過労死した植物学者の俺、異世界で知識チートを使い農業革命!最果ての寂れた村を、いつの間にか多種族が暮らす世界一豊かな国にしていました

黒崎隼人

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第4話「豊穣が呼ぶもの」

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 豊かさというのは、蜜のようなものです。
 甘い香りは蝶だけでなく、もっと獰猛な牙を持つものたちも引き寄せる。あのひとの作った作物がアータル村に温かな光をもたらしたとき、わたしは同時にその光が落とす濃い影のことも見ていました。
 光が強ければ強いほど、影は深く長くなる。
 わたしは祈りました。どうかその優しすぎる光が、自らが呼び寄せた闇に飲み込まれてしまいませんように、と。
 けれど運命の歯車は、もう誰にも止められない速さで回り始めていたのです。

 セレナという名の嵐が、アータル村に富と、そして厄介事の種を運んできた。
 彼女が持ち帰った村の作物は、近隣の町や都市で瞬く間に評判となった。
「アータルの奇跡」
 人々はそう呼んだ。一口食べれば疲れた身体に活力がみなぎり、病がちの者さえ顔色を良くするという。その味はどんな王侯貴族が食す料理よりも深く、魂を揺さぶる感動があった。
 作物の価格は高騰し、セレナの商会を通じて莫大な金銭が村に流れ込み始めた。
 村人たちは生まれて初めて手にする大金に戸惑いながらも、その暮らしは劇的に改善された。ぼろぼろだった家は修繕され新しい農具が買われ、子供たちはひもじい思いをすることなく日に三度の食事を笑顔で囲んだ。村は灰色の世界に、極彩色の絵の具を垂らしたように鮮やかな活気を取り戻していった。

 だが、カイは浮かれてはいなかった。
 彼はセレナから入る収益のほとんどを、村の未来への投資に充てた。新たな水路の建設、食料を貯蔵するための倉庫の増設、そしてより高度な農業技術を試すための実験農場の整備。彼の目は常に数年先、数十年先の村の姿を見据えていた。

「カイ、お前さんは欲がねえなあ。もっと自分のために使ったって、誰も文句は言わんぞ」

 グラムが呆れたように言うと、カイは土のついた手で頬をかきながら笑った。

「僕の望みは、この村がずっと豊かであることだけだから。お金は、そのための道具だよ」

 その無欲さと先見の明に、村人たちはますます彼への信頼を深めていった。

 しかし輝かしい噂は、好意的な耳ばかりに届くわけではなかった。
 アータル村を含むこの一帯を支配する領主、バルトロ辺境伯。その耳にも「アータルの奇跡」の噂は届いていた。
 彼は強欲で傲慢な男として知られていた。だが、彼とて好きで圧政を敷いているわけではない。
 痩せ細る一方の土地から、王国が定める重税を徴収するには、民から全てを搾り取るしかなかったのだ。
 自らの領地で起きた棚からぼた餅のような幸運を、彼が見過ごすはずがなかった。

 ある日、村に一隊の兵士が訪れた。
 先頭に立つのは肥え太った、いかにも尊大な態度の男。バルトロ辺境伯、その人だった。

「ここが、例の村か。思ったよりもしょぼいな」

 バルトロは馬の上から村を見下し、不快そうに鼻を鳴らした。
 グラムが村を代表して恭しく頭を下げる。

「これはこれは、バルトロ様。ようこそアータル村へ。何の御用でございましょうか」

「決まっておろう。お前たちのその奇跡の作物、我が領地の繁栄のためにすべて献上せよ。無論タダで、だ。領主である儂がお前たちから買い取るなど、笑い話にもならん」

 あまりに理不尽な要求に、村人たちの顔色が変わる。それは村の生命線を差し出せと言っているのと同じだった。

「それは、できかねます」

 凛とした声が、その場の空気を切り裂いた。
 声の主はカイだった。彼は村人たちの前に進み出て、馬上のバルトロをまっすぐに見上げた。その小さな身体から放たれる存在感に、バルトロはわずかに眉をひそめた。

「なんだ、このガキは」

「僕がカイです。この村の農業を管理しています」

「ほう、お前が。見かけによらず威勢のいいことだ。儂の命令が聞こえなかったか? それともこの儂に逆らうというのか?」

 バルトロの声に、剣呑な響きが混じる。兵士たちが槍の柄を握り直すのが見えた。

「逆らうつもりはありません。ですがあなたの要求は、この村を殺すことです」

 カイは落ち着き払って言葉を続けた。

「作物をすべて奪われれば、我々が食べるものがなくなります。来年のための種もみも残りません。そうなればこの村の豊作は、今年限りで終わるでしょう。それはバルトロ様にとっても、望ましいことではないはずです」

 理路整然としたカイの言葉に、バルトロはぐっと言葉に詰まった。

「それに我々の作物は、セレナ様の商会と独占契約を結んでいます。契約を破棄すれば莫大な違約金が発生しますし、辺境伯様の評判にも傷がつくかと」

 カイはセレナという盾を巧みに使った。一介の辺境伯が、この地方の商業を牛耳る大商人を敵に回すのは得策ではない。

 バルトロは顔を真っ赤にしてカイを睨みつけた。子供に論破され、プライドをひどく傷つけられたのだ。

「……面白い。その減らず口、いつまで叩けるかな」

 彼はそれだけ言い残すと、乱暴に馬首を返し兵士たちと共に去っていった。
 村人たちはひとまずの危機が去ったことに安堵の息をついたが、カイの表情は晴れなかった。
 あの男がこのまま引き下がるとは到底思えなかった。

 その夜、カイが一人畑で物思いに沈んでいると、背後に静かな気配が立った。
 リーリエだった。彼女はいつの間にか、彼の隣に立っていた。

「見ました。人間の欲深さは、留まるところを知りませんね」

 その声には軽蔑と、そしてわずかな憐れみが含まれていた。

「彼は、また来るだろうか」

 カイの問いに、リーリエは静かにうなずいた。

「ええ、必ず。今度はもっと大きな力で、すべてを奪いに来るでしょう。豊かさは牙を剥く者を呼び寄せます。それが人間の歴史が繰り返してきた、愚かな法則です」

「どうすればいい?」

「逃げるか、あるいは戦うか。あなたには、そのどちらかしか残されていません」

 戦う。その言葉の重みに、カイは唇を噛んだ。自分はただ静かに土と向き合っていたいだけなのに。

「僕は、誰も傷つけたくない」

「だとしても、守るためには力が必要です。あなたのその手は生命を育むことしか知らないかもしれない。ですがこれからはその手で、育んだ生命を守る術も学ばなければならなくなる」

 リーリエの翠の瞳が、月明かりの下で悲しい光をたたえていた。彼女はこれからカイが歩むであろう、茨の道を予見しているかのようだった。

 風が吹き抜け、麦の穂がさわさわと揺れる。
 それは平和な歌声のようでもあり、これから訪れる嵐を告げる不吉な前触れのようでもあった。
 カイは強く拳を握りしめた。
 この穏やかな風景を、村人たちの笑顔を絶対に失うわけにはいかない。たとえそのために、この手を汚すことになったとしても。
 彼の心の中で何かが、静かに、しかし決定的に変わろうとしていた。農夫から村を守る指導者へ。運命は彼に更なる試練を与えようとしていた。
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