4 / 4
運命の女からは逃れられない
しおりを挟む
文学のテーマとして「父殺し」はよく聞くけれど、母殺しはあまり見ない気がする。
子どもが成長し、自立する時に立ち塞がる存在として、父親というのは社会のメタファーとして用いられて、親子の葛藤はそのまま新旧世代の葛藤として読み解かれたりしてる一方で、母親というのは個人的過ぎるのかあまり語られて来なかったような印象がある。書き手の性別にかかわらず、母親の話となると途端にバツが悪そうな文章になりがち。
でも、逆に言えば父殺しの方が子どもにとって語りやすいのだとも思う。
何しろ、母親がいなかったら、そして母親が自分を産むという選択をしてくれなかったら、自分はこの世に存在することはなかったのだから。そんな自分が生きるか死ぬかを最初に決めた、ある種の創造主を否定することは、それ自体が自分の存在を否定することになるのだから、母殺しという概念そのものがタブーとして本能に刻まれている可能性だってなくはないだろう。
ところで、アメリカの小説家ジェイムズ・エルロイについて語る際、彼が十歳の時に母親のジーンが何者かに殺され、遺棄された過去を避けるわけにはいかない。
母親の死が、エルロイの人生を決定づけた。その無残な死が、ジーン・エルロイの母ではなく、あられもない女の顔を暴いた。そして以後、彼女の息子はセックスと死に取り憑かれる人生を生きることになった。
エルロイは思春期から犯罪に手を染め、父の死と軍の除隊以後は、不法侵入や盗みなど、荒んだどん底の生活を送ることになるが、そんな中でもレイプと殺人とは無縁だった。
どんなに惨めな暮らしぶりでも、金のために人を殺すことも、性欲を満たすために女を襲うこともしていない。いつ、そうなってもおかしくなったのにもかかわらず。
『わが母なる暗黒』を読んでいて、こんなに荒れた生活だったのに不思議だなと思ったが、すぐさまその二つはエルロイにとって究極の禁忌だったことに改めて気づいた。特に、餓えにも似た焦燥感からセックスを渇望し続けたのに、その”一線”を越えることはなかった。
意識しても、意識しなくても、母の死は彼の人生につきまとった。
母はただ殺されただけでなく、その体を毀損され、白日の下に晒されていた。犯人に何の意図があったかは知らないが、ジーン・エルロイは惨たらしく殺されるだけではこと足りず、藪の中に打ち捨てられる必要があったのかもしれない。そして、彼女の死の影にセックスがあっただろうことは誰の目にも明らかで、それは息子にとっても同様だった。
息子は、離婚してからの母の男性関係を知っていた。ベッドに母と男が一緒に寝ているのを見ていた。息子は、母の女の顔を嫌というほど知っていた。そして、息子は、そんな母の女の顔に心惹かれている自分に気づいていた。
しかし、母への愛情を素直に認めることが出来ない息子は、同じような殺され方をした黒髪の女(ブラック・ダリア)に夢中になることで、赤毛の女(ジーン)を頭の中から追い出した。
”エリザベス・ショートがジニーヴァ・エルロイの代用として完璧だったのは、ふたりがそっくりだったからだ。どちらの女性も男にだらしなく、どちらもロサンゼルスから離れたもっと清潔で落ち着いた健全な土地からやってきた。どちらも深夜の雑踏を自由に徘徊していた。どちらもあまり金をもっていなった。どちらも必死で這いあがろうとしていた。そして、どちらもどうすれば這いあがれるかを知っていると思っていた。”
『記憶を消す子どもたち』レノア・テア/吉田利子訳(草思社)
しかし、作家として世に立った息子は、物語を通じて母と、母の死と向き合うことになる。母が殺された50年代のロサンゼルスを追いかけ、「夢の中の恋人」だった『ブラック・ダリア』との関係に一段落つけた。
作家としての評価を盤石としたこと、そして再婚した妻がジニーヴァ・エルロイの霊を蘇らせた。ユニークな妻は夫が彼女を知ることを切に望んだ。
こうして、かつて十歳だった少年は四十年近くの時を経て、母を知る旅に出た。それが『わが母なる暗黒』の出発点だった。
時はO・J・シンプソン事件と裁判で全米が湧いていた頃、女が殺されるのは50年代とちっとも変わらなかった。
子どもが成長し、自立する時に立ち塞がる存在として、父親というのは社会のメタファーとして用いられて、親子の葛藤はそのまま新旧世代の葛藤として読み解かれたりしてる一方で、母親というのは個人的過ぎるのかあまり語られて来なかったような印象がある。書き手の性別にかかわらず、母親の話となると途端にバツが悪そうな文章になりがち。
でも、逆に言えば父殺しの方が子どもにとって語りやすいのだとも思う。
何しろ、母親がいなかったら、そして母親が自分を産むという選択をしてくれなかったら、自分はこの世に存在することはなかったのだから。そんな自分が生きるか死ぬかを最初に決めた、ある種の創造主を否定することは、それ自体が自分の存在を否定することになるのだから、母殺しという概念そのものがタブーとして本能に刻まれている可能性だってなくはないだろう。
ところで、アメリカの小説家ジェイムズ・エルロイについて語る際、彼が十歳の時に母親のジーンが何者かに殺され、遺棄された過去を避けるわけにはいかない。
母親の死が、エルロイの人生を決定づけた。その無残な死が、ジーン・エルロイの母ではなく、あられもない女の顔を暴いた。そして以後、彼女の息子はセックスと死に取り憑かれる人生を生きることになった。
エルロイは思春期から犯罪に手を染め、父の死と軍の除隊以後は、不法侵入や盗みなど、荒んだどん底の生活を送ることになるが、そんな中でもレイプと殺人とは無縁だった。
どんなに惨めな暮らしぶりでも、金のために人を殺すことも、性欲を満たすために女を襲うこともしていない。いつ、そうなってもおかしくなったのにもかかわらず。
『わが母なる暗黒』を読んでいて、こんなに荒れた生活だったのに不思議だなと思ったが、すぐさまその二つはエルロイにとって究極の禁忌だったことに改めて気づいた。特に、餓えにも似た焦燥感からセックスを渇望し続けたのに、その”一線”を越えることはなかった。
意識しても、意識しなくても、母の死は彼の人生につきまとった。
母はただ殺されただけでなく、その体を毀損され、白日の下に晒されていた。犯人に何の意図があったかは知らないが、ジーン・エルロイは惨たらしく殺されるだけではこと足りず、藪の中に打ち捨てられる必要があったのかもしれない。そして、彼女の死の影にセックスがあっただろうことは誰の目にも明らかで、それは息子にとっても同様だった。
息子は、離婚してからの母の男性関係を知っていた。ベッドに母と男が一緒に寝ているのを見ていた。息子は、母の女の顔を嫌というほど知っていた。そして、息子は、そんな母の女の顔に心惹かれている自分に気づいていた。
しかし、母への愛情を素直に認めることが出来ない息子は、同じような殺され方をした黒髪の女(ブラック・ダリア)に夢中になることで、赤毛の女(ジーン)を頭の中から追い出した。
”エリザベス・ショートがジニーヴァ・エルロイの代用として完璧だったのは、ふたりがそっくりだったからだ。どちらの女性も男にだらしなく、どちらもロサンゼルスから離れたもっと清潔で落ち着いた健全な土地からやってきた。どちらも深夜の雑踏を自由に徘徊していた。どちらもあまり金をもっていなった。どちらも必死で這いあがろうとしていた。そして、どちらもどうすれば這いあがれるかを知っていると思っていた。”
『記憶を消す子どもたち』レノア・テア/吉田利子訳(草思社)
しかし、作家として世に立った息子は、物語を通じて母と、母の死と向き合うことになる。母が殺された50年代のロサンゼルスを追いかけ、「夢の中の恋人」だった『ブラック・ダリア』との関係に一段落つけた。
作家としての評価を盤石としたこと、そして再婚した妻がジニーヴァ・エルロイの霊を蘇らせた。ユニークな妻は夫が彼女を知ることを切に望んだ。
こうして、かつて十歳だった少年は四十年近くの時を経て、母を知る旅に出た。それが『わが母なる暗黒』の出発点だった。
時はO・J・シンプソン事件と裁判で全米が湧いていた頃、女が殺されるのは50年代とちっとも変わらなかった。
0
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く
ここ
ファンタジー
たしかに私は王妃になった。
5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。
夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…
【完結】あなたに知られたくなかった
ここ
ファンタジー
セレナの幸せな生活はあっという間に消え去った。新しい継母と異母妹によって。
5歳まで令嬢として生きてきたセレナは6歳の今は、小さな手足で必死に下女見習いをしている。もう自分が令嬢だということは忘れていた。
そんなセレナに起きた奇跡とは?
お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます
菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。
嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。
「居なくていいなら、出ていこう」
この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし
(完結)醜くなった花嫁の末路「どうぞ、お笑いください。元旦那様」
音爽(ネソウ)
ファンタジー
容姿が気に入らないと白い結婚を強いられた妻。
本邸から追い出されはしなかったが、夫は離れに愛人を囲い顔さえ見せない。
しかし、3年と待たず離縁が決定する事態に。そして元夫の家は……。
*6月18日HOTランキング入りしました、ありがとうございます。
愛していました。待っていました。でもさようなら。
彩柚月
ファンタジー
魔の森を挟んだ先の大きい街に出稼ぎに行った夫。待てども待てども帰らない夫を探しに妻は魔の森に脚を踏み入れた。
やっと辿り着いた先で見たあなたは、幸せそうでした。
断腸の思いで王家に差し出した孫娘が婚約破棄されて帰ってきた
兎屋亀吉
恋愛
ある日王家主催のパーティに行くといって出かけた孫娘のエリカが泣きながら帰ってきた。買ったばかりのドレスは真っ赤なワインで汚され、左頬は腫れていた。話を聞くと王子に婚約を破棄され、取り巻きたちに酷いことをされたという。許せん。戦じゃ。この命燃え尽きようとも、必ずや王家を滅ぼしてみせようぞ。
〈完結〉妹に婚約者を獲られた私は実家に居ても何なので、帝都でドレスを作ります。
江戸川ばた散歩
ファンタジー
「私」テンダー・ウッドマンズ伯爵令嬢は両親から婚約者を妹に渡せ、と言われる。
了承した彼女は帝都でドレスメーカーの独立工房をやっている叔母のもとに行くことにする。
テンダーがあっさりと了承し、家を離れるのには理由があった。
それは三つ下の妹が生まれて以来の両親の扱いの差だった。
やがてテンダーは叔母のもとで服飾を学び、ついには?
100話まではヒロインのテンダー視点、幕間と101話以降は俯瞰視点となります。
200話で完結しました。
今回はあとがきは無しです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる