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11 浄化と魔王との決戦(ゼインside)
しおりを挟む──魔境の最深部。
そこは、瘴気の濃さが皮膚を刺すような場所だった。
空気はどろりと重く肩に乗り、硫黄の臭いが鼻をつく。熱気で水分が奪われ、息が白く濁るほどだ。
騎士たちは皆、顔面蒼白で足取りも覚束ない。まともに武器すら振れていない者もいる。
騎士団長に至っては、腹の上下運動しかしていないような有り様だ。
(これで本当に魔王を討つつもりなのか)
内心ため息をついたが、隣を見るとミリアが涼しい顔で魔物を薙ぎ払っている。杖を軽やかに操る一撃は、清廉で確実で美しい。
(……あいつ、この熱気の中でも参っていないのか)
まるでこの熱気と瘴気の中で、一人だけ涼し気な風が吹いているようだ。そして、なぜか妙に彼女からの視線を感じた。
(やけに俺の方を見るな)
見られることには慣れている。だが、それは通常蔑みや嫌悪の視線だ。だが、ミリアの視線は妙だった。怯えでも恐怖でもない、なんというか……ひどくキラキラとしている。
(なぜ、そんな嬉しそうなんだ?)
そう思いながらも、彼女の視線を無意識に意識してしまう自分に、俺はわずかに眉をひそめた。
魔王城が近づいた頃、一行はどす黒い水を湛える不気味な湖に辿り着いた。
湖面は沸騰しているように揺らぎ、瘴気が湯気のように立ち上る。明らかに常軌を逸した場所だ。
(これは近づかない方がいい……と、言うまでもない見た目だな)
周囲を見渡していると、突然、宰相閣下が走りだした。
「湖だ!」そう言いながら、顔面から突っ込んだ。
直後、甲高い悲鳴が響く。
「うわぁぁ顔が! 顔があぁぁ!!」
(阿呆か……何をやっている)
俺はため息をつきながら走った。誰も近づけずにいる中、瘴気の水を跳ね散らす宰相閣下を、首根っこを掴んで湖から引き上げる。
その瞬間、瘴気の黒水が手や頬にかかった。皮膚が焼けるように熱く、赤黒く変色していく。
(くそ……厄介だな)
冷静に状況を見極めようとした、その時だった。
湖面が膨れ上がり、巨大な影がゆっくりと立ち上がる。それは見た目は美しいのに、吐き気を催すほど禍々しい人型の魔族だった。
『ふはははは、勇者と聖女一行よ。よくぞここまで来たな。私は、魔王様の直属の部下、セルウェイだ。私は水を操る魔物。この瘴気の水がお前たちを腐らせ──』
魔物が名乗りを上げようとした、その時。
「お黙りなさい」
静かだが、鋼の刃のような声が湖畔に響く。ミリアの声だった。
だが彼女は、魔物を見ていない。何故か魔物に背を向け、俺達の方を真っ直ぐに見つめている。
(なぜ魔物に背を向ける!? 恐怖で動けないのか?)
俺は彼女の様子に驚き、思わず近寄ろうとするが、次の瞬間──ミリアの魔力が爆発した。
『浄化の光よ、今こそ大地に満ちよ──』
プラチナの髪が輝き、瞳が星のように煌めく。杖の先端に集まった魔力は、熱を伴う神聖な奔流へと姿を変え、一帯は黄金の光に包まれた。
彼女が呪文を唱えた瞬間、俺の皮膚を蝕んでいた瘴気は溶けるように消え、瘴気の湖は瞬く間に清らかな泉へと変わった。
そして、人型の魔物セルウェイは悲鳴を上げながら、その身を光に砕かれて消滅する。
「凄いな……」
呆然と見つめる俺の前で、ミリアが息を吐くように言った。
「この湖を、この魔境を正常な森へと戻したかっただけですわ」
彼女の魔力の奔流は、森のため、人々のため。その一点に、何の迷いもなかった。
俺は胸の奥に、説明しがたい熱を感じた。
やがてミリアは周囲を見回し、今日はこの地での野営を指示した。
「この先はさらに危険ですわ。ここで今日は野営しましょう。明日はおそらく、魔王との対決となります」
そして騎士たちに、真剣な目つきで伝えた。
「ここに、強力な結界を貼っておきますので、魔王との決戦は宰相閣下、騎士団長様と皆さんはここで待っていてください」
その言葉を聞き、涙を浮かべ始めた騎士たちを、彼女は優しく見つめていた。
「ミリア様は、我々の命を惜しまれているのですね……! 俺達は最後までご一緒します!」
感動し、声を震わせながらそう告げる騎士たちを前に、彼女は淋しげに微笑んだ。
俺は静かにその横顔を見つめた。
彼女の考え方は甘い。言葉にするのは周りの者たちを守るためのもの。だが、その甘さも、その強さも人を惹きつける。
(なるほど。だから皆、あいつの言葉に救われるのか。そして……惹かれるのか)
彼女が言った「待っていてください」は、仲間を切り捨てる言葉ではなく、生かすための選択だ。
(……ミリア。お前というやつは、想像以上の女だな)
そんな彼女と、この先を共に進むために。ゼインは静かに決意を固めた。
翌日。魔王城へ辿り着いた一行は、肌を刺すような魔力に包まれ、張り詰めた緊張が満ちていた。
騎士たちが慎重に剣を構えながら進む中、ミリアはやはりただ一人だけ軽やかな足取りで魔物をなぎ倒していく。だが、なぜか今日はやけに肩がこわばっている。
彼女が時折こちらを気にするたびに、肩が微かに震えていた。
(やはり怖いのか。無理もない)
魔王の気配が濃くなるにつれ、彼女の震えは増した。だが彼女は、俺の視線に気づくといつも通り明るく微笑む。
「大丈夫ですわ。ゼイン様の支援はお任せください」
その姿に、胸がざわついた。
そして、魔王が座しているであろう巨大な扉の前に立ったとき、彼女の緊張は極限に達していた。肩の震えはもう隠しきれなかった。
思わず、彼女の肩へ手を置いた。
「大丈夫だ、俺がいる」
ミリアは息を呑んだ。その瞳に宿る強い光が、恐怖を押し返そうとしているのがわかった。
(怯えてもなお、前へ進もうとするのか……)
ミリアの瞳が揺れ、必死に笑みを作る。恐怖と、前へ進もうとする意志が混ざった表情に、胸が熱くなる。
俺はミリアの代わりに扉へ手をかけ、ゆっくりと押し開けた。
黒い霧がうねる広間に、玉座があった。そこには恐ろしいまでに美しい容姿の魔王が座り、禍々しい闇の圧を放っている。
魔王が咆哮のように声を響かせた。
『よくぞ、この玉座まで来たな。我こそが魔王だ。その執念は認めるが、お前らの命はここで……』
──ドゴォぉぉン!
次の瞬間、衝撃音と同時に魔王の身体が吹き飛んだ。
見れば、ミリアが杖を全力で振り抜いた姿で固まっている。
一歩も動けなかった騎士たちの前で、真っ先に魔王へ殴りかかったその小さな背中に、俺は思わず息を呑んだ。
だが次の瞬間、ミリアは呆然と崩れ落ちた。
(魔力の限界か!! そんな状態で、なぜあんな無茶を……)
胸が熱くなる。彼女は、自分の恐怖さえ押し殺して前に出たのだ。
俺は剣を抜いた。魔王が怒りの咆哮と共に起き上がる。視界の先で、仲間の騎士たちが息を呑んだ。
(終わらせる)
足が自然と前へ出ていた。
余計な感情も、雑念もなく、ただ一直線に。魔王の力が膨れ上がるその前に、最速で距離を詰める。
たった一閃。
迷いも力みもない一撃で、魔王は沈黙した。死を悟った魔力が霧散し、静寂だけが残った。
(終わった……)
勝利の歓声が騎士たちから上がる。だが俺の目は、ただ一人に向いていた。
ミリアがふらりと近づいてくる。そして、俺の頬を自らのローブの袖口でそっと拭った。
俺の汗と返り血を意に介さず触れるその仕草に、思わず息が止まる。
「……お前は、本当に、俺を恐れないのだな」
気づけば、そんな言葉が漏れていた。俺の顔を見れば泣く、俺が笑えば卒倒する。それが当たり前の人生だと思っていた。
けれどミリアは、真っ直ぐに俺を見ていた。
「ゼイン様は、このナザール王国にとっての希望。国のために命をかけて戦ってくださった貴方様を、どうして私が恐れましょうか」
胸が痛くなるほど、まっすぐな言葉だった。この旅が終われば、ミリアとも別れることになる。
(……終わってしまうのか)
胸に、苦しくなるほどの寂しさが溢れた。目の前で、ミリアが涙を浮かべながら小さな肩を震わせている。
その涙を拭うために伸ばした手が、少しだけ彼女の体温に触れた瞬間──
胸の奥に、鋭い衝撃が走った。
(この女が、欲しい)
突如湧き上がったその感情に、息が詰まる。理性より先に、心が叫んでいた。
(どうしても……手に入れたい)
その思いに気づいた自分自身に、さらに戸惑い、胸を押さえた。
魔王を倒した直後だというのに、心は戦いよりも遥かに激しく揺れ動いていた。
(ミリア……お前は、俺に何をした……)
彼女の温もりが、まだ手のひらに残っていた。
それは剣よりも、魔王の力よりもずっと強く、俺の心を貫いていた。
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