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奈津江 Ⅱ
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翌日、俺たちは西陣会館に向かった。
奈津江が手配してくれたのだが、この時期、無料で着物を貸してくれるらしい。
着付けもしてくれる。
奈津江に言われ、襦袢だけは用意してきた。
俺たちはそれを抱えて会館へ入る。
艶やかな振袖に髪を結った奈津江は、びっくりするくらい綺麗だった。
「ねぇ、どう?」
「死んでもいいや」
「なにそれ?」
奈津江は笑って俺の腹をつつく。
俺たちは着物を着て、哲学の道を歩いた。
途中、「ちろりん茶漬け」というヘンな名前の店を見つけ、面白がった奈津江が入りたがった。
案外美味かった。
哲学の道は、つまらなかった。
俺が正直に言うと
「高虎は詫び寂びが無いよね」
と言った。
自分だってつまらなそうにしていたくせに。
次に向かったのは蛤門だった。
奈津江のテンションは最高で、俺にそこの歴史を話し出す。
「ほら、ここの瑕! これは……」
俺は説明を聞きながら、奈津江の姿ばかり見ていた。
百も教えてくれただろう説明の、一つも今は思い出せない。
その晩も俺たちはまた手を握って眠り、昼頃の新幹線で東京へ戻った。
「高虎、ねぇ、高虎!」
奈津江の声が聞こえる。
俺は意識が薄れる中で、闇の中で奈津江の手を探った。
気がつくと、病院のベッドで寝ていた。
横にはお袋がいて、心配そうに俺を見ている。
「気分はどう?」
もうなんともなかった。
突然意識を喪ったようだ。
大学の食堂で奈津江と食事をし、出ようとした瞬間だった。
倒れる俺を、奈津江が小さな身体で支え、半狂乱で俺に呼びかけていたらしい。
すぐに救急車が呼ばれ、俺は東大病院ではない別な病院に運ばれた。
「すぐ目の前に病院があるのにねぇ」
お袋は少し怒りながら言った。
「奈津江は?」
「さっきまでいたけど、一度家に帰ってもらったわ」
今は深夜2時だった。
タクシーで帰ったのだろうか。
「お兄さんが迎えにきてくれたのよ」
俺の心配を察し、お袋が説明してくれた。
安心した。
俺は精密検査を受け、内臓全般が疲弊していると告げられた。
それぞれの内臓の活動を示す数値が、ことごとく低くなっていた。
原因は不明だが、俺の病歴を聞いた医者が、恐らくこれまでの薬害のせいだろうと言った。
その日から、俺は食事ができなくなった。
無理に食べようとすると、吐き戻してしまう。
一ヶ月で、俺の体重は40キロを割った。
食べずに消耗と言うよりも、俺の身体からどんどん何かが流れ出しているようだった。
ホルモンや様々な分泌物を、病院で何度も検査した。
その結果、俺は幾許もなく死ぬだろうと言われた。
俺は奈津江を呼び、別れを告げた。
泣きじゃくって、俺にしがみつく奈津江に
「俺のこんな姿をもう見て欲しくない。この後の悲惨な俺は絶対に見せない」
尚もしがみつく奈津江は、花岡さんに連れて行かれた。
翌日、俺はベッドの横に立つ花岡さんに気付いた。
無言で俺を見る彼女の目に、尋常ではない何かを感じた。
「奈津江が死んだわ」
花岡さんは、まるで機械のように喋った。
俺にはそういう音に聞こえた。
俺は半分この世にいなかった。
もう感情も感覚も半減し、ただ時間が過ぎるだけだった。
衰弱は終わりかけていた。
花岡さんは奈津江の死を説明してくれた。
奈津江を連れ帰った日。
奈津江はトラックに轢かれて即死だったらしい。
警察が事故現場を探ったが、トラックの運転手の証言しか無かったらしい。
「フラフラと車道に飛び出して……」
花岡さんは、そこで嗚咽した。
それ以上、俺は話を聞けなかった。
意識を喪っていた。
葬儀にも出られず、俺はただただ死を待った。
奈津江に会いたい。
その時を望んだ。
日に何度も意識を喪い、俺は次第に現実を喪っていった。
「あなたがぁ! あなたが死ぬなんて、絶対に許さないから!」
もう何も感じないはずの身体が、激痛を走らせた。
すぐ後で頬を叩かれて、俺は一瞬正気を取り戻した。
「なんで、なんで、あなたは死んじゃうの! 奈津江はあなたに生きて欲しかったのに!」
何度も俺の顔を殴る、鈍い響きだけを感じた。
あの激痛はなんだったのか。
「奈津江は、自分の命を使って欲しいって言った! どこかの誰かに、絶対そうして欲しいって言ってたの!」
その時、俺は誰かに手を握られるのを感じた。
本当だ。
花岡さんの激しい打擲はほとんど感じないのに、俺に触れ、握る強さと温かさが、その手からはしっかりと感じられた。
俺は激痛と優しい温かさに―――救われた。
その日から、俺の身体は奇跡的な回復を見せた。
数日もすると、俺は粥を掻き込み、翌週には普通の食事が出されるようになった。
医者は奇跡だと言った。
俺の様々なデータは、東大病院で研究されることになったと言われた。
俺は「よろしくお願いします」、と言った。
この身体を治すことしか、俺は考えていなかった。
それだけが、奈津江に繋がる細い糸になった。
幸い、長い夏休みをはさんだお蔭で、俺は何とか単位を取得し、無事次学年へ進んだ。
奈津江の墓に、そう報告した。
■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■
亜紀ちゃんは、俺が山中夫妻の仏壇を置くのを遠慮していた。
既に俺のお袋の仏壇があるのを見て、さらに自分たちのものはとても、くらいに考えたのかもしれない。
しかし、山中たちの四十九日を終えて、俺の説得もあり、やっと仏壇を用意することを納得してくれた。
浅草のみず平に頼んで、お袋と同等の仏壇をしつらえる。
以前から亜紀ちゃんは、俺が何も言わずともお袋の仏壇に毎朝手を合わせ、俺がやっていたのを見て、お茶などを供えてくれるようになった。
お袋がコーヒー好きだったと、俺がある時言ったのを聞いて、時折コーヒーも置いてくれる。
山中たちの仏壇が届き、みず平の社長自ら陣頭指揮で運んでくれる。
この店は仏具神具屋が多い浅草でも、一流の店だ。
兄弟でそれぞれ仏具屋、神具屋を営んでいる。
俺のお袋の仏壇もここに頼んだもので、その隣に山中夫妻のものを備えてもらった。
「ここでいいかな」
「はい、宜しくお願いします」
亜紀ちゃんと皇紀が立ち会って、作業を見ている。
二人は持っていた位牌や写真を手渡し、仏壇が完成するのを目を潤ませながら待っていた。
「じゃあ。これで終わりです」
みず平の社長がそう言った。
「いいお顔の仏様ですね」
その言葉に、亜紀ちゃんが泣き出した。
やっぱり、強く言って納得させて良かった。
みず平が帰っていき、二人は手を合わせる。
しばらくして落ち着いた亜紀ちゃんが、座ったまま俺に顔を向けて尋ねてきた。
「タカさん、一つお聞きしていいでしょうか?」
「何かな?」
「お母様のお位牌とは別に、小さなお位牌がありますよね」
「……」
「このお位牌は、どういうものなのでしょうか。戒名も書かれていないので気になってしまって」
俺は強張ろうとする顔を、必死でまとめた。
「ああ、それは俺のだよ。まだ死んでねぇから戒名もねぇんだ」
皇紀が立ち上がって猛然と言う。
「ダメですよ、タカさんのものは、もっと大きくしないと!」
「こら!」
亜紀ちゃんが皇紀の頭を軽くはたく。
「あんたが勝手なことを言わないの! タカさん、分かりました。ありがとうございます」
皇紀は頭を撫でている。
「これからは、このお位牌にも手を合わせるようにしますね」
なんだよ、亜紀ちゃん……亜紀ちゃん、亜紀ちゃん、どうもありがとう。
「俺はまだ生きてるんだから、必要ないよ」
俺は部屋を出るつもりで背中を向け、そう言った。
でも亜紀ちゃんはそうしてくれるのだろう。
「タカさん、僕、もっと大きい…」
また皇紀が頭を殴られた。今度は本気のものだった。
奈津江が手配してくれたのだが、この時期、無料で着物を貸してくれるらしい。
着付けもしてくれる。
奈津江に言われ、襦袢だけは用意してきた。
俺たちはそれを抱えて会館へ入る。
艶やかな振袖に髪を結った奈津江は、びっくりするくらい綺麗だった。
「ねぇ、どう?」
「死んでもいいや」
「なにそれ?」
奈津江は笑って俺の腹をつつく。
俺たちは着物を着て、哲学の道を歩いた。
途中、「ちろりん茶漬け」というヘンな名前の店を見つけ、面白がった奈津江が入りたがった。
案外美味かった。
哲学の道は、つまらなかった。
俺が正直に言うと
「高虎は詫び寂びが無いよね」
と言った。
自分だってつまらなそうにしていたくせに。
次に向かったのは蛤門だった。
奈津江のテンションは最高で、俺にそこの歴史を話し出す。
「ほら、ここの瑕! これは……」
俺は説明を聞きながら、奈津江の姿ばかり見ていた。
百も教えてくれただろう説明の、一つも今は思い出せない。
その晩も俺たちはまた手を握って眠り、昼頃の新幹線で東京へ戻った。
「高虎、ねぇ、高虎!」
奈津江の声が聞こえる。
俺は意識が薄れる中で、闇の中で奈津江の手を探った。
気がつくと、病院のベッドで寝ていた。
横にはお袋がいて、心配そうに俺を見ている。
「気分はどう?」
もうなんともなかった。
突然意識を喪ったようだ。
大学の食堂で奈津江と食事をし、出ようとした瞬間だった。
倒れる俺を、奈津江が小さな身体で支え、半狂乱で俺に呼びかけていたらしい。
すぐに救急車が呼ばれ、俺は東大病院ではない別な病院に運ばれた。
「すぐ目の前に病院があるのにねぇ」
お袋は少し怒りながら言った。
「奈津江は?」
「さっきまでいたけど、一度家に帰ってもらったわ」
今は深夜2時だった。
タクシーで帰ったのだろうか。
「お兄さんが迎えにきてくれたのよ」
俺の心配を察し、お袋が説明してくれた。
安心した。
俺は精密検査を受け、内臓全般が疲弊していると告げられた。
それぞれの内臓の活動を示す数値が、ことごとく低くなっていた。
原因は不明だが、俺の病歴を聞いた医者が、恐らくこれまでの薬害のせいだろうと言った。
その日から、俺は食事ができなくなった。
無理に食べようとすると、吐き戻してしまう。
一ヶ月で、俺の体重は40キロを割った。
食べずに消耗と言うよりも、俺の身体からどんどん何かが流れ出しているようだった。
ホルモンや様々な分泌物を、病院で何度も検査した。
その結果、俺は幾許もなく死ぬだろうと言われた。
俺は奈津江を呼び、別れを告げた。
泣きじゃくって、俺にしがみつく奈津江に
「俺のこんな姿をもう見て欲しくない。この後の悲惨な俺は絶対に見せない」
尚もしがみつく奈津江は、花岡さんに連れて行かれた。
翌日、俺はベッドの横に立つ花岡さんに気付いた。
無言で俺を見る彼女の目に、尋常ではない何かを感じた。
「奈津江が死んだわ」
花岡さんは、まるで機械のように喋った。
俺にはそういう音に聞こえた。
俺は半分この世にいなかった。
もう感情も感覚も半減し、ただ時間が過ぎるだけだった。
衰弱は終わりかけていた。
花岡さんは奈津江の死を説明してくれた。
奈津江を連れ帰った日。
奈津江はトラックに轢かれて即死だったらしい。
警察が事故現場を探ったが、トラックの運転手の証言しか無かったらしい。
「フラフラと車道に飛び出して……」
花岡さんは、そこで嗚咽した。
それ以上、俺は話を聞けなかった。
意識を喪っていた。
葬儀にも出られず、俺はただただ死を待った。
奈津江に会いたい。
その時を望んだ。
日に何度も意識を喪い、俺は次第に現実を喪っていった。
「あなたがぁ! あなたが死ぬなんて、絶対に許さないから!」
もう何も感じないはずの身体が、激痛を走らせた。
すぐ後で頬を叩かれて、俺は一瞬正気を取り戻した。
「なんで、なんで、あなたは死んじゃうの! 奈津江はあなたに生きて欲しかったのに!」
何度も俺の顔を殴る、鈍い響きだけを感じた。
あの激痛はなんだったのか。
「奈津江は、自分の命を使って欲しいって言った! どこかの誰かに、絶対そうして欲しいって言ってたの!」
その時、俺は誰かに手を握られるのを感じた。
本当だ。
花岡さんの激しい打擲はほとんど感じないのに、俺に触れ、握る強さと温かさが、その手からはしっかりと感じられた。
俺は激痛と優しい温かさに―――救われた。
その日から、俺の身体は奇跡的な回復を見せた。
数日もすると、俺は粥を掻き込み、翌週には普通の食事が出されるようになった。
医者は奇跡だと言った。
俺の様々なデータは、東大病院で研究されることになったと言われた。
俺は「よろしくお願いします」、と言った。
この身体を治すことしか、俺は考えていなかった。
それだけが、奈津江に繋がる細い糸になった。
幸い、長い夏休みをはさんだお蔭で、俺は何とか単位を取得し、無事次学年へ進んだ。
奈津江の墓に、そう報告した。
■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■
亜紀ちゃんは、俺が山中夫妻の仏壇を置くのを遠慮していた。
既に俺のお袋の仏壇があるのを見て、さらに自分たちのものはとても、くらいに考えたのかもしれない。
しかし、山中たちの四十九日を終えて、俺の説得もあり、やっと仏壇を用意することを納得してくれた。
浅草のみず平に頼んで、お袋と同等の仏壇をしつらえる。
以前から亜紀ちゃんは、俺が何も言わずともお袋の仏壇に毎朝手を合わせ、俺がやっていたのを見て、お茶などを供えてくれるようになった。
お袋がコーヒー好きだったと、俺がある時言ったのを聞いて、時折コーヒーも置いてくれる。
山中たちの仏壇が届き、みず平の社長自ら陣頭指揮で運んでくれる。
この店は仏具神具屋が多い浅草でも、一流の店だ。
兄弟でそれぞれ仏具屋、神具屋を営んでいる。
俺のお袋の仏壇もここに頼んだもので、その隣に山中夫妻のものを備えてもらった。
「ここでいいかな」
「はい、宜しくお願いします」
亜紀ちゃんと皇紀が立ち会って、作業を見ている。
二人は持っていた位牌や写真を手渡し、仏壇が完成するのを目を潤ませながら待っていた。
「じゃあ。これで終わりです」
みず平の社長がそう言った。
「いいお顔の仏様ですね」
その言葉に、亜紀ちゃんが泣き出した。
やっぱり、強く言って納得させて良かった。
みず平が帰っていき、二人は手を合わせる。
しばらくして落ち着いた亜紀ちゃんが、座ったまま俺に顔を向けて尋ねてきた。
「タカさん、一つお聞きしていいでしょうか?」
「何かな?」
「お母様のお位牌とは別に、小さなお位牌がありますよね」
「……」
「このお位牌は、どういうものなのでしょうか。戒名も書かれていないので気になってしまって」
俺は強張ろうとする顔を、必死でまとめた。
「ああ、それは俺のだよ。まだ死んでねぇから戒名もねぇんだ」
皇紀が立ち上がって猛然と言う。
「ダメですよ、タカさんのものは、もっと大きくしないと!」
「こら!」
亜紀ちゃんが皇紀の頭を軽くはたく。
「あんたが勝手なことを言わないの! タカさん、分かりました。ありがとうございます」
皇紀は頭を撫でている。
「これからは、このお位牌にも手を合わせるようにしますね」
なんだよ、亜紀ちゃん……亜紀ちゃん、亜紀ちゃん、どうもありがとう。
「俺はまだ生きてるんだから、必要ないよ」
俺は部屋を出るつもりで背中を向け、そう言った。
でも亜紀ちゃんはそうしてくれるのだろう。
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