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聖なる愚か者の話 ─『耳囊』より
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その子は生まれながらの馬鹿で、たいていの子供が幼くみられるのが恥ずかしくなってそのうち外てしまう迷子札を、いくつの歳になっても首から下げたままだった。
自分の足で歩いて自由に動けまわる歳になっても、ろくに口もきけず、住んでいる町や通りはおろか、親からもらった名前さえおぼつかないような者には、べらぼうな人数(ひとかず)がひしめき合って暮らす江戸という町はあまりにも危険なところだった。
縦横にめぐる通りや町に名前を記す標識などいっさいなく、整然と区割りされた地域ほど、風景がいっけん似て見えて、知らないところに一人なのだとと気づくのが遅れた。
親子で連れ立って歩くときでも、けして油断がならなかった。大人どうよう子供にとっても誘惑の多いところなのだ。道でであった知り合いと世間話に興じている親の目をかすめて、子供は、客寄せのどでかい唐辛子の張りぼてや、棒手振りの調子いい売り声に誘われ、どこまでも続く町並みに何の気なしにふらふらついていく。
ときにそれがそのまま、父、母との今生での別れとなった。
親からはぐれて泣きじゃくる子供を見て、さすがに哀れとおもう人はたくさんいた。けれど、町を世話する役人は少ないのに、行き交う者は余りに多く、みなそれぞれが忙しい。
──だれか奇特のものが、数え切れない辻番屋巡りしてくれるさ。
そうやって時間も手もかかる仕事、それはへたをすれば何週、何ヶ月かかるか見当がつかず、そのあいだの世話を思うと誰もが二の足を踏んだ。
そのうち子供の頭を優しくなでてるものが出てくるが、そいつが拐かし、人買いの手先でないとはだれにも分からない。子供は使いでのある財産で、人様の子供を欲しがる者が、江戸にも、江戸の外にもたくさんいた。
その馬鹿に掛けられた迷子札は、武家や豊かな商家の子供にあつらえられた、表には名前と住所、裏には兎や犬の可愛らしい図柄が彫金された薄く小さい真鍮製のものなどではなく、あり合わせの板きれで作られていた。よくいえば絵馬、ときによればかまぼこ板にしか見えず、なおさらその子を愚鈍に見せた。
──四谷湯屋横町 源□
とまでかろうじて読めたが、あまりに長い年月の間に汚され、すり切れ、毀れた文字は、最後の一文字がどうにもはっきりしなかった。
源吉、あるいは源市なのだろうか。その子のただ一人の家族である老婆の震えるくぐもった声では、何度聞き直してもそのどちらか判然としなかった。
だが小童が源市だろうが源吉だろうが、長屋のものにはどうでもいい些細なことだった。男たちは源と呼び捨て、こども、女たちは源坊と呼んだ。
長屋でいちばん早起きのその老婆がある朝井戸端に姿をみせず、煙のように一晩で相果てたあと、源坊がこの馬鹿の子のただひとつの通り名として定まった。
湯屋横丁は四谷通りから御先手組の長屋に向かって十箇寺以上が居並ぶ。そのうちの天台宗真福寺が源を引きとり、まだ数年は沙弥(見習い坊主)をさせてもいい歳だったが、さっさと剃髪させて、見かけばかりは僧侶としてしまったからだった。
その寺には、横丁の住人は困り事をもちこんでは、なにかにつけ知恵をもらって助けられることが多かったが、このときばかりは住職の方から是非にとの申し出であった。
源の行末に頭を悩ませていた住人たちは、その手があったかと手を打った。まともな言葉をしゃべれず、人の話を聞いているのかも分からない、落ち着き無くあちらこちらをたえず動いて、とにかく自分本位の振舞ばかりのものが、まともな職人はおろか、日雇いも勤まるとは皆が思えなかった。そんな者は、いろんな奴らが流れ込んでくる江戸というまちでは、おそかれ早かれ悪い奴らに目を付けられ、都合よく使い捨てされるのが関の山だった。
長屋のみなが驚いたのは、そのあとさらに別の二箇寺からも源が欲しいという誘いが舞い込んできたことだった。そこの坊主たちは、眞福寺の百歳間近のよれよれの老住職がすでに源を連れて帰ったと聞いて、あの小坊主はわしが目を付けていた、あの婆がこうも早く逝くならとうに話をつけておいたものをと悔しがった。
馬鹿馬鹿と子供達からいじめの矛先とされ、たいして気に懸ける風には見えずとも一人でいることの多かった源は、ちいさい時から長屋の辺りからちょくちょく姿を消した。最初こそ、すわ迷子か、とあわてたものだった。しかしそこらのお寺なんぞに上がり込んでいるのを後に知られるように誰も源の不在を気に懸けなくなった。この間に源を世話していたに違いない仏門の人たちには、源はたんなる馬鹿の子以外に見えていたと住民達は噂した。
自分の足で歩いて自由に動けまわる歳になっても、ろくに口もきけず、住んでいる町や通りはおろか、親からもらった名前さえおぼつかないような者には、べらぼうな人数(ひとかず)がひしめき合って暮らす江戸という町はあまりにも危険なところだった。
縦横にめぐる通りや町に名前を記す標識などいっさいなく、整然と区割りされた地域ほど、風景がいっけん似て見えて、知らないところに一人なのだとと気づくのが遅れた。
親子で連れ立って歩くときでも、けして油断がならなかった。大人どうよう子供にとっても誘惑の多いところなのだ。道でであった知り合いと世間話に興じている親の目をかすめて、子供は、客寄せのどでかい唐辛子の張りぼてや、棒手振りの調子いい売り声に誘われ、どこまでも続く町並みに何の気なしにふらふらついていく。
ときにそれがそのまま、父、母との今生での別れとなった。
親からはぐれて泣きじゃくる子供を見て、さすがに哀れとおもう人はたくさんいた。けれど、町を世話する役人は少ないのに、行き交う者は余りに多く、みなそれぞれが忙しい。
──だれか奇特のものが、数え切れない辻番屋巡りしてくれるさ。
そうやって時間も手もかかる仕事、それはへたをすれば何週、何ヶ月かかるか見当がつかず、そのあいだの世話を思うと誰もが二の足を踏んだ。
そのうち子供の頭を優しくなでてるものが出てくるが、そいつが拐かし、人買いの手先でないとはだれにも分からない。子供は使いでのある財産で、人様の子供を欲しがる者が、江戸にも、江戸の外にもたくさんいた。
その馬鹿に掛けられた迷子札は、武家や豊かな商家の子供にあつらえられた、表には名前と住所、裏には兎や犬の可愛らしい図柄が彫金された薄く小さい真鍮製のものなどではなく、あり合わせの板きれで作られていた。よくいえば絵馬、ときによればかまぼこ板にしか見えず、なおさらその子を愚鈍に見せた。
──四谷湯屋横町 源□
とまでかろうじて読めたが、あまりに長い年月の間に汚され、すり切れ、毀れた文字は、最後の一文字がどうにもはっきりしなかった。
源吉、あるいは源市なのだろうか。その子のただ一人の家族である老婆の震えるくぐもった声では、何度聞き直してもそのどちらか判然としなかった。
だが小童が源市だろうが源吉だろうが、長屋のものにはどうでもいい些細なことだった。男たちは源と呼び捨て、こども、女たちは源坊と呼んだ。
長屋でいちばん早起きのその老婆がある朝井戸端に姿をみせず、煙のように一晩で相果てたあと、源坊がこの馬鹿の子のただひとつの通り名として定まった。
湯屋横丁は四谷通りから御先手組の長屋に向かって十箇寺以上が居並ぶ。そのうちの天台宗真福寺が源を引きとり、まだ数年は沙弥(見習い坊主)をさせてもいい歳だったが、さっさと剃髪させて、見かけばかりは僧侶としてしまったからだった。
その寺には、横丁の住人は困り事をもちこんでは、なにかにつけ知恵をもらって助けられることが多かったが、このときばかりは住職の方から是非にとの申し出であった。
源の行末に頭を悩ませていた住人たちは、その手があったかと手を打った。まともな言葉をしゃべれず、人の話を聞いているのかも分からない、落ち着き無くあちらこちらをたえず動いて、とにかく自分本位の振舞ばかりのものが、まともな職人はおろか、日雇いも勤まるとは皆が思えなかった。そんな者は、いろんな奴らが流れ込んでくる江戸というまちでは、おそかれ早かれ悪い奴らに目を付けられ、都合よく使い捨てされるのが関の山だった。
長屋のみなが驚いたのは、そのあとさらに別の二箇寺からも源が欲しいという誘いが舞い込んできたことだった。そこの坊主たちは、眞福寺の百歳間近のよれよれの老住職がすでに源を連れて帰ったと聞いて、あの小坊主はわしが目を付けていた、あの婆がこうも早く逝くならとうに話をつけておいたものをと悔しがった。
馬鹿馬鹿と子供達からいじめの矛先とされ、たいして気に懸ける風には見えずとも一人でいることの多かった源は、ちいさい時から長屋の辺りからちょくちょく姿を消した。最初こそ、すわ迷子か、とあわてたものだった。しかしそこらのお寺なんぞに上がり込んでいるのを後に知られるように誰も源の不在を気に懸けなくなった。この間に源を世話していたに違いない仏門の人たちには、源はたんなる馬鹿の子以外に見えていたと住民達は噂した。
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