3 / 5
「私はあなたといられればいいの」
しおりを挟む
子どもは驚くほどにすくすくと育つ。
アンガダは毎日家に帰り、子どもを確認せずにいられなかった。よく泣き、よく乳を飲むさまを見ていると、自分の子はきっと大物に育つに違いないと思う。
アンガダがそんな考えを告げると、メリナは笑って「ええ、もちろん」と頷いてくれる。きっと賢く育つだろう。それともたくましく育つだろうか。立派な体を持つだろう。誰もが好きになるような、美しい心も持つだろう。
メリナとそんな話をするのは楽しかった。未来が輝いている感覚は、ずいぶん若い頃以来だった。
生活は充実しているが、ナーチェが不満を表すようになった。
「ねえっ、最近ぼんやりしすぎじゃない? ちゃんと私を見てよ!」
「あ、ああ……すまない」
つい、ナーチェといる間にも子どものことを考えてしまう。もしかすると今日にも歩き出すかもしれない。つかまり立ちが上手になってきているのだ。
それに、そろそろ次の子のことを考えても良いんじゃないか?
それならナーチェとこうしている場合ではない。ナーチェと夜を過ごしても何にもならない。ナーチェは子どもを望んでおらず、愛に生きられればそれで良いのだと言う。子どもがいなかった頃のアンガダも、それに共感していた。
しかし子が産まれてしまえば、どうだろう、アンガダは刹那的な暮らしに疑問を覚えるようになった。ナーチェだって、ずっと若いままではいられない。いつかはどこかに落ち着かなければ。
(いや、何を考えてるんだ。ナーチェを愛している。家の存続も、生物としての本能も関係ない。愛しているんだ。ずっとそばにいると誓った……)
じっとナーチェを見つめると、無邪気に笑う。彼女は将来のことも、子どものことも、アンガダの家も立場のことも考えていない。アンガダという、眼の前にいる個人を愛してくれている。
「……愛しているよ、ナーチェ」
「ふふ。もう一度言って」
「愛してる」
「ふふ、ふふ。私も愛してるわ」
しかし二人の関係がこれ以上に進むことはないのだ。ここが目的地であり、ここが最終地点なのだ。アンガダは愛に溺れ満たされながら、胸の中にわずかな閉塞感を覚えた。
「ぱぁぱ」
「……んっ? どうしたパウロ」
「こえ」
「くれるのか?」
仕事を邪魔されても腹を立てる気になれない。小さな我が子が差し出してきたものに、アンガダは思わず微笑んだ。
花冠だ。
アンガダも昔、庭の花で編んだ覚えがあった。
「庭の花をそろそろ植え替えるそうなので」
「そうか、もうそんな季節か」
子爵家の庭は客人のためにいつでも整えられている。子どもたちが楽しむためにつんで良いのは、花の入れ替えの前だけだ。
草の匂いのするパウロは、メリナと一緒に過ぎる季節を楽しんだのだろう。
「ありがとう、パウロ」
「わあ」
アンガダが花冠を被ってみせると、パウロはきゃっきゃとはしゃいだ。こんな男に花冠が似合うはずもないだろうに、パウロにとってはとても嬉しいことのようだ。
視線をあげてふと、アンガダはメリナの頭を見た。
メリナは今日もにこにことして、子どもの成長が嬉しくてたまらないという顔だ。そこにはアンガダへのわだかまりなど一つもないように見える。
メリナがそうしてくれるから、自分はパウロの父でいられるのだ。
「……パウロ、もう疲れたかい?」
「ううん! まだあそぶ!」
「だったら次は母さんの花冠を一緒につくろうか。これにはかなわないかもしれないが、僕もちゃんと経験があるんだ」
「つくる!」
「まあ。とても楽しみよ」
メリナが幸せそのもののように笑う。
「嫌よ!」
「だが、このままの関係を続けるのは君のためにならない。君だって」
「絶対別れないから!」
「ナーチェ」
「あんただけ幸せになろうとしたって無駄よ」
「……っ」
愛していた人から向けられた悪意に、アンガダは体を強張らせた。ナーチェのきらきらした瞳には、今は憎悪が宿っている。
話し合いになれば揉めるだろうとは思っていた。けれど、こうまで言われるとは思っていなかった。
「……いい? あなたの幸せは私の支えの上にあったのよ。私が愛してあげたから、あなたは愛のない結婚で満足できた。そうでしょ?」
「それは……」
「いまさら私を切り捨てたって、幸せな夫婦になんてなれないわ。最初から裏切っているんだから」
「……」
「あなたと奥さんの間に本当のことなんてひとつもないのよ」
そんなことはない。
アンガダは思った。ともに暮らし、ともに子を育てている。そこに真実がひとつもないなんてありえない。
アンガダはメリナを大事にしていたし、メリナだってアンガダを父親として大事にしてくれる。これこそ家族の姿ではないか。
「楽になろうとしたって無駄なの。嘘の誓いをたてたことは永遠に消えないわよ。そのために真実の愛を捨てようっていうの?」
「楽に、なろうとなど……」
「じゃあ、私と別れて何が変わるっていうの」
それは、確かにそうだった。
ナーチェのことはあれ以来、メリナと話してなどいない。言われたとおりに嘘を突き通し、ふたりの間であの日のことは、なかったことになっている。
別れても何も変わらないのだ。
ただ、アンガダの気持ちの問題だ。
楽になろうとしているのだ。
「……」
「何も変わらないのよ。得るものもないのに愛を捨てようとしているの、あなたは」
「……だが、だが、君が……」
「私はあなたといられればいいの」
「……」
「いいのよ、それだけなの。私のためを思うなら、奪わないで」
ナーチェはうっとりと言って、アンガダにそっと腕を回した。互いの形を理解し尽くして、しっくりとくる触れ合いだった。
もう何度も抱きしめたかわからない。
遅かったのだ、とアンガダは思った。
もうナーチェを捨てることはできない。ナーチェはアンガダがいなければ生きていくことができないのだ。
(どうすればよかったんだ。いや……わかっている。愛か結婚か、どちらかを選ぶしかなかったんだ……)
アンガダは中途半端にどちらも得ようとした。
メリナの言ったとおり、その帳尻を誰かが合わせなければならない。誰かを犠牲にしなければならない。アンガダがつけを支払わなかった結果が、こうなのだ。
アンガダは毎日家に帰り、子どもを確認せずにいられなかった。よく泣き、よく乳を飲むさまを見ていると、自分の子はきっと大物に育つに違いないと思う。
アンガダがそんな考えを告げると、メリナは笑って「ええ、もちろん」と頷いてくれる。きっと賢く育つだろう。それともたくましく育つだろうか。立派な体を持つだろう。誰もが好きになるような、美しい心も持つだろう。
メリナとそんな話をするのは楽しかった。未来が輝いている感覚は、ずいぶん若い頃以来だった。
生活は充実しているが、ナーチェが不満を表すようになった。
「ねえっ、最近ぼんやりしすぎじゃない? ちゃんと私を見てよ!」
「あ、ああ……すまない」
つい、ナーチェといる間にも子どものことを考えてしまう。もしかすると今日にも歩き出すかもしれない。つかまり立ちが上手になってきているのだ。
それに、そろそろ次の子のことを考えても良いんじゃないか?
それならナーチェとこうしている場合ではない。ナーチェと夜を過ごしても何にもならない。ナーチェは子どもを望んでおらず、愛に生きられればそれで良いのだと言う。子どもがいなかった頃のアンガダも、それに共感していた。
しかし子が産まれてしまえば、どうだろう、アンガダは刹那的な暮らしに疑問を覚えるようになった。ナーチェだって、ずっと若いままではいられない。いつかはどこかに落ち着かなければ。
(いや、何を考えてるんだ。ナーチェを愛している。家の存続も、生物としての本能も関係ない。愛しているんだ。ずっとそばにいると誓った……)
じっとナーチェを見つめると、無邪気に笑う。彼女は将来のことも、子どものことも、アンガダの家も立場のことも考えていない。アンガダという、眼の前にいる個人を愛してくれている。
「……愛しているよ、ナーチェ」
「ふふ。もう一度言って」
「愛してる」
「ふふ、ふふ。私も愛してるわ」
しかし二人の関係がこれ以上に進むことはないのだ。ここが目的地であり、ここが最終地点なのだ。アンガダは愛に溺れ満たされながら、胸の中にわずかな閉塞感を覚えた。
「ぱぁぱ」
「……んっ? どうしたパウロ」
「こえ」
「くれるのか?」
仕事を邪魔されても腹を立てる気になれない。小さな我が子が差し出してきたものに、アンガダは思わず微笑んだ。
花冠だ。
アンガダも昔、庭の花で編んだ覚えがあった。
「庭の花をそろそろ植え替えるそうなので」
「そうか、もうそんな季節か」
子爵家の庭は客人のためにいつでも整えられている。子どもたちが楽しむためにつんで良いのは、花の入れ替えの前だけだ。
草の匂いのするパウロは、メリナと一緒に過ぎる季節を楽しんだのだろう。
「ありがとう、パウロ」
「わあ」
アンガダが花冠を被ってみせると、パウロはきゃっきゃとはしゃいだ。こんな男に花冠が似合うはずもないだろうに、パウロにとってはとても嬉しいことのようだ。
視線をあげてふと、アンガダはメリナの頭を見た。
メリナは今日もにこにことして、子どもの成長が嬉しくてたまらないという顔だ。そこにはアンガダへのわだかまりなど一つもないように見える。
メリナがそうしてくれるから、自分はパウロの父でいられるのだ。
「……パウロ、もう疲れたかい?」
「ううん! まだあそぶ!」
「だったら次は母さんの花冠を一緒につくろうか。これにはかなわないかもしれないが、僕もちゃんと経験があるんだ」
「つくる!」
「まあ。とても楽しみよ」
メリナが幸せそのもののように笑う。
「嫌よ!」
「だが、このままの関係を続けるのは君のためにならない。君だって」
「絶対別れないから!」
「ナーチェ」
「あんただけ幸せになろうとしたって無駄よ」
「……っ」
愛していた人から向けられた悪意に、アンガダは体を強張らせた。ナーチェのきらきらした瞳には、今は憎悪が宿っている。
話し合いになれば揉めるだろうとは思っていた。けれど、こうまで言われるとは思っていなかった。
「……いい? あなたの幸せは私の支えの上にあったのよ。私が愛してあげたから、あなたは愛のない結婚で満足できた。そうでしょ?」
「それは……」
「いまさら私を切り捨てたって、幸せな夫婦になんてなれないわ。最初から裏切っているんだから」
「……」
「あなたと奥さんの間に本当のことなんてひとつもないのよ」
そんなことはない。
アンガダは思った。ともに暮らし、ともに子を育てている。そこに真実がひとつもないなんてありえない。
アンガダはメリナを大事にしていたし、メリナだってアンガダを父親として大事にしてくれる。これこそ家族の姿ではないか。
「楽になろうとしたって無駄なの。嘘の誓いをたてたことは永遠に消えないわよ。そのために真実の愛を捨てようっていうの?」
「楽に、なろうとなど……」
「じゃあ、私と別れて何が変わるっていうの」
それは、確かにそうだった。
ナーチェのことはあれ以来、メリナと話してなどいない。言われたとおりに嘘を突き通し、ふたりの間であの日のことは、なかったことになっている。
別れても何も変わらないのだ。
ただ、アンガダの気持ちの問題だ。
楽になろうとしているのだ。
「……」
「何も変わらないのよ。得るものもないのに愛を捨てようとしているの、あなたは」
「……だが、だが、君が……」
「私はあなたといられればいいの」
「……」
「いいのよ、それだけなの。私のためを思うなら、奪わないで」
ナーチェはうっとりと言って、アンガダにそっと腕を回した。互いの形を理解し尽くして、しっくりとくる触れ合いだった。
もう何度も抱きしめたかわからない。
遅かったのだ、とアンガダは思った。
もうナーチェを捨てることはできない。ナーチェはアンガダがいなければ生きていくことができないのだ。
(どうすればよかったんだ。いや……わかっている。愛か結婚か、どちらかを選ぶしかなかったんだ……)
アンガダは中途半端にどちらも得ようとした。
メリナの言ったとおり、その帳尻を誰かが合わせなければならない。誰かを犠牲にしなければならない。アンガダがつけを支払わなかった結果が、こうなのだ。
3,458
あなたにおすすめの小説
〖完結〗その愛、お断りします。
藍川みいな
恋愛
愛する人と結婚して一年、幸せな毎日を送っていた。それが、一瞬で消え去った……
彼は突然愛人と子供を連れて来て、離れに住まわせると言った。愛する人に裏切られていたことを知り、胸が苦しくなる。
邪魔なのは、私だ。
そう思った私は離婚を決意し、邸を出て行こうとしたところを彼に見つかり部屋に閉じ込められてしまう。
「君を愛してる」と、何度も口にする彼。愛していれば、何をしても許されると思っているのだろうか。
冗談じゃない。私は、彼の思い通りになどならない!
*設定ゆるゆるの、架空の世界のお話です。
王子を身籠りました
青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。
王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。
再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。
一番悪いのは誰
jun
恋愛
結婚式翌日から屋敷に帰れなかったファビオ。
ようやく帰れたのは三か月後。
愛する妻のローラにやっと会えると早る気持ちを抑えて家路を急いだ。
出迎えないローラを探そうとすると、執事が言った、
「ローラ様は先日亡くなられました」と。
何故ローラは死んだのは、帰れなかったファビオのせいなのか、それとも・・・
〖完結〗その子は私の子ではありません。どうぞ、平民の愛人とお幸せに。
藍川みいな
恋愛
愛する人と結婚した…はずだった……
結婚式を終えて帰る途中、見知らぬ男達に襲われた。
ジュラン様を庇い、顔に傷痕が残ってしまった私を、彼は醜いと言い放った。それだけではなく、彼の子を身篭った愛人を連れて来て、彼女が産む子を私達の子として育てると言い出した。
愛していた彼の本性を知った私は、復讐する決意をする。決してあなたの思い通りになんてさせない。
*設定ゆるゆるの、架空の世界のお話です。
*全16話で完結になります。
*番外編、追加しました。
〖完結〗私はあなたのせいで死ぬのです。
藍川みいな
恋愛
「シュリル嬢、俺と結婚してくれませんか?」
憧れのレナード・ドリスト侯爵からのプロポーズ。
彼は美しいだけでなく、とても紳士的で頼りがいがあって、何より私を愛してくれていました。
すごく幸せでした……あの日までは。
結婚して1年が過ぎた頃、旦那様は愛人を連れて来ました。次々に愛人を連れて来て、愛人に子供まで出来た。
それでも愛しているのは君だけだと、離婚さえしてくれません。
そして、妹のダリアが旦那様の子を授かった……
もう耐える事は出来ません。
旦那様、私はあなたのせいで死にます。
だから、後悔しながら生きてください。
設定ゆるゆるの、架空の世界のお話です。
全15話で完結になります。
この物語は、主人公が8話で登場しなくなります。
感想の返信が出来なくて、申し訳ありません。
たくさんの感想ありがとうございます。
次作の『もう二度とあなたの妻にはなりません!』は、このお話の続編になっております。
このお話はバッドエンドでしたが、次作はただただシュリルが幸せになるお話です。
良かったら読んでください。
婚約破棄 ~家名を名乗らなかっただけ
青の雀
恋愛
シルヴィアは、隣国での留学を終え5年ぶりに生まれ故郷の祖国へ帰ってきた。
今夜、王宮で開かれる自身の婚約披露パーティに出席するためである。
婚約者とは、一度も会っていない親同士が決めた婚約である。
その婚約者と会うなり「家名を名乗らない平民女とは、婚約破棄だ。」と言い渡されてしまう。
実は、シルヴィアは王女殿下であったのだ。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる