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第1話「死んだ土と、転生者のうた」
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あのひとの手が土に触れると、世界は歌いだすのです。
忘れられていた古い歌を、思いだすように。
乾いた土くれはひび割れた唇でかすかに旋律を奏で、石ころは沈黙の底で静かに聞き耳を立てる。風は彼の指先から生まれた緑の匂いを運び、雲は祝福の涙を落とす準備をする。
すべては、あのひとがこの死んだ土地にやってきた、あの陽の光がやけに白々しかった日からはじまりました。
わたしの長い長い時の中の、もっとも愛おしく、そしてもっとも哀しい物語の、はじまり。
ざらり、と乾いた土が指先からこぼれ落ちていく。
目の前に広がるのは、どこまでも続く灰茶けた大地だった。ひび割れた地面は巨大な生き物の枯れた皮膚のようで、時折吹く風が砂埃をため息のように巻き上げるだけ。空は高く色は薄く、太陽だけがやけに白々しい光を投げつけていた。
『ここは、どこだ』
少年の身体に宿ったばかりの意識は、まだ輪郭が曖昧だった。頭の奥で霧のように漂うのは膨大な知識と、そして拭い去れない疲労感。蛍光灯の明かり。鳴りやまない機械の音。終わりのない論文。積み重なる疲労。最後に見たのは、自分のデスクに突っ伏したまま二度と開くことのなかった瞼の裏の暗闇。
植物学者としての、あまりに無味乾燥な幕切れ。
それが、ついさっきまでの自分だったはずだ。
「カイ、ぼさっとするな。水汲みが終わらんぞ」
枯れ木が軋むような声に振り返ると、クワを肩に担いだ老人が険しい顔でこちらを睨んでいた。グラム、と頭の片隅で名前が浮かぶ。この村の村長で、今の身体の遠い親戚であり、保護者のような存在。
カイ、というのが今の自分の名前らしい。年は十五を過ぎた頃だろうか。長く続いた食糧難のせいで、その身体は年齢よりも幼く見える。自分のものとは思えぬ身体の感覚に、再びめまいがした。
「……うん、ごめんなさい」
かろうじて言葉を紡ぎ、空の桶を手に取る。村の中央にある井戸はとうに枯れ果てていた。村人たちは、ここから半刻ほど歩いた場所にある、かろうじて水が湧き出る岩清水まで日に何度も往復しなければならない。
村の名はアータル。世界の果て、と村人たちは自嘲気味にそう呼んだ。
かつては魔法の恩恵に浴し栄えた土地だったという。しかし、大地そのものから生命力(マナ)を直接吸い上げて奇跡を起こすその傲慢な魔法は、やがて大地を枯渇させる呪いへと変わった。
人々が「灰色の呪い」と呼ぶ現象。土は痩せ作物は育たず、人々は貧窮し希望を失った。残されたのは、かつての栄華を偲ばせる石造りの家々の残骸と、諦めに慣れきった人々だけ。
カイは桶を引きずりながら、村の畑だった場所を横切る。
そこには、か細く黄色く枯れた麦のようなものが力なく首を垂れていた。彼が知っている豊かな黄金色の穂とは似ても似つかない、哀れな姿。
村人たちはこれを悪魔の麦と呼んでいた。どれだけ種を蒔いても、まともに育つことはない。それでも他に植えるものがないから、惰性で植え続けているだけだ。
『違う……これは、土が死んでいるんだ』
カイは前世の知識が頭の中で警鐘を鳴らすのを感じた。
土壌の酸性化。栄養素の欠乏。有機物の不足。保水力の低下。前世であれば当たり前の知識。けれどこの世界の人々は、それを魔法の呪いのせいだと諦めている。
岩清水に着くと、数人の村人たちが黙々と水を汲んでいた。彼らの瞳に光は宿っていない。ただ今日を生き延びるためだけの、義務的な作業。
カイも列に並び、自分の番が来ると冷たい水を桶に満たした。ちゃぷん、と響く音がやけに空虚に聞こえた。
帰り道、カイは村人たちの列から少しだけ外れ、畑の土をこっそりと掴んだ。
指先で土の感触を確かめる。
ぱさぱさで、砂のように細かい。粘り気がない。匂いを嗅いでも、あの豊かな土の香りはしない。ただ乾いた埃の匂いがするだけ。
『これじゃあ、何も育つはずがない』
だが同時に、彼の胸の奥で小さな、しかし確かな熱が生まれた。
それは絶望ではなかった。
植物学者としての探求心。挑戦心。そして生命を愛する者としての、純粋な使命感。
『蘇らせることが、できるかもしれない』
この死んだ土を。この絶望した村を。
自分には知識がある。前世で三十年近くかけて培ってきた、植物と土に関する膨大な知識が。それはこの世界では魔法以上の奇跡を起こせるかもしれない。
村に戻ると、カイはグラムに頭を下げた。
「村長、お願いがあります」
「なんだ、改まって」
グラムは訝しげに眉をひそめる。
「村の隅にある、誰も使っていないあの畑を僕にください。そこで、新しい作物を育ててみたいんです」
その言葉にグラムだけでなく、周りにいた村人たちもぽかんとした顔でカイを見た。やがて誰かがくすくすと笑い出す。その笑いはすぐに村中へと伝染していった。
「カイのやつ、頭がおかしくなったか」
「あんな土地で何が育つってんだ」
「どうせ、悪魔の麦しかできんさ」
嘲笑が鋭い礫のようにカイに突き刺さる。しかし彼の瞳はまっすぐにグラムを見つめていた。その瞳に宿る真剣な光に、グラムは何かを感じ取ったようだった。
「……好きにしろ。どうせ放っておいても石ころしか生まれん土地だ」
吐き捨てるようにそう言うと、グラムは家の中へ入っていった。
許可は出た。
カイは、その日から畑に通い詰めた。
まず彼が始めたのは作物を育てることではなかった。土を育てることだった。
彼は村の外れにある、かろうじて木々が残る林へ足を運び腐葉土を集めた。村人たちが家畜の糞を捨てている場所へ行き、それを分けてもらった。井戸の底に溜まった泥をさらい、それも畑に運び込んだ。
人々は彼の奇行を遠巻きに眺め、気味悪がった。汚物にまみれ泥だらけになって、来る日も来る日も何かを畑に運び込む少年。その姿は狂人としか思えなかった。
「何をしているの、カイ」
ある日、同じ年頃の少女がおずおずと話しかけてきた。
「土にご飯をあげているんだ」
カイは汗をぬぐい、にっこりと笑った。少女は意味が分からないという顔をして、すぐに走り去ってしまった。
腐葉土、家畜の糞、井戸の泥。それらを畑の土と丁寧に混ぜ合わせる。何度も何度も、クワで土を耕し空気を送り込む。それは微生物の活動を促し、土の中に豊かな生態系を作り出すための、地道で途方もない作業だった。
前世の知識が彼に囁きかける。
『土は、それ自体が一個の生命体だ。栄養を与え、呼吸をさせ、休ませてやれば必ず応えてくれる』
一月が過ぎる頃には、カイの畑の土は明らかに他の場所とは違っていた。
色は黒ずみ、しっとりとした湿り気を帯びるようになった。手で握ると団子のように固まり、指で押すとほろりと崩れる。団粒構造。豊かな土の証だった。そしてあの埃っぽい匂いの代わりに、雨上がりの森のような甘く豊かな香りが立ち上るようになっていた。
カイは、その土の匂いを胸いっぱいに吸い込む。
疲労困憊の身体に、その香りが染み渡っていく。
『いける』
確信が彼の中で力強く脈打った。
彼は村で唯一まともに育っていた、やせ細った豆の種をいくつか譲り受けた。マメ科の植物は根に共生する根粒菌の力で、空気中の窒素を土に固定してくれる。土をさらに豊かにするための、最初の種。
丁寧に畝を作り、一粒一粒、祈るように種を蒔いていく。
それはこの世界で彼が初めて行う、創造の儀式だった。
死んだ土に、生命の歌を教える最初の試み。
彼の額から落ちた汗が黒い土に染み込んでいく。まるで大地が彼の想いを飲み干すかのように。
そのすべてを、遠い森の木々の間から一対の翠色の瞳が、瞬きもせずに見つめていたことを、カイはまだ知らなかった。
忘れられていた古い歌を、思いだすように。
乾いた土くれはひび割れた唇でかすかに旋律を奏で、石ころは沈黙の底で静かに聞き耳を立てる。風は彼の指先から生まれた緑の匂いを運び、雲は祝福の涙を落とす準備をする。
すべては、あのひとがこの死んだ土地にやってきた、あの陽の光がやけに白々しかった日からはじまりました。
わたしの長い長い時の中の、もっとも愛おしく、そしてもっとも哀しい物語の、はじまり。
ざらり、と乾いた土が指先からこぼれ落ちていく。
目の前に広がるのは、どこまでも続く灰茶けた大地だった。ひび割れた地面は巨大な生き物の枯れた皮膚のようで、時折吹く風が砂埃をため息のように巻き上げるだけ。空は高く色は薄く、太陽だけがやけに白々しい光を投げつけていた。
『ここは、どこだ』
少年の身体に宿ったばかりの意識は、まだ輪郭が曖昧だった。頭の奥で霧のように漂うのは膨大な知識と、そして拭い去れない疲労感。蛍光灯の明かり。鳴りやまない機械の音。終わりのない論文。積み重なる疲労。最後に見たのは、自分のデスクに突っ伏したまま二度と開くことのなかった瞼の裏の暗闇。
植物学者としての、あまりに無味乾燥な幕切れ。
それが、ついさっきまでの自分だったはずだ。
「カイ、ぼさっとするな。水汲みが終わらんぞ」
枯れ木が軋むような声に振り返ると、クワを肩に担いだ老人が険しい顔でこちらを睨んでいた。グラム、と頭の片隅で名前が浮かぶ。この村の村長で、今の身体の遠い親戚であり、保護者のような存在。
カイ、というのが今の自分の名前らしい。年は十五を過ぎた頃だろうか。長く続いた食糧難のせいで、その身体は年齢よりも幼く見える。自分のものとは思えぬ身体の感覚に、再びめまいがした。
「……うん、ごめんなさい」
かろうじて言葉を紡ぎ、空の桶を手に取る。村の中央にある井戸はとうに枯れ果てていた。村人たちは、ここから半刻ほど歩いた場所にある、かろうじて水が湧き出る岩清水まで日に何度も往復しなければならない。
村の名はアータル。世界の果て、と村人たちは自嘲気味にそう呼んだ。
かつては魔法の恩恵に浴し栄えた土地だったという。しかし、大地そのものから生命力(マナ)を直接吸い上げて奇跡を起こすその傲慢な魔法は、やがて大地を枯渇させる呪いへと変わった。
人々が「灰色の呪い」と呼ぶ現象。土は痩せ作物は育たず、人々は貧窮し希望を失った。残されたのは、かつての栄華を偲ばせる石造りの家々の残骸と、諦めに慣れきった人々だけ。
カイは桶を引きずりながら、村の畑だった場所を横切る。
そこには、か細く黄色く枯れた麦のようなものが力なく首を垂れていた。彼が知っている豊かな黄金色の穂とは似ても似つかない、哀れな姿。
村人たちはこれを悪魔の麦と呼んでいた。どれだけ種を蒔いても、まともに育つことはない。それでも他に植えるものがないから、惰性で植え続けているだけだ。
『違う……これは、土が死んでいるんだ』
カイは前世の知識が頭の中で警鐘を鳴らすのを感じた。
土壌の酸性化。栄養素の欠乏。有機物の不足。保水力の低下。前世であれば当たり前の知識。けれどこの世界の人々は、それを魔法の呪いのせいだと諦めている。
岩清水に着くと、数人の村人たちが黙々と水を汲んでいた。彼らの瞳に光は宿っていない。ただ今日を生き延びるためだけの、義務的な作業。
カイも列に並び、自分の番が来ると冷たい水を桶に満たした。ちゃぷん、と響く音がやけに空虚に聞こえた。
帰り道、カイは村人たちの列から少しだけ外れ、畑の土をこっそりと掴んだ。
指先で土の感触を確かめる。
ぱさぱさで、砂のように細かい。粘り気がない。匂いを嗅いでも、あの豊かな土の香りはしない。ただ乾いた埃の匂いがするだけ。
『これじゃあ、何も育つはずがない』
だが同時に、彼の胸の奥で小さな、しかし確かな熱が生まれた。
それは絶望ではなかった。
植物学者としての探求心。挑戦心。そして生命を愛する者としての、純粋な使命感。
『蘇らせることが、できるかもしれない』
この死んだ土を。この絶望した村を。
自分には知識がある。前世で三十年近くかけて培ってきた、植物と土に関する膨大な知識が。それはこの世界では魔法以上の奇跡を起こせるかもしれない。
村に戻ると、カイはグラムに頭を下げた。
「村長、お願いがあります」
「なんだ、改まって」
グラムは訝しげに眉をひそめる。
「村の隅にある、誰も使っていないあの畑を僕にください。そこで、新しい作物を育ててみたいんです」
その言葉にグラムだけでなく、周りにいた村人たちもぽかんとした顔でカイを見た。やがて誰かがくすくすと笑い出す。その笑いはすぐに村中へと伝染していった。
「カイのやつ、頭がおかしくなったか」
「あんな土地で何が育つってんだ」
「どうせ、悪魔の麦しかできんさ」
嘲笑が鋭い礫のようにカイに突き刺さる。しかし彼の瞳はまっすぐにグラムを見つめていた。その瞳に宿る真剣な光に、グラムは何かを感じ取ったようだった。
「……好きにしろ。どうせ放っておいても石ころしか生まれん土地だ」
吐き捨てるようにそう言うと、グラムは家の中へ入っていった。
許可は出た。
カイは、その日から畑に通い詰めた。
まず彼が始めたのは作物を育てることではなかった。土を育てることだった。
彼は村の外れにある、かろうじて木々が残る林へ足を運び腐葉土を集めた。村人たちが家畜の糞を捨てている場所へ行き、それを分けてもらった。井戸の底に溜まった泥をさらい、それも畑に運び込んだ。
人々は彼の奇行を遠巻きに眺め、気味悪がった。汚物にまみれ泥だらけになって、来る日も来る日も何かを畑に運び込む少年。その姿は狂人としか思えなかった。
「何をしているの、カイ」
ある日、同じ年頃の少女がおずおずと話しかけてきた。
「土にご飯をあげているんだ」
カイは汗をぬぐい、にっこりと笑った。少女は意味が分からないという顔をして、すぐに走り去ってしまった。
腐葉土、家畜の糞、井戸の泥。それらを畑の土と丁寧に混ぜ合わせる。何度も何度も、クワで土を耕し空気を送り込む。それは微生物の活動を促し、土の中に豊かな生態系を作り出すための、地道で途方もない作業だった。
前世の知識が彼に囁きかける。
『土は、それ自体が一個の生命体だ。栄養を与え、呼吸をさせ、休ませてやれば必ず応えてくれる』
一月が過ぎる頃には、カイの畑の土は明らかに他の場所とは違っていた。
色は黒ずみ、しっとりとした湿り気を帯びるようになった。手で握ると団子のように固まり、指で押すとほろりと崩れる。団粒構造。豊かな土の証だった。そしてあの埃っぽい匂いの代わりに、雨上がりの森のような甘く豊かな香りが立ち上るようになっていた。
カイは、その土の匂いを胸いっぱいに吸い込む。
疲労困憊の身体に、その香りが染み渡っていく。
『いける』
確信が彼の中で力強く脈打った。
彼は村で唯一まともに育っていた、やせ細った豆の種をいくつか譲り受けた。マメ科の植物は根に共生する根粒菌の力で、空気中の窒素を土に固定してくれる。土をさらに豊かにするための、最初の種。
丁寧に畝を作り、一粒一粒、祈るように種を蒔いていく。
それはこの世界で彼が初めて行う、創造の儀式だった。
死んだ土に、生命の歌を教える最初の試み。
彼の額から落ちた汗が黒い土に染み込んでいく。まるで大地が彼の想いを飲み干すかのように。
そのすべてを、遠い森の木々の間から一対の翠色の瞳が、瞬きもせずに見つめていたことを、カイはまだ知らなかった。
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