祈りの日々ー家族の闘病記ー

草加奈呼

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六月二十五日

42・不吉な電話

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 昨夜から続いている背広の検査は、まだまだ終わりそうになかった。時計を見ると、午前2時である。ここらで休憩でもしようかと思い、頂き物の酒を持ち出して来た。

 ああ、それにしても疲れたなあ……。小夜の退院に対する喜びとは反対に、疲労感も一杯であった。耳鳴りがしていた程である。
 いつもは、眠りたいがための酒であったが、今夜だけは退院の前祝いの気分だった。

 しかし、グラスに酒を注ごうとしたその時、けたたましい音で電話が鳴った。

 一体、この深夜に何事かと思った。
 11時頃なら、古い知人から時々電話がかかって来ることもある。もしかしたら、今夜もその知人からかかって来たのかなと思ったが、それにしても時間が遅すぎる。11時頃にかけて来て、午前2時まで話したことはあったかもしれないが、12時を過ぎてからかかって来たことは一度もなかったからである。まして、今は午前2時を過ぎている。

 なぜか私は、鳴り響く電話のベルを、不吉な予感を持って聞いた。
 退院だと思って喜んでいた矢先に、小夜が階段から転げ落ちて重態だとか、そんな想像をしてしまっていた。

 受話器を取ると、妻の声であった。
 こんな時刻に、病院から電話をかけて来るということは、何か悪いことが起きたに違いなかった。一体何事かと、私は固唾を呑みながら妻の声を聞いた。
 酷くしわがれた声で、妻の声だと聞き分けるのに時間がかかる程であった。

 やはり何かが起きた。予感が適中した。
 妻の話の内容は、やはり大変なことだった。
 だが、災難は小夜のことではなかった。

 ところが、小夜のことではなかったと言って、安心してはいられる場合ではなかった。それは、妻の容態の悪化である。

 妻は、熱が続いていることは言うまでもないことだが、昨夜から吐き下しが始まったと言う。今では普通の下痢ではなく、下痢便に血が混じるようになり、それがさらに悪化して、全く真紅の血ばかりが多量に流出して、電話で話していることさえ苦痛だそうだ。

 受話器から聞こえて来るのは、妻の途切れ途切れの声である。少し話すと、苦しそうな息遣いが暫く続く。
 小夜はいつものように、あまり熟睡しないらしく、目を離せる状態ではないし、妻は便所ばかり行って血を流さなければならず、横になって休む暇など寸時もないと言う。
 蒼白になっている妻の顔が、容易に想像出来た。

「急いで……。すぐ来て……」

 と言う妻の声は、受話器を置いた途端に、その場に倒れてしまうのではないかと思えるほど、弱々しく苦しそうであった。
 もう夜が明けたら退院だという日になって、大変な事態が発生してしまった。
 私は、何が何だか判らなくなってしまっていた。

 とにかく、取るものも取りあえず、家主の伯母を叩き起こすように目覚めさせた。私と里志が寝ている部屋へ呼んで来て、「里志を一人で寝かせておくわけないはいかないから、一緒に寝ていてやってくれ」と頼み、散らかしている検査中の背広を片付けることもせず、家を飛び出した。
 伯母は、眠そうな目をしばたきながら、余りに突然の出来事に半信半疑のまま、里志の横に添い寝した。

 それからの私は、どんな気持ちでハンドルを握っていたか……。病院へ着くまでの40分程の時間が、非常に長く感じられた。
 小夜が退院だと言うことで、無量の幸福を感じていた。それだけに、単なる風邪だと思っていた妻の体が、予想もしなかったような事態を招いて、思わぬドンデン返しを喰らったようだ。私は、うろたえ、焦り、油汗を浮かべていた。
 小夜が救われた代わりに、妻が死ぬのではないか……。そんな最悪の状況さえ、想像していたのだ。
 下痢ではなく、鮮血がほとばしる……。
 それなら、出血多量で死亡する可能性はある筈である。

 神様……、仏様……、助けて下さい。
 信仰心のない私が、この時ばかりは小夜の入院当初のように、そう願っていた。

 非常口の青白いランプの灯りのみが、廊下を照らしている病院に入った。
 病室も消灯されていて、やはり廊下のほの暗い灯りが、かすかに窓から入っているだけである。
 小夜がタオルケットを跳ね退けて眠っていた。
 妻の姿はなかった。
 私は、小夜にタオルケットを被せたり、頭の汗を拭ってやったりしながら、妻の帰りを待っていた。恐らく、便所へ行っているのだろうと思ったが、もしかしたら、何回目……。いや、何十回かの出血で体力が尽き果て、便所で死んでいるのではないかとも想像した。

 だが暫くすると、妻は今にも倒れそうな、ふらふらした足取りで病室へ戻って来た。小夜の隣の、今でも空いているベッドへ、ドタリと音を立てて座り込む。

「俺が来たから、小夜は大丈夫。少し横になって休め」

 私が言うと、横になっていても吐き気が酷くて楽じゃないし、どうせすぐに便所へ走らなきゃならないから……と、妻は苦しそうに言った。寝ても起きてもいられない状態なのである。
 考えてみれば、2ヵ月も続いた過度の心配、過度の不眠、こうならない方が不思議なのであった。悪い病気でなければ良いが……。
 それから、何度も何度も、妻は便所へ走った。全く哀れな姿であった。
 妻は、当直の医師に診てもらうことになった。

「一人で行けるか……?」

 私が心配すると、

「なんとか…………」

 と、枯れた声で答えて出て行った。

 妻は、長い間戻って来なかった。
 今度は、妻が入院することになるのではないだろうか……。そんな不安が、脳裏をかすめる。

 里志のことも心配である。自宅にいながら、両親共にどこかへ消えてしまった夜を体験するのは、里志にとって初めての筈だ。里志は深夜必ず、一度や二度は尿意を覚えて起きる。そんな時、私の替わりに伯母が傍らに寝ていることを知って、どんな反応を示すのだろうか。そんなことも考えていた。

 小夜は、妻がいない間に何度も起きた。急にミルクを欲しいと言い出すので飲ませたり、小便をさせたり、夢を見て泣き出したりするのだ。

 妻が病室へ戻って来たのは、午前5時頃だったと思う。
 やはり、点滴を受けていたと言った。

「少しは楽になったか……?」

 と聞くと、

「あんまり変わらないみたい……」

 と、妻は答えた。

 退院の日を、1日遅らせてもらうように頼んでみようかと言うと、私は大人だから悪ければ通院するので、この際、小夜だけは退院させてやることが先決だと言う。

 僅か1歳9ヶ月の年齢で死病に取りつかれ、それに耐え抜いて来た小夜。だが幼いだけに、昏睡状態の時に病院に運ばれたまま、2ヵ月間も入院生活を送っていれば、もしかすると自分の家を忘れているかもしれないと思った。そうなれば、1日も早く家へ帰らせて、自宅療養させたいと願うのが親心ではあった。

 妻は横になっていたが、眠れなかったと言う。私も、一睡も出来なかった。頭がくらくらする朝であった。
 そう言えば、妻は便所へ行く回数が少し減ったようである。点滴の効果が表れたのかもしれなかった。だがやはり、どうにもならないほど体がだるく、吐き気だけは治まらない様子であった。

 医師は、過労で衰弱している体に強力な風邪薬を服用したために、腸が破れてしまったのだと説明した。暫くの間、薬は服用出来ない。服用出来なければ風邪は治らないから、もしもこれ以上拗らせたら大変である。
 出血は治まりつつあるので、今のところ生命の危険はなさそうだ。そういう点では陽が高くなるにつれて安心感が強くなって来た。

 6時を過ぎると、他の患者たちも目覚め、洗顔は一つしかない蛇口を交替で使用した。
 朝食が済むと、家から持ち込んだ食器類や衣類、タオルケットや毛布、そして玩具や絵本などを箱や袋に詰め込んだ。退院の支度というのは、嬉しいものである。これで妻が元気なら、もっと楽しかっただろう。

 一人歩きは無理な小夜であるが、それでも元気そうで何よりだと思った。
 荷物も、不要になった物はその都度私が持ち帰っていたので、思ったほど多くはなかった。しかしそれでも、両手に抱えて3回ほど車の中まで運んだ。小児科病棟から駐車場まではかなりの距離で、荷物を運び終えると汗が流れた。

 11時頃、小夜は一階へ降りてマッサージを受けた。私がマッサージに立ち合うのは、これが初めてである。小夜は、嫌がってかなりの抵抗を示した。

「ジュースほしい」

 と言って泣いている。
 泣きながら、マッサージ用の台から降りようとするのだ。
 妻の話では、ジュースが欲しいと言えば、買いに連れて行ってもらいるから、その場を逃れられると思っているのであって、いつものことだと言う。妻がマッサージに付き添っていて、私がジュースを買いに行くことになった。
 無理矢理押さえつけられて、マッサージを受けている小夜の手に、ポリ容器に入ったジュースを持たせると、少しは機嫌が良くなったが、それでも「もうオワリ、もうオワリ」と、泣きながら言っていた。

 マッサージを受けることによって、別段痛みを感じる訳ではないはずである。しかし、押さえつけられて自由が効かないことの不満と、白衣のマッサージ師に対する不信感か、あるいは恐怖感のようなものを覚えていたのだろう。

 マッサージを終えると、私たちは再び病室へ戻り、昼食を済ませた。
 相変わらず小夜は食欲がなく、なかなか食べてくれなかった。だが、それでも今日ばかりはいつもと違って、そんなに無理に食べさせる必要はないと思った。病院の食事は喉を通らなくても、家に帰って、小夜の好みそうなシチューやクリームスープなどを作ってやれば、もっと食欲が出るに違いないと考えたからである。

 今までなら、体に悪いからといって少々嫌いな物でも無理に食べさせようとしたのだが、間もなく退院という今は、もうそんな気遣いはしなくても良かった。家へ帰って、もっと楽しく食事させてやろうという気持ちで一杯なのだ。

 妻は蒼白というより黄疸のような顔色で、苦しさに耐えながらベッドの下などを掃除し、最後の片付けをした。
 詰所に集まった看護師たちに挨拶をし、丁度居合わせた小児科部長に礼を述べた。

「小夜ちゃん、良かったねえ」

 と、看護師たちは口々にそう言いながら、小夜の手を握ったり頭を撫でたりして、別れを惜しんでくれた。

「大変でしたね。今後暫くは、週に1回ずつ通院してもらわなければなりませんし、出来ればマッサージだけは毎日でも受けた方がいいですよ。これからも頑張って下さい」

 と小児科部長は、指示を与えながら激励してくれた。
 もう一度病室に戻って、患者や付き添いの人に別れを告げ、私は小夜を抱いて、妻は残っていた小さな荷物を持ち、廊下へ出た。

「バイバイ」

 と、小夜は明るく手を振っている。
 やっとのことで、閉じ込められていた穴ぐらから抜け出せるような気分なのだろう。病室に別れを告げることには、何の抵抗もなさそうである。
 富子ちゃんと恵美ちゃんが、エレベーターの所まで見送ってくれた。

「おねえちゃん、バイバイ」

 小夜は、エレベーターの扉が閉まるまで、何度も何度もそう言った。

「通院になっても、時々病室へ遊びに来てね」

 と、富子ちゃんが笑顔で言っていた。
 1階へ降りて、香西医師に挨拶しようと思ったが、残念なことに姿が見えなかった。看護師に訊ねても知らなかった。
 まあ、それは通院の時に、また礼を言えば良いことだからと、私は妻に言った。そう言ったものの、私も何となく心残りであった。やはり、退院の時に一言挨拶したいという気持ちがあったのだ。

 病院の玄関先を出発したのは、午後2時頃であった。
 病院の建物は、灰色の暗いイメージであり、好むべきものではない。ところが、いよいよ小夜が退院ということになると、そしていざ出発となると、何故か懐かしさと親しみを感じられる。そのくせ、この建物から去ることに無上の喜びを覚えるという、不可解な心境であった。
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