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江戸に奉公にでる熊谷農夫の話 ― 『譚海』より
3 帰り旅
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日本橋をでで一刻(約二時間)ぐらい、板橋のあたりで太平次はその男にきづいた。
脚絆と手甲、頭には笠、肩には振分荷物というよくある旅姿をしていたが、太平次とはちがって、脇差を腰に差していた。
最初から怪しい気がしたのは、その脇差のせいだと後で気づいた。
旅行のとき、護身用に小刀を下げていくのは、町人、百姓といえど禁止されておらず、長旅ならなにもおかしいことはなかった。
嫌な感じがしたのは、その帯刀ぶりが様になっていたことだった。
普段刀を持ち付けない者が、そんなものを腰に差して歩くと姿勢もみだれて疲れやすく、またながい距離のあいだに着崩れてしまう。
だがその男はどうみても侍でもないのに、姿、立ち振る舞いに窮屈なところがなく、日頃からそれを扱い慣れているように見えた。刀そのものも、旅用のものより長く、柄、鞘が日差しでいたみ、雨風に汚れていた。
そいつが決して横並びに歩いたり、話しかけてきたりはせず、けれども時には前になったり、後ろになったりしながら、太平次から離れない。
太平次が立ち止まれば、歩みを遅くして道の端にゆき、こちらをうかがっている。小便をすれば、そいつも続いた。茶屋にはいり、酒を頼んでみれば、そいつまで酒を頼んだ。
──まちがいない、胡麻の蠅(旅人を狙う泥棒)だ、どうしたことか儂が金を持っていることを知っておる。
半日ばかりつけまわされてそう確信した。そう思うと、そいつの目つき、顔つきが恐ろしく思えてきたが、つけこまれないよう、動揺をみせてはいけないと太平次は自分に言い聞かせた。
そうしてまた酒屋を見つけた。そこに入り、親爺に銭を払って燗酒を頼んだ。男も当たり前のように、離れた席にすわってそれにならった。
太平次は追っ手をまったく気にしないそぶりで、酒を温めている親爺を呼んだ。
「おい、親爺」
「へい」
「厠(便所)はどこだ」
「ごぜえやす、裏の背戸(裏門)からでてもらえればわかりやす」
「なら、浅草紙(便所紙)もくれ、いくらだ」
太平次も、江戸にいる間に、尻を紙で拭くのにすっかり慣れきっており、しぜんに紙のことが口をついた。
「いや、一枚くらい差し上げます。お客さんからいただいた糞は、あとで百姓に売りますんで」
「それは、ありがたいね」
「遠慮なく、たくさんひり出してくだせえよ。けど屁は、どんだけ賑やかでも売りもんにゃなりませんで、ご注意くだせえ、かかか」
太平次も、おそらく決まり文句の親爺の軽口に声をあげて笑ってやり、紙をうけとった。笠を脱いで縁台(長腰掛)に置いて立ち上がり、店の入口とは逆側、奥のほうに進んで、そこの木戸をくぐって外に出た。
─しめた。
店の立地から予想したとおり、山際を通る裏道が掘立の雪隠(便所)の横を通っていた。街道筋にはその土地のものだけが使う裏道があるものだ。
太平次はその踏み固められてできた小道を、最初は音をたてないようにそっと、十分離れてからは一気に駆けた。
思い切って、もと来た上尾宿の方へ引き返して撒こうかとも考えたが、桶川のほうへ進むこととした。そちらの方がここからやや近く、土地鑑もあった。引き返したところで、またどうせ街道を上っていくのは泥棒にも自明だと思われた。
裏道が山上へと外れはじめたところで街道に降りて、走りに走って桶川宿に入った。まだまだ日は高く、次の鴻巣宿か、思い切って熊谷を目標としてもおかしくない時刻だった。だが、もう宿屋に入り、そうやって姿をくらまそうと考えていた。人通りの少ない場所で再び出会ったら、次は命まで危ない気がしていた。
自分では意識したことがなかったが、宿屋の者にとって太平次は、六年前とはまるきり違って見えたに違いなかった。どの旅籠屋でも、太平次がどこにするかうろうろしていると、熱心な留女たち(客引き女)が目ざとく見つけて絡みついてきた。
「お泊まりですか、わたくし方へお決めくださりませ。きれいなお風呂がございます、御夕食に旬のものを何皿もだします、弁当のおにぎりも朝に用意いたします」
「いやいやだまされてはいけません。こちらには風呂が四つございまして、いまの時間でしたら、どれでもお好みのにとっぷりと浸かっていただけます。……じつは器量よしの飯盛女(売春もする給仕女)もおります」
「嘘つきはそっちだろ、お前が飯盛りもしてるじゃないか。なにが器量よしだ、いい加減におし」
なにやら騒がしい雲行きになって、人目につくのが恐くなった太平次は、客引きのいない、みるからに宿賃が高めの、新しい造りの旅籠に飛び込んだ。
主人らしい男が、まだ客取りには早い時刻の不意の客にも、懇ろに応対した。太平次を商用、あるいはなにか密会目的で来た、富裕な商人の手代とでもおもったのか、奥まって人目につかない、けれど高めの部屋を相客なしで申し出てきた。
それは太平次に好都合だった。金もたくさんあった。駆け引きもせずに言われるまま、前払いで渡した。万一、宿から逃げたしたときに、これ以上の厄介ごとを避けたいと考えてのことだった。
しばらくその部屋で宿屋の様子をうかがったあと、他に人が宿屋に来るには十分早いとわかると、さっさと湯浴みをすませ、飯の用意ができれば部屋にもってくるよう頼んで引きこもった。
油断できない一夜がはじまっていた
脚絆と手甲、頭には笠、肩には振分荷物というよくある旅姿をしていたが、太平次とはちがって、脇差を腰に差していた。
最初から怪しい気がしたのは、その脇差のせいだと後で気づいた。
旅行のとき、護身用に小刀を下げていくのは、町人、百姓といえど禁止されておらず、長旅ならなにもおかしいことはなかった。
嫌な感じがしたのは、その帯刀ぶりが様になっていたことだった。
普段刀を持ち付けない者が、そんなものを腰に差して歩くと姿勢もみだれて疲れやすく、またながい距離のあいだに着崩れてしまう。
だがその男はどうみても侍でもないのに、姿、立ち振る舞いに窮屈なところがなく、日頃からそれを扱い慣れているように見えた。刀そのものも、旅用のものより長く、柄、鞘が日差しでいたみ、雨風に汚れていた。
そいつが決して横並びに歩いたり、話しかけてきたりはせず、けれども時には前になったり、後ろになったりしながら、太平次から離れない。
太平次が立ち止まれば、歩みを遅くして道の端にゆき、こちらをうかがっている。小便をすれば、そいつも続いた。茶屋にはいり、酒を頼んでみれば、そいつまで酒を頼んだ。
──まちがいない、胡麻の蠅(旅人を狙う泥棒)だ、どうしたことか儂が金を持っていることを知っておる。
半日ばかりつけまわされてそう確信した。そう思うと、そいつの目つき、顔つきが恐ろしく思えてきたが、つけこまれないよう、動揺をみせてはいけないと太平次は自分に言い聞かせた。
そうしてまた酒屋を見つけた。そこに入り、親爺に銭を払って燗酒を頼んだ。男も当たり前のように、離れた席にすわってそれにならった。
太平次は追っ手をまったく気にしないそぶりで、酒を温めている親爺を呼んだ。
「おい、親爺」
「へい」
「厠(便所)はどこだ」
「ごぜえやす、裏の背戸(裏門)からでてもらえればわかりやす」
「なら、浅草紙(便所紙)もくれ、いくらだ」
太平次も、江戸にいる間に、尻を紙で拭くのにすっかり慣れきっており、しぜんに紙のことが口をついた。
「いや、一枚くらい差し上げます。お客さんからいただいた糞は、あとで百姓に売りますんで」
「それは、ありがたいね」
「遠慮なく、たくさんひり出してくだせえよ。けど屁は、どんだけ賑やかでも売りもんにゃなりませんで、ご注意くだせえ、かかか」
太平次も、おそらく決まり文句の親爺の軽口に声をあげて笑ってやり、紙をうけとった。笠を脱いで縁台(長腰掛)に置いて立ち上がり、店の入口とは逆側、奥のほうに進んで、そこの木戸をくぐって外に出た。
─しめた。
店の立地から予想したとおり、山際を通る裏道が掘立の雪隠(便所)の横を通っていた。街道筋にはその土地のものだけが使う裏道があるものだ。
太平次はその踏み固められてできた小道を、最初は音をたてないようにそっと、十分離れてからは一気に駆けた。
思い切って、もと来た上尾宿の方へ引き返して撒こうかとも考えたが、桶川のほうへ進むこととした。そちらの方がここからやや近く、土地鑑もあった。引き返したところで、またどうせ街道を上っていくのは泥棒にも自明だと思われた。
裏道が山上へと外れはじめたところで街道に降りて、走りに走って桶川宿に入った。まだまだ日は高く、次の鴻巣宿か、思い切って熊谷を目標としてもおかしくない時刻だった。だが、もう宿屋に入り、そうやって姿をくらまそうと考えていた。人通りの少ない場所で再び出会ったら、次は命まで危ない気がしていた。
自分では意識したことがなかったが、宿屋の者にとって太平次は、六年前とはまるきり違って見えたに違いなかった。どの旅籠屋でも、太平次がどこにするかうろうろしていると、熱心な留女たち(客引き女)が目ざとく見つけて絡みついてきた。
「お泊まりですか、わたくし方へお決めくださりませ。きれいなお風呂がございます、御夕食に旬のものを何皿もだします、弁当のおにぎりも朝に用意いたします」
「いやいやだまされてはいけません。こちらには風呂が四つございまして、いまの時間でしたら、どれでもお好みのにとっぷりと浸かっていただけます。……じつは器量よしの飯盛女(売春もする給仕女)もおります」
「嘘つきはそっちだろ、お前が飯盛りもしてるじゃないか。なにが器量よしだ、いい加減におし」
なにやら騒がしい雲行きになって、人目につくのが恐くなった太平次は、客引きのいない、みるからに宿賃が高めの、新しい造りの旅籠に飛び込んだ。
主人らしい男が、まだ客取りには早い時刻の不意の客にも、懇ろに応対した。太平次を商用、あるいはなにか密会目的で来た、富裕な商人の手代とでもおもったのか、奥まって人目につかない、けれど高めの部屋を相客なしで申し出てきた。
それは太平次に好都合だった。金もたくさんあった。駆け引きもせずに言われるまま、前払いで渡した。万一、宿から逃げたしたときに、これ以上の厄介ごとを避けたいと考えてのことだった。
しばらくその部屋で宿屋の様子をうかがったあと、他に人が宿屋に来るには十分早いとわかると、さっさと湯浴みをすませ、飯の用意ができれば部屋にもってくるよう頼んで引きこもった。
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