江戸の夕映え

大麦 ふみ

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妾を持つ町の蕎麦屋の話──『梅翁随筆』より

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 ──蕎麦屋の親父が、湯屋の女房が良い仲だ。
 どこからともなく、そういう噂があたりに流れ始めたのは、女が祐介のところにかたづいてから半年もたったころだろうか。
 さすがに菊次にじかにあてこする野暮はいなかったが、よくわからない薄皮一枚のよそよそしさが付き合いに差し挟まれた気がして、自分へ向けられた周りの目に勘づいた。
 菊次にひどくそういう冷ややかな目が心外だったのは、女が嫁いで以後、菊次と女は体の上では切れていたからだった。
 出合茶屋とはいわず、世間の目を憚る男女がつかの間の密会を愉しむ場所は、江戸にはありすぎるほどある。とはいえ、同じ町内に住む夫婦者たちが連れ合いや近所の目を盗んで二人姿を消すのは、あまりにも危なっかしかった。
 ただ、女への執着が強ければなんとでもなるそういった理由からではなく、
 ──もう潮時だ。
 そういう声が菊次のうちにも響いてもいたことが大きかった。
 祐介の風呂屋に行くとしぜん女の姿を見る。なじみに軽口きいて客あしらいに気を配り、床、壁の汚れを小まめに拭き取って店を磨き上げようと汗をかいている。女への未練が我ながらしみったれて、汚らしく見えた。湯屋のおかみとしてやっていこうとする女を邪魔立てするのは、どうにも気が引けた。菊次は、ただじっと時が過ぎていくのにまかせることにした。
 あとは祐介がこの噂になにを思うかだけが気になった。うっすらと伝えきくところでは、お節介にも祐介に告げ口をした者がいたようだった。離縁しろ、しろと威勢良く煽りもしたらしいが、そんなあやしいところはぜんぜんないぜ、と祐介はとりあわなかったという。
 もしその話がほんとうなら、女と祐介はそれなりにうまくいっていることになるのだが、菊次にはどうにもひっかかるところがあった。女が必死で湯屋をもり立てようとするいっぽうで、祐介を湯屋でみることがほとんどなくなっていたのだ。どうやら、女が仕事を覚えたぶんだけ、祐介は仕事から手を引き、その余った時間をつぶすのに賭場に出入りするようになったらしい。貧乏旗本の中間部屋に入り浸っているのだ、あれは大変なことになるぞといういう声が菊次の耳にもはいってきた。元から惰弱な質のある総領息子だったが、嫁をとった息子をみて親父が逝くと、家が傾くほど抑えがきかなくなっていた。菊次ひとりは、その放埒ぶりに、自分の世話で娶らせたと女とのあいだで、表だったけんかにならずとも、かみ合わない気まずさが漂っているのではないかと疑っていた。
 そうして、祐介の湯屋はひとでに渡った。お上公認のものではなかったが、江戸の湯屋には株の制度がある。それを持たない者には開業はひどく難しい。それを譲りわたさねばならないほど銭に詰まったのだ。借りられる先はすべてまわって、金の融通に走り回っていたようだったが、菊次にところには祐介も女もやってこなかった。
 店を手放したあと、あらたな持ち主に抱えられて、こんどは使用人となって勝手知ったる商いを続けていく者は時にいた。けれど、祐介たちはつてを頼って神田に移って、荒物屋をはじめることにした。だが祐介は奉公に出たことがなく、風呂屋以外の商売をなにも知らなかった。そんな者が思いつきで始めた店が続くわけがない。株を売って得た最後の金もだんだんと減って、もうどうにも首がまわらないようだと聞きつけて、菊次はもうどうにも辛抱ができなくなった。
「この女をおまえに縁付けたのは俺だ。仲人だし、女の二親がもうこの世にいない。たがら親みたいなもんだ」
 女の親父は娘の縁づいたのを見て逝った。そこから母親の方は、さびしいさびしいとしきりに湯屋の娘のところにやってきたが、こちらも卒中で亭主を追うように亡くなっていた。もう女には頼れるものは限られていた。菊次はおなじ町内の裏長屋に二人が入れるよう段取りをつけて、できるかぎりの心付 もして、祐介と女の危ういところに手を差し伸べた。二人は素直によろこんで菊次の親切にすがった。
 とはいえ、いつまでも菊次が二人を支えることには限りがあるのは、わかりきったことだった。夫婦は語り合って、離縁することにした。女はまだ若く、再縁の相手をさがすことが一番現実的な再起の道であったし、祐介も江戸を出て上州の知り合いの糸問屋の手伝いをすることになった。
 祐介が長屋をでていくと、しばらくは女はそこに残り、また菊次の店を手伝うことになった。だれかが、女に相手を見つけてくれるのを待つ間とのことだった。しかし、女はあるとき、水茶屋に奉公するといって菊次のもとを去った。まとまるような再縁の話はなかった。
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