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6話
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お祭り騒ぎの余韻が残る、離宮の夜。
窓の外では、まだ片付けをする使用人たちの話し声や、遠くで鳴く夜鳥の声が微かに聞こえてくる。
ロロは、お風呂上がりの温まった体で、テラスの椅子に腰掛けていた。
昼間の揚げパンの食べすぎだろうか。お腹は満ち足りているはずなのに、胸の奥がなんだか落ち着かない。
(……やばいな。あの皇帝、本気で僕を『甘やかして殺す』つもりなんじゃないかな)
ふかふかの絨毯、山のようなお菓子、そして自分を見る熱い瞳。
スパイとして訓練を受けてきたロロにとって、暴力や拷問よりも、この「底なしの優しさ」の方がずっと恐ろしい。毒だとわかっていても、ついつい飲み干してしまいたくなるような、甘い毒だ。
その時、テラスの扉が静かに開いた。
「まだ起きていたのか、ロロ」
現れたのは、夜着の上にゆったりとしたガウンを羽織ったヴァルだった。
昼間の軍服姿とは違い、少し乱れた銀髪が色っぽい。ロロはドキリとする心臓を抑え、慌てて「あざとい」笑顔を貼り付けた。
「あ、ヴァ……。……ヴァル。うん、なんだか星が綺麗で」
一瞬、昼間の癖で「様」をつけそうになったが、ロロは寸前でそれを飲み込んだ。
すると、ヴァルが少しだけ眉を下げ、ロロの隣に腰を下ろした。
「……よかった。昼間の祭りでは、また『ヴァル様』に戻っていたからな。正直、少しだけ寂しかったぞ」
(うわ、気づいてた! この人、意外と細かいところまで見てるんだから……)
「ご、ごめんなさい。なんだか人がいっぱいいたから、つい緊張しちゃって。……本当は、ヴァルって呼ぶ方が、僕も好きだよ?」
嘘八百である。
だが、その言葉を聞いた瞬間、ヴァルの碧眼が歓喜に揺れた。彼はロロの細い肩に手を回し、自分の方へと引き寄せる。
「そうか。……お前にそう言ってもらえるだけで、俺はこの国を丸ごと手に入れた時よりずっと満たされる。……ロロ。記憶を失う前のお前は、もっと俺に甘えていたんだぞ」
(はい、出た! 捏造エピソード追加!)
ロロはヴァルの広い胸に顔を埋めながら、内心で舌を出した。
今のロロにとって、ヴァルの「嘘」はもはや娯楽になりつつある。今日はどんなとんでもない設定をぶつけてくるのか。
「たとえば……どんなふうに、甘えてたの?」
ロロは上目遣いで、好奇心に満ちた瞳を向けた。
ヴァルは少し視線を彷徨わせた後、意を決したようにロロの顎を指先でクイと持ち上げた。
「……たとえば、夜。こうして二人きりになった時は、お前の方から口づけをねだってきた」
「…………えっ?」
ロロの思考がフリーズした。
いくらなんでも、それは盛りすぎではないか。
だが、ヴァルの瞳はどこまでも真剣で、そして少しだけ……狡猾な色を帯びていた。
「婚約者同士なら、当然のことだろう? お前が思い出せないのは悲しいが……。もしかしたら、体が覚えているかもしれない。試してみるか?」
(……この皇帝、やりおる。僕の『記憶喪失』という設定を逆手に取って、合法的に手を出そうとしてるな!?)
ロロは冷や汗をかいた。
ここで拒絶すれば、「本当は記憶があるんじゃないか」と疑われるかもしれない。かといって、ここでキスを受け入れれば、なし崩し的に関係が進んでしまう。
(落ち着け、ロロ。僕はプロのスパイだ。ここは……『恥ずかしがって逃げる』か、それとも『あざとく迎え撃つ』か……!)
ロロは後者を選んだ。
彼はわざとらしくまつ毛を震わせ、ヴァルのガウンの襟元をぎゅっと掴んだ。
「……わかんない。でも、ヴァルがそう言うなら……僕、思い出したいな」
震える声。潤んだ瞳。
ヴァルの喉仏が、大きく上下した。
彼はゆっくりと、本当にゆっくりと、ロロの顔に自分の顔を近づけていく。
鼻先が触れ合い、お互いの熱い吐息が混じり合う。
ヴァルの碧眼が至近距離で見つめてくる。そこにあるのは、冷酷皇帝の面影など微塵もない、一人の男としての「渇望」だった。
(あ、これ、本気のやつだ……)
ロロは反射的に目を閉じた。
柔らかい唇が、自分の唇にそっと重ねられる。
――それは、想像していたよりもずっと優しく、切ないほどに丁寧なキスだった。
奪うような強引さはない。まるで、壊れやすい宝物を慈しむような、祈るような触れ合い。
ロロの心臓が、自分でも驚くほどの速さで鼓動を刻み始める。
(……おかしい。これじゃ、僕の方が絆されてるみたいじゃないか)
どれくらい時間が経っただろうか。
ようやく唇が離れた時、ヴァルはロロの額に自分の額を預け、荒い息を吐いていた。
「……ロロ。愛している。……嘘ではない。これだけは、信じてくれ」
その言葉に、ロロの胸の奥がキュンと締め付けられた。
ヴァルが言った「これだけは嘘ではない」という言葉。
それはつまり、他のことはすべて「嘘」だと認めているようなものではないか。
(バカだなぁ、この人。本当に……)
ロロは、自分の頬が赤らんでいるのを隠すように、ヴァルの首に腕を回した。
「……ん。ヴァルの……キス、なんだか懐かしい気がする」
あざとい一言を付け加える。
ヴァルはその言葉を聞いて、今にも泣き出しそうな、それでいてこの世の全てを手に入れたような幸せな顔でロロを抱きしめた。
夜のテラス。
嘘つきの皇帝と、嘘つきのスパイ。
二人の重ねた唇は、どちらの嘘が深いのか、もはや誰にもわからなくなっていた。
ロロは、ヴァルの腕の中でそっと目を閉じた。
(……とりあえず、今日はここまで。これ以上進んだら、僕の心臓が持たないからね)
寄り道だらけの関係は、一回のキスを経て、また少しだけその輪郭を曖昧に、そして甘く変えていった。
窓の外では、まだ片付けをする使用人たちの話し声や、遠くで鳴く夜鳥の声が微かに聞こえてくる。
ロロは、お風呂上がりの温まった体で、テラスの椅子に腰掛けていた。
昼間の揚げパンの食べすぎだろうか。お腹は満ち足りているはずなのに、胸の奥がなんだか落ち着かない。
(……やばいな。あの皇帝、本気で僕を『甘やかして殺す』つもりなんじゃないかな)
ふかふかの絨毯、山のようなお菓子、そして自分を見る熱い瞳。
スパイとして訓練を受けてきたロロにとって、暴力や拷問よりも、この「底なしの優しさ」の方がずっと恐ろしい。毒だとわかっていても、ついつい飲み干してしまいたくなるような、甘い毒だ。
その時、テラスの扉が静かに開いた。
「まだ起きていたのか、ロロ」
現れたのは、夜着の上にゆったりとしたガウンを羽織ったヴァルだった。
昼間の軍服姿とは違い、少し乱れた銀髪が色っぽい。ロロはドキリとする心臓を抑え、慌てて「あざとい」笑顔を貼り付けた。
「あ、ヴァ……。……ヴァル。うん、なんだか星が綺麗で」
一瞬、昼間の癖で「様」をつけそうになったが、ロロは寸前でそれを飲み込んだ。
すると、ヴァルが少しだけ眉を下げ、ロロの隣に腰を下ろした。
「……よかった。昼間の祭りでは、また『ヴァル様』に戻っていたからな。正直、少しだけ寂しかったぞ」
(うわ、気づいてた! この人、意外と細かいところまで見てるんだから……)
「ご、ごめんなさい。なんだか人がいっぱいいたから、つい緊張しちゃって。……本当は、ヴァルって呼ぶ方が、僕も好きだよ?」
嘘八百である。
だが、その言葉を聞いた瞬間、ヴァルの碧眼が歓喜に揺れた。彼はロロの細い肩に手を回し、自分の方へと引き寄せる。
「そうか。……お前にそう言ってもらえるだけで、俺はこの国を丸ごと手に入れた時よりずっと満たされる。……ロロ。記憶を失う前のお前は、もっと俺に甘えていたんだぞ」
(はい、出た! 捏造エピソード追加!)
ロロはヴァルの広い胸に顔を埋めながら、内心で舌を出した。
今のロロにとって、ヴァルの「嘘」はもはや娯楽になりつつある。今日はどんなとんでもない設定をぶつけてくるのか。
「たとえば……どんなふうに、甘えてたの?」
ロロは上目遣いで、好奇心に満ちた瞳を向けた。
ヴァルは少し視線を彷徨わせた後、意を決したようにロロの顎を指先でクイと持ち上げた。
「……たとえば、夜。こうして二人きりになった時は、お前の方から口づけをねだってきた」
「…………えっ?」
ロロの思考がフリーズした。
いくらなんでも、それは盛りすぎではないか。
だが、ヴァルの瞳はどこまでも真剣で、そして少しだけ……狡猾な色を帯びていた。
「婚約者同士なら、当然のことだろう? お前が思い出せないのは悲しいが……。もしかしたら、体が覚えているかもしれない。試してみるか?」
(……この皇帝、やりおる。僕の『記憶喪失』という設定を逆手に取って、合法的に手を出そうとしてるな!?)
ロロは冷や汗をかいた。
ここで拒絶すれば、「本当は記憶があるんじゃないか」と疑われるかもしれない。かといって、ここでキスを受け入れれば、なし崩し的に関係が進んでしまう。
(落ち着け、ロロ。僕はプロのスパイだ。ここは……『恥ずかしがって逃げる』か、それとも『あざとく迎え撃つ』か……!)
ロロは後者を選んだ。
彼はわざとらしくまつ毛を震わせ、ヴァルのガウンの襟元をぎゅっと掴んだ。
「……わかんない。でも、ヴァルがそう言うなら……僕、思い出したいな」
震える声。潤んだ瞳。
ヴァルの喉仏が、大きく上下した。
彼はゆっくりと、本当にゆっくりと、ロロの顔に自分の顔を近づけていく。
鼻先が触れ合い、お互いの熱い吐息が混じり合う。
ヴァルの碧眼が至近距離で見つめてくる。そこにあるのは、冷酷皇帝の面影など微塵もない、一人の男としての「渇望」だった。
(あ、これ、本気のやつだ……)
ロロは反射的に目を閉じた。
柔らかい唇が、自分の唇にそっと重ねられる。
――それは、想像していたよりもずっと優しく、切ないほどに丁寧なキスだった。
奪うような強引さはない。まるで、壊れやすい宝物を慈しむような、祈るような触れ合い。
ロロの心臓が、自分でも驚くほどの速さで鼓動を刻み始める。
(……おかしい。これじゃ、僕の方が絆されてるみたいじゃないか)
どれくらい時間が経っただろうか。
ようやく唇が離れた時、ヴァルはロロの額に自分の額を預け、荒い息を吐いていた。
「……ロロ。愛している。……嘘ではない。これだけは、信じてくれ」
その言葉に、ロロの胸の奥がキュンと締め付けられた。
ヴァルが言った「これだけは嘘ではない」という言葉。
それはつまり、他のことはすべて「嘘」だと認めているようなものではないか。
(バカだなぁ、この人。本当に……)
ロロは、自分の頬が赤らんでいるのを隠すように、ヴァルの首に腕を回した。
「……ん。ヴァルの……キス、なんだか懐かしい気がする」
あざとい一言を付け加える。
ヴァルはその言葉を聞いて、今にも泣き出しそうな、それでいてこの世の全てを手に入れたような幸せな顔でロロを抱きしめた。
夜のテラス。
嘘つきの皇帝と、嘘つきのスパイ。
二人の重ねた唇は、どちらの嘘が深いのか、もはや誰にもわからなくなっていた。
ロロは、ヴァルの腕の中でそっと目を閉じた。
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