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第02話「凍てつく最果てへの旅路」
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王都を出発して二週間が過ぎた頃には、車窓を流れる景色から緑が消え失せていた。
代わりに広がるのは、荒涼とした岩肌と、針葉樹の黒々とした森、そして地面を覆う白く冷たい雪だった。
アナベルを乗せた馬車は、ガタガタと車輪を軋ませながら、北へと続く街道を進んでいく。リヒトハイム公爵家が用意した馬車は、公爵令嬢が乗るものとしてはあまりに粗末で、暖房の魔道具すら備え付けられていない。隙間風が容赦なく吹き込み、アナベルの華奢な体を震わせた。
『寒いわ……』
アナベルは薄い毛布を肩まで引き上げ、かじかんだ指先をこすり合わせた。吐く息は白く、窓ガラスには氷の結晶が花を咲かせている。
実家を離れる際、見送りに来てくれたのは乳母のマリアだけだった。
両親は「もう二度と戻ってくるな」と言わんばかりに背を向け、姉たちは「やっと清々するわ」と陰で笑っていた。マリアだけが、涙を流しながら古びたロケットペンダントを持たせてくれた。中には、今は亡き祖母の肖像画が入っている。
「お嬢様、どうか生きて……幸せになってくださいまし」
その言葉だけが、冷え切ったアナベルの心の奥で、小さな灯火のように揺らめいている。だが、幸せになどなれるはずがない。向かう先は死地なのだから。
数日後、馬車はようやく辺境伯領の砦に到着した。
険しい山脈を背にそびえ立つ、灰色の石造りの城塞。華美な装飾など一切なく、ただ外敵を拒むためだけに存在する威圧的な建造物だった。空は鉛色に曇り、時折、遠くで獣の咆哮のような風の音が響く。
「到着だ。降りろ」
御者が不機嫌そうに扉を開けた。アナベルがおずおずと馬車から降りると、頬を切り裂くような冷気が襲いかかってきた。王都の冬とは比べ物にならない厳しさだ。
城門の前には、数名の騎士が整列していた。彼らの鎧は使い込まれて傷だらけだが、その眼光は鋭く、歴戦の猛者であることを物語っている。
そして、その中心に、一人の男が立っていた。
長身で痩せた体躯。漆黒の騎士服に、毛皮のついた厚手のマントを羽織っている。髪は夜の闇を切り取ったような黒色で、風に煽られて乱雑に揺れていた。
何よりも目を引くのは、その瞳だ。凍りついた湖面のような、透き通った銀色の瞳。
彼こそが、レオニール・ヴァルグレイブ辺境伯。
アナベルは息を呑んだ。噂通りの、人を寄せ付けない冷ややかな美貌。その瞳に見つめられただけで、心臓まで凍りつきそうだ。
「……お前が、リヒトハイム家の娘か」
低く、よく通る声だった。感情の色は見えない。ただ事実を確認するだけの響きだ。
アナベルは震える膝を抑え、精一杯の礼をとった。カーテシーのためにスカートの端を摘もうとするが、手袋の中の指は強張って動かない。
「は、はい。アナベル・リヒトハイムと、申します。こ、この度は……」
「挨拶はいい。中へ入れ。凍え死なれては困る」
レオニールは冷たく言い放つと、踵を返して城内へと歩き出した。
歓迎の言葉も、労いの言葉もない。やはり、自分は歓迎されていないのだ。アナベルは胸が締め付けられる思いで、彼に付き従う騎士の案内で城門をくぐった。
城内もまた、質実剛健そのものだった。廊下には飾り気のない松明が燃え、石造りの壁が冷気を放っている。すれ違う使用人たちは皆、どこか影があり、伏し目がちにアナベルを避けるように通り過ぎていく。
これが「氷の悪竜」の住処。
案内されたのは、城の一角にある客室だった。部屋は広かったが、調度品は最低限で、長い間使われていなかったのか、微かに黴と埃の匂いがした。
「旦那様は執務でお忙しい。夕食の時間になれば呼びに来る」
案内役の老執事は事務的にそう告げると、重い扉を閉めて去っていった。カチャン、と鍵がかかるような幻聴が聞こえた気がした。
アナベルは荷物を置くことも忘れ、部屋の中央で立ち尽くした。窓の外では、いつの間にか雪が舞い始めている。
『これから、どうなるの……』
恐怖と孤独が、津波のように押し寄せてくる。アナベルは自分の二の腕を抱きしめた。服の下にある銀の鱗が、冷気に反応してか、チリチリと痛んだ。
レオニールのあの銀色の瞳。侮蔑の色はなかったように見えたが、関心もまた、一切感じられなかった。
彼は自分を妻として迎えるつもりなどないのかもしれない。ただの形だけの生贄として、この部屋で朽ち果てるのを待つだけなのだろうか。
窓ガラスに映る自分の顔は、幽霊のように蒼白だった。
ここには味方はいない。マリアもいない。
アナベルはベッドの端に腰掛け、小さく丸まった。王都での罵倒が、まだ耳の奥で反響している。
逃げる場所はない。この凍てつく最果ての地が、アナベルの終着点なのだ。
代わりに広がるのは、荒涼とした岩肌と、針葉樹の黒々とした森、そして地面を覆う白く冷たい雪だった。
アナベルを乗せた馬車は、ガタガタと車輪を軋ませながら、北へと続く街道を進んでいく。リヒトハイム公爵家が用意した馬車は、公爵令嬢が乗るものとしてはあまりに粗末で、暖房の魔道具すら備え付けられていない。隙間風が容赦なく吹き込み、アナベルの華奢な体を震わせた。
『寒いわ……』
アナベルは薄い毛布を肩まで引き上げ、かじかんだ指先をこすり合わせた。吐く息は白く、窓ガラスには氷の結晶が花を咲かせている。
実家を離れる際、見送りに来てくれたのは乳母のマリアだけだった。
両親は「もう二度と戻ってくるな」と言わんばかりに背を向け、姉たちは「やっと清々するわ」と陰で笑っていた。マリアだけが、涙を流しながら古びたロケットペンダントを持たせてくれた。中には、今は亡き祖母の肖像画が入っている。
「お嬢様、どうか生きて……幸せになってくださいまし」
その言葉だけが、冷え切ったアナベルの心の奥で、小さな灯火のように揺らめいている。だが、幸せになどなれるはずがない。向かう先は死地なのだから。
数日後、馬車はようやく辺境伯領の砦に到着した。
険しい山脈を背にそびえ立つ、灰色の石造りの城塞。華美な装飾など一切なく、ただ外敵を拒むためだけに存在する威圧的な建造物だった。空は鉛色に曇り、時折、遠くで獣の咆哮のような風の音が響く。
「到着だ。降りろ」
御者が不機嫌そうに扉を開けた。アナベルがおずおずと馬車から降りると、頬を切り裂くような冷気が襲いかかってきた。王都の冬とは比べ物にならない厳しさだ。
城門の前には、数名の騎士が整列していた。彼らの鎧は使い込まれて傷だらけだが、その眼光は鋭く、歴戦の猛者であることを物語っている。
そして、その中心に、一人の男が立っていた。
長身で痩せた体躯。漆黒の騎士服に、毛皮のついた厚手のマントを羽織っている。髪は夜の闇を切り取ったような黒色で、風に煽られて乱雑に揺れていた。
何よりも目を引くのは、その瞳だ。凍りついた湖面のような、透き通った銀色の瞳。
彼こそが、レオニール・ヴァルグレイブ辺境伯。
アナベルは息を呑んだ。噂通りの、人を寄せ付けない冷ややかな美貌。その瞳に見つめられただけで、心臓まで凍りつきそうだ。
「……お前が、リヒトハイム家の娘か」
低く、よく通る声だった。感情の色は見えない。ただ事実を確認するだけの響きだ。
アナベルは震える膝を抑え、精一杯の礼をとった。カーテシーのためにスカートの端を摘もうとするが、手袋の中の指は強張って動かない。
「は、はい。アナベル・リヒトハイムと、申します。こ、この度は……」
「挨拶はいい。中へ入れ。凍え死なれては困る」
レオニールは冷たく言い放つと、踵を返して城内へと歩き出した。
歓迎の言葉も、労いの言葉もない。やはり、自分は歓迎されていないのだ。アナベルは胸が締め付けられる思いで、彼に付き従う騎士の案内で城門をくぐった。
城内もまた、質実剛健そのものだった。廊下には飾り気のない松明が燃え、石造りの壁が冷気を放っている。すれ違う使用人たちは皆、どこか影があり、伏し目がちにアナベルを避けるように通り過ぎていく。
これが「氷の悪竜」の住処。
案内されたのは、城の一角にある客室だった。部屋は広かったが、調度品は最低限で、長い間使われていなかったのか、微かに黴と埃の匂いがした。
「旦那様は執務でお忙しい。夕食の時間になれば呼びに来る」
案内役の老執事は事務的にそう告げると、重い扉を閉めて去っていった。カチャン、と鍵がかかるような幻聴が聞こえた気がした。
アナベルは荷物を置くことも忘れ、部屋の中央で立ち尽くした。窓の外では、いつの間にか雪が舞い始めている。
『これから、どうなるの……』
恐怖と孤独が、津波のように押し寄せてくる。アナベルは自分の二の腕を抱きしめた。服の下にある銀の鱗が、冷気に反応してか、チリチリと痛んだ。
レオニールのあの銀色の瞳。侮蔑の色はなかったように見えたが、関心もまた、一切感じられなかった。
彼は自分を妻として迎えるつもりなどないのかもしれない。ただの形だけの生贄として、この部屋で朽ち果てるのを待つだけなのだろうか。
窓ガラスに映る自分の顔は、幽霊のように蒼白だった。
ここには味方はいない。マリアもいない。
アナベルはベッドの端に腰掛け、小さく丸まった。王都での罵倒が、まだ耳の奥で反響している。
逃げる場所はない。この凍てつく最果ての地が、アナベルの終着点なのだ。
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