腹違いの弟くんの執着

ひぽたま

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プロローグ 〜ごめんねの雨・3〜

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 葵くんが傾けた傘から、冷たい雫が流れ落ちる。
 まるで泣かないように我慢している私の涙の代わりみたいに。

「葵くん」
 私は彼をじっと見つめて、言った。
「安心して。私は大学にもう、行かないつもりだから」
「なんで。あかねーちゃんずっと、医者になりたがってたじゃん。そのためのガリ勉だったんだろ」
「さすが、葵くんはよく見てるね」
 私はもともとそこまで地頭がいいわけじゃない。ただ将来、城之内先生のようなお医者さんになりたいし、ママに楽させてあげたいっていう目標があったから勉強をがんばれてきただけ。
「でももう……なりたくなくなっちゃった。城之内先生の言うとおり、大学のある町で一人暮らしして、アルバイトで学費を賄いながらお医者さんを目指すのって、やっぱり無謀だったかなって。ママがなんとかなるって応援してくれていたのも、最初から先生の援助を見込んでいたからだったんだ。それでももし奨学金を受け取れて、お医者さんになれたとしても……先生は私を城之内病院で働かせようとするだろうし、私がいたら、葵くんまで縛りつけられちゃって自由に将来を選べなくなる」
 仲良しの家庭教師から、お目付け役へーー城之内先生はこれからも葵くんと私の将来をコントロールしようと、画策するに違いない。
「私はそれだけは嫌なの。葵くんの人生は、葵くんだけのものだから、おうちのためとか誰かのためとかで縛られないでほしい。葵くん自身が考えて、後悔しないような道を選んでほしいと願っているの」

「……わかった」

 葵くんが言う。少し目を伏せて、声変わりしかけた掠れた声で。 
「あかねーちゃんの言う通りにする。おれ、絶対に後悔なんてしないように生きる。だからあかねーちゃんは医学部に入って、安心して医者になって」
「だめだよ……それは」
「親父の援助ならいくらでも受ければいい。もともとじーちゃんの病院の金であって、あいつはただの婿養子なんだから。いずれ一人息子のおれに権利が来るものだし、あかねーちゃんのためならいくらでも使っていいよ。それで将来、医者になってから熨斗つけて返してやればいいんだ」
(あいつらって……城之内先生や、うちのママのこと?)
 大人をそんなふうに呼んじゃダメだよって諭すべきなのに、私はうっかり笑ってしまいそうだった。
 そうかもしれない。高校を出てすぐに働き口を探すにしたって、ずっと医者を目指してきた私は、ほかにしたいことが思いつかなかった。
 だったら、いまは城之内先生に甘えて楽をさせてもらって、お医者さんになってからあとのことを考えたってなにも悪くないんじゃないかな……なんて。
 なんて、ずるい考えなんだろう。
 
「泣かないで」

 傘の中。うつむく私の耳に顔を近づけて、葵くんが囁いた。

「おれ、あかねーちゃんを泣かせたやつら、絶対許さないから。いつか目にもの見せてやるから、いまだけは……我慢しよう。あかねーちゃんは医者を目指して、がんばって。そしたらおれもちゃんと高校に通って、いい大学を目指す」
「葵くんもお医者さんになるの? 城之内先生の望み通り?」
 大病院の跡取り息子として生まれたのだから、それが彼に定められた道だということはわかっていた。
 だけど、そんな見え透いた未来に逆らいたかったから、彼は不登校になったのではないのだろうか。
 見えない未来を楽しみに生きていくなんて、私たちには許されない贅沢なんだろうか。
 雨が強くなる。傘が揺れて、肩に触れる。顔をあげられない私に向けて、葵くんが放った言葉。

「誰がそんなこと言った?」

(え……?)
 不敵で、強烈で。
 思わず目をあげると、葵くんの顔から、女の子みたいだった弱弱しさが完全に消え去っていて。
 呆然とする私に、葵くんはいつもみたいに甘える調子で言いだした。
「デートは諦めてもいいから。代わりに、高校に合格したらお祝いをちょうだい」
「う、うん。もちろんだよ。なにがいいかな?」
「すぐには決めらんないから、考えとく。あ、でも、先にあかねーちゃんが大学に受かったお祝いをあげなきゃ」
「いらないよ。私は……」
「だーめ。ちゃんとお祝いを受けとっておかないと、あかねーちゃんはまたうじうじ悩んで進学やめるとか言いだすだろ。覚悟を決めて、ちゃんと受け取らなきゃ。目、閉じてくれる?」
「いまここでくれるの?」
「そ」
 もしかしたら葵くんは私が医学部に合格したことをとっくに知っていて、準備してくれていたんだろうか。
 嬉しくないわけではないけれど、準備のよさに戸惑う気持ちもありながら、私は素直に目をつむる。
 雨が傘を叩く音がくっきり聞こえた。
 くすっと笑った葵くんが傘を持ちあげ、近づく気配。そして――。
 唇に、重なった温かさ。
(これって……なに?)
 驚いて開いた唇の隙間に、濡れたものが忍びこむ。歯列をくすぐる感触がくすぐったくて、避けるつもりでもっと口を開けると、奥まで滑りこんできたそれが私の舌に巻きついて、つるりと舐めた。
 ぞくっとして、体が震える。
「ん……っ」
 鼻にかかったみたいな甘い声が、私から漏れる。自分で自分の出した声に驚いて目を開けると、葵くんも目を開けてびっくりしたように私を見ていた。
 私の顔に重なっているのは、葵くんの顔だ。
 私の口を塞いでいるのは、彼の口。
 背伸びした葵くんが猫みたいに目を細める。首を深く傾けて、名残りを惜しむみたいにぐっと深く触れ合わせてから、踵を地面に戻してにこっと笑った。
「はい、お祝い。おれのファーストキス」
「キス、って……わかってて、やったのっ?」
 もしかしたら中学生の葵くんにとっては違う意味があるのかもしれないって、思おうとしたのに!
「もちろん。ほんとは初デートにとっておくつもりだったけど、先にあげちゃった」
「き、キスって、恋人同士とかじゃなきゃしちゃいけないものだから。私と葵くんはお父さんが同じ姉弟だから、絶対に恋人同士はなれないんだよ」

「そんなの、誰が決めた?」

 葵くんが言う。
 誰がって……法律? 政府? 葵くんは傘を手放し、すぐに答えを導きだせない私の頬を両手で包みこんで、またキスをしてから、言った。

「あかね先生が教えてくれたんだよ? おれの人生はおれのもので、後悔しないように生きろって。だから」

「だからそれは……、んっ」
 葵くんの唇が、私の反論を塞ぐ。まだ中学二年生の彼の強引さに、私は抗うことができなかった。冷たい雨が私と彼の上に降り注ぎ、二人の体を平等に冷やした。
 そのほうがよかった。
 そうでもなければ――燃えてしまいそうなくらいの熱が、葵くんのキスから伝わってきてきたから。

 そして膝から力が抜けてしまった私を強く抱きしめ、葵くんは言った。
「おれの人生はあかねちゃんのものだよ」

 なに言ってるの? そんなの……。

「おれは一生あかねーちゃんから離れないし、離すつもりもないから。それがおれの人生だから、あかねちゃんも覚悟を決めてよね」

 もしかしたら私は、どんでもない『弟』に気に入られてしまったのではないだろうか――……なんて。
 怯えながらもまだ私は、やつの本気を理解できていなかった、これは十年前の出来事。
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