が一杯にあふれた。
私は思った。産まれて来る者は皆、いつかは死ぬ。早いか遅いかの違いこそあれ、必ず死というものは避けて通ることの不可能な道なのだ。
小夜の場合、生命は救われそうになって来た。だが、もしも急に症状が悪化して儚い命となった時、一体産まれるということに何の重要性があったのだろう。何の必要性があったのだろうと考える。ままならぬ乳児期をも満足に生き延びられず、人生に半歩も踏み入れることを許されないままに死んで行くことほど悲しい運命の人間があれば、これを哀れと言わずに何を哀れむべきかと思う。
「せっかく産まれて来たのに……」
と里志が、しゃくり上げるのを耐えながら言った。
全く私と同感であった。私の考えていた複雑な気持ちを、里志は見事に、たった一言で表現し終えていた。
「せっかく産まれて来たのに……」
本当にその通りである。
もう大丈夫。小夜は助かったさ……。だけど、手足は不自由になるかもしれないから、その時はお父さんが背負って歩く。だから、里志も小夜を大事に大事にしてやってほしい……。と私は言った。
「小夜が退院して来れるんなら、その時は僕……、お菓子なんか食べるの我慢して、全部小夜に食べさせてやる……」
と、里志は子供ながら精一杯の努力によって、妹が帰って来る時の喜びを表現してみせようとしていた。
30
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
新しい家族は保護犬きーちゃん
ゆきむらさり
エッセイ・ノンフィクション
〔あらすじ〕📝初めて🐶保護犬ちゃんを迎え入れる我が家。
過去の哀しい実情のせいで人間不信で怯える保護犬きーちゃん。
初日から試行錯誤の日々と保護犬きーちゃんがもたらす至福の日々。
◇
🔶保護犬ちゃん達の過去・現在の実情の記述もあります🐾
🔶日々の些細な出来事を綴っています。現在進行形のお話となります🐾
🔶🐶挿絵画像入りです。
🔶拙いエッセイにもかかわらず、HOTランキングに入れて頂き(2025.7.1、最高位31位)ありがとうございます🙇♀️
【完結】『80年を超越した恋~令和の世で再会した元特攻隊員の自衛官と元女子挺身隊の祖母を持つ女の子のシンクロニシティラブストーリー』
M‐赤井翼
現代文学
赤井です。今回は「恋愛小説」です(笑)。
舞台は令和7年と昭和20年の陸軍航空隊の特攻部隊の宿舎「赤糸旅館」です。
80年の時を経て2つの恋愛を描いていきます。
「特攻隊」という「難しい題材」を扱いますので、かなり真面目に資料集めをして制作しました。
「第20振武隊」という実在する部隊が出てきますが、基本的に事実に基づいた背景を活かした「フィクション」作品と思ってお読みください。
日本を護ってくれた「先人」に尊敬の念をもって書きましたので、ほとんどおふざけは有りません。
過去、一番真面目に書いた作品となりました。
ラストは結構ややこしいので前半からの「フラグ」を拾いながら読んでいただくと楽しんでもらえると思います。
全39チャプターですので最後までお付き合いいただけると嬉しいです。
それでは「よろひこー」!
(⋈◍>◡<◍)。✧💖
追伸
まあ、堅苦しく読んで下さいとは言いませんがいつもと違って、ちょっと気持ちを引き締めて読んでもらいたいです。合掌。
(。-人-。)
皆さんは呪われました
禰津エソラ
ホラー
あなたは呪いたい相手はいますか?
お勧めの呪いがありますよ。
効果は絶大です。
ぜひ、試してみてください……
その呪いの因果は果てしなく絡みつく。呪いは誰のものになるのか。
最後に残るのは誰だ……
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる