私はいけにえ

七辻ゆゆ

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後編

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「大事な生贄様は、いい感じに太らせてから捧げなきゃいけないって、そう言いたいのね?」
「……」
「残念だけど私はそんなに食べられない。食べても吐くだけ。当たり前よね、もう立って逃げることもできない、死んだみたいな体なんだから!」
「……」
「あんたが会いに来ない間にそうなったのよ。私はもう何もできない、美味しく食事もできない! ……でも、あんたらは私が死んだあとも幸せに暮らすのよねえ? 貧しくても美味しいものを食べる日もあるんでしょ? ははっ……あはは! ずるいじゃないの、ねえっ!」

「ベベ様」
「……ウンマ?」

 私は驚いて、興奮が少し冷めた。
 足を引きずるようにやってきたウンマは年老いた私の世話係だ。いつも無言で食事を持ってくるから、口がきけないのかと思っていた。
 他の仕事ができないくらい年を取ったから、生贄の世話という仕事を任されている老女だ。世話でもあるし、見張りでもある。

「これを……」
「え?」
「生贄様は皆に尊ばれし存在です」

 しわがれた声なのに聞くものを震わせるような力がある。
 差し出してきたのは木の棒だった。本当にただの棒。雑に削ったのだろう表面はざらざらして、端っこだけが磨かれている。
 持つところだ、と私は理解した。

「ひっ」

 木の棒を握って母さんを見た。
 母さんはがたがたと震えて始めた。私の手にも力はない。でも足よりはましだ。手遊びくらいしかやることがなかったから、ものを持つくらいはできる。

 素朴な木の棒は重いけれど、久しぶりに「やりたい」という思いに背中を押されていた。
 格子の隙間から出すのも大変だけれど、震える手でなんとか上げて、打ち下ろす!

「あっ」
「母さん!」
「だめよ、トゥリ!」

 立ち上がって逃げようとしたトゥリを母さんが抑えている。母さんの肩に棒の先がかすった。おしい。

「母さんっ、なんで!」
「トゥリ、わかって、生贄様を……っ、粗末に扱ったら、もうこの村では暮らせないの!」
「そんな、こんな村なんて……」
「黙りなさい!」

 母さんはトゥリを叱りつけたけれど、それはトゥリを守るために違いなかった。そうよね、だって、トゥリは母さんの子だもの。
 私はそうじゃない。
 私はただの、生贄様だ。そうでしょ?

「ねえ、謝って」
「きゃっ!?」
「トゥリ!」

 今度はトゥリの肩に当たった。こつがつかめてきた気がする。トゥリが私を睨んで、棒をつかもうとして母さんに止められている。

「まあ、怖い」

 私は笑いがこみ上げてきた。なんていう茶番だろう。でも、ずっと固まったようだった体は熱を持って、私の体はこのためにあるようだった。
 棒を持ち上げて、振り下ろす。ああ、突いた方がいいかしら?

「ねえ、謝ってよ。私に、タダ飯喰らいと言ったのよ。私をいらないと言ったの。そうじゃないでしょ? 私がいるから生きていけるんでしょ、あなたたちは?」
「も、申し訳ありませ」
「あなたじゃないの。ね、あなたよ。あなた。わかってる? 自分が悪いことをしたってわかってる? 親にまで迷惑をかけるなんて、ひどい子ね」
「……!」
「トゥリ!」
「離してよ母さん! なんで、なんでっ……!」
「ほんと、ひどい子」
「あ、あ……謝って、トゥリ、謝って!」
「嫌よ!」

「しょうがないわね」

 私は楽しくて仕方がなかった。棒を置く。これは練習しておかないと、とても強い痛みを与えることはできない。
 でも、私がそんなことをする必要さえないんだ。

「悪い子は親の責任ね? あなた、その子をちゃんと教育しないとだめよ」
「も、申し訳ありません……」

 私の母親だった人は、唇を噛むようにして謝った。

「そうね、あなたっていつもそう。謝るけどなんにもしてくれないのよね。ほら、覚えてる? 私が生贄に選ばれたときだって、泣いて抱きしめるだけだった。私が生きるための方法なんてひとつも考えてくれなかった」
「……」

 トゥリの母親の顔がだんだん強張っていくのを、私はじっと見ている。目が熱くなって、きっと私は泣いているのだ。
 もういない、この人の子供だった私のために泣いている。
 本当は信じていたかった。泣きながら抱きしめてくれた愛を疑いたくなんてなかった。

 でも、もう、終わったことだ。

「でもトゥリのためならできるわよね? トゥリが生きるために、どうすればいいかわかるわよね?」
「……なんでも……します、トゥリだけは……」
「じゃあ殴って」
「は……」
「その子、すっごい悪い子よ。私にひどいことを言ったの。だから殴って」
「そんな」
「できるわよね? 別に気を失うほど強く殴れなんて言ってない。でも、音が出るくらいよ。ちゃんといい音がでなかったらもう一回ね。それだけ、たったそれだけで、生贄様に逆らったことが許されるのよ。ありがたいと思わない?」
「……」
「か、母さん……こんなやつの言うことなんて」
「黙りなさい!」

 ああ、いったいどんな気持ちなんだろう?
 母親は子供の頬を叩いた。ぴしりと良い音がして、私は手をたたきながら笑ってしまった。
 トゥリは信じられないという顔で母親を見ている。叩かれたことがなかったのね。この村の中では、ずいぶん優しい母親だ。口だけだけれど。

「ふふっ、ふふふ! いいわ、いい音。わかった、その子の無礼は許してあげる」
「あ、ありがとうございます……!」
「でも、その子がこれからも村でちゃんとやっていけるか心配ね? うふふ、だから明日も来るといいわ。絶対に来て。そうだ、私の残したご飯をあげるわ。ね、ウンマ、いいでしょ?」

 ウンマはぴくりとも動かない表情で「ご隨意に」と言った。
 そうよね、と私は思う。どの生贄の家でもきっとこうなっていたんでしょ?
 二年後に死ぬのだ。楽しみがなければまともでいられるはずがない。そのために生まれてきたのだと思えるような、飛び上がるような楽しみが必要だ。

「そっ、そんな、ご無礼は許してくださると」
「許したわよ? 心配だから素晴らしい仕事をあげるって言ってるの。その子、働くのが嫌みたいだし。……ああもちろん、心配ならお母様も来ていいのよ?」

 きっとその方が楽しい。
 来てくれるわよね。こんな危なっかしい子供、母親なら放っておけないはずだもの。

「よかったわね。今日からあなた、私のいけにえよ」

 生贄の生贄は青い顔をして、唇を震わせている。私はうっとりと、叩かれた頬が赤くなっていくのを見つめていた。
 あれだけ恐れていた死が遠ざかっていく。明日が楽しみだからだ。
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