記憶喪失のフリをしたあざといスパイですが、全部お見通しの皇帝陛下に「嘘の婚約者」として閉じ込められています

たら昆布

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5話

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 人間、あまりに贅沢な暮らしが続くと、贅沢そのものに飽きるのではなく「些細な変化」を求めるようになるらしい。
 ロロは、ふかふかのソファに寝そべりながら、窓の外を眺めていた。

「……あーあ。なんか、こう……もっと庶民的な、ジャンクな感じの甘いものが食べたいなぁ」

 独り言のつもりだった。
 現在、離宮の図書室にはロロ一人しかいないはずだった。……はずだったのだが。

「庶民的な……ジャンクな甘いもの、だと?」

「ひゃうっ!?」

 背後から突然響いた低音ボイスに、ロロはソファから転げ落ちそうになった。振り返ると、そこにはいつの間にか執務の手を止めたヴァルが立っていた。相変わらず足音がしない男だ。

「ヴァ、ヴァル様……いつからそこに?」

「お前が『あーあ』と言ったあたりからだ。ロロ、詳しく教えてくれ。その……『じゃんく』というのは、どのような宮廷菓子だ? 他国の秘伝のレシピか?」

(……しまった。皇帝陛下の前で、スパイ時代の貧乏舌が求めているものを口にしてしまった)

 ロロは咄嗟に「あざとい記憶喪失モード」に切り替える。人差し指を顎に当て、首をかしげて見せた。

「ええっと、なんだか、ぼんやりと思い出したんです。昔……ヴァル様と会うよりもずっと前かな? お祭りの屋台で売っていたような、ハチミツをたっぷり塗って、油でカリカリに揚げた……名前も知らないようなお菓子。……あ、でも、気のせいかもしれません! 忘れちゃってください!」

 適当な捏造エピソードを付け加えて、ロロは笑って誤魔化した。
 しかし、ヴァルの碧眼はかつてないほど鋭く、そして情熱的に燃え上がった。

「お前が思い出した、貴重な記憶の一部だぞ。忘れるわけがないだろう。……ハチミツで、カリカリ……揚げ菓子だな。わかった。すぐに用意させよう」

「え、あ、いや! そんな、わざわざ……」

「ロロ。お前の願いは、俺の至上命令だ」

 ヴァルはそう言い残すと、マントを翻して颯爽と図書室を去っていった。
 残されたロロは、ぽかんと口を開けるしかない。

(……嫌な予感がする。この皇帝、加減を知らないタイプだもん)

 その予感は、翌朝、最悪の形で……いや、最高に極端な形で的中した。

「……ねえ、ヴァル様。これは何?」

 ロロは離宮の中庭を見下ろして、引きつった笑いを浮かべた。
 昨日まで美しい「銀雪草」が揺れていた静かな庭園は、一夜にして変貌を遂げていた。

 色とりどりの天幕が立ち並び、威勢のいい声が響き渡っている。
 香ばしい油の匂い、甘い砂糖の焦げる香り、そしてどこから連れてきたのか、大道芸人までがジャグリングを披露している。

「お前が言っていた『屋台の菓子』を特定できなかった。ゆえに、帝都で評判の菓子屋と、腕利きの屋台主をすべてここに集めた。総勢三十店舗だ。さあ、好きなだけ食べるといい」

 ヴァルは誇らしげに胸を張り、ロロの腰に手を添えてエスコートした。

(……バカだ。この皇帝、やっぱりバカだ(褒め言葉)! 一店舗でいいってば!)

 しかし、目の前に広がる光景は、ロロのスパイ心……もとい、食欲を激しく刺激した。
 ヴァルに手を引かれ、絨毯(もちろん外も二重敷きだ!)の上を歩いていくと、そこはまさに「甘いものの天国」だった。

「こちらへ、ロロ様! 我が店自慢の『黄金揚げパン』でございます!」
「こっちはハチミツ漬けのナッツをたっぷり挟んだパイだ。さあ、どうぞ!」

 ロロは目を輝かせた。
 揚げたてのパンに、これでもかというほどハチミツが滴っている。それを一口齧ると、口の中でカリッ、ジュワッという至福のハーモニーが奏でられた。

「おいひい……っ! これです、これ! ヴァル様、食べてみてください!」

 ロロは半分に割った揚げパンを、ヴァルの口元に差し出した。
 ヴァルは一瞬、庶民的な食べ物に戸惑うような表情を見せたが、ロロの期待に満ちた瞳に負け、大人しく口を開いた。

「……! ……甘いな。だが、お前が笑って食べているなら、これ以上に美味いものはない」

(あー、もう。この人、本当にかっこいい顔してサラッと恥ずかしいこと言うんだから)

 ロロは顔が熱くなるのを誤魔化すために、次々と屋台を回った。
 綿菓子のような不思議なお菓子を半分こしたり、ヴァルが「ロロに似ているから」という謎の理由で大きなうさぎの飴細工を買い占めようとするのを必死で止めたり。

 そんな中、ロロはふと足を止めた。
 離宮の隅で、小さな男の子が屋台の手伝いをしているのが見えたのだ。その子はロロと目が合うと、怖がってヴァルの影に隠れてしまった。

 ヴァルは一瞬、眉間に皺を寄せた。本来の「冷酷皇帝」の顔だ。
 だが、ロロがヴァルの腕を優しく掴むと、その険しさは霧散した。

「ヴァル様、あの子に……この飴細工、あげてもいいですか?」

「お前がそうしたいなら、構わない。……だが、俺からもらったものを他人にやるのは、少しだけ嫉妬するがな」

(独占欲の対象が飴細工にまで及んでるよ、この人)

 ロロは苦笑しながら、男の子に飴を手渡した。
 男の子はぱぁっと顔を輝かせ、「お兄ちゃん、ありがとう!」と元気よくお礼を言って走り去っていった。

 その様子を眺めていたヴァルの表情が、いつになく柔らかいものに変わる。

「ロロ。お前は本当に、記憶を失っても……優しいのだな」

「え……?」

「以前の……いや、なんでもない。今は、この時間を楽しもう」

 ヴァルはロロの頭を優しく撫でた。
 その手のひらの温度が、演技で塗り固めたロロの心を、じわじわと溶かしていく。

 復讐も、スパイの任務も、この甘い香りに包まれている間だけは遠い国の出来事のように感じられた。
 
(……だめだなぁ。このままじゃ、本当に『ロロ』になっちゃいそうだよ)

 ロロはヴァルの腕にぎゅっとしがみついた。
 それは、保身のためのあざとい演技ではなく、ほんの少しだけ……心細さを隠すための、本物の甘えだったのかもしれない。

 お祭りの喧騒の中、二人の距離は、甘いハチミツのように、ゆっくりと、けれど確実に重なり合っていく。
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