ヤバい奴に好かれてます。

たいら

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 ……喉が痛い。
 完全に昨日は飲み過ぎた。途中から記憶がない。起きたらまた久保田のベッドの上で朝になっていたが、村上と森田はいつ帰ったんだ?
 台風が来たようにめくれ上がっていたシャツを直しながら起き上がった。隣には眼鏡をはずした久保田が寝ている。完全にこの前と同じだ。違うのはベッドの周りにトランプが散らばっていることくらい。
 ……なんでトランプ?
 俺は久保田を起こさずに、冷蔵庫からペットボトルの水を一本貰い、そのまま久保田の家を出た。
 家に帰り、シャワーを浴び、出勤したあともまだ喉は痛かった。これはあれだ。カラオケで歌い過ぎたあとみたいなやつ。風邪じゃない。昨日の俺は大声で歌でも歌っていたのか?
 出勤途中で買ったのど飴を自分のデスクで舐めていると、村上が出勤してきた。しかし、目が合ったはずなのに、村上は俺の横を素通りした。
 ……おかしいな。いつもは挨拶くらいするのに。
 観葉植物に水をやり、コーヒーメーカーを洗浄していると、森田が出勤してきた。森田が珍しく俺のところへ真っ直ぐにやって来た。
「昨日はありがとうございました。とても楽しかったです」
「……え?」
 昨日の俺はお礼を言われるようなことをしたんだろうか?
「また誘ってください」
「……うん」
 誘ったのは俺じゃないけど。
 森田は礼儀正しく頭を下げると、いつの間にか出勤していた久保田のところへ向かった。あの警戒心の強い猫のような森田に頭を下げられるなんて、昨日の俺はいったい何をしたんだ?
 最後に所長が出勤し、朝礼が終わると、営業は全員外に出て行ってしまった。
「野坂くん、ちょっといいかな?」
「……はい」
 いつもはすぐに本社へ行ってしまうのに、珍しく残っていた所長にまた呼び出された。
 ……たぶんあの話だろう。俺は意を決して所長のデスクに向かった。
「そろそろ返事を聞かせてくれるかな? 本社の方からもせっつかれていてね」
「あの……」
 このままここにいたら完全に久保田に取り込まれてしまう。この状況から脱却しなくては。
「とても嬉しかったのですが、このまま契約社員のままでいたいと思います」
「えっ⁉」
 所長が飛び跳ねるほど驚いた。中年太りの丸顔が赤くなり、薄くなった髪の隙間から汗が浮かび上がるのが見えた。
「……ちょ、ちょっと待って、野坂くん」
「どうかしたんですか? 所長」
「こ、困るよ、君に辞められたら」
「え?」
 辞めるなんて言ってない。このまま契約社員でいたいと言ったのに。契約期間だってまだあるのに。
「……き、君にはずっといてもらわなきゃ困るんだよ」
「…………」
「悪いようにはしないから頼むよ。わ、私のためだと思って」
 なんで所長のため?
 所長が突然椅子から降り、床に膝と手を付いた。
「頼むっ‼ お願いだからずっとここにいてくれっ‼ 私の定年まででいいからっ‼」
「はぁ?」
 所長が俺に向かって頭を下げた。何度も何度も壊れたおもちゃのよう頭を下げる。
「お願いだっ‼ 頼むっ‼ 君しかいないんだ、私を救えるのはっ‼」
「ちょ、ちょっと待ってください。どういう意味ですか?」
「訳は聞かないでくれっ! 君がここに居続けてくれればそれでいいんだっ‼ そうすれば久保田くんの怒りが鎮まるんだっ‼」
「…………」
 久保田? なんで久保田?
「頼むっ‼ 訳は聞かないでくれっ‼ 君が残ってくれるなら何も望まない。仕事もしなくていいっ‼ 座っててくれるだけでいいからっ‼」
「そ、そんなの無理……っ!」
「そこをなんとかっ‼」
「…………っ!」
 結局、俺は所長にしがみつかれ、もう一度考えてみると言うまで離してもらえなかった。






「へぇ。所長があなたに直談判したんですか」
 人の家に勝手に上がり、ネクタイをはずし、ワイシャツの上にエプロンをした久保田が、明日の朝ごはんの卵焼きにラップを被せながら言った。
 その横にはラップを被せたほうれん草のおひたしも置かれている。
「……まさか、所長まで脅したのか?」
「脅してなんかいませんよ。ただ所長が過去にしたことについて忘れていませんと言っただけです」
 久保田は冷蔵庫に卵焼きとおひたしを入れると、鍋から皿にじゃがいもを盛り付け始めた。
「なにそれ?」
「所長はあなたの前にいた事務員に対してセクハラを行っていたんです。そのせいで彼女は会社を辞めました」
「…………」
 前の事務員が辞めたのは久保田がいじめたからじゃなかったのか?
「僕は彼女から相談を受け、所長が慰謝料を渡すことで和解させました」
「…………」
「実は所長は、いつも自分の好みの女性を採用していたんです。だから僕が採用担当を変わり、次からは男性を採用したいと思っていました」
 久保田は皿に盛り付けた肉じゃがをテーブルに置いた。
「……それで俺?」
「ええ。たまたまあなたに出会えて良かったです」
「…………」
 俺は笑顔でこちらを振り返った久保田から目をそらした。
「……そ、それでなんで所長は俺に辞めるなって?」
「さぁ?」
 久保田は味噌汁をお椀に盛り付けながら首を傾げる。
「所長は、本社から契約社員を全部正社員するって言われたって言ってたけど、それは……」
「今そんなに景気のいい会社ってあるんですかね? 普通逆ですよね?」
「…………」
「気にすることはありませんよ。所長のことなんて。あなたがいなくなると僕が会社や家族にセクハラの件をバラすと勝手に勘違いしているだけです。所長にかまわず、あなたはあなたのしたいようにしてください」
 久保田は笑顔のままで、両手で丁寧に俺の前に味噌汁を置いた。
「いい仕事、見つけてくださいね」
「…………」
 テーブルの上を見ると、二人分の食事が盛り付けられたお揃いの食器が並んでいた。
 ……お前がやってること所長のセクハラと変わんねーよ! そう言ってやりたいが、久保田のマネキンのような笑顔が怖くて言えなかった。
 ……早く逃げなきゃ。早く。せめて職場だけでも。こいつの手が届かない所へ。
 翌日の朝礼のあと、まだ他の社員が残っている間に所長の元へ行き、もう一度断りを入れた。所長には引きつった顔で引き止められたが俺の心は揺るがなかった。これ以上俺の生活に久保田に入り込まれたくなかったからだ。なんとしても逃げなければ……。
 昼休憩になると、俺は昼食を買いにコンビニへ向かった。おにぎりとサンドイッチを買い込み、コンビニを出ると所長からスマホに電話があった。
「はい」
『……の、野坂くん、い、今から戻って来てくれるかな?』
「え?」
『お、お願いだから……』
 所長の声はまるで誰かに襲われているみたいに震えている。
『い、今すぐ戻ってきて欲しいんだ……』
「……分かりました」
 俺はコンビニの袋を持ち、走って会社に戻った。
 会社に戻ると所長は俺のデスクの前で正座をしていた。戻って来た俺に気が付いた所長は、手を付いて頭を下げた。
「お願いだっ! 野坂くんっ‼ お願いだからっうちの会社に残ると言ってくれっ‼」
「ど、どうしたんですか? 所長?」
「私と私の家族を救うためだと思って……‼」
 所長が床に座ったまま、縋り付いてきて、俺は床に尻餅をついた。
「お願いだよ、野坂くんっ! このままでは私は家族と職と、い、命まで失ってしまうかもしれないんだよ‼」
「……い、命って」
 所長は尻餅をついた俺によじ登るように縋り付いてきて、俺は後ろへ逃げようとしたが、乗っかられる。
「頼むよっ! 久保田くんならやりかねないんだっ! これ以上娘に嫌われたらどうしてくれるんだっ‼」
「……し、知りませんよっ‼ もとはと言えば所長が悪いんでしょっ‼」
「お願いだよっ! 君がこの会社にいてくれれば、久保田くんは誰にもバラさないと言っているんだっ‼」
 所長の血管の浮いたぬらりひょんのようになった形相が目の前に迫った。
「…………っ!」
「君にかかってるんだよっ‼ ねっ⁉」
 俺はなんとか所長の出っ張った腹を足で押し退けると、立ち上がり、自分の鞄を掴んだ。
「そ、早退しますっ‼」
 そう言うとエレベーターに向かって走った。一階から上がって来たエレベーターに乗ろうとすると、ちょうど外回りから戻って来た森田が降りてきた。
「お疲れ様です」
「お疲れ様です!」
 俺は慌ててエレベーターに乗ってボタンを押したが、森田に扉を押さえられてしまった。
「な、なに?」
「野坂さん。絶対に会社辞めないでくださいね」
「はっ⁉」
 なんだよ! お前もかよっ! 俺は閉のボタンをダンッダンッと音を立てて押した。
「じゃないと村上が辞めてしまいます。野坂さんが来てくれたおかげで村上は久保田さんからいびられる回数が減ったんです。野坂さんがいなくなったら村上は会社を辞めてしまいます」
 また久保田かよっ! どいつもこいつも! 結局全部久保田が原因じゃないか!
 やっと森田が手を離し、エレベーターの扉が閉まりだした。
「お願いします」
 扉の隙間から森田が頭を下げる姿が見えた。
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