恋人が出て行った

すずかけあおい

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恋人が出て行った③

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 素史が出て行って一か月半が経った。片付けがかなり進んで部屋がすっきりしてきた。対照的に心の中がどんどんぐちゃぐちゃになっていく。どうしたらいいかわからない。力が抜けて、リビングダイニングの床に座り込んで俯く。

「…もう、だめかもしれない…」

 立ち上がり方もわからなくなりそうだ。
 カチャ、と玄関の鍵を開ける音がして顔を上げる。ドアが開閉、足音。

「なに…?」

 誰…?

「ただいま」

 …………。

「…………素史?」

 スポーツバッグを床に置きながら、素史が首を傾げる。

「うん。なに、どうしたの?」
「素史こそどうしたの…? 忘れ物?」
「え? てか、なんか部屋すっきりしてない?」

 え? え? え?
 なに? どういうこと?

 混乱する俺の前に素史がしゃがみ、俺の両手を取って引っ張る。その勢いで立ち上がった。立ち上がったのはいいけどまだ疑問符と混乱。

「座り込んで、どうしたの?」
「どうしたって……」
「片付け? 手伝おっか?」

 微笑む素史は本当に素史だ。俺の手を握っているのは、確かに実体。幻覚じゃない。

「え? え? どういうこと?」

 わけがわからないんだけど。

「出て行ったんじゃないの?」

 素史が首を傾げる。

「? 旅に出ますって書いたよね? 旅なら帰ってくるに決まってるじゃん」
「………」

 ぽかんとする俺の手を、ぎゅっと握り直す素史。その手の温もりに、この一か月半で固まって閉ざしてしまった心が解けていく。

「千温…俺、千温とずっと一緒にいて、感謝の気持ちを忘れてる自分に気付いた」
「……?」

 感謝…? いきなりなに?

「感謝してもらうようなことなんてしてないけど…」
「そういうところ、千温のいいとこで悪いとこ」

 苦笑する素史。その表情がすごく優しくて、ああ…素史だ、と思った。

「それで少しの時間、千温と離れて千温の存在の大切さをきちんと理解する必要があると思って旅に出たんだ」
「そんな…まさかあぶないことしてないよね?」
「うん。友達のところ転々として千温の可愛さを自慢して回ってただけ。仕事もちゃんと行ってたよ」
「……探さないでくださいって」

 あれは帰ってくるつもりがないってことじゃ…?

「だから、友達のところだから探されたらすぐ見つかっちゃうから。ちゃんとしてからじゃないと帰れないのに、見つかったら意味がない」
「俺、素史のお友達の連絡先なんて知らないよ」
「そうだっけ」

 なんて言うか……もう…もう…!

「? 千温?」
「……他に好きな人ができたんじゃないの?」
「俺の好きな人は千温だけだよ?」
「………」

 頭の中の整理がつかない。今聞いた話をもう一度脳内で繰り返す。混乱が収まるより先に涙がぼろぼろ零れ落ちた。俺が突然泣き出したことに素史が慌てている様子がぼやけて見える。

「素史のばか! 他に好きな人ができて出て行ったんだとばっかり…」
「え、そんなこと一言も書かなかったよね?」
「………」

 はい、書いてありませんでした。俺が勝手に想像して作った話です。
 でも…! そう思うに決まってるじゃん! あんな風に書き置きなんて残されたら、そう思っちゃうじゃん!

「だって、あんな書き方されたらそう思うよ!」
「色々文面考えたんだけど、変な書き方すると千温が心配すると思って。だから簡潔にわかりやすく要点のみ」
「……なにそれ」

 充分誤解を招く書き方だったよ…。こういうところ、素史らしいって言えば素史らしいんだけど…気付かなかった俺も俺なんだけど…!

「千温以外を好きになんてなれないよ。相変わらず思い込み激しいんだから」

 少し強引に抱き寄せられて、素史のにおいを感じる。夢じゃないだろうか。俺が素史の背中に腕を回したら、さらさらと砂のように崩れて消えてしまわないだろうか。怖くて怖くて、でも抱き締めたい。
 恐る恐る腕を伸ばして素史を抱き締めるけれど、消えなかった。確かに素史が帰ってきた。

「……素史のばかぁ…」

 腕の中でわんわん泣く俺を、よしよしと宥めてくれるのが優しくて嬉しくて。…少し腹も立って。

「そういうわけのわからないことは、俺のそばでやってよ! 素史こそ、考え込むと考えすぎておかしなこと思い付くんだから…!」

 素史に、ばかばかと繰り返しぶつける。本当は、今こうやって抱き締めてくれている、それだけでいいはずなのに。

「うん、ごめん…。でも俺、年上なのに千温のそばにいると甘えちゃうんだ。だからさ…」
「素史のばかぁ…!」
「ごめん…。今日の千温はいつも以上に可愛いね」
「なんで嬉しそうなの! 反省してよ…ばかぁ…!」

 素史にぎゅうっと抱きついて涙を流し、背中を軽くとんとんと叩いてくれるリズムに瞼を下ろす。
 素史…素史…素史…!!

「千温、いつも本当にありがとう。俺なんかのそばにいてくれて、愛してくれて、全部全部ありがとう」

 優しい「ありがとう」に顔を上げると、少し照れたような素史の表情に胸が高鳴る。前髪をよけて、おでこに優しくキスをされて心が蕩けてしまう。

「……素史は“なんか”じゃない。俺は“なんか”だけど」
「千温は自己評価が低すぎ。すごくすごくかっこいい男なのに。俺が生きる意味も目標も千温なんだから」

 かっこいい…かっこいい? 俺が?

「………素史、鏡見たことある?」
「持ってこようか。世界で一番かっこいい千温が映るよ」
「いい。絶対映らない」

 俺なんかがかっこいいわけない。どうかしちゃったんじゃないの、素史。…いや、素史はいつもこんな感じか。
 涙が収まって、ぐずぐずくらいになってきた俺の髪を素史が撫でてくれる。この優しい手の感覚も恋しかった。

「……見た目以外のところもだよ」
「……?」

 どういう意味?と首を傾げる俺に、素史が前髪をよけておでこにまたキスをくれた。くすぐったい。俺が少し笑うと、素史が安心したように目を細めた。

「千温の好きな、駅前の洋食屋さんのオムライス、テイクアウトで買ってきたんだ。温め直して食べよう?」

 俺が頷くと、素史がふわっと微笑んだ。もう一度髪を撫でてくれる。

「待ってて。着替えてくる」

 部屋に行く素史の背中を見て、ほっと力が抜けた。

「……なんなんだよ、もう…」

 思わず笑いがこみ上げた。本当にもう…ばかなんだから。

「えっ!?」
「!?」

 突然、素史の大きな声が聞こえた。なに!?と思って素史の部屋に行くと、素史が部屋の入り口で突っ立っている。

「素史?」
「千温…」
「どうしたの?」

 素史が俺のほうを見て、部屋の中をもう一度見る。それからまた俺を見て。

「部屋の中、なんもないんだけど…」
「あ…」


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