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47 温かい手
しおりを挟む深い水の底に沈んでいたような意識が、ゆっくりと光の方へ引き上げられていく。
体中に響くチリチリとした痛みは消え、残ったのは少しの疲労感だった。
重い瞼をそっと開けると、視界いっぱいに広がったのは、淡いクリーム色の天井と壁。窓からは穏やかな光が差し込んでいた。
(ここ、どこ……?)
声を出そうとするが、喉が渇いていてうまく言葉にならない。
その時、ベッドサイドに置かれた椅子から、二人の女性が同時に立ち上がった。
「ああ、ユイさん! よかった……」
声を上げたのは、治癒師のルシアさんだった。ルシアさんがいるということは、ここは王宮の治癒棟だろうか。その横では、マリアベル様が安堵の表情を浮かべている。
「ユイさん、無理に話そうとしないで。ゆっくりでいいわ」
マリアベル様は優しく私の手を握り、ルシアさんが水を差し出してくれた。
「ユイさん、まずはこれを。無理なさらず、ゆっくりとお飲みください」
身体を起こそうとするが、全く力が入らない。するとマリアベル様が背中にそっと腕を回してくださり、なんとか上半身を起こすことができた。
冷たい水が喉を通り、少しだけ口が潤う。意識がはっきりしてくると、胸の中に安堵とともに、一つの大きな不安が湧き上がってきた。
「あの……古龍はどうなりましたか?」
二人は顔を見合わせ穏やかに微笑むと、ルシアさんが静かに答えてくれた。
「ユイさんの魔法のおかげで、古龍は瘴気とともに完全に消滅しました。王都も、すぐに元の賑わいを取り戻しますよ」
その言葉を聞いて、心の底からほっと息をついた。
「……よかった。あの、カイルさんは?」
マリアベル様が、私の緊張を和らげるように柔らかな声で言った。
「あの子には、職務に専念するよう伝えてあるわ。今日も、元気に仕事に勤しんでいるわ」
それを聞き、張り詰めていた気が一気に抜けていく。私はそのまま、静かにベッドに身を横たえた。
「ユイさんは四日も寝ていたんですよ。決して無理はしないでくださいね」
ルシアさんは、優しくそう忠告してくれた。
「私はディオン治癒師長を呼んできます」と言いながらルシアさんが退室すると、マリアベル様は私の髪を優しく撫でながら、少し楽しげな表情になった。
「カイルも毎日ここに来ていたわ。でも、わたくしが追い返していたの」
「えっ?」と驚く私に、マリアベル様は当然のように続ける。
「だって婚約者でもない成人男性が、未婚の女性が休んでいる部屋に入ってくるなんてありえないもの」
確かに、この国の常識ではそうだろう。でも、カイルさんが無事なこと、そして毎日来てくれていたという事実に、胸がじんわりと温まるのを感じた。
「でも、ユイさんはカイルに会いたいの?」
真っ直ぐな問いかけに、少しだけ恥ずかしさを覚えたが、正直に頷いた。
「はい……会いたいです」
「ふふ。じゃあ、早く元気になって、会いに行きましょうね」とマリアベル様は優しく頷く。
「あの……マリアベル様は、ずっと私に付き添ってくださっていたのですか?」
「ええ」と微笑みながら優しげな視線が私に向く。
「お世話になってしまって、本当にすみません……」
恐縮すると、マリアベル様は目を見開き、少しだけ大げさな仕草で言った。
「そんなことは気にしなくていいのよ。ユイさんにしてもらったことのほうが、わたくしたちにはずっと多いのよ」
その言葉と慈愛に満ちた眼差しに、胸が満たされ、深い安らぎを感じた。
マリアベル様と会話していると、ディオン治癒師長が入室してきた。
ディオン治癒師長は、私の脈を取り、魔力の流れを慎重に確認した。その表情は真剣そのものだったが、やがて安堵の色が浮かんだ。
「目覚められたのは何よりです。魔力の消耗は凄まじいものでしたが、ユイさんの生命力がそれを上回りましたね。しかし、全快とはいえません。もうしばらくは安静に過ごしましょう」
私はディオンさんに、一連の騒動の結末について尋ねた。
「今回の事ですが……やはり、全てヴィオラ殿下が?」
ディオン治癒師長は表情を曇らせ、ゆっくりと頷いた。
「はい、一連の騒動の首謀者はヴィオラ殿下で間違いないでしょう。今後は、魔道士団と政府が協力し、詳細な調査や、ラザード公国への責任の追求が本格的に行われることになりますね」
それを聞き、カイルさんが今どれほどの激務に追われているのかを想像すると胸が痛む。すぐにでも会いに行きたい気持ちはあるものの、彼の負担になることだけは避けたい。ここでしっかりと体調を整え、万全の状態に戻すことに専念しようと決意した。
それから二日が経ち、身体は驚くほど回復した。激しい消耗を感じたのが嘘のように、体力もほぼ元通りに戻った。体中に満ちた魔力の感覚を実感する。
ディオン治癒師長も、「もう通常の生活に戻っても問題ないでしょう」と、私に帰宅の許可を与えてくれた。
しかし、その直後、ディオン治癒師長から思いがけないことを聞かされることになる。
「え、私が聖女ですか?」
ディオン治癒師長によると、国王陛下がこれまでの功績と古龍を消滅させた偉業を認め、私に聖女の称号を与えたいという話が出ているというのだ。
恐れ多い。私はただ、カイルさんや皆を助けたかっただけだ。お断りしたいところだが、ディオン治癒師長の真剣な顔と、この国における聖女という称号の重みを考えると、辞退は難しい空気だった。
ひとまず体調が戻ったこともあり、正式に国王陛下へお目通りする必要があるようだった。
どうすればいいのかと戸惑っていると、隣にいたマリアベル様が優しく語りかけてくれた。
「ユイさん。たとえここで固辞したとしても、あなたが今後この国で活躍していけば、ユイさんを聖女にという民衆の声は、いずれ高まっていくと思うわ」
ディオンさんにも、治験中だった私のポーションの効能が想定以上の効果を発揮していることも告げられ、断れる雰囲気ではないことが分かる。
私は静かに頷き、帰宅する前に国王陛下との謁見に向かうことを決めた。
翌日。
国王陛下との謁見の許可が出たということで、マリアベル様に手伝ってもらい、謁見にふさわしい装いへと着替えることとなった。
部屋には、私の身体に驚くほどぴったりとフィットする白地のローブ風の美しいドレスが用意された。その白色は、聖女の称号を意識したものなのだろうか。
国王陛下には数回、お顔を拝見する程度でお会いしたことはあるが、こうやって公式に謁見するとなると、やはり緊張が込み上げてくる。
「大丈夫よ、ユイさん」
マリアベル様が私の手を握り、静かに励ましてくれた。
そして、部屋を出たその瞬間。
扉の前に、漆黒の団服を纏ったカイルさんが立っていた。制服の銀装飾が、王宮の廊下の光を受けて鈍く輝いている。
「カイルさん……」
最後に会ってから数日しか経っていないはずなのに、とても遠い昔のことのように感じてしまう。
彼の無事な姿をしっかりと捉え、安堵と喜びで胸がいっぱいになった。
カイルさんは団服姿でありながら、その表情は驚くほど穏やかだ。彼は心底嬉しそうに口を開いた。
「元気そうで本当によかった」
「あ、ありがとうございます……」
彼は心配そうに私の目を見て、一歩踏み込んできた。
「体調は大丈夫なのか、無理はしていないか?」
「はい、もう大丈夫です。ディオン治癒師長からもお墨付きをいただきました!」
そう伝えると、カイルさんは満足そうに目を細めた。
そして、彼は無言で私に右手を差し出した。その手は、いつも魔術を操る鍛えられた温かい手。
「ん?」と、意味が分からず彼を見上げる。
すると、マリアベル様が後ろから「行ってらっしゃい」と、楽しそうな声をかけてくれた。
カイルさんが私を謁見の間までエスコートしてくれることに気づき、一気に恥ずかしさがこみ上げる。
「行こう、ユイ」
カイルさんのわずかに照れたような真剣な横顔を見て、思わず顔がほころんだ。
温かい手に自分の手を添えると、胸の鼓動が早鐘を打つ。
漆黒の団服と、白のドレス。色の対比が、かえって周囲の視線を集めているように感じてしまい、顔に熱がこもる。
カイルさんは落ち着いていて、その存在が緊張する私にとって何よりの支えとなった。
私たちは王宮の長い廊下を、わずかな距離感を保ちながら進む。彼の足取りには威厳が満ちている。時折、彼が私を見下ろす瞳の奥に、深い安堵と優しさを感じ、また嬉しくなった。
やがて、重厚な木製の扉の前に辿り着く。扉の向こうは、この国の最高権威が集う謁見の間だ。
側近の侍従が扉を開け放つと、広大な空間が視界に飛び込んできた。高い天井、窓から差し込む光、そして正面の玉座。
そこには、国王陛下が厳かな面持ちで座しておられた。玉座横の控えには宰相閣下のお姿も見える。
カイルさんは、私を国王陛下の前で立ち止まらせる。
私たちは、この国の最も厳粛な儀礼を息を合わせて行った。
「顔を上げよ」
国王陛下の威厳と慈愛を湛えた声が、謁見の間に響き渡る。
私はゆっくりと顔を上げた。陛下は、いつもの厳しい表情ではなく、温和な眼差しで見つめておられた。
「ユイ。この度の劫炎獄龍を巡る騒動において、そなたの功績は、この国の歴史において比類なきものだ。カイルから詳細を聞いた。そなたの決断と比類なき魔法が、王都を、そしてこの国を灰燼から救い出したのだ」
陛下は、玉座からわずかに身を乗り出された。
「王族、そして全ての民を代表し、心より感謝する」
陛下の重い言葉に、私の胸は熱くなった。
「陛下のお言葉、恐悦至極にございます。私はただ、大切な方々を守りたかったに過ぎません」
私が答えると、陛下は満足げに頷かれた。
「その献身的な心根こそ、最も尊い。そして、そなたがこれまでにもたらした数々の功績を踏まえ、国王として、ここに正式に布告する」
陛下の声が一段と高まり、謁見の間全体に響き渡った。
「ユイ。そなたに王国の聖女の称号を授ける。その偉業は、代々この国の民に語り継がれるであろう」
国王陛下から、聖女の称号。それは最高の栄誉であり、同時に重すぎる責務だった。
私は深く頭を下げ、恐縮の念を込めて称号を拝命した。
「恐れ多くも光栄に存じます。謹んでお受けいたします」
陛下は、私の返答に満足された様子で、優しく付け加えられた。
「よき返事だ。聖女としてのお披露目や、正式な儀式の日程については、そなたの体調を考慮し、後日改めて伝えるとしよう」
「畏まりました」
こうして、私の王宮での役割は、単なる異世界人から、王国の聖女へと変わったのだった。
「下がって構わぬ」
陛下の許可が下り、私たちは礼を終えると、カイルさんが私を促すようにゆっくりとエスコートを再開した。
国王陛下に背を向けて、来た時と同じように静かに謁見の間を後にした。
カイルさんは、退出する間もずっと私の手を離すことはなかった。
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