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最終章 彼女の願った結末と彼の望んだ結末
幸せな結末と幸せの結末
しおりを挟む1993年、それは日本にとって記録的な冷害の年であった。
春の終わりから夏にかけて停滞する梅雨前線により長雨が続き、農作物は大打撃を受けた。
特に米の被害は甚大で、政府は初めて米の輸入を解禁したほどである。
深刻な米不足は後に平成の米騒動と呼ばれることとなる。
この年の長雨はあまりに異常。
梅雨前線を竜に見立てて、神や竜神が雨を招いたと言う者もいた。
中には、これは神や竜の仕業ではなく、大蛇の仕業と呼ぶ人もいた。
山の中で雨雲を呼ぶ大蛇の姿を見たという噂も。
そして、その大蛇の目には、あろうことか眼鏡がキラリと光っていたとも。
しかし、それはただの与太話。
大蛇の噂は、それ以降、人の口の端に上ることなく、消えた。
◇◇◇◇
今日も夜の『酒処 七王子』は大繁盛で大盛り上がり。
札束が舞い、料理が飛び交い、酒が水のように消えていく。
その喧騒を避け、大蛇の兄弟のひとりは居住館の屋上で月を眺める。
チビチビと飲んでいた酒が尽き、お代わりを持ってこようと椅子から立ち上がろうとした時、階段から誰かが昇ってくる気配がした。
「蒼明さん、ご一緒しましょ」
「珍しいですね。お店はいいのですか?」
「藍蘭さんに任せてきました。みなさんのお父さんが来店されたので」
あの日、竜宮城から大蛇の家族が日ノ本に現れた日からひと月。
日ノ本は今日も平和だった。
最初は退魔の関係者や”あやかし”たちが何組も偵察に現れたりしたが、結論はひとつ。
『飯と酒と女をあてがっておけば無害』
ただ、酔いつぶれると稀に正体を現すので注意が必要。
なので、『酒処 七王子』ではいざとなったら”酔いを殺す”藍蘭が父の担当となっている。
「また変なことを言われたのでしょう」
「あたり。『スッポンの蛸壷巾着いっちょう!』ってオーダーを入れられてしまいました」
「どう返したのです?」
「素直にスッポンのスープとスッポンの身を具にした巾着を蛸壷に入れて蒸し上げました。仏跳牆の亜種ですね」
彼女のフフフとした笑いが、それが好評であったことを物語っていた。
「それで、今日は良い月ですから仕上がったばかりの桂花陳酒をご一緒しようと思いまして」
「それはいいですね」
彼女の取り出した瓶の中には琥珀色の液体。
昨年の秋に月の呉剛から入手した月宮殿の桂樹の花で仕込んだ酒。
試飲の時の豊かな味わいを思い出し、ふたりは期待に胸を膨らませた。
コポッ
その桂花陳酒は月の光が器に閉じこめられたように鮮やかで、香りは金木犀の花道を歩いているかのように甘い。
もちろん、味は極上。
天に昇るだけでなく、そのまま月まで連れて行かれそうな心地。
「うーん、おいしー」
「そうですね。とても良い味です。それに今日はとても”月が綺麗ですね”」
「あら、そんなことを言っていいんですか? あたしに告白だなんて」
ペシッ
「あうちっ」
「のぼせないで下さい。今の台詞は貴女に向けて言ったのではありません」
「えー、そうですか? なんだか前にも同じシチュになった時、愛の告白をされた気がしたんですけど」
「気のせいでしょう」
その言葉に彼女は、あれ? そうだったかな? と首を傾ける。
「それよりも貴女こそいいのですか? 私とふたりっきりだと誰かに誤解されるかもしれませんよ」
「へへー、大丈夫ですよ。橙依君も赤好さんもこれくらいで誤解や嫉妬なんてしません。蒼明さんが襲って来たら叫びますけど」
「貴女は私を何だと思っているのです?」
「自分が必ず正しいと思っている鬼畜眼鏡」
「正解です」クイッ
ふたりはそう言うと、フフフと笑い合う。
月を見上げていた彼女がふとテーブルを見た時、そこに色とりどりの紐を見た。
「蒼明さん、それは組紐ですか?」
「そうでもあり、そうでもありません。見た目は組紐ですが、これは私の思案の道具です。時間遡行をテーマにした」
「ああ、蒼明さんの好きなSF的なやつ。タイムセールパラダイスとかタベレルワールドとか」
「タイムパラドックスとパラレルワールドです」クイッ
そう言って彼は少し呆れたように息を吐く。
「タイムパラドックスとは誰かが時間を遡ったことで起きる矛盾。パラレルワールドはその答えのひとつで、時間遡行者により分岐した平行世界が生まれ矛盾は起きないとする説です」
「色々ありましたもんね。八百比丘尼さんとか、楊貴妃さんとか、八岐大蛇の牙を折りにみなさんが過去に行ったこととか」
普段ならフィクションの中の出来事と割り切る所だが、『酒処 七王子』で起きた数々の出来事が、彼女の関心を引いた。
「珠子さん、貴女は憶えていますか? 私と緑乱兄さんが時間と歴史について会話していた時、貴女に質問した内容を」
「えっと、ケーキバイキングと焼肉食い放題が時間限定タイムサービスでどちらかしか行けない時どうするか、って話でしたっけ?」
彼は細部が違うと思ったが、それを口にはしなかった。
「だいたいそうです。その時の貴女の答えは私の興味をとても引きましたよ。『分身して両方味わって、後で合体して2倍楽しむ』という答えは」
「あれ? あたし、そんなこと言いましたっけ? うーん、言ったような言わなかったような」
「言いましたよ。お酒も入っていましたからね。忘れたのでしょう」
彼はそう言いながらも、なるほど、やはり彼女と彼女は違うようですね、と心の中で思う。
「そこで私が提唱するのは、歴史も同じことをしているのではないかという仮説です。平行世界に分岐するとしたら、歴史改変は出来ない、いや歴史改変の影響を私たちは受けないはずです。しかし、貴女が八岐大蛇の呪いに倒れたことを考えると、歴史改変は起こるという結論で間違いないでしょう」
「なんだか、難しい話ですね。あたしには理解できそうにありません」
彼女はそう言って、今度は赤葡萄酒で漬けた桂花陳酒を器に注ぐ。
金木犀の甘い香りの中に、葡萄酒のフレッシュな香りが加わって、一足早く訪れた秋の香りが夜陰を満たす。
「もし、誰かが過去に行くことで平行世界が生まれるとしたら、あの時に私が説明したような歴史改変の波に歴史が塗りつぶされていくようなことは起きないはずです。平行世界の先端は、新しい未来を紡ぐでしょう。これが私が平行世界が存在しないと考える根拠です」
「あれ? でも八百比丘尼さんの存在は? 緑乱さんの記憶の中にしかなくなってしまうってことですか?」
「いい所に気付きましたね。あの時、少なくとも緑乱兄さんは八百比丘尼を観測しました。観測出来たということはその世界はあったということです。だから、私はこの仮説を提唱するのです。歴史は平行世界ではなく、紐のような世界で編まれた組紐の姿であると。そして時に歴史は分裂し、やがて一本に戻る。こんな形ですね」
彼が彼女に見せたのは中央がほどけた三つ編み。
両端は一本の縄になっているが、中央は三本の紐になっている。
「へー、確かにこの3つの紐が別々の経験だとすると、ケーキと焼肉どころか、寿司の時間限定バイキングがあっても同時に味わえますね。そして、やがて絡み合って同じ姿に戻ると」
「そうです。歴史も同じように別々の歴史を歩み、その経験全てが混在した組紐に編まれた姿になるということです。この組紐模様が歴史だとしたら、例えばこの桃色の紐が断裂しても、組紐としては成立します。見る方向から違うように見えることもあるでしょう。歴史や“あやかし”の異譚・異聞があるのもこのため。つまり、矛盾や因果的におかしいことが生じても、それを内包した正しい模様になるということです」
「なんだかロマンチックですね」
?
どう考えてもロマンチックではない。
自分が説明している内容は、どちらかと言えば男の浪漫。
見果てぬ宇宙や自由にならぬ時をテーマにしたSF的な会話。
彼女の考えている女の子らしいロマンチックとは違うはず。
彼はそう考えて、頭に疑問符を浮かべる。
「どこがロマンチックだというのです?」
「だってそうじゃないですか。未来は”紡ぐ”もの、歴史は”紐解く”もの。あたしたちが何気なく使っている言葉です。だけど、蒼明さんの説明の通りだとすると、私たちは本能的に歴史が組紐のようになっていると感じたからそういう言葉を使っているのかもしれません。そう考えるとロマンチックだと思いません?」
「なるほど、貴女の言う通りかもしれませんね」
彼女に感心させれるのはこれで何度目だろう。
やはり、彼女は彼女なのですねと思いながら、彼はウンウンと頷く。
「あとですね。こんな考えはどうです?」
積み上げられた何色もの紐。
黄、藍、赤、緑、青、橙、紫、そして白。
八色、八本使って彼女はそれを編み始める。
「器用ですね」
「パンには編み編みパンってのがありまして、紐のように伸ばした生地を編んでから焼くパンがあるんですよ。その応用です」
クルクルクルと器用に紐を重ね合わせ、彼女の手が幾何学模様の組紐を編む。
「さっきの蒼明さんの例は三本でしたけど、本当はもっと多くてもいいんじゃありません。こんな風に」
「そうですね観測者の数だけ世界があり、それが合わさっているという考えは妥当でしょう」
「んもう、こういう時は”ロマンチック”にですよ」
そう言って彼女は空の杯にトトトと酒を注ぎ、それを軽く掲げる。
「つまり、みんなが主役の物語で世界や歴史は構成されているってことです」
「いいですね。それはとても……、ロマンチックでです」
彼女の台詞にクスリと笑うと、彼もまた満足したように杯を掲げた。
カチリと酒杯が音を立てた。
◇◇◇◇
「ところで珠子さん。おばあさまはお元気ですか?」
「元気も元気です。この前もこっぴどく怒られました」
彼の問いに彼女は少し暗い表情を見せる。
「おや? 何かマズイことをしでかしたのですか? 失敗料理を食べさせたとか」
「そんなのではおばあさまは怒りませんよ。あたしがメールの書き出しに『天国のおばあさまお元気ですか』って書いてしまっただけです。おばあさまどころかパパとママにまで怒られてしまいました」
「プッ、ハハハッ、それはいけませんね。怒るのも無理ないです」
「ええ、あたしが悪いんですよ、全面的に。でも、なんでそんなことを書いちゃったのかしら」
「心のどこかでそう思っていたんじゃないですか。フフッ、クハハッ!」クイッ
とても愉快そうに彼は笑い、それを見て彼女は頬を少し膨らませる。
「そんなこと思っていませんよ。でも、時々夢を見るんですよね。おばあさまどころかパパとママも天国にいっちゃって、ひとりになっちゃう怖い夢を」
「夢ですよ、夢。そんな時は私を思い浮かべて下さい。その横っ面をひっぱたいて夢から醒ましてあげます」
「えー、それはそれで悪夢になりそう。目覚めた時に頭に浮かぶのが鬼畜眼鏡の顔なんて嫌です。そんな時は橙依君か赤好さんの顔を思い浮かべることにします」
「それは残念。そういえば最近、貴女は外出することが多いですね。ふたりとデートですか?」
「違います。自動車教習所に通っているだけです。そろそろ免許を取って車でも買おうかと。これで仕入れが捗ります」
彼の知る彼女は車が苦手で免許を取ろうなんて考えるはずがない。
やはり彼女と彼女は違うのだと彼は思った。
「ということはお金に余裕が出来たってことですか?」
「はい、目標額に達しました。これで『何処何某』が取り戻せます」
「よかったですね。それでは『酒処 七王子』は辞めてしまうのですか?」
「いえ、二足の草鞋で頑張ります。幸い、橙依君の亜空間回廊を使った瞬間移動か赤好さんの光の橋で移動時間は何とかなりそうですから」
彼には、ふたりに頼り過ぎてそのうち『どっちが本当のパートナーなの?』と詰め寄られ困惑する彼女の姿が想像出来たが、それは口に出さなかった。
もう、それは彼の興味のないことであり、彼女の問題だと思ったから。
「忙しくなりそうですね。それで、産地偽装で地に落ちた『何処何某』の評判を回復する方法は考えてあるのですか?」
「うーん、やっぱり地道に頑張るしかないかと。あ、でも、屋号は変えようと思っていますよ。おばあさまも『珠子の店だから好きにしな』っておっしゃってもらいましたし」
「どんな屋号ですか?」
「もう決めています。何度でも、いつか巡り逢える意味を込めて、新屋号は『何時何処』です」
彼はそこに”一期一会”という格言が嫌いだった彼女の面影を見た。
「『何時何処』……、素敵な屋号ですね。とてもいいと思います」クイッ
「あら、蒼明さんがベタ褒めなんて明日は大雨かも。いや、これからずっと長雨かもしれませんね。あたしが子供の時のような異常気象が起きるかも。知ってます? 平成の米騒動の時の長雨」
「知っていますよ。とてもよく」
──そう、それは私が起こしたのだから。
あの日、彼は竜宮城から他の兄弟よりひと月半ほど先に出た。
竜宮城でのひと月半は地上の年月で約30年。
彼は知っていた。
彼女が両親と死に別れる原因であった事故のことを。
海へ行楽に行く途中での渋滞の追突事故のことを。
それを防ぐべく、彼は彼女の運命を根本的に変える行動に出た。
話は単純だが大胆。
そもそも渋滞を起こさなければいい、そもそも海へ行楽に行かないようにすればいい。
その強大な妖力とその強力な権能、そして、その強固な意志で彼は雨をもたらし、その年の1993年の日ノ本を変えた。
本来は大旱魃になる夏を、長雨が延々と続く超冷夏に。
運命は変わり、彼の努力は実を結び、彼女の両親は今も健在である。
そして、彼は知っていた。
彼女の祖母の死因は癌。
息子夫婦の死、ひとり残された孫の世話。
それは老体には大変な苦労とストレスになったことは想像に難くない。
ストレスは癌の大きな要因であり、笑顔は癌への抵抗力を高める。
幸せな彼女の家庭は、彼女の祖母の運命も変えた。
──彼女がそれでも『酒処 七王子』に就職したのは運命か、それとも歴史がそうありたいと願った姿なのか、それは誰もわからない。
彼はそう思いながら彼女を見つめる。
「ところで”月が綺麗ですね”」
「えー、またその台詞ですか。今度こそあたしへの愛の告白ですか。フフフ」
そう言って彼女は可愛らしく笑う。
彼の知る彼女はそんな笑い方はしない。
こういった時、彼女なら『ぐへへ』と笑うはずだと彼は思う。
目の前の彼女は、己ではどうしようもなかった運命に翻弄された女性ではない。
世界が愛に満ちて、頑張れば、誠心誠意を尽くせば、全て上手くいく、みんなでハッピーエンドになると信じ、それを成し遂げた女性。
彼の知る彼女は、世界の残酷さや己の無力さ噛み締めようとも、それに屈せず、ひたむきに己の信じる道を、ハッピーエンドを目指すその行為の果てにこそ、それがあると信じ、それをみなに与えようと歩み続けた女性。
彼の愛した彼女はもはや存在しない。
だが、それこそが彼女が願った幸せな結末であり、彼が望んだ幸せの結末。
「違いますよ。これも貴女へと向けた告白ではありません」
「やっぱり。そんな気がしたんです。蒼明さんはあたしをそんな目では見ていないって」
用意した酒はほとんどなくなり、軽く酔いが回って上機嫌になった彼女を彼は見る。
「本当に今日は月が綺麗です。ですが……」
そう言って、彼は月を見上げ、そこよりも遥かに遠くを見つめた。
「あの月の本当の美しさを知るのは、きっと私だけでしょう」
月の光が優しくふたりを照らしていた。
<了>
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