【改訂版】Two Moons~砂に咲く花~

るなかふぇ

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第一部 トロイヤード編 第八章 暗転

8 陽動

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「いやな戦を始めたものよ……」

 白銀の鎧に身を包んだ壮年の将軍は、茶色の髪を包む兜の裏側でこっそりと溜め息をついた。エスカルドから抜け出る細道を下った、小さな傾斜地の草原である。
 背後にはためく濃紺の旗には、高貴な白鷲の意匠が銀糸で刺繍されている。背中に流れる彼のマントも、それと同じ濃紺に染め抜いてある。

 毎年、春先の戦闘でも攻めあぐねる堅牢なバルドの城塞である。
 あの「黒き閃光」が、またもや目前に立ちはだかることだろう。
 ましてやこの時期、兵たちの士気は恐ろしく低い。帰路の不安を拭えないからだ。たとえ戦で生き残っても帰りの雪山で命を落とす確率が非常に高いとなれば、至極当然の話である。むしろ、これでどうやって士気を高めろというのか。
 現に今も、二十万もの兵隊はいまだ半分以上がエスカルドの山道を抜け出ることもできずにいる。「恐怖」で鼓舞される「勇気」など、せいぜいこのぐらいだということなのだろう。
 ただ不幸中の幸いと言うべきか、今回自分に課せられた使命は、バルド城塞を落とすことにはない。あくまでも陽動だ。何のための陽動なのか、それすら知らされてはいないのだが。

「ディライト将軍閣下!」

 伝令の呼ばわる声がして、ディライトは馬首を巡らした。伝令が馬の足元に膝をつく。

「先発部隊、左翼に奇襲攻撃を受けたとのよし!『黒き閃光』とのことです!」

(またか……)

 将軍は肩をすくめた。
 ここ数年、国境を越えると必ず現れる黒い鎧の戦士がいる。
 いつも百騎ほどを引き連れて、戦場を縦横無尽に駆け回る男。恐ろしく巨大な大剣を振りかざしつつ後続の部下たちを何馬身も引き離して、ほとんど一人で斬り込んでくるらしい。驚くべきことに、一撃のみで馬体ごと五、六人もの兵士を両断して回り、四、五十名も斬り伏せるとまた風のように逃げてゆく。

 あちらに出たかと思えばこちらをつつき、まさに神出鬼没の神業である。余人に真似のできるものではない。ほとんど鬼神の働きだ。
 兵士たちにとってこれ以上嫌な相手はない。友軍の到着を待っている間にも、次第次第に体力も気力も削られてゆくのである。それこそが彼奴きやつの狙いだ。

 ──「黒き閃光」。

 いつしかその男を、兵たちがそう呼びはじめた。
 ただ、今はディライトにとっても我慢の時間である。
 目的を達しさえすればすぐにも兵を引くつもりだ。もちろん敵軍と真正面から渡り合おうなどとは考えてもいない。
 そもそも、あの不思議と元気のいいトロイヤード兵と、雪山を越えたことで疲弊しきり、幽鬼のような目をしたエスペローサ兵ではやる前から勝敗は見えている。たとえこちらに圧倒的な数の利があったとしてもだ。
 断続的に奇襲をかけてくる「黒き閃光」をいたずらに追わせたところで、無駄なことだった。いままで誰一人として戻ってきた者はないのだ。こちらには相手の策にむざむざ掛かっている暇などない。

「ともかく、待つのだ……」

 敵国深くに潜入している者たちの、その作戦の完了を。


 ◇


「ちっ……」

 大剣の血糊を振り払い、崖の上から敵軍を見下ろしつつ、銀髪・黒鎧の戦士が舌打ちをした。目を細め、眉間に皺を刻んでいる。

「気に入らねえ……」

 ぼそりと呟くのを、連れてきた部下たちが聞きとがめる。

「兄貴、どうしたんで?」
「なんか問題が?」
「いや」ノインは言下に否定した。「一旦戻る。遅れんなよ、野郎ども!」言って流星号にひと鞭あてた。
 
(いやーな予感がしやがるぜ……)

 疾走しつつも考える。
 敵軍の脇から奇襲を掛けるたび、首筋の後ろをちりちりと焦がすような感覚が強まってゆく。

(あいつら、まったくやる気がねえ)

 自ら敵軍に斬りこんでこそ、分かることもある。
 彼らの目は、どれも死んだように生気がない。斬り込まれた時の腰の引けよう、浮き足立つ様子など、とても本気で攻め込んできた軍勢とは思えないのだ。
 だが、やる気がないとしたら、どうなのか。
 この進軍の真の目的は?
 放った斥候たちはいつもより戻りが悪い。仮に、戻らぬ兵士のすべてがどこかで殺されているのだとすれば、向こうに何らかの思惑があるとは考えられないか。

 ……何よりも。
 ノインはこの首筋を焦がすような焦燥を、いまだかつて読み違えたことがないのだ。
 バルド城塞に帰陣してすぐ馬から飛び降り、ノインはアイオロス将軍を探した。

「閣下! 折り入ってお願いが」

 城塞の防壁の上に目指す将軍の端正な横顔を見つけて声を掛ける。と、間の悪いことに隣にいかめしい顔をした父親までいた。

「何事かね? ノイン千騎長」

 穏やかな声で返し、アイオロスがこちらを見下ろす。ゴルザス将軍から来る圧力のある眼光は無視して、ノインは石段を駆けのぼった。簡易の敬礼をし、アイオロスのみに目を向ける。

「自分を、陛下への使者に立てて頂きたく!」

 不本意ではあるものの、なにかと面倒なのでこういう場合にあの王を「レド」などと気楽に呼ぶことはない。

「……どういうことかな」

 普通なら、ここから先を説明するのがひと苦労だ。いい大人に向かって「首の後ろがちりちりするから」などという子供じみた戯言を並べても、一蹴されるのが落ちである。
 だがアイオロスはそうではなかった。この優雅な態度の裏で、戦場の機微を見抜く目を持っている稀有な将軍の一人である。現場に出ている兵士のなまの声を聞き漏らすような男ではない。
 ひと通りノインの説明を聞くと、アイオロスは即座に言った。

「ノインの第六感を信じよう。陛下への伝令、よろしく頼む」
「さすがアイオロス閣下! では早速!」

 にっこり笑って言うが早いか、ノインはもう踵を返し、流星号にまたがっている。

「野郎ども! ついてこられる奴だけ俺に続け!」

 ひと声叫ぶと、馬体を蹴って後も見ずに飛び出してゆく。慌てた部下たちが四、五十騎ばかり、かなり遅れて後に続いた。とはいえさほど面食らった様子でもなく見えるのは、これがあの千騎長のいつもの姿だからだろう。

「……やれやれ。騒々しい奴」

 自分の指揮下ではないため敢えて口を出さずにいたゴルザスが、腕を組んだままぼそりと言った。

「なんの。若者はああでなくては」

 ゆるりと答えて、アイオロスが笑った。
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