最後の女

蒲公英

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 秀一が帰宅すると、座卓の上に数学のテキストが広げてあった。広げた本人は、包丁を使っている。シフトに拠る休みで、確か前の週の土曜日に出勤していたと思う。
「おかえりー、ちょっと準備遅れちゃった。すぐできるから、お風呂入ってきて」
 掛けられた声に返事をして、いつも通りに作業ジャンパーを脱ぎ捨てようとして、考え直してハンガーに掛けた。別に手間のかかる行為じゃないし、脱ぎ捨てて放っておけば茜がそうしているのだから、自分でしてもいいのである。何故急に自分でする気になったのかというと、突然今日は茜は休日だと気がついたからだ。契約職員でもフルタイム勤務で、帰宅してからも今まで通り家事を行っている。結婚してからこの方ずっと続いてきたことを、続けているだけだ。
 今まで何故、不思議とも思わなかったのだろう。茜が秀一と生活するようになって、秀一は日常の雑多な面倒から解放された。ゴミ出し、洗濯、クリーニング店への行き返り、部屋は同じ部屋だと思えないほど整頓され、持ち帰り弁当よりもはるかに暖かい食事が用意される。茜が文句も言わずに嬉々として動くものだから、苦にもならないと思っていたのだ。

 大学受験を勧めたのは、秀一だ。茜がいろいろなものを吸収して、これから先の豊かな生活に役立てて欲しいと思った。経済的な豊かさは、秀一には与えてやれない。けれども身の内に蓄える財産ならば、些少なりとも応援できる。自分が勧めたものを妨害しているような、ひどく申し訳ない気分になった。浴槽に浸かりながら、目を閉じる。入浴の習慣をつけたのも茜だ。
 テキストを広げて座卓の前に座っていて、外が暗くなったことに気がつく。もうこんな時間なのだと手を止め、風呂の準備をして夕食の仕度を始めたところで、亭主が帰る。せっかく休日を潰して勉強していたのに、亭主は当然な顔で酒なんか飲む。……自分がやられたら、どうだ? 何様のつもりだ、と腹を立てたりしないか?

 やらせてたじゃないか、と自分の中で声がした。前の結婚のとき、平気な顔でやらせてたじゃないか。自分のほうが少々稼ぎが良い、自分のほうが帰りが遅い、あれは事務職で楽な仕事だがこっちは肉体労働だ。俺は料理も洗濯も得意じゃないが、女なら苦にならないはずだと思ってたじゃないか。あいつは我儘だったか?なあ、思い出せよ。上昇志向ばっかり俺に求めて、自分は何もしてなかったか?
 けして美人でもなく、学歴も高くない女だった。自分には似合いだと思って結婚し、家で母親が行っていた家事は当然女の仕事だと思って、手伝うこともなかった。父親が台所に立つことは日常では目にしていなかったから、当然のように女の仕事だと思っていた。だから、私も働いているのよ、同じだけ疲れるのよと言われたときに、女の仕事だろうと聞こえない振りをした。広めのマンションを買いたいとか、青山の花屋で買った花を飾る生活がしたいとか、それは俺にだけ求めていた言葉だったか? 分不相応に何を言ってやがると思っていたが、俺だけの力でそれをさせろと求められたか。

 いや、違う。あれは仕事を辞めていなかった。自分も努力するから俺も努力してくれと言っていたのだ。あれが残業で遅くなっても、俺は米ひとつ洗ってなかった。ウトウトしているのを尻目に、自分だけ布団に入って寝た。
 なんてこった。勝手なのは俺じゃないか。あれの要望を理解しようともしないで、ただ分不相応な生活ばっかり言い立てる女だと思ってた。
 半ば呆然として風呂に浸かり、脱衣所でタオルを使ったときには大汗を掻いていた。

 居間に戻ると、茜は座卓の前に座り込んでいた。
「ちょっと待っててー。これ確認しないと、次がわかんなくなっちゃう」
 並んでいる数式は、現在の秀一には理解ができない。受験のためにした勉強なんて、社会に出ればあっという間に忘れる。
「おなか空いたよね、ごめんね」
 茜は申し訳なさそうにシャープペンシルを握り、それでもテキストから目を離さない。おそらく秀一が帰宅する直前まで、かなり集中していたのだろう。気がつけば、書き散らした計算用紙が床に散らばっている。
「メシ、できてんだよな?」
「ん。もう少しで終わらせる」
 煙草に火をつけて、テレビをつけようとして思い直した。調理は済んでいるのだから、皿やどんぶりに盛り付ければ食事にできるのだ。食べるばかりになったものが自分の目の前に出されるのを待っているより、茜が座卓の上を片付けると同時にそれを運んだほうが、話が早い。料理はできないが、鍋の中のものを器に移すくらいなら、できる。
 秀一は立ち上がって、鍋の蓋を開けた。中身を確かめ、食器棚から煮物を入れる器を出す。
「秀さん? ごめん、先に食べる?」
 慌てて顔を上げた茜を、座っていろと手で制する。
「あとの準備は俺がするから、そっちを片付けちまえ」
 具材と煮汁のバランスが怪しいながらも盛り付け、洗ってある野菜はフライパンの中のカジキソテーのつけあわせだろうと見当をつけて、皿に載せる。茜が座卓の上を片付けたので、台拭きを絞って手渡した。ついでに発泡酒とグラスもしっかり持ち出したのは、晩酌のためである。

 なんだ。こんなことくらいなら、大して億劫じゃないな。こんなことに手を煩わせて急いた気にさせるより、できるほうがやればいいじゃないか。台所に立ったからって、別に何か減るもんじゃなし。
「ありがとう、ごめんね。もう少し早く終わらせれば良かったんだけど、数Ⅰなんて忘れちゃった」
「気が済むまで、やっていいぞ? こっちは大したことできないんだから」
「ううん、お台所のことまでしてもらっちゃ……」
 茜も食事について、自分の仕事だと認識しているのだ。女ばかりの実家では多分それぞれ台所仕事をしていただろうが、そこに男が入る概念を持っていない。多分、掃除洗濯その他もろもろを含めて。
「俺も食うんだ。どっちがやっても変わりないだろ」
 悪かったな、気がつくのが遅くて。おまえが自立する手助けなんて考える前に、俺がまず自立せにゃならんな。楽を覚えれば怠惰になるのは仕方なくても、自分の惚れた女に犠牲を押し付けるような真似しちゃ、しょうがねえや。
 秀一の口に出さない反省は、晩酌の発泡酒と一緒に飲み込まれた。
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