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04 ある事件で屋敷に引きこもっていた『将臣』。彼の前に現れたのは、盲目の女性『伊織』だった。
比翼の鳥
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「…はじめまして、鏑木伊織と申します」
『伊織』と名乗った女中は、緊張した面持ちで頭を下げた。
「どこを向いて“お辞儀”してるんだ?」
机に頬杖しながら、土岐将臣が飽きれたように言い放った。
「も、申し訳ありません…!」
伊織は弾かれたように顔をあげ、左右に視線を彷徨わせた。
「申し訳ございません、将臣様。伊織は……その…盲目で…あまり物が見えないのでございます」
年配の女中が伊織の非礼を詫び、深々と頭を下げた。
「…ふん、なるほどな。 目がよく見えぬ下女なら俺の気が触れないと思っての配慮か?」
「そ、そんな! 滅相もございません!! わ、わたし達は…ただ」 将臣は拳で机を思い切り叩き、女中の弁解を遮った。女中は息を吞み、身をすくませる。
「はっきり言ったらどうだ? 俺の顔が醜いから世話をするのが嫌なんだろう? 視界にも入れたくないんだろう?…だから目が見えない者を遣わせた。ああ…そうだよな! こんなに焼け爛れた顔…自分でも嫌気が差す!!」
急に癇癪を起こし、将臣はそう吐き捨てると机に置いてあった水差しを乱暴に投げつけた。水差しは女中のすぐ横の壁に当たり、乾いた破裂音を立てて割れた。 伊織は吃驚して、音のする方へ振り向く。 女中の顔はみるみるうちに青褪めた。
「出ていけ!!」
将臣が大きな声で怒鳴ると、女中は伊織を置き去りにして慌てて部屋を出ていった。
「くそっ!」
将臣は机に広げていた原稿用紙をぐしゃっと握り潰した。
(なぜ俺が、こんな目に遭わなければならんのだ!!)
かつて将臣は新聞記者をしていた。
新人の頃は、『弱きを助け、強きを挫く』を信条に、正義感だけを頼りに筆を走らせていた。
その姿勢を買われ、帝都有数の大手新聞社へ引き抜かれると、将臣は異例の速さで出世していった。
だが立場が上がるにつれ、扱うのは政治家の汚職や軍の不祥事といった大きな闇ばかりになった。
いつしか将臣は、自分の立場を守ることに固執し、上から『もみ消せ』と言わせれば、二つ返事で記事を握りつぶすようになっていた。
ある日、帝都内を歩いていた将臣は、突然現れた男に火炎瓶を投げつけられて、顔に大きな火傷を負った。
男は、とある政治家によって人生を狂わされ、その糾弾を記事にしてほしいと将臣に縋りついていた人物だった。
将臣は取材だけは行ったものの、それを表立った記事にすることはなかった。
――そのことを恨んだ末の犯行だった。
治療のため休職を余儀なくされた将臣だったが、左半分に覆う火傷の痕が元に戻ることはなかった。
焼け爛れた皮膚は赤黒く変色し、引き攣れ、かつての精悍な面影は失われていた。
哀れみや奇異の視線を向けられるたびに、将臣の胸には恐怖が積み重なっていった。
かつての彼の記事で転落していった人々と同じように――
将臣自身もまた、賞賛を浴びていた日々から一転し、人の目に怯える生活へと堕ちていった。
「…皮肉なものだな」
将臣は自分を嘲った。
そんな彼の耳に雑音が届いた。
将臣は我に返って振り返ると、伊織がしゃがみ込み、割れた硝子の破片を拾っている姿があった。
「痛っ」
案の定、あまり目が見えていない伊織はガラス片で指を切った。
「何をしてるんだ。俺は『出ていけ』と言った筈だぞ!」
「すみません。これを片付けてから出ていきますので…お怪我をされたら大変ですから…」
そう言って、伊織は光のない瞳を懸命に向けながら、畳に散らばったガラス片を覚束ない指先で拾い上げていく。
「…そんなもの、箒で掃いて集めればいいだろう」
「……箒がどこにあるか、分からないもので…」
将臣はチッと舌打ちをして、部屋を出て行った。
「これで取れ」
戻ってきた将臣は仏頂面のまま、伊織の目の前に箒とチリ取りを突き出した。
物が見えづらい伊織は、それが何か分からず思わず首を傾げる。
将臣は焦れったくなり、強引に伊織の手に箒を握らせた。
「!? あ、ありがとうございます!」
手に持った感触でそれが分かり、伊織は感無量といった面持ちで深々と頭を下げた。
「…目はどのくらい見えているんだ? 全盲でなければ、ある程度は見えるんだろう」
「はい。…明るさと暗さの違いぐらいは…それで物の輪郭がぼんやりとですが、分かります」
「そうか。……片付けて、さっさと出ていってくれ」
「わ、分かりました」
伊織はぎこちない手つきで、ガラス片を掃いていく。
しばらく机で執筆していた将臣だったが、掃く音がどうしても気になって再び振り返った。
「なんでうちに来たんだ?」
「働きたくって。…でも、こんな目なもので…なかなか仕事先が見つからず。そしたら奥様がここで雇ってくださると仰ってくださいまして…」
「…………」
その言葉に将臣は押し黙った。
盲目の伊織を雇い入れたのは、将臣の母親だ。
今現在、将臣は帝都から離れた田舎町にある生家に身を寄せている。
火傷を負った一件で人間不信になっていた将臣は、敷地内の離れでひっそりと生活していた。
食事を運んで来る者、掃除に来る者……来る者すべて拒み、母親の手を煩わせていた。
そこで、物が見えづらい盲目の伊織が都合よく選ばれたのだろう。
「俺の顔は…本当に見えんのか?」
「はい」
「…そうか」
将臣は伊織の返事に安堵した。
「お前は本当にここで働きたいんだな?」
将臣の言葉に、伊織は驚いた顔をした。
「はい!…でも」
先程から将臣に邪険にされ続けていることで、伊織は思わず口ごもった。
「…なら、最低でもこの離れの間取りを覚えておけ。そんなに覚束ないままなら、すぐクビにするぞ」
「は、はい、頑張ります!」
将臣の嫌味たっぷりな言葉にもめげず、伊織は力強く頷いた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「…食事をお持ちしました」
伊織は膳を持って、将臣の部屋に入ってきた。
数週間が経ち、伊織は離れの間取りや家具の配置をすべて把握しているかのように、自然な立ち振る舞いをしていた。
「もう以前のように家具にぶつかったり、段差に躓かなくなったな……」
将臣は、思わずそう呟いていた。
そんな将臣に対して、伊織は静かに微笑む。
「はい。将臣様が根気強く物の場所を教えてくださったお陰ですね」
「…俺は、別に」
お礼を素直に受け取れない卑屈な将臣に、伊織は少し困り顔をした。
「いえ。将臣様には助けられました」
伊織は将臣が聞き取れないほどの小さな声で呟く。
「…以前に少しお話しましたが、私の目はほとんど色の見分けがつかないのです。明るさと暗さの違いは、ある程度分かるといった具合でして…」
伊織が自ら話し始めて、将臣は黙って聞くことにした。
「例えるなら…色が抜け落ちて、全体が白黒のような濃淡に見えるといいますか。ですから、物の輪郭を影の濃さで捉えているのです」
そう言って、伊織は箪笥の方を正確に指差した。
「…なるほどな」
将臣は相槌を打った。
「…でも物の距離感を掴むのは難しいです」
当時を思い出すように、伊織は何もない宙を見据えた。
「でも、慣れてくると、頭の中に自然と見取り図が出来上がってくるのです。今まで培った経験と感覚が、頼りになるといいますか」
伊織は続けた。
「ですから…将臣様が、根気強く教えてくださったお陰でもあるのです」
「そうは思わん。……俺には真似できんからな」
将臣はそっぽを向き、ぼそりと呟く。
「ありがとうございます。…嬉しいです」
将臣の皮肉を、伊織は正しく褒め言葉として受け取った。
「…別に褒めたわけでは…いや」
反射的に否定しそうになった言葉を途中で飲み込んだ。
盲目の伊織の境遇が、これまで良かったとは思えない。
彼女はどこか人を恐れている。
――それは、今の自分とよく似ている。
「…ところで、将臣様はいつも何を書いておられるのですか?」
伊織は将臣の前で正座した。
「…小説だ」
「小説、どんなお話を?」
「道化の話だ」
「…道化、ですか?」
聞き慣れない言葉に、伊織は小さく首を傾げた。
「ああ。一度は栄華を極めた男が…己が慢心のせいで次第に転落していく戯け話だ」
将臣は自虐的に笑った。
伊織は、その笑みの意味が分からず、小さく首を傾けた。
伊織は黒い瞳をしている。
外光をすべて吸い尽くしたかのような、深淵の闇そのものだ。
辛うじて明るさと暗さの違いしか分からないその目が、将臣をはっきりと映すことは決してない。
それでも将臣は何度も伊織の目を見て、確かめずにはいられなかった。
――本当に、何も映っていないのか。
将臣は怖かった。
いつか、彼女に自分を知られてしまう時が来るのではないかと。
それが堪らなく、怖かった。
「…将臣様」
伊織の声に、将臣は我に返った。
頭痛を覚えて、思わずこめかみを押さえる。
「大丈夫ですか?」
将臣の返事がないことに、伊織は不安になった。
「…大丈夫だ。疲れたから…少し休む」
「…は、はい」
立ち上がった伊織を、将臣は手で制した。
「いや、いい。布団は自分で敷く。…お前はもう下がっていい」
「…分かりました」
将臣の声色に何かを感じ取った伊織は、素直に頷いた。
そして後ろ髪を引かれながらも、部屋の戸を静かに閉めた。
将臣は布団を敷くと、そのまま寝転んだ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ハンチング帽の男が、こちらへ近づいて来る。
「ーーー。ー-ーーーー」
男は怒鳴り声を上げながら、ジャケットの内側に隠していた硝子瓶を取り出した。
瓶の中には琥珀かかった液体がなみなみと入っている。
男は瓶の縁に詰め込んだ布の先端に、ライターで火を付ける。
そして恐ろしい形相を向けたまま、将臣の顔めがけてそれを投げつけた。
将臣の視界が、一瞬で赤く染まった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「っ!?」
将臣は布団から飛び起きた。心臓がドクドクと早く脈打っているが、全身が冷水に浸ったかのように冷たい。
『将臣様…?』
部屋の外から伊織の声がした。
「伊織…まだいたのか?」
『はい…その…大丈夫ですか? 今大きな声が…』
「なんでもない…」
『で、でも』
「もう夜だぞ。さっさと自分の部屋に戻れ! 俺に構うな!!」
将臣は布団を深く被って、固く瞼を閉じる。
伊織の足音が遠ざかっていった。
将臣は伊織に辛く当たる自分に嫌気が差した。
伊織は将臣のことを慮って、こんな時間になってもずっと部屋の外にいてくれたのだ。
何故、「ありがとう」の一言がいえないのか。
“コン、コン”
しばらくして戸を控えめに叩く音がした。
将臣は少し上体を起こす。
『将臣様…入ってよろしいですか?』
将臣は何も答えなかった。
『…失礼します』
返事を待たず、伊織はそっと戸を開いた。
「喉は乾いていませんか? お水をお持ちしました」
月明かりを頼りに、伊織は慎重な足取りで将臣のもとに歩み寄った。
そして指で畳を探るようにして、枕元近くに水差しを静かに置く。
「さっきは…すまなかった」
将臣がポツリと謝った。
「いいえ。私が勝手なことをしたのがいけなかったのです」
伊織は首を横に振る。
「いや、お前に八つ当たりしただけだ。…本当にすまない」
「お気になさらず。…なにか、お辛い事があったのでしょう」
伊織の優しく気遣う言葉に、将臣は泣きそうになった。
「これは因果応報なんだ。…すべて俺が招いたこと。…誰かを責めるなんて…間違っているよな」
将臣は震える声で呟いた。
伊織はおぼつかない手つきで将臣の背をゆっくりと擦る。
その時、将臣は自分が泣いていることに気づいた。
きっと泣き顔は醜いものだろう。
伊織の目が見えないことが、今の将臣には救いだった。
「あまり…うまく言えないのですが…」
伊織は一旦言葉を切って、慎重に言葉を選ぶように視線を彷徨わせた。
そして意を決したように、こう続ける。
「…将臣様が今まで何か悪い行いをしたとしても…少なくとも私のことは手助けしてくださいました。因果応報は決して悪い事だけではないのです。いい事をしたら巡りめぐって返ってくる。だから…きっと、いつか将臣様がしてきた良い行いで報われる時が、必ず来ます」
いつも自信がなく、たどたどしい物言いをする伊織だが、その言葉は確信を持ったかのように力強かった。
――正直、そうは思えない。
それが将臣の本心だ。
だが、伊織がそう言うなら『信じてみてもいい』とも思った。
「…そうだな」
将臣の返事に、伊織は静かに微笑んだ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「伊織はどうした?」
その日、将臣のもとに来たのは伊織ではなく、初対面の若い女中だった。
「い、伊織さんならもう辞めました」
女中は将臣から露骨に視線を外しつつ、怯えながら答えた。
「…何だ、と」
その言葉に将臣は愕然とした。
「なぜだ!? なぜ急に……!」
将臣は、女中の両肩を掴んで問いただした。
「さ、さるお方の…め、妾になるそうで…それで辞めたと聞きました」
将臣は言葉を失った。
「ここに来る前からあったお話、だったようですが…」
以前聞いた時には働きたいとは言っていたが、妾になる話は聞いていない。
妾とはあまり表立って口にできるものではない。
伊織が言えなかったのは無理からぬことだと分かっていても、将臣は大きな衝撃を受けた。
女中の肩から力なく手を放して、将臣は自身の顔を覆った。
(妾…?伊織が…?)
伊織はとても美しい娘だ。
盲目でなければ何処ぞの良家に嫁いでもおかしくない。
例え妻にできずとも、妾として手元に置きたいと思う男はいくらでもいるだろう。
(嫌だ…)
将臣は首を振った。
(伊織が傍からいなくなる…なんて…)
伊織はずっと自分の側にいるものだと、勝手に思っていた。
辛く当たることがあっても、伊織は黙って側に寄り添ってくれた。
なのに、自分は何か一つでも伊織の支えになったことがあっただろうか。
(いや…伊織に何もしてやれなかった。…いつも自分の事ばかりで…)
ーーこんな別れは…あんまりだ!
「伊織は今どこにいる?」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
伊織は白い着物を着て、椅子に座らされていた。
伊織を妾にすると言った男は、伊織より一回り以上も年上だった。
名の知れた家の人間で、財も地位もある。世間的に見れば、悪い縁談ではないのだろう。
伊織はもともと、それなりに名の知れた名家の娘だった。
本来であれば、同じ家格の子息や、将来を嘱望される男のもとに嫁ぎ、家と家を繋ぐ役目を担うはずの存在だった。
『鏑木の家のために、誠心誠意尽くせ』
その言葉を、伊織は物心つく前から何度も聞かされて育った。
家を守ること。
親に恥をかかせないこと。
それが娘として生まれた自分の務めであると、疑うことなく信じていた。
だが八歳の時、高熱を出したことをきっかけに、伊織は視力のほとんどを失った。
体裁をなによりも重んじる両親にとって、盲目になった娘は誇りでなく、恥だった。
将来、娘を良家の男に嫁がせるはずだった計画は脆く崩れ去り、両親は伊織を早々に見限った。
『役立たず』
その言葉を、伊織は呪いのように何度も浴びせられた。
𠮟責はやがて日常的になり、伊織の自尊心を奪いつつあった。
そんな伊織に、ある日、縁談が舞い込んだ。
『妾でも、今のお前には贅沢すぎる程の幸せだろう』
『これでやっと、鏑木家の役に立てるわね』
両親は、吐き捨てるようにそう言った。
『お荷物』でしかない伊織が家を出ていく
――両親にとって手放しで喜ばしいことだった。
「将臣様」
伊織は俯きながら、彼の名を静かに呼んだ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
『どうした? そこに居ると路面電車が来て危ないぞ』
『す、すみません! 人とはぐれてしまって…目が悪いもので…教えていただきありがとうございました』
『…そうか』
不意に手を引かれて、伊織はとても驚いた。
『俺も、人を探すのを手伝ってやる』
ぶっきらぼうでも優しい彼の言葉に、その時の伊織は救われる思いだった。
無事に人を見つけることができ――男が去る間際、思い切って名を尋ねた。
『土岐将臣だ』
そう名乗ると、彼は去って行った。
数年後――伊織は将臣の事を人伝に聞いた。
記者をしていたが、誰かに逆恨みされて、顔に大きな火傷を負ってしまったこと。今は地元に帰っていること。
伊織は自分が他の男の妾になる前にもう一度、どうしても将臣に会いたかった。
将臣は今辛い思いをしているのではないだろうか。
ーー…あの時の恩返しがしたい
ーー…もう一度、せめて一目だけでも会いたい
伊織は両親に頼み込んで、将臣の家で働けるように懇願した。
何不自由ない暮らしを約束されていた伊織だったが、『相手の家で暮らす前に、少しでも世間を知り、素養を身につけておきたい』と最もなことを言うと、両親は思いの外あっさりと聞き入れてくれた。
両親のなかでは、あと少しで出ていく伊織のことなど、もうどうでもよかったのかもしれない。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
(この日が来ることは、わかっていたのに……)
「将臣様…」
伊織は、はらはらと泣き出した。
あの出会いから、伊織はずっと将臣のことを忘れずにいた。
再会してひどい言葉を投げかけられたが、将臣の事を全く嫌いになれなかった。
短い時間だったが一緒に過ごすうちに、将臣への想いだけが強くなった。
「貴方に会いたい…」
別れの挨拶さえ、言えなかった。
他の男の妾になるなんて、将臣には知られたくなかったのだ。
伊織は咽び泣く。
将臣の事を思うと、彼が恋しくて、涙が止まらなかった。
『――止まれ!』
その時。
ドア越しから男の怒号が聞こえ、伊織は我に返った。
椅子から腰を浮かしながら、そっと耳を澄ませる。
『貴様、ここを誰の屋敷だと思っている!止まれ!!』
気になった伊織は椅子から離れ、覚束ない足取りで、声がする扉の方へ向かった。
そして扉を薄く開けて、隙間から少し顔を覗かせる。
「伊織、何処に居る!?」
将臣の声だった。
(嘘…幻聴…?)
伊織は今起きている事が信じられなかった。
「どうして…将臣様が、ここに?」
気づけば伊織は廊下に出ていた。
将臣が伊織の姿を見つける。
周りにいた男たちの制止を振り切り、将臣は伊織の元に駆け寄ってきた。
「伊織!」
将臣は伊織の手を強引に掴んで、有無を言わさずに駆け出した。
突然のことで足が縺れそうになるのを、伊織は必死に踏みとどまろうとした。
「走れ!」
「!!」
将臣の荒い声に、伊織は彼の手をしっかり握り返すと、無我夢中で駆け出した。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「とりあえず…ここまでくれば、大丈夫だろう」
河原の橋の下、将臣は息を切らしながら言った。
「将臣様…どうして?」
伊織は息を整えながら、将臣に問いかけた。
「……別れの挨拶もしない薄情者に一言いってやりたくてな」
将臣は拗ねたように告げた。
「そうですか。…その、言いたい事とは?」
伊織はおそるおそる尋ねた。
「……俺はこの通り。ああ…お前も知っていると思うが顔にひどい火傷の痕がある。そのせいで俺は…人前に出ることが…何よりも恐い」
「…はい」
「でもお前と一緒にいたら…ほかの奴らがどんな目で俺を見ようとまったく恐ろしくは感じないんだ」
伊織を一人で迎えに行く時、
二人でここまで逃げて来た道すがら、
多くの通行人とすれ違った。
だが不思議なことに、将臣は人の視線がまったく気にならなかった。
無我夢中だったから、気に留める余裕がなかっただけかもしれない。だがしかしーー
「伊織」
「はい」
伊織は、まっすぐ将臣の顔を見上げた。
彼女の瞳は相変わらず光のない黒だった。
「お前といると自然と勇気が出る、と言うか。…だ、だから、その…これからも、俺の側にいてくれないか?」
将臣の言葉を聞いた途端、伊織は急に泣き始めた。
「ど、どうした…嫌だったか…?」
将臣はおろおろし始めた。
「いいえ!…違います」
伊織は袖で涙を拭うと顔を見上げた。
「私も将臣様が側にいてくださると、自分の目が見えないことに全く引け目を感じないんです」
伊織は泣きはらした目をしながら、微笑んだ。
「私も将臣様とずっと一緒にいたいです。二人、寄り添い合えば…何も恐くないですよね?」
伊織の問いかけに一瞬驚いたが、将臣は突っ張った頬を緩めるとぎこちない笑みを浮かべる。
「むしろ…『無敵』じゃないか?」
「はい!そうですね!」
伊織は嬉しそうに笑みを深めた。
・
・
・
「くしゅん!」
くしゃみをした伊織に、将臣は慌てて自分が着ていた羽織を脱いで肩にかけようとした。
伊織はそれを、そっと押し返すと、将臣の耳元に囁いた。
それを聞くや否や、将臣は苦笑しながら大きく頷く。
二人は一つの羽織を分け合い、寄り添うように身を包んだ。
――その姿は、まるで『比翼の鳥』そのものだった。
『伊織』と名乗った女中は、緊張した面持ちで頭を下げた。
「どこを向いて“お辞儀”してるんだ?」
机に頬杖しながら、土岐将臣が飽きれたように言い放った。
「も、申し訳ありません…!」
伊織は弾かれたように顔をあげ、左右に視線を彷徨わせた。
「申し訳ございません、将臣様。伊織は……その…盲目で…あまり物が見えないのでございます」
年配の女中が伊織の非礼を詫び、深々と頭を下げた。
「…ふん、なるほどな。 目がよく見えぬ下女なら俺の気が触れないと思っての配慮か?」
「そ、そんな! 滅相もございません!! わ、わたし達は…ただ」 将臣は拳で机を思い切り叩き、女中の弁解を遮った。女中は息を吞み、身をすくませる。
「はっきり言ったらどうだ? 俺の顔が醜いから世話をするのが嫌なんだろう? 視界にも入れたくないんだろう?…だから目が見えない者を遣わせた。ああ…そうだよな! こんなに焼け爛れた顔…自分でも嫌気が差す!!」
急に癇癪を起こし、将臣はそう吐き捨てると机に置いてあった水差しを乱暴に投げつけた。水差しは女中のすぐ横の壁に当たり、乾いた破裂音を立てて割れた。 伊織は吃驚して、音のする方へ振り向く。 女中の顔はみるみるうちに青褪めた。
「出ていけ!!」
将臣が大きな声で怒鳴ると、女中は伊織を置き去りにして慌てて部屋を出ていった。
「くそっ!」
将臣は机に広げていた原稿用紙をぐしゃっと握り潰した。
(なぜ俺が、こんな目に遭わなければならんのだ!!)
かつて将臣は新聞記者をしていた。
新人の頃は、『弱きを助け、強きを挫く』を信条に、正義感だけを頼りに筆を走らせていた。
その姿勢を買われ、帝都有数の大手新聞社へ引き抜かれると、将臣は異例の速さで出世していった。
だが立場が上がるにつれ、扱うのは政治家の汚職や軍の不祥事といった大きな闇ばかりになった。
いつしか将臣は、自分の立場を守ることに固執し、上から『もみ消せ』と言わせれば、二つ返事で記事を握りつぶすようになっていた。
ある日、帝都内を歩いていた将臣は、突然現れた男に火炎瓶を投げつけられて、顔に大きな火傷を負った。
男は、とある政治家によって人生を狂わされ、その糾弾を記事にしてほしいと将臣に縋りついていた人物だった。
将臣は取材だけは行ったものの、それを表立った記事にすることはなかった。
――そのことを恨んだ末の犯行だった。
治療のため休職を余儀なくされた将臣だったが、左半分に覆う火傷の痕が元に戻ることはなかった。
焼け爛れた皮膚は赤黒く変色し、引き攣れ、かつての精悍な面影は失われていた。
哀れみや奇異の視線を向けられるたびに、将臣の胸には恐怖が積み重なっていった。
かつての彼の記事で転落していった人々と同じように――
将臣自身もまた、賞賛を浴びていた日々から一転し、人の目に怯える生活へと堕ちていった。
「…皮肉なものだな」
将臣は自分を嘲った。
そんな彼の耳に雑音が届いた。
将臣は我に返って振り返ると、伊織がしゃがみ込み、割れた硝子の破片を拾っている姿があった。
「痛っ」
案の定、あまり目が見えていない伊織はガラス片で指を切った。
「何をしてるんだ。俺は『出ていけ』と言った筈だぞ!」
「すみません。これを片付けてから出ていきますので…お怪我をされたら大変ですから…」
そう言って、伊織は光のない瞳を懸命に向けながら、畳に散らばったガラス片を覚束ない指先で拾い上げていく。
「…そんなもの、箒で掃いて集めればいいだろう」
「……箒がどこにあるか、分からないもので…」
将臣はチッと舌打ちをして、部屋を出て行った。
「これで取れ」
戻ってきた将臣は仏頂面のまま、伊織の目の前に箒とチリ取りを突き出した。
物が見えづらい伊織は、それが何か分からず思わず首を傾げる。
将臣は焦れったくなり、強引に伊織の手に箒を握らせた。
「!? あ、ありがとうございます!」
手に持った感触でそれが分かり、伊織は感無量といった面持ちで深々と頭を下げた。
「…目はどのくらい見えているんだ? 全盲でなければ、ある程度は見えるんだろう」
「はい。…明るさと暗さの違いぐらいは…それで物の輪郭がぼんやりとですが、分かります」
「そうか。……片付けて、さっさと出ていってくれ」
「わ、分かりました」
伊織はぎこちない手つきで、ガラス片を掃いていく。
しばらく机で執筆していた将臣だったが、掃く音がどうしても気になって再び振り返った。
「なんでうちに来たんだ?」
「働きたくって。…でも、こんな目なもので…なかなか仕事先が見つからず。そしたら奥様がここで雇ってくださると仰ってくださいまして…」
「…………」
その言葉に将臣は押し黙った。
盲目の伊織を雇い入れたのは、将臣の母親だ。
今現在、将臣は帝都から離れた田舎町にある生家に身を寄せている。
火傷を負った一件で人間不信になっていた将臣は、敷地内の離れでひっそりと生活していた。
食事を運んで来る者、掃除に来る者……来る者すべて拒み、母親の手を煩わせていた。
そこで、物が見えづらい盲目の伊織が都合よく選ばれたのだろう。
「俺の顔は…本当に見えんのか?」
「はい」
「…そうか」
将臣は伊織の返事に安堵した。
「お前は本当にここで働きたいんだな?」
将臣の言葉に、伊織は驚いた顔をした。
「はい!…でも」
先程から将臣に邪険にされ続けていることで、伊織は思わず口ごもった。
「…なら、最低でもこの離れの間取りを覚えておけ。そんなに覚束ないままなら、すぐクビにするぞ」
「は、はい、頑張ります!」
将臣の嫌味たっぷりな言葉にもめげず、伊織は力強く頷いた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「…食事をお持ちしました」
伊織は膳を持って、将臣の部屋に入ってきた。
数週間が経ち、伊織は離れの間取りや家具の配置をすべて把握しているかのように、自然な立ち振る舞いをしていた。
「もう以前のように家具にぶつかったり、段差に躓かなくなったな……」
将臣は、思わずそう呟いていた。
そんな将臣に対して、伊織は静かに微笑む。
「はい。将臣様が根気強く物の場所を教えてくださったお陰ですね」
「…俺は、別に」
お礼を素直に受け取れない卑屈な将臣に、伊織は少し困り顔をした。
「いえ。将臣様には助けられました」
伊織は将臣が聞き取れないほどの小さな声で呟く。
「…以前に少しお話しましたが、私の目はほとんど色の見分けがつかないのです。明るさと暗さの違いは、ある程度分かるといった具合でして…」
伊織が自ら話し始めて、将臣は黙って聞くことにした。
「例えるなら…色が抜け落ちて、全体が白黒のような濃淡に見えるといいますか。ですから、物の輪郭を影の濃さで捉えているのです」
そう言って、伊織は箪笥の方を正確に指差した。
「…なるほどな」
将臣は相槌を打った。
「…でも物の距離感を掴むのは難しいです」
当時を思い出すように、伊織は何もない宙を見据えた。
「でも、慣れてくると、頭の中に自然と見取り図が出来上がってくるのです。今まで培った経験と感覚が、頼りになるといいますか」
伊織は続けた。
「ですから…将臣様が、根気強く教えてくださったお陰でもあるのです」
「そうは思わん。……俺には真似できんからな」
将臣はそっぽを向き、ぼそりと呟く。
「ありがとうございます。…嬉しいです」
将臣の皮肉を、伊織は正しく褒め言葉として受け取った。
「…別に褒めたわけでは…いや」
反射的に否定しそうになった言葉を途中で飲み込んだ。
盲目の伊織の境遇が、これまで良かったとは思えない。
彼女はどこか人を恐れている。
――それは、今の自分とよく似ている。
「…ところで、将臣様はいつも何を書いておられるのですか?」
伊織は将臣の前で正座した。
「…小説だ」
「小説、どんなお話を?」
「道化の話だ」
「…道化、ですか?」
聞き慣れない言葉に、伊織は小さく首を傾げた。
「ああ。一度は栄華を極めた男が…己が慢心のせいで次第に転落していく戯け話だ」
将臣は自虐的に笑った。
伊織は、その笑みの意味が分からず、小さく首を傾けた。
伊織は黒い瞳をしている。
外光をすべて吸い尽くしたかのような、深淵の闇そのものだ。
辛うじて明るさと暗さの違いしか分からないその目が、将臣をはっきりと映すことは決してない。
それでも将臣は何度も伊織の目を見て、確かめずにはいられなかった。
――本当に、何も映っていないのか。
将臣は怖かった。
いつか、彼女に自分を知られてしまう時が来るのではないかと。
それが堪らなく、怖かった。
「…将臣様」
伊織の声に、将臣は我に返った。
頭痛を覚えて、思わずこめかみを押さえる。
「大丈夫ですか?」
将臣の返事がないことに、伊織は不安になった。
「…大丈夫だ。疲れたから…少し休む」
「…は、はい」
立ち上がった伊織を、将臣は手で制した。
「いや、いい。布団は自分で敷く。…お前はもう下がっていい」
「…分かりました」
将臣の声色に何かを感じ取った伊織は、素直に頷いた。
そして後ろ髪を引かれながらも、部屋の戸を静かに閉めた。
将臣は布団を敷くと、そのまま寝転んだ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ハンチング帽の男が、こちらへ近づいて来る。
「ーーー。ー-ーーーー」
男は怒鳴り声を上げながら、ジャケットの内側に隠していた硝子瓶を取り出した。
瓶の中には琥珀かかった液体がなみなみと入っている。
男は瓶の縁に詰め込んだ布の先端に、ライターで火を付ける。
そして恐ろしい形相を向けたまま、将臣の顔めがけてそれを投げつけた。
将臣の視界が、一瞬で赤く染まった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「っ!?」
将臣は布団から飛び起きた。心臓がドクドクと早く脈打っているが、全身が冷水に浸ったかのように冷たい。
『将臣様…?』
部屋の外から伊織の声がした。
「伊織…まだいたのか?」
『はい…その…大丈夫ですか? 今大きな声が…』
「なんでもない…」
『で、でも』
「もう夜だぞ。さっさと自分の部屋に戻れ! 俺に構うな!!」
将臣は布団を深く被って、固く瞼を閉じる。
伊織の足音が遠ざかっていった。
将臣は伊織に辛く当たる自分に嫌気が差した。
伊織は将臣のことを慮って、こんな時間になってもずっと部屋の外にいてくれたのだ。
何故、「ありがとう」の一言がいえないのか。
“コン、コン”
しばらくして戸を控えめに叩く音がした。
将臣は少し上体を起こす。
『将臣様…入ってよろしいですか?』
将臣は何も答えなかった。
『…失礼します』
返事を待たず、伊織はそっと戸を開いた。
「喉は乾いていませんか? お水をお持ちしました」
月明かりを頼りに、伊織は慎重な足取りで将臣のもとに歩み寄った。
そして指で畳を探るようにして、枕元近くに水差しを静かに置く。
「さっきは…すまなかった」
将臣がポツリと謝った。
「いいえ。私が勝手なことをしたのがいけなかったのです」
伊織は首を横に振る。
「いや、お前に八つ当たりしただけだ。…本当にすまない」
「お気になさらず。…なにか、お辛い事があったのでしょう」
伊織の優しく気遣う言葉に、将臣は泣きそうになった。
「これは因果応報なんだ。…すべて俺が招いたこと。…誰かを責めるなんて…間違っているよな」
将臣は震える声で呟いた。
伊織はおぼつかない手つきで将臣の背をゆっくりと擦る。
その時、将臣は自分が泣いていることに気づいた。
きっと泣き顔は醜いものだろう。
伊織の目が見えないことが、今の将臣には救いだった。
「あまり…うまく言えないのですが…」
伊織は一旦言葉を切って、慎重に言葉を選ぶように視線を彷徨わせた。
そして意を決したように、こう続ける。
「…将臣様が今まで何か悪い行いをしたとしても…少なくとも私のことは手助けしてくださいました。因果応報は決して悪い事だけではないのです。いい事をしたら巡りめぐって返ってくる。だから…きっと、いつか将臣様がしてきた良い行いで報われる時が、必ず来ます」
いつも自信がなく、たどたどしい物言いをする伊織だが、その言葉は確信を持ったかのように力強かった。
――正直、そうは思えない。
それが将臣の本心だ。
だが、伊織がそう言うなら『信じてみてもいい』とも思った。
「…そうだな」
将臣の返事に、伊織は静かに微笑んだ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「伊織はどうした?」
その日、将臣のもとに来たのは伊織ではなく、初対面の若い女中だった。
「い、伊織さんならもう辞めました」
女中は将臣から露骨に視線を外しつつ、怯えながら答えた。
「…何だ、と」
その言葉に将臣は愕然とした。
「なぜだ!? なぜ急に……!」
将臣は、女中の両肩を掴んで問いただした。
「さ、さるお方の…め、妾になるそうで…それで辞めたと聞きました」
将臣は言葉を失った。
「ここに来る前からあったお話、だったようですが…」
以前聞いた時には働きたいとは言っていたが、妾になる話は聞いていない。
妾とはあまり表立って口にできるものではない。
伊織が言えなかったのは無理からぬことだと分かっていても、将臣は大きな衝撃を受けた。
女中の肩から力なく手を放して、将臣は自身の顔を覆った。
(妾…?伊織が…?)
伊織はとても美しい娘だ。
盲目でなければ何処ぞの良家に嫁いでもおかしくない。
例え妻にできずとも、妾として手元に置きたいと思う男はいくらでもいるだろう。
(嫌だ…)
将臣は首を振った。
(伊織が傍からいなくなる…なんて…)
伊織はずっと自分の側にいるものだと、勝手に思っていた。
辛く当たることがあっても、伊織は黙って側に寄り添ってくれた。
なのに、自分は何か一つでも伊織の支えになったことがあっただろうか。
(いや…伊織に何もしてやれなかった。…いつも自分の事ばかりで…)
ーーこんな別れは…あんまりだ!
「伊織は今どこにいる?」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
伊織は白い着物を着て、椅子に座らされていた。
伊織を妾にすると言った男は、伊織より一回り以上も年上だった。
名の知れた家の人間で、財も地位もある。世間的に見れば、悪い縁談ではないのだろう。
伊織はもともと、それなりに名の知れた名家の娘だった。
本来であれば、同じ家格の子息や、将来を嘱望される男のもとに嫁ぎ、家と家を繋ぐ役目を担うはずの存在だった。
『鏑木の家のために、誠心誠意尽くせ』
その言葉を、伊織は物心つく前から何度も聞かされて育った。
家を守ること。
親に恥をかかせないこと。
それが娘として生まれた自分の務めであると、疑うことなく信じていた。
だが八歳の時、高熱を出したことをきっかけに、伊織は視力のほとんどを失った。
体裁をなによりも重んじる両親にとって、盲目になった娘は誇りでなく、恥だった。
将来、娘を良家の男に嫁がせるはずだった計画は脆く崩れ去り、両親は伊織を早々に見限った。
『役立たず』
その言葉を、伊織は呪いのように何度も浴びせられた。
𠮟責はやがて日常的になり、伊織の自尊心を奪いつつあった。
そんな伊織に、ある日、縁談が舞い込んだ。
『妾でも、今のお前には贅沢すぎる程の幸せだろう』
『これでやっと、鏑木家の役に立てるわね』
両親は、吐き捨てるようにそう言った。
『お荷物』でしかない伊織が家を出ていく
――両親にとって手放しで喜ばしいことだった。
「将臣様」
伊織は俯きながら、彼の名を静かに呼んだ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
『どうした? そこに居ると路面電車が来て危ないぞ』
『す、すみません! 人とはぐれてしまって…目が悪いもので…教えていただきありがとうございました』
『…そうか』
不意に手を引かれて、伊織はとても驚いた。
『俺も、人を探すのを手伝ってやる』
ぶっきらぼうでも優しい彼の言葉に、その時の伊織は救われる思いだった。
無事に人を見つけることができ――男が去る間際、思い切って名を尋ねた。
『土岐将臣だ』
そう名乗ると、彼は去って行った。
数年後――伊織は将臣の事を人伝に聞いた。
記者をしていたが、誰かに逆恨みされて、顔に大きな火傷を負ってしまったこと。今は地元に帰っていること。
伊織は自分が他の男の妾になる前にもう一度、どうしても将臣に会いたかった。
将臣は今辛い思いをしているのではないだろうか。
ーー…あの時の恩返しがしたい
ーー…もう一度、せめて一目だけでも会いたい
伊織は両親に頼み込んで、将臣の家で働けるように懇願した。
何不自由ない暮らしを約束されていた伊織だったが、『相手の家で暮らす前に、少しでも世間を知り、素養を身につけておきたい』と最もなことを言うと、両親は思いの外あっさりと聞き入れてくれた。
両親のなかでは、あと少しで出ていく伊織のことなど、もうどうでもよかったのかもしれない。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
(この日が来ることは、わかっていたのに……)
「将臣様…」
伊織は、はらはらと泣き出した。
あの出会いから、伊織はずっと将臣のことを忘れずにいた。
再会してひどい言葉を投げかけられたが、将臣の事を全く嫌いになれなかった。
短い時間だったが一緒に過ごすうちに、将臣への想いだけが強くなった。
「貴方に会いたい…」
別れの挨拶さえ、言えなかった。
他の男の妾になるなんて、将臣には知られたくなかったのだ。
伊織は咽び泣く。
将臣の事を思うと、彼が恋しくて、涙が止まらなかった。
『――止まれ!』
その時。
ドア越しから男の怒号が聞こえ、伊織は我に返った。
椅子から腰を浮かしながら、そっと耳を澄ませる。
『貴様、ここを誰の屋敷だと思っている!止まれ!!』
気になった伊織は椅子から離れ、覚束ない足取りで、声がする扉の方へ向かった。
そして扉を薄く開けて、隙間から少し顔を覗かせる。
「伊織、何処に居る!?」
将臣の声だった。
(嘘…幻聴…?)
伊織は今起きている事が信じられなかった。
「どうして…将臣様が、ここに?」
気づけば伊織は廊下に出ていた。
将臣が伊織の姿を見つける。
周りにいた男たちの制止を振り切り、将臣は伊織の元に駆け寄ってきた。
「伊織!」
将臣は伊織の手を強引に掴んで、有無を言わさずに駆け出した。
突然のことで足が縺れそうになるのを、伊織は必死に踏みとどまろうとした。
「走れ!」
「!!」
将臣の荒い声に、伊織は彼の手をしっかり握り返すと、無我夢中で駆け出した。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「とりあえず…ここまでくれば、大丈夫だろう」
河原の橋の下、将臣は息を切らしながら言った。
「将臣様…どうして?」
伊織は息を整えながら、将臣に問いかけた。
「……別れの挨拶もしない薄情者に一言いってやりたくてな」
将臣は拗ねたように告げた。
「そうですか。…その、言いたい事とは?」
伊織はおそるおそる尋ねた。
「……俺はこの通り。ああ…お前も知っていると思うが顔にひどい火傷の痕がある。そのせいで俺は…人前に出ることが…何よりも恐い」
「…はい」
「でもお前と一緒にいたら…ほかの奴らがどんな目で俺を見ようとまったく恐ろしくは感じないんだ」
伊織を一人で迎えに行く時、
二人でここまで逃げて来た道すがら、
多くの通行人とすれ違った。
だが不思議なことに、将臣は人の視線がまったく気にならなかった。
無我夢中だったから、気に留める余裕がなかっただけかもしれない。だがしかしーー
「伊織」
「はい」
伊織は、まっすぐ将臣の顔を見上げた。
彼女の瞳は相変わらず光のない黒だった。
「お前といると自然と勇気が出る、と言うか。…だ、だから、その…これからも、俺の側にいてくれないか?」
将臣の言葉を聞いた途端、伊織は急に泣き始めた。
「ど、どうした…嫌だったか…?」
将臣はおろおろし始めた。
「いいえ!…違います」
伊織は袖で涙を拭うと顔を見上げた。
「私も将臣様が側にいてくださると、自分の目が見えないことに全く引け目を感じないんです」
伊織は泣きはらした目をしながら、微笑んだ。
「私も将臣様とずっと一緒にいたいです。二人、寄り添い合えば…何も恐くないですよね?」
伊織の問いかけに一瞬驚いたが、将臣は突っ張った頬を緩めるとぎこちない笑みを浮かべる。
「むしろ…『無敵』じゃないか?」
「はい!そうですね!」
伊織は嬉しそうに笑みを深めた。
・
・
・
「くしゅん!」
くしゃみをした伊織に、将臣は慌てて自分が着ていた羽織を脱いで肩にかけようとした。
伊織はそれを、そっと押し返すと、将臣の耳元に囁いた。
それを聞くや否や、将臣は苦笑しながら大きく頷く。
二人は一つの羽織を分け合い、寄り添うように身を包んだ。
――その姿は、まるで『比翼の鳥』そのものだった。
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