江戸の夕映え

大麦 ふみ

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肥担桶を運ぶ百姓ともめる侍の話―『我衣』より

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 文化六年(1809)四月二十日、数日来の雨交じりの曇天とうってかわって、江戸の空は、すっきりと晴れ上がった。

 春の澄んだ陽光と、温んだ大気に流れる甘やかな風は、それに触れた人たちの気持ちを明るく、軽やかにして、往来へと招き寄せる。そうしてこの巨大な城市は、いつにも増したにぎやかさをみせるが、少々やっかいなほど浮かれに染まった者も混じり込んでくる。

 小石川の水府公(徳川斉昭)屋敷は、大小の大名、旗本の屋敷が並ぶ一画にあり、付近に町人地はわずかしかない。しかし、その前の大路には、さまざまな身分の者がおのおのの荷を携え、気ぜわしく行き交っている。その中のひとり、長身の武士が、晩春の陽気で浮かれ調子となっているのが周囲からみとてれた。

 身の丈は六尺もあろうか、人の波から頭一つ飛び出ており、それだけでも目立つ。そのうえ、遊び人の小者仲間(ちゅうげん)らが好む搔鬢(かきびん)にして、月代(さかやき)は広く、耳の上から前髪の際まで髪を掻き上げ束ねているので、なおいっそう人目を引く。

 この搔鬢奴は、仕事の遅れを取り戻そうと足早な人の流れにあらがって、まるでちょいと遅れた花見を楽しんでいるかのように、一人悠然と雑踏を漂っている。そんな搔鬢奴に近づくと、そんなそぞろ歩きとなっていた訳がわかってくる。おのれの伊達ぶりに悦にいっているのだ。

 武家らしい質実な小倉袴をはき、腰には大小を帯びてはいるのだが、太刀がめったに見かけぬほど長い。大方の倍とまではいかずとも、四尺(120cm)近くにはなるだろう。添えてある脇差しもおそらくわざと小ぶりなものとして、ことさらに大刀の印象を引き立たせている。すぐれた体格とあいまって、その佩刀は搔鬢奴を錦絵の役者のように飾り立てている。

 いや、そんな風にだけ周りから見られたいのではきっとない。その長刀を朱鞘におさめているのである。雨に強いという実利から、そのあざやかな色の鞘を選ぶ者など当世いない。勇壮にして垢抜けてもいるような、芝居じみた男振りを気取っているに違いない。

 得意げな搔鬢奴のみせびらかしに、町人たちはもちろんほかの武士たちも、気取られぬようそっと路の端へと寄って、すれ違わないよう進む途を変える。浮かれ者とて、武士どおしとなれば、ちょっとした関わり合いから意地の張り合いになれば、最悪命のやりとりや、家督まで危うくすることもある。田舎からでてきたばかりの、いきった薯侍とおなじように遇するにこしたことはないのだ。

 そうやって開かれた大路の中央を、搔鬢奴はいっそう痛快な気持ちとなって、ずいずいと闊歩する。どうだ皆儂をみておるか。そうして浮ついた心もちの搔鬢奴は、春の薫風にかすかに異臭が混じりだしているのに注意を払わない。

 その時ちょうど、早朝に武蔵野の村を出て、そこを知行地とする旗本屋敷へ出向いた帰りの百姓が、水府公のお屋敷前にさしかかっていた。頭には頬被りをして、膝ぐらいまでの筒袖、まだ股引をはいた姿は、そこらの百姓にしかみえず、それだけならだれも気に留めもしなかっただろう。しかし、道では誰もがこの男に道をあけた。両肩に乗せた担い棒の両端には桶が下げられていたのである。

 男は百姓らしい屈強な体つきをして、あたかも空の桶を下げているかに軽々と担いでいた。しかし使い込まれた幅広の棒は、桶の重みでしなり、桶は百姓が早足に歩むにつれて、ぶらぶらと揺れた。それを抑えるために、百姓の手は桶を下げる太い紐をしっかりとにぎって、桶の勝手なうごきを押さえんでいる。お殿様家中からいただいた糞を桶に満々として、帰路を急いでいたのである。

 毎日毎日大量に生み出される江戸の糞は、いつの頃からか売り物になりおおせ、市中の外へと運び出されていく。そのため、船や馬で以外にも、担い棒の両端に桶をかついだ百姓が、近郊の村から江戸の真ん中にまで多くやって来ているのだ。

 水府公屋敷前まで来た百姓はいつになく、桶のわがままな揺れに手を焼いていた。平生の桶より一廻り大きめのものを運んでいたのである。連日の雨のため、予定の日取りに収集できず、それを取り返そとしたのだった。それだけでなく、いつもより多くの野菜を殿様の家に届けた後でもあったので、いつもより疲れてもいた。

 武家から下肥を手に入れる時には、その謝礼に銭ではなく、蔬菜を渡す。相場は、一人あたま一年分、茄子五十本と干大根百本。大所帯の大名、旗本と約定が交わされば、何軒もの町家をちまちま廻らなくても済む。銭の用意がいらないのも百姓にはありがたい。町人の糞より野菜の出来がいいと言う者ものいた。ただその代わり、馬鹿にならない量の野菜を村から運んでいかなくてはならない。肥桶は川できれいに洗い空っぽとしていたので、担ぐのに苦労はない。しかし、吊して下げていく大根の重さを思えば、数里におよぶ江戸への往路が、帰り道より楽だというのでは全くなかった。

 ひょっとすると、ぬるま湯のような春の大気が、この百姓の心もすこしは浮かれさせ、油断させていたのかも知れない。それでも、いかれた野良犬とそれを追い回すもっといかれた糞餓鬼どもがそこに迷い込まなかったら、通行人が道をゆずり、おのずとその進路が近づいいていたとはいえ、二人が互いの途を交差させることはなかっただろう。

 だが、畜生も畜生と変わらぬ者たちも浮かれ狂っていた。棒をふってくちぐちに奇声を発して、やせ犬を威嚇する子供の喜びの声を百姓が聞きとがめたときには、真横から犬が飛びかかるように疾駆してきた。思わず体をかわした拍子に、後ろの桶を掴んでいる手が緩んで、ぶらありと桶は振り子のようになった。

 桶にはめずらしいことに蓋をはめ込んであり、そうそううかつに中身をぶちまけることはなかった。一瞬崩れかけた体勢も、日頃の野良仕事が育てた筋力のおかげで持ち直した。汁の一滴たりともこぼすことはなかった。

 そのとき、ちょうど百姓の横をすれ違おうとしていた搔鬢奴も、眼の前を駆け抜ける子犬と子供の一群にすんでのところで足をとめ、衝突を免れた。だがそのため、一歩左足を引いて、抜刀するような姿勢となった。浮かれた搔鬢奴でも、さすがに太刀を辺り憚らず閂のように差していたのではない。鐺はわずかに落として尾が長く突き出た鳥のようにはしていた。しかし、あまりにも刀身が長かった。

 鐺(刀の鞘の末端を包む金物)と桶の軽い触れあいで生じた振動を、たっぷり糞尿を満たした桶を二つも担いでいた百姓の側がを感じるとことはなかった。だが、なにか堅いもの同士が衝突する乾いた音は百姓にもたしかに聞こえた。
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