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番外/飛梅志願(花実同枝)
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東京メトロ千代田線の湯島駅を降り、春日通りに繋がる夫婦坂の下で秀一はベビーカーを畳んだ。坂を上れば天神様の本殿の裏手に出る。本来なら表参道からの参拝が望ましいのであろうが、足の利便を第一に坂からもちらちらと見える梅を楽しみつつ、幸を抱いた茜の足元に気を配る。
風は冷たいが、青い空に白い花が映える晴天だ。普段は静かな境内が、賑やかしく華やかにさんざめいている。梅まつりの湯島天神に訪れたのは、大学と育児の二本立ての茜が煮詰まり気味になっているからだ。 年代は同じはずの同級生たちが、コンパだバイトだと夕方からの予定の相談をする。その中を飛ぶように帰り、保育園に幸を迎えに行くとき、羨ましく思うなとは言えないだろう。幸不幸でなく、ただ持っているものが違うのだと納得はしていても、他人の状況と自分の状況を比較しない人間はいない。それは詮無いことだと知っていながら、楽し気な相談を横目で見ないではいられないのだ。
「たまには友達と遊んできていいんだぞ。保育園の迎えくらい、俺が行けるから」
茜にそう言ったことはある。風呂に入れて、レトルトの離乳食を食べさせるくらいはできる。
「連絡ノートとか書かなくちゃだし、夜のうちに洗濯しないといけないものもあるし。お弁当の下拵えだって。それに秀さんの食べるもの、どうするの?」
「メシなんて、買ってくればいいから」
「お弁当のゴミだって、仕分けしなくちゃいけないんだよ」
「次の日の朝でもいいじゃないか」
「保育園に行く前に、着替えさせて朝ごはん食べさせなくちゃならないのに」
そこまで考えると、秀一では手に余る。つまり茜が遊びに行くためには、事前に自分の仕事を増やすことになるのだ。そこを請け負ってやるとは、秀一には言えない。何故ならば、どこからどこまでが必要事項であるのか理解していないからである。そしてぶっちゃけ、面倒くさい。やっても茜の気に入るようにはできないだろうし、自分が一時間かけて作業することを、茜は三十分でできるのだ。それならば、他の気晴らしを考えてやろうと思った。その結果が本日のお出かけだ。
そして実は、もっと重大な懸案事項がある。幸の世話ならば最悪の場合、茜の母と妹を頼ることはできるし、茜自体が近所のネットワークを構築しつつある。だからそんなに深刻な問題じゃなくて、あくまでも煮詰まった頭を薄めてやる程度で良い。それよりも、明日返事をするはずの、アレだ。
一昨日、つまり金曜日の朝に会議室に呼ばれた秀一は、直属の上司と向かい合った。
「二ヶ月ばかり、行ってくれないかな。ベテランと見込んで、頼むわ」
長期出張の打診だ。結婚したあと子供ができたとあって、会社も一応は気を使っていたらしく、ここ二年は通える範囲の現場しか担当していなかった。一年も経てばもういいだろうと判断されたのだろう。結構断りにくい雰囲気ではある。もとよりビジネス旅館は会社持ちだし、出張手当もつく。独身のときは率先して行っていたものだ。
「ちょっと家の中で調整してきます。行けると思いますけど、月曜でいいですか」
「まあ、母ちゃんが若いから心配だろうけどさ、案外と亭主がいなくてラクだとか言うんじゃないか」
その会話を、まだ茜に言えずにいる。
今現在家の中で秀一がメインにしている子育ては、幸を保育園に送っていくことと風呂に入れることくらいだ。それだって百パーセントじゃないし、逆に自分がいなければ、茜は毎朝弁当なんて作らなくたって良いのだし、洗い物なんかも減って時間ができるかも知れない。自分の役立たずぶりを認めたいわけでもないが、冷静に考えると所得と生活の両方にメリットがあるように思う。週末には帰宅できそうな距離ではあるし、幸の顔を毎日見たいとは思うが、仕事なのだから折り合いはつけなくちゃならない。
そういうわけで、秀一の中では心づもりができているものだ。言えずにいるのは、茜の反応が読めないからというだけ。幸とふたりだけでは心細いと言うかも知れず、その場合は遠くない茜の実家にいてもらったほうが良いと思うが、保育園の送り迎えに支障が出る。茜の母親か妹に頭を下げて、一時的に自分のアパートで暮らしてもらおうかと考えるのは、先走っているのか。
湯島天神天神の境内を、梅を見ながら歩く。幸を抱いた秀一の横に、畳んだベビーカーを持った茜がいる。何かイベントがあるらしく、ステージが設えてある。白い花が気になるらしく、幸は上に手を伸ばした。
「東風吹かば」
空いたベンチを見つけ、茜が腰を下ろした。
「にほひをこせよ梅の花、って。道真公、忘れて欲しくなかったのは、春じゃなくて自分だよね」
「そこを主張しないのは、左遷だからだろ」
「でもさ、梅は置いていかれて我慢できなかったんだよ」
大宰府の飛梅伝説は、諸説あるらしい。道真を慕い過ぎた桜の樹は、葉を落として枯れてしまったとか。
「私も飛んで行くと思う。帰って来ない人を待ってるだけとか、できないもん」
「大体が、そんなに身軽に動けないもんだろ。人間だって仕事とか家庭とかあるんだし、梅だって根っこついてるんだから」
なんだか知らないうちに、言い出していないことを先回りされている気がする。
「そんなこと、動いちゃってから考えればいいじゃない。大事なのって、好きな人のそばにいることでしょ?」
「大事にしてるからこそ、枯れるってリスクを避けるんだろうが」
「結果的に桜の樹は、悲しんで枯れてるじゃない。飛んだ梅は、道真公がまた愛でてくれたのに」
「それでも危ないことには変わりない」
多分この辺が、茜の若さなのだ。自分なら死ぬかも知れない恐怖よりも、悲しみながらの平穏を選ぶ。感想は、口に出た。
「若いな、おまえ」
茜がぷっと膨れた。
「秀さんに若いって言われると、なんか欠点だって言われてる気がする。甘酒買ってくるね」
腕の中の幸が暖かい。紙パックの果汁を出しながら、秀一は思う。若さってのは欠点だと思っていたんだ、確かに。計画が甘く抑制がなく、都合の良い展開だけしか考えようとしない。若さの定義は、それだと思っていた。
じゃあ、茜は俺に決めてしまって子供まで作って、それを後悔の対象にするのか? いや、どうせなら続く幸福だと思わせたい。
最近少しだけ歩くことを覚えた幸が、地面に立ちたがる。靴はどこだ? 慌ててマザーズバッグの中をかき回して、靴を履かせる。歩き出そうとする幸と手を繋ぐと、ベビーカーは置き去りになってしまう。これはどうすればベストなのか。茜、早く戻って来い。
紙コップとおそらくタコヤキの入ったビニール袋を下げた茜は、肩にマザーズバッグをひっかけ、片手にベビーカー片手に幸の手を持った秀一を見て、微笑んだ。
「秀さんなら、私が全部持たなくても大丈夫なんだね」
聞けば、手ぶらで歩くダンナの後ろを、子供もベビーカーも抱えた奥さんが追っていくのを見たと言う。双方普通の顔をしていたから、きっと日常なのだろうと。
「奥さんが大変なのにまったく気が付かない旦那さんと、自分の負担だけが大きいのが当然になっちゃってる奥さん。あんなの気持ち悪い。秀さんで良かった」
褒められたことは悪くないが、自分も同じことをしそうな気がする。そうなる前に茜が、あーしろこーしろと指示してくれているだけ。とりあえず、気をつけなくては。
梅の香りを楽しみながら、緩やかな女坂を降りた。どうせなら本郷まで歩いて、寄ってみたい店があると茜が言う。
「男が入っても恥ずかしくない店か?」
「お煎餅屋さん。店の作りがレトロで可愛いの。お母さんと、秀さんの田舎にも送ろうと思って」
「俺のほうは別にいいぞ?」
「先週、野菜送ってもらったもん。お誕生祝もリクエストないかって」
「そうか。おまえのほうが、実の娘みたいになっちゃってんな。悪いな、実家のつきあいまでやらせちゃって」
都会者で係累のない茜の実家では、知らなかった煩わしさだろうと、秀一は思う。
「お父さんもお母さんも好きだもん。家族が増えたって思う。ただ、聡子さんが妹だとは思えないよ」
秀一の妹は、茜よりも二十も年上だ。年の離れた姉、もしくは親戚のオバサンだと思っておけば良いと、秀一は笑った。
とても懐かしいガラスケースのある煎餅の店で、茜は梅の花の形の煎餅を求めた。二十枚ずつ包装紙に包んでもらい、家で食べるためのものと合わせると、結構な嵩になる。それをS字フックでベビーカーに下げたあと、茜はふと秀一を振り返った。
「秀さん、出張なんでしょ? 昨日先輩からメールがあった。春休みに入るから、私も行こうかな」
「お決まりのビジネス旅館だ。四月になれば学校も始まるだろ」
「休学してもいい」
「バカ言え。出張のたびに休んでたら、卒業までに何年掛けるつもりだ」
「二ヶ月じゃ済みそうもないって情報。関連物件の入札してるみたい」
こういう情報は、事務方のほうが強かったりする。
「決定じゃないじゃないか。毎週末帰るつもりだし、連休もある」
「だって」
「だってじゃない。それより出張手当で、欲しがってたレンジ買え」
口を尖らせた茜を宥めるべく、本郷三丁目の交差点で洋菓子を買う。
「さっちゃん、毎日できること増えてるのに。週に二日しか会わないと、忘れられちゃうんだから」
「それを言うなよ。俺だって喜び勇んで行くわけじゃないぞ」
内心ひどく不満そうだが、どうにか表情を取り繕ってくれる茜に、秀一は感謝しなくてはならない。
本郷三丁目の交差点から折り返し、幸が疲れる前に帰ることにする。小さい子供と一緒では、カフェだウィンドウショッピングだとは言えず、その辺が茜の周辺の年相応の行動と違うところだ。
「ちょっと一人で残ってブラブラしてくか? 先に幸連れて帰ってもいいぞ」
「やだ、寂しい。でも、晩ご飯はエキナカでトンカツ買っていい? 作るの億劫になっちゃった」
「構わないが、たまには服とか見たいんじゃないのか」
「通販でチェックしてるから、いいの。たまのお出かけなんだから、ひとりで別行動なんてしたくない」
そう言われたら言われたで、それも尤もな気がする。そしてなんとなーく不機嫌な(理由は知ってる)茜と一緒に、地下鉄に乗った。
帰宅してすぐ、茜は風呂の支度をした。先に幸の入浴を済ませてから、ゆっくりしようという思惑である。
「私も少しだけビール飲む。枝豆解凍しとこうかな」
「ああ、頼む」
秀一が風呂で身体を洗い終わったころ、裸になった幸を渡される。その小さな身体を洗い、湯船に浮かべた小さな玩具で遊ばせていると、茜がバスタオルを広げて受け取りに来る。ちなみに、逆はない。幸の着替えを用意するのも白湯なんか用意するのも風呂上がりにオイルを塗るのも、すべて茜の仕事だ。だから秀一は、幸を茜に渡してしまえば好きなだけ湯船に浸かっていられる。
ああ、茜が夜に外出するとなれば、その準備も自分なのか。まず幸の身体を拭いてから着せて、脱衣所に座らせたまま自分の下着を…… いや、おとなしくなんて座ってないぞ、ヤツは。俺がいないとき、茜はどうしてんだ?
結局、茜を遊びになんて行かせてやれない。具合が悪くても近くにいてくれれば、質問しながら家事はできる。けれどもまったく独力でなんて、絶対ムリ。
そうして実に認めたくないことを、認めなくてはならない。自分は生活に於いて、おそろしく無能者である。独身のときは買って来た弁当を仕分けもせずにゴミに出し、洗濯物はハンガーに干したままそこから取って着ていた。埃じゃ死なないから、掃除なんてしなかった。それは自分だけだからできたことで、同居人がいる今は通用しない。ましてそのうちの一名は、こちらが手助けしなくては死んでしまうのだ。
ヤバい、と改めて思った。たとえば茜が入院でもしたら、幸を抱えたまま途方に暮れる自分が見える。8これはすごく、すごーくヤバい。息抜きさせるどころじゃない。
思ったより長く考え込んでいたらしい。髪を拭きながら居間に出ると、幸はもうエプロンを着けて食事を待っていた。座卓の上の大人用の皿に手を出せないように、子供用の食事ラックが用意されている。形だけは一緒に食事だが、これもやはり茜が自分を後回しにして食べさせてやっているのだ。少しビールを飲むなんて言って、出すだけ出したグラスは暖まってしまっている。そんなことに気がついてしまったら、冷蔵庫からもう一本出そうと立ち上がりかけた秀一の動きが止まった。
「秀さん、焼酎?」
「ああ、いや、幸が寝てからにする。メシは俺が食わせるから、茜も食っちまえ」
「ありがと。おなか空いてた!」
秀一にスプーンを渡すと、茜は箸を取った。絶賛手づかみ食いの幸がスティック野菜を振り回す合間に、隙を見て口に運んでやる。
「おい、幸が食べながら寝てるぞ」
「疲れちゃったかな? さっちゃん、お口とおてて拭いて、寝ちゃおっか」
「俺が寝かせてくる。茜はメシ食って、風呂に入ってていいぞ」
寝ぐずっているならともかく、半分寝ている赤子を寝かしつけるくらいは、手伝える。
そうして幸に添い寝しているうちに、自分も寝てしまっていたらしい。ウトウトと夢を見た。
何やら生活用品の入ったスーパーマーケットのビニール袋、いつものマザーズバッグを両手に持った茜が、空を仰いでいる。胸にはサラシがバッテンの形で結ばれ(バッテンになっても、茜の胸は飛び出ない)背中に幸を背負っていることがわかる。
「急いで行かないと、パパが大変。お弁当作ってあげなくちゃ! さっちゃんも、だっこしてもらわなくちゃ。洗濯物だって、溜めちゃうんだから」
いや、週末ごとに帰るって言ったじゃないか。秀一の言葉は聞こえないらしい。
「行くよ、さっちゃん! 落ちないようにちゃんとママにつかまって!」
そして、ホップ・ステップ……
「待て! 危ない!」
そこで目が覚めた。
目が覚めると、隣に幸がいない。慌てて居間に戻ると、幸をバッテンおんぶした茜が、まだ夕食の洗い物をしていた。夢と同じスタイルであることに、混乱した。
「飛ぶな、危ない! 週末ごとに帰って来るって約束するから!」
「寝惚けてんの、秀さん。どこに飛ぶの?」
茜は呆れた顔で言い、背中の幸を揺すった。
「さっちゃん寝かせるつもりで、秀さんが寝ちゃうんだもん。起きてきちゃったから、おんぶで寝かせたとこ」
「……悪い」
寝かせつけにまで、役立たずである。これで茜に遊びに行けとか、ちゃんちゃらおかしい。
「なかなか、気晴らしさせてやれないな」
翌日の弁当の米を研ぎ終え、茜は笑った。
「秀さん、なんか誤解してない? 確かに夜遊びしてるのが羨ましいとは思うけど、それって隣の家が新しいテレビを買ったくらいの羨ましさだよ」
それから幸を背中から下ろして布団に運び、茜は風呂に入って行った。
先に焼酎に切り替え、テレビを眺めながら眠くなってきたところで、茜が缶ビールを持ち出してきた。
「考えたんだけどね、春休みに短期のアルバイトする。秀さんは、週末は必ず帰って来ないとダメ。じゃないと、さっちゃんとおしかけるよ」
「心配しなくても、帰って来るから。それから、なんでバイトなんかするんだ」
「学校の子と話してると、私だけ自立してない気がするんだもん。運転免許とかお洋服とか、みんな自分で働いてお金出してるのに、私は秀さんから貰ってて」
「主婦が仕事だろ」
「でも所得的にはインアウトで言えば、全部アウトだもん。私もインしたい」
茜が煮詰まっていたのは、どうもそっちらしい。
「幸に負担にならないように、保育園の時間は考えろよ」
それしか言えない。茜の学費とこれから先の家族分の生活費を考えれば、実は茜が自分の小遣いを調達してくれるのは、助かるのだ。
「ところで、さっき言ってた飛ぶなって、何?」
「夢だよ、夢。飛梅の話なんかしてたから」
「私が飛梅になるって話? あれ、本気だからね」
「幸がいるのにか」
「さっちゃんも一緒に飛ぶ。実った枝なんだから」
秀一の頭の中に夢で見た茜が蘇り、感謝したいのか呆れたいのか、複雑な気分になる。若い母ちゃんはやはり若い母ちゃんで、中年はやはり中年なのである。
「長期で家を空けて、悪いな」
「職場結婚だったんだよ、秀さん。私が我儘言ってみただけ。それよりも、長いこと放っておいて浮気の心配とか、しないの?」
「するのか」
茜はビールを一気に飲み干した。
「浮気されたくなかったら、帰ってくるたびに確認してね。疲れたとか眠いっていうの、ナシだよ」
そしていそいそと、秀一のパジャマのボタンを外しはじめた。
fin
風は冷たいが、青い空に白い花が映える晴天だ。普段は静かな境内が、賑やかしく華やかにさんざめいている。梅まつりの湯島天神に訪れたのは、大学と育児の二本立ての茜が煮詰まり気味になっているからだ。 年代は同じはずの同級生たちが、コンパだバイトだと夕方からの予定の相談をする。その中を飛ぶように帰り、保育園に幸を迎えに行くとき、羨ましく思うなとは言えないだろう。幸不幸でなく、ただ持っているものが違うのだと納得はしていても、他人の状況と自分の状況を比較しない人間はいない。それは詮無いことだと知っていながら、楽し気な相談を横目で見ないではいられないのだ。
「たまには友達と遊んできていいんだぞ。保育園の迎えくらい、俺が行けるから」
茜にそう言ったことはある。風呂に入れて、レトルトの離乳食を食べさせるくらいはできる。
「連絡ノートとか書かなくちゃだし、夜のうちに洗濯しないといけないものもあるし。お弁当の下拵えだって。それに秀さんの食べるもの、どうするの?」
「メシなんて、買ってくればいいから」
「お弁当のゴミだって、仕分けしなくちゃいけないんだよ」
「次の日の朝でもいいじゃないか」
「保育園に行く前に、着替えさせて朝ごはん食べさせなくちゃならないのに」
そこまで考えると、秀一では手に余る。つまり茜が遊びに行くためには、事前に自分の仕事を増やすことになるのだ。そこを請け負ってやるとは、秀一には言えない。何故ならば、どこからどこまでが必要事項であるのか理解していないからである。そしてぶっちゃけ、面倒くさい。やっても茜の気に入るようにはできないだろうし、自分が一時間かけて作業することを、茜は三十分でできるのだ。それならば、他の気晴らしを考えてやろうと思った。その結果が本日のお出かけだ。
そして実は、もっと重大な懸案事項がある。幸の世話ならば最悪の場合、茜の母と妹を頼ることはできるし、茜自体が近所のネットワークを構築しつつある。だからそんなに深刻な問題じゃなくて、あくまでも煮詰まった頭を薄めてやる程度で良い。それよりも、明日返事をするはずの、アレだ。
一昨日、つまり金曜日の朝に会議室に呼ばれた秀一は、直属の上司と向かい合った。
「二ヶ月ばかり、行ってくれないかな。ベテランと見込んで、頼むわ」
長期出張の打診だ。結婚したあと子供ができたとあって、会社も一応は気を使っていたらしく、ここ二年は通える範囲の現場しか担当していなかった。一年も経てばもういいだろうと判断されたのだろう。結構断りにくい雰囲気ではある。もとよりビジネス旅館は会社持ちだし、出張手当もつく。独身のときは率先して行っていたものだ。
「ちょっと家の中で調整してきます。行けると思いますけど、月曜でいいですか」
「まあ、母ちゃんが若いから心配だろうけどさ、案外と亭主がいなくてラクだとか言うんじゃないか」
その会話を、まだ茜に言えずにいる。
今現在家の中で秀一がメインにしている子育ては、幸を保育園に送っていくことと風呂に入れることくらいだ。それだって百パーセントじゃないし、逆に自分がいなければ、茜は毎朝弁当なんて作らなくたって良いのだし、洗い物なんかも減って時間ができるかも知れない。自分の役立たずぶりを認めたいわけでもないが、冷静に考えると所得と生活の両方にメリットがあるように思う。週末には帰宅できそうな距離ではあるし、幸の顔を毎日見たいとは思うが、仕事なのだから折り合いはつけなくちゃならない。
そういうわけで、秀一の中では心づもりができているものだ。言えずにいるのは、茜の反応が読めないからというだけ。幸とふたりだけでは心細いと言うかも知れず、その場合は遠くない茜の実家にいてもらったほうが良いと思うが、保育園の送り迎えに支障が出る。茜の母親か妹に頭を下げて、一時的に自分のアパートで暮らしてもらおうかと考えるのは、先走っているのか。
湯島天神天神の境内を、梅を見ながら歩く。幸を抱いた秀一の横に、畳んだベビーカーを持った茜がいる。何かイベントがあるらしく、ステージが設えてある。白い花が気になるらしく、幸は上に手を伸ばした。
「東風吹かば」
空いたベンチを見つけ、茜が腰を下ろした。
「にほひをこせよ梅の花、って。道真公、忘れて欲しくなかったのは、春じゃなくて自分だよね」
「そこを主張しないのは、左遷だからだろ」
「でもさ、梅は置いていかれて我慢できなかったんだよ」
大宰府の飛梅伝説は、諸説あるらしい。道真を慕い過ぎた桜の樹は、葉を落として枯れてしまったとか。
「私も飛んで行くと思う。帰って来ない人を待ってるだけとか、できないもん」
「大体が、そんなに身軽に動けないもんだろ。人間だって仕事とか家庭とかあるんだし、梅だって根っこついてるんだから」
なんだか知らないうちに、言い出していないことを先回りされている気がする。
「そんなこと、動いちゃってから考えればいいじゃない。大事なのって、好きな人のそばにいることでしょ?」
「大事にしてるからこそ、枯れるってリスクを避けるんだろうが」
「結果的に桜の樹は、悲しんで枯れてるじゃない。飛んだ梅は、道真公がまた愛でてくれたのに」
「それでも危ないことには変わりない」
多分この辺が、茜の若さなのだ。自分なら死ぬかも知れない恐怖よりも、悲しみながらの平穏を選ぶ。感想は、口に出た。
「若いな、おまえ」
茜がぷっと膨れた。
「秀さんに若いって言われると、なんか欠点だって言われてる気がする。甘酒買ってくるね」
腕の中の幸が暖かい。紙パックの果汁を出しながら、秀一は思う。若さってのは欠点だと思っていたんだ、確かに。計画が甘く抑制がなく、都合の良い展開だけしか考えようとしない。若さの定義は、それだと思っていた。
じゃあ、茜は俺に決めてしまって子供まで作って、それを後悔の対象にするのか? いや、どうせなら続く幸福だと思わせたい。
最近少しだけ歩くことを覚えた幸が、地面に立ちたがる。靴はどこだ? 慌ててマザーズバッグの中をかき回して、靴を履かせる。歩き出そうとする幸と手を繋ぐと、ベビーカーは置き去りになってしまう。これはどうすればベストなのか。茜、早く戻って来い。
紙コップとおそらくタコヤキの入ったビニール袋を下げた茜は、肩にマザーズバッグをひっかけ、片手にベビーカー片手に幸の手を持った秀一を見て、微笑んだ。
「秀さんなら、私が全部持たなくても大丈夫なんだね」
聞けば、手ぶらで歩くダンナの後ろを、子供もベビーカーも抱えた奥さんが追っていくのを見たと言う。双方普通の顔をしていたから、きっと日常なのだろうと。
「奥さんが大変なのにまったく気が付かない旦那さんと、自分の負担だけが大きいのが当然になっちゃってる奥さん。あんなの気持ち悪い。秀さんで良かった」
褒められたことは悪くないが、自分も同じことをしそうな気がする。そうなる前に茜が、あーしろこーしろと指示してくれているだけ。とりあえず、気をつけなくては。
梅の香りを楽しみながら、緩やかな女坂を降りた。どうせなら本郷まで歩いて、寄ってみたい店があると茜が言う。
「男が入っても恥ずかしくない店か?」
「お煎餅屋さん。店の作りがレトロで可愛いの。お母さんと、秀さんの田舎にも送ろうと思って」
「俺のほうは別にいいぞ?」
「先週、野菜送ってもらったもん。お誕生祝もリクエストないかって」
「そうか。おまえのほうが、実の娘みたいになっちゃってんな。悪いな、実家のつきあいまでやらせちゃって」
都会者で係累のない茜の実家では、知らなかった煩わしさだろうと、秀一は思う。
「お父さんもお母さんも好きだもん。家族が増えたって思う。ただ、聡子さんが妹だとは思えないよ」
秀一の妹は、茜よりも二十も年上だ。年の離れた姉、もしくは親戚のオバサンだと思っておけば良いと、秀一は笑った。
とても懐かしいガラスケースのある煎餅の店で、茜は梅の花の形の煎餅を求めた。二十枚ずつ包装紙に包んでもらい、家で食べるためのものと合わせると、結構な嵩になる。それをS字フックでベビーカーに下げたあと、茜はふと秀一を振り返った。
「秀さん、出張なんでしょ? 昨日先輩からメールがあった。春休みに入るから、私も行こうかな」
「お決まりのビジネス旅館だ。四月になれば学校も始まるだろ」
「休学してもいい」
「バカ言え。出張のたびに休んでたら、卒業までに何年掛けるつもりだ」
「二ヶ月じゃ済みそうもないって情報。関連物件の入札してるみたい」
こういう情報は、事務方のほうが強かったりする。
「決定じゃないじゃないか。毎週末帰るつもりだし、連休もある」
「だって」
「だってじゃない。それより出張手当で、欲しがってたレンジ買え」
口を尖らせた茜を宥めるべく、本郷三丁目の交差点で洋菓子を買う。
「さっちゃん、毎日できること増えてるのに。週に二日しか会わないと、忘れられちゃうんだから」
「それを言うなよ。俺だって喜び勇んで行くわけじゃないぞ」
内心ひどく不満そうだが、どうにか表情を取り繕ってくれる茜に、秀一は感謝しなくてはならない。
本郷三丁目の交差点から折り返し、幸が疲れる前に帰ることにする。小さい子供と一緒では、カフェだウィンドウショッピングだとは言えず、その辺が茜の周辺の年相応の行動と違うところだ。
「ちょっと一人で残ってブラブラしてくか? 先に幸連れて帰ってもいいぞ」
「やだ、寂しい。でも、晩ご飯はエキナカでトンカツ買っていい? 作るの億劫になっちゃった」
「構わないが、たまには服とか見たいんじゃないのか」
「通販でチェックしてるから、いいの。たまのお出かけなんだから、ひとりで別行動なんてしたくない」
そう言われたら言われたで、それも尤もな気がする。そしてなんとなーく不機嫌な(理由は知ってる)茜と一緒に、地下鉄に乗った。
帰宅してすぐ、茜は風呂の支度をした。先に幸の入浴を済ませてから、ゆっくりしようという思惑である。
「私も少しだけビール飲む。枝豆解凍しとこうかな」
「ああ、頼む」
秀一が風呂で身体を洗い終わったころ、裸になった幸を渡される。その小さな身体を洗い、湯船に浮かべた小さな玩具で遊ばせていると、茜がバスタオルを広げて受け取りに来る。ちなみに、逆はない。幸の着替えを用意するのも白湯なんか用意するのも風呂上がりにオイルを塗るのも、すべて茜の仕事だ。だから秀一は、幸を茜に渡してしまえば好きなだけ湯船に浸かっていられる。
ああ、茜が夜に外出するとなれば、その準備も自分なのか。まず幸の身体を拭いてから着せて、脱衣所に座らせたまま自分の下着を…… いや、おとなしくなんて座ってないぞ、ヤツは。俺がいないとき、茜はどうしてんだ?
結局、茜を遊びになんて行かせてやれない。具合が悪くても近くにいてくれれば、質問しながら家事はできる。けれどもまったく独力でなんて、絶対ムリ。
そうして実に認めたくないことを、認めなくてはならない。自分は生活に於いて、おそろしく無能者である。独身のときは買って来た弁当を仕分けもせずにゴミに出し、洗濯物はハンガーに干したままそこから取って着ていた。埃じゃ死なないから、掃除なんてしなかった。それは自分だけだからできたことで、同居人がいる今は通用しない。ましてそのうちの一名は、こちらが手助けしなくては死んでしまうのだ。
ヤバい、と改めて思った。たとえば茜が入院でもしたら、幸を抱えたまま途方に暮れる自分が見える。8これはすごく、すごーくヤバい。息抜きさせるどころじゃない。
思ったより長く考え込んでいたらしい。髪を拭きながら居間に出ると、幸はもうエプロンを着けて食事を待っていた。座卓の上の大人用の皿に手を出せないように、子供用の食事ラックが用意されている。形だけは一緒に食事だが、これもやはり茜が自分を後回しにして食べさせてやっているのだ。少しビールを飲むなんて言って、出すだけ出したグラスは暖まってしまっている。そんなことに気がついてしまったら、冷蔵庫からもう一本出そうと立ち上がりかけた秀一の動きが止まった。
「秀さん、焼酎?」
「ああ、いや、幸が寝てからにする。メシは俺が食わせるから、茜も食っちまえ」
「ありがと。おなか空いてた!」
秀一にスプーンを渡すと、茜は箸を取った。絶賛手づかみ食いの幸がスティック野菜を振り回す合間に、隙を見て口に運んでやる。
「おい、幸が食べながら寝てるぞ」
「疲れちゃったかな? さっちゃん、お口とおてて拭いて、寝ちゃおっか」
「俺が寝かせてくる。茜はメシ食って、風呂に入ってていいぞ」
寝ぐずっているならともかく、半分寝ている赤子を寝かしつけるくらいは、手伝える。
そうして幸に添い寝しているうちに、自分も寝てしまっていたらしい。ウトウトと夢を見た。
何やら生活用品の入ったスーパーマーケットのビニール袋、いつものマザーズバッグを両手に持った茜が、空を仰いでいる。胸にはサラシがバッテンの形で結ばれ(バッテンになっても、茜の胸は飛び出ない)背中に幸を背負っていることがわかる。
「急いで行かないと、パパが大変。お弁当作ってあげなくちゃ! さっちゃんも、だっこしてもらわなくちゃ。洗濯物だって、溜めちゃうんだから」
いや、週末ごとに帰るって言ったじゃないか。秀一の言葉は聞こえないらしい。
「行くよ、さっちゃん! 落ちないようにちゃんとママにつかまって!」
そして、ホップ・ステップ……
「待て! 危ない!」
そこで目が覚めた。
目が覚めると、隣に幸がいない。慌てて居間に戻ると、幸をバッテンおんぶした茜が、まだ夕食の洗い物をしていた。夢と同じスタイルであることに、混乱した。
「飛ぶな、危ない! 週末ごとに帰って来るって約束するから!」
「寝惚けてんの、秀さん。どこに飛ぶの?」
茜は呆れた顔で言い、背中の幸を揺すった。
「さっちゃん寝かせるつもりで、秀さんが寝ちゃうんだもん。起きてきちゃったから、おんぶで寝かせたとこ」
「……悪い」
寝かせつけにまで、役立たずである。これで茜に遊びに行けとか、ちゃんちゃらおかしい。
「なかなか、気晴らしさせてやれないな」
翌日の弁当の米を研ぎ終え、茜は笑った。
「秀さん、なんか誤解してない? 確かに夜遊びしてるのが羨ましいとは思うけど、それって隣の家が新しいテレビを買ったくらいの羨ましさだよ」
それから幸を背中から下ろして布団に運び、茜は風呂に入って行った。
先に焼酎に切り替え、テレビを眺めながら眠くなってきたところで、茜が缶ビールを持ち出してきた。
「考えたんだけどね、春休みに短期のアルバイトする。秀さんは、週末は必ず帰って来ないとダメ。じゃないと、さっちゃんとおしかけるよ」
「心配しなくても、帰って来るから。それから、なんでバイトなんかするんだ」
「学校の子と話してると、私だけ自立してない気がするんだもん。運転免許とかお洋服とか、みんな自分で働いてお金出してるのに、私は秀さんから貰ってて」
「主婦が仕事だろ」
「でも所得的にはインアウトで言えば、全部アウトだもん。私もインしたい」
茜が煮詰まっていたのは、どうもそっちらしい。
「幸に負担にならないように、保育園の時間は考えろよ」
それしか言えない。茜の学費とこれから先の家族分の生活費を考えれば、実は茜が自分の小遣いを調達してくれるのは、助かるのだ。
「ところで、さっき言ってた飛ぶなって、何?」
「夢だよ、夢。飛梅の話なんかしてたから」
「私が飛梅になるって話? あれ、本気だからね」
「幸がいるのにか」
「さっちゃんも一緒に飛ぶ。実った枝なんだから」
秀一の頭の中に夢で見た茜が蘇り、感謝したいのか呆れたいのか、複雑な気分になる。若い母ちゃんはやはり若い母ちゃんで、中年はやはり中年なのである。
「長期で家を空けて、悪いな」
「職場結婚だったんだよ、秀さん。私が我儘言ってみただけ。それよりも、長いこと放っておいて浮気の心配とか、しないの?」
「するのか」
茜はビールを一気に飲み干した。
「浮気されたくなかったら、帰ってくるたびに確認してね。疲れたとか眠いっていうの、ナシだよ」
そしていそいそと、秀一のパジャマのボタンを外しはじめた。
fin
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