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第四話 のんびりまったり監禁生活
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侯爵様はただ黙々とわたしの傍で仕事をしている。
その書類に何が書かれているのか、わたしにはわからない。何せわたしは文字が読めないから。
侯爵夫人に相応しい所作を教えられたくらいなもので、教育まで手が回らず、結果、わたしは子供が読めるような本も理解できないままだ。
別に今までは大して問題に思わなかったのだが、こうもずっと部屋ばかりで過ごしているとどうにも暇だ。本の一つでも読めればいいのにと思った。
一日中ただベッドに腰を下ろしてぼぅっといているだけのわたしを見かねたのか、ちらほらと声をかけてくるようになった。
「……きみは何もしないんだな」
「はい。やることがないので」
「まさか屋敷から逃亡するしか趣味がないのか?」
「別にそういうわけでは……。ただ、何をしていいかわからないんです」
何かしたら殴られるかも知れない。蹴られるかも知れない。
罵声を浴びせられ、嘲笑われるのではないか。
長年染みついたそんな考えが抜け切ってくれず、どうしても新しいことに手を伸ばせないでいる。
だからただじっと、大人しくしていた。
「何かするわけでもなければ、こうして同室で過ごしているのに俺に興味の欠片も示さない。一体どんな人生を送ったらきみのようになるんだ。……たとえ病弱だとしても、なんらかの欲は持つだろうに」
そう言いながら侯爵様は、理解できないものを見る目でわたしを見つめてくる。
「以前にも一度言いましたがわたし、病弱などではありません。侯爵邸で出していただく食事のおかげで今はかなり元気ですよ」
わたしがしばらくの様子見を決意したのは、侯爵邸での暮らしが悪くなかったという理由があった。
部屋を出て廊下を歩けば使用人が欠かさず挨拶してくれるし――まだ怖いが少しずつ慣れてきた――、料理も美味しい。服だってボロのドレスではなくまともな衣装を着られるのだ。
もちろん逃げたいという野望は健在だ。しかし身を寄せるにはもってこいの環境である。おかげで貧弱だった体の肉付きはずいぶんと良くなっていた。
そのことをできるだけ軽く、違和感を持たれぬように伝えたはずだった。
しかしますます顔を顰められてしまい、さらには。
「――前もきみはそう言っていたが、それならどうしてここへ嫁いできた?
アグネス姫。きみは城からほぼ出られないくらいの病弱な姫だったと聞く。年頃であり、病状が少し軽くなったからと、ちょうどいい相手……余り物だった俺と婚姻を結ぶことになったのだろう。だというのにきみ自身は健康そのものだと言うし、逃亡する姿を見ていればそれは事実なのだろうと頷ける。
これらは一体どういうことなんだ? それに先ほどの口ぶりでは、王家で出される食事に不満を持っていたと見える。
きみがあれほどまでに強く逃亡を望む理由、それもなんらかの関係があるのではないか?」
怒涛の質問責めに、わたしは思わず息を止める。
今、決定的なことを訊かれたということを嫌でも理解してしまう。そして次の瞬間にはどう答えるのが正解だろうかと思考が目まぐるしく回転し始めた。
侯爵様に事実を告げるわけにはいけない。わたしが王家に嫌われている娘だと知られたら、どんなことを言われるかわかったものではない。
元々愛のない結婚なのだ。無闇に侯爵様を信じ、今までの全てを明かすなんてこと、絶対にできなかった。
この場から逃げる? それもありだ。でもどうやって?
いくら体が頑丈になってきたとはいえ、侯爵様を突き飛ばして転ばせ、その間に逃げ出すなんていう芸当がわたしにできるだろうか。
無理だ。即座にそう判断する。
だがそれならわたしはどう答えたらいい。どう誤魔化したら――。
しかしその悩みは、侯爵様の一言で霧消することになった。
「答えたくないなら別にそれでいい。悪かった、色々と一気に訊き過ぎたようだな」
「……へ?」
思わぬ言葉をかけられ、思わず変な声を出してしまった。
「きみの役目は王命に従い、俺の仮初の妻でいることだ。それ以上でも以下でもない」
それからすぐに書類に視線を戻し、黙々と作業に戻ってしまう侯爵様。
わたしはなんだか肩透かしを食らったような気分になって、ただ唖然となる。
しかし、どうやら危機を免れたようだ。
侯爵様にとって必要なのは、王命を遂行することらしい。それならわたしの素性が何であろうと、どうでもいいのだろう。
一気に体から力が抜けて、わたしは座り込む。
この屋敷にもう少し滞在していられる。――そのことに、心底ホッとしていたのかも知れない。
「えっと、これはどういうことですか?」
その数日後。
侯爵様のあまりの激変ぶりに、わたしは困惑していた。
なんと今わたしは侯爵様の膝の上に座っているのだ。
侯爵様は何かの資料に目を落としているものの、顔が至近距離にあり過ぎる。
しかもそれだけではない、侯爵様の右手はわたしの金の髪をくるくると弄んでいるのだった。
「逃げられたら困るからな。別に変なことではないだろう」
「でもおかしいです、今までこんなことしてなかったですよね?」
侯爵様はそれ以上何も言ってくれない。
逃亡を防ぐためなら縛ればいいだけでは? もしかして今まで以上にわたしを監視し、うっかりした瞬間に情報を吐かせるため?
わからないがこれでは逃亡は絶対に不可能。
ますます野望が遠ざかっていくばかりなのに、不思議と焦燥感も何もない。
まったりとした時間を過ごしながら、侯爵様のことをじっと観察する。
彼の横顔はとても美しい。
わたしの腹違いの兄たちだって、思わずうっとりしてしまうような貴公子だった。――もちろん暴力を振るってくるのだからいくら容姿が良くても台無しではあったが。
その兄たちと比べ物にならない破壊力を持つのがこのサイモン・フレミングという侯爵様。
目つきが怖いし、何より浮気者だという噂だから減点ではあるけれど、優しいし暴力的ではないので白い結婚の旦那様としてはもったいな過ぎるように思った。
そんな彼でも、こうして抱き込んできたり、髪の毛を勝手に触られるのはいまいち納得がいかない。
熱烈に求婚されたというならともかく、これは白い結婚。そのはずなのに……。
そうして不思議がりながらもわたしは侯爵様のされるがままだった。
その書類に何が書かれているのか、わたしにはわからない。何せわたしは文字が読めないから。
侯爵夫人に相応しい所作を教えられたくらいなもので、教育まで手が回らず、結果、わたしは子供が読めるような本も理解できないままだ。
別に今までは大して問題に思わなかったのだが、こうもずっと部屋ばかりで過ごしているとどうにも暇だ。本の一つでも読めればいいのにと思った。
一日中ただベッドに腰を下ろしてぼぅっといているだけのわたしを見かねたのか、ちらほらと声をかけてくるようになった。
「……きみは何もしないんだな」
「はい。やることがないので」
「まさか屋敷から逃亡するしか趣味がないのか?」
「別にそういうわけでは……。ただ、何をしていいかわからないんです」
何かしたら殴られるかも知れない。蹴られるかも知れない。
罵声を浴びせられ、嘲笑われるのではないか。
長年染みついたそんな考えが抜け切ってくれず、どうしても新しいことに手を伸ばせないでいる。
だからただじっと、大人しくしていた。
「何かするわけでもなければ、こうして同室で過ごしているのに俺に興味の欠片も示さない。一体どんな人生を送ったらきみのようになるんだ。……たとえ病弱だとしても、なんらかの欲は持つだろうに」
そう言いながら侯爵様は、理解できないものを見る目でわたしを見つめてくる。
「以前にも一度言いましたがわたし、病弱などではありません。侯爵邸で出していただく食事のおかげで今はかなり元気ですよ」
わたしがしばらくの様子見を決意したのは、侯爵邸での暮らしが悪くなかったという理由があった。
部屋を出て廊下を歩けば使用人が欠かさず挨拶してくれるし――まだ怖いが少しずつ慣れてきた――、料理も美味しい。服だってボロのドレスではなくまともな衣装を着られるのだ。
もちろん逃げたいという野望は健在だ。しかし身を寄せるにはもってこいの環境である。おかげで貧弱だった体の肉付きはずいぶんと良くなっていた。
そのことをできるだけ軽く、違和感を持たれぬように伝えたはずだった。
しかしますます顔を顰められてしまい、さらには。
「――前もきみはそう言っていたが、それならどうしてここへ嫁いできた?
アグネス姫。きみは城からほぼ出られないくらいの病弱な姫だったと聞く。年頃であり、病状が少し軽くなったからと、ちょうどいい相手……余り物だった俺と婚姻を結ぶことになったのだろう。だというのにきみ自身は健康そのものだと言うし、逃亡する姿を見ていればそれは事実なのだろうと頷ける。
これらは一体どういうことなんだ? それに先ほどの口ぶりでは、王家で出される食事に不満を持っていたと見える。
きみがあれほどまでに強く逃亡を望む理由、それもなんらかの関係があるのではないか?」
怒涛の質問責めに、わたしは思わず息を止める。
今、決定的なことを訊かれたということを嫌でも理解してしまう。そして次の瞬間にはどう答えるのが正解だろうかと思考が目まぐるしく回転し始めた。
侯爵様に事実を告げるわけにはいけない。わたしが王家に嫌われている娘だと知られたら、どんなことを言われるかわかったものではない。
元々愛のない結婚なのだ。無闇に侯爵様を信じ、今までの全てを明かすなんてこと、絶対にできなかった。
この場から逃げる? それもありだ。でもどうやって?
いくら体が頑丈になってきたとはいえ、侯爵様を突き飛ばして転ばせ、その間に逃げ出すなんていう芸当がわたしにできるだろうか。
無理だ。即座にそう判断する。
だがそれならわたしはどう答えたらいい。どう誤魔化したら――。
しかしその悩みは、侯爵様の一言で霧消することになった。
「答えたくないなら別にそれでいい。悪かった、色々と一気に訊き過ぎたようだな」
「……へ?」
思わぬ言葉をかけられ、思わず変な声を出してしまった。
「きみの役目は王命に従い、俺の仮初の妻でいることだ。それ以上でも以下でもない」
それからすぐに書類に視線を戻し、黙々と作業に戻ってしまう侯爵様。
わたしはなんだか肩透かしを食らったような気分になって、ただ唖然となる。
しかし、どうやら危機を免れたようだ。
侯爵様にとって必要なのは、王命を遂行することらしい。それならわたしの素性が何であろうと、どうでもいいのだろう。
一気に体から力が抜けて、わたしは座り込む。
この屋敷にもう少し滞在していられる。――そのことに、心底ホッとしていたのかも知れない。
「えっと、これはどういうことですか?」
その数日後。
侯爵様のあまりの激変ぶりに、わたしは困惑していた。
なんと今わたしは侯爵様の膝の上に座っているのだ。
侯爵様は何かの資料に目を落としているものの、顔が至近距離にあり過ぎる。
しかもそれだけではない、侯爵様の右手はわたしの金の髪をくるくると弄んでいるのだった。
「逃げられたら困るからな。別に変なことではないだろう」
「でもおかしいです、今までこんなことしてなかったですよね?」
侯爵様はそれ以上何も言ってくれない。
逃亡を防ぐためなら縛ればいいだけでは? もしかして今まで以上にわたしを監視し、うっかりした瞬間に情報を吐かせるため?
わからないがこれでは逃亡は絶対に不可能。
ますます野望が遠ざかっていくばかりなのに、不思議と焦燥感も何もない。
まったりとした時間を過ごしながら、侯爵様のことをじっと観察する。
彼の横顔はとても美しい。
わたしの腹違いの兄たちだって、思わずうっとりしてしまうような貴公子だった。――もちろん暴力を振るってくるのだからいくら容姿が良くても台無しではあったが。
その兄たちと比べ物にならない破壊力を持つのがこのサイモン・フレミングという侯爵様。
目つきが怖いし、何より浮気者だという噂だから減点ではあるけれど、優しいし暴力的ではないので白い結婚の旦那様としてはもったいな過ぎるように思った。
そんな彼でも、こうして抱き込んできたり、髪の毛を勝手に触られるのはいまいち納得がいかない。
熱烈に求婚されたというならともかく、これは白い結婚。そのはずなのに……。
そうして不思議がりながらもわたしは侯爵様のされるがままだった。
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