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第三章
第四十六話 死への願望
しおりを挟むぎしりっと世界が嫌な音を立てて、見えない透明な壁に、亀裂が走る。
それはさながら、綺麗な夜空を見せてくれていた、透明なガラス窓にひびが入ってしまい、恋人と過ごしていたロマンチックな雰囲気から、いきなり見たくもない過酷な現実に引き戻されたような、物語の報われないヒロインになった気分だった。
意地悪な魔女や、義母や、残酷な父親の愛人に普段から酷使され生きることを強いられたヒロインが、手に掴んだほんの束の間の安息。
心優しい妖精か、それともどこかの国の殿下かは分からないが、そんなヒロインの疲れ果てた心を癒してくれた奇跡がいきなり潰されたような、そんな居心地になってしまう。
他の二人は知らなかったが、アニスはまさしくそうだった。
愛していた男性を奪われた瞬間、愛した男性に望まれなくなった瞬間、二人の育んできた愛が否定された瞬間。
あの時まで、サフランは自分の世界の全てを、共に彩る相手だったのだ。
その彼に拒絶されたことで、アニスは世界のありとあらゆるものから、居場所を奪われるような。
心の置き場を締め出されて、きゅうううっと五感が搾り取られてしまい、理性は冷静にそこにあるのに、本能だけがもう、自分はここにいてはいけないのだと思い込ませたあの瞬間。
――似ている、あのときと。でも、これは死を予感する感覚じゃない。どちらかと言えば――
アニスはどこからともなくやってきては、自分の心を苛むその感覚に抗おうとした。
この感覚は一度、打ち勝っているからだ。
あの時、自分のすべてを否定されて消えてしまいたくなったこの感覚。
名づけるとしたら……自殺願望。
そんなものだろうか。
だけど、耐えることはできても、感情というものが普段眠っている瓶の蓋を、ありとあらゆるそれを無理やりこじ開けられたら、耐え切れない、抑えきれないものだって出てきてしまう。
誰かを攻撃したい。
楽になりたい。
誰かに抱きしめられたい。
もう終わってしまいたい。
それ以外に、人にもよるのだろうけれど、あそこに行けばすべて終わるとわかっている場所に手を伸ばし、足を運ぼうとする本能の渇望だけは、どうしても抑えきれないものあがった。
あそことは結界とその向こうにどろどろととめどなく落ちて来る、飴色の焔の波のことだ。
七色に輝くそれはぼうっとなぜか希望に満ち溢れて見えて、手を伸ばせばすぐに触れることができる位置にあった。
触れただけで火傷を負うだろう。そのまま全身が消し炭になるかもしれない。
そんな危険性を理解していてなお、その虹色の輝きは、本能的に触りたいという欲望に駆られた。
アニスは自分でもそうとは理解せず、いつしか手をそこにそっと伸ばそうとする。
するともう一つの手が伸びてきて、アニスの手を絡めるとゆっくりと、引き下ろした。
リンシャウッドだった。彼女がたまたま、その手を伸ばしたら、アニスの手と絡まってしまったのだ。
リンシャウッドは透明な膜の向こう側で、虹色にきらめく溶けた飴のような炎の残骸に、そっと手を触れそうになり、自分の愚かな行為に気づいてはっとなり、その手を慌てて引っ込める。
「何やってるの?」
「いや……ちょっと。綺麗だなって、そう思って」
否定はしなかった。
家事などを行う台所で、鉄製の鍋の蓋などをたまたま火にかけたままにしておくと、いま見ているような光景の小さいバージョンを見ることができる。
家事をしたことがある女性ならば、誰でも一度はやってしまうミスだ。
そして誰もが怪しい加熱された鉄の七彩色に魅入られて、それに素手で触ってしまいそうになる。
大抵は、理性で押しとどめるのだが、全身、それも四方をこの幻惑的な光景で覆われたら、もはや抵抗する気力というものも、失われそうになってしまう。
「わかるわ。私もそうしそうになったから」
「このまま燃やし尽くされて死ぬってのは、いくらなんでも面白くないですねー」
危うく騙されるところだった、と黒狼が小さく呻いた。
面白く無さげに鼻をふん、と鳴らすと、着ているパーカーの裾に吊ってあるバッグから、いくつかの魔石を出し始める。
「そんなものあるなら早く出しなさいよ」
「いや、これはエリオットが使っていたような、魔法を封じたものではないのです。従って、攻撃にも防御にもできません」
「なら、どんな使い方ができるっていうの?」
「魔石そのものの力を応用して、魔力補充とか。普段扱えない魔法の行使に使うとか、あとは召喚魔法とか……」
二人の上から声が降ってきた。
アニスとリンシャウッドは地面にしゃがみこんでいるが、気丈なエリオットはまだ立ったまま、結界を維持することに注力していて、女性陣がそちらを見上げると、その顔には余裕のなさが窺えた。
「正確には魔力補充と、召喚……なんだけど。される側なんですよね、これ」
「されるって意味不明なんだけど!」
「俺としてはこの状況下から早く救われたい!」
エリオットが叫んだ瞬間、天井の一角がパチンっと弾けとんだ。
続いて、飴色の焔の塊がどろどろとそこから降りてくる。
地面に溜まり、じゅうううっと嫌な臭いと黒い煙を吐き出した。
くそっ、とエリオットが魔力を移動してどうにかその隙間を塞ぐと、最後に落ちてきた一滴がリンシャウッドの尻尾の側に勢い付いて飛んでいったらしく、じゅっという音と供に「ヒイイイイッ!」と絹を裂いたような悲鳴が結界に響きわたった。
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