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07 余命宣告された、天涯孤独の『円』。彼女に手を差し伸べたのは、浮世離れした美しい男だった。
深愛の海底
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『その命いらないなら、私にくださいませんか?』
ぞっとするほど、浮世離れした美貌を持った男は、蠱惑的な笑みを浮かべ、円に向かって手を差し伸ばしてきた。
『……意味が分からない』
円は警戒を滲ませながら、差し出された手をじっと見た。
『だって貴女、今から死ぬつもりなのでしょう?』
『っ…』
図星を指されて、屋上の縁に立っていた円はたじろぐ。
ーーまさに男の言う通りだった。
円は進行性の乳がんと診断され、他臓器の転移も見つかり、残り数週間との余命宣告を受けた。
それを同居している婚約者に告げたら、あっさりと別れを切り出されて、アパートから追い出された。
円には、家族がいない。
幼い頃、父親が死に、母親に育児放棄され、気づいたら施設で暮らしていた。
親がいないから、施設育ちだからと言う理由だけで、同級生に見下されて、友達といえる存在もいない。
円は、屋上の縁から地上を見下ろす。
足下では、多くの通行人の姿が見えるが、誰一人として、円に気づく様子はなく通り過ぎていく。
――この世界には、こんなにたくさんの人がいるのに、誰も私のことを見てくれない。
――自分の死を悲しんでくれる人は、誰一人いない。
完全に独りぼっちだということを実感し、円は生きる意味を失った。
(もう、どうでもいいや)
そう思っていた時、男に声をかけられたのだった。
◇ ◇ ◇
「円さん」
優しく自分の名前を呼ぶ声に、円はゆっくりと瞼を押し上げた。
「ああ、やっと起きましたか。もう死んだかと思いましたよ」
男は寄せていた顔をゆっくりと離すと、胡散臭い笑みを浮かべながら、辛辣な言葉を吐いた。
この男はいつも笑っている。
いわゆるポーカーフェイスと言うやつだ。
心の内が全く見えない。
それが気に食わないのに、超絶イケメンなのがさらにムカつく。
「…死んでなくって……悪かったね」
円は不機嫌な顔で、横向きになり、毛布をかぶりなおした。
「おや、二度寝ですか?」
「そう! あなたのせいで最悪な目覚めだったから寝直すの!」
目を固く閉じたまま、男に言い放つ。
「…そうですか。せっかく朝食を用意したのに…残念ですが、片付けるしかないですね」
男は露骨にため息をつくと、テーブルに置いた料理を下げ始めた。
カチャカチャ、と虚しく響く食器の音に、円は居たたまれなくなって飛び起きる。
「あ~~~!!もう!!」
寝起きの髪のまま、乱暴に椅子に腰を下ろした。
「おや、二度寝はもういいんですか?」
男は、わざと驚いた顔をする。
「…ご飯よそってよ」
ぷいっ、とそっぽを向き、ぼそりと呟く。
「はいはい」
男は、ぶっきらぼうな彼女の態度にそっと微笑んだ。
円は、せっかく作ってくれた料理を無駄するなんてことは絶対しない。
「今日は、円さんの好きな『落し卵のお味噌汁』を用意しましたからね」
そう告げ、男は味噌汁を木製のお椀によそった。
「!!」
円は目を輝かせて、熱い視線でエプロン姿の男の背中を見つめる。
視線に気づいて男が振り返ると――円はぷぃ、とそっぽを向いた。
『ふっ』
自然と笑みを深め、円の前に湯気の立つお椀をそっと置く。
「……ん?」
いつまで経っても食べ始めないことに、男は不思議になって首を傾げる。
いつもなら無言で、出された食事を食べるのに、一向に食べる様子がない。
「…食欲ないですか? もしかして体調が…」
「あなたは?」
「え?」
「あなたは、食べないの?」
円の言葉に、男は“初めて”本当に驚いた顔をした。
「…ああ、そうですね。一緒に食べましょうか」
『一緒に食べたい』と思ったのだろう。
円は、言葉足らずで不器用なところがある。
そんな彼女のことを微笑ましく思いながら、男は自分の食事を用意し始めた。
その間に、円は電気ケトルのお湯を急須に注ぎ、二人分のお茶を用意する。
席につき、男は自分のお茶が用意されていることに気づいた。
「円さん、ありがとう」
男は、微笑む。
「別に…いつも、あ、あなたが用意してくれるし、たまには…そ…それと――」
その後に続く言葉が出てこず、円は静かに俯く。
円が何を言おうとしたのか、男はちゃんとわかっていた。
その後に続く言葉は『ありがとう』に違いない。
言うのが照れくさいのか、お礼を言い慣れていないのか。
円は自分の気持ちを言葉にするのが、お世辞にも上手いとは言えない。
「はい。では、揃ったので食べましょうか」
男が手を合わせて『いただきます』と言う。
一方、円は手を合わせることはしなかったが、『いただきます』と消え入りそうな声で返した。
◇ ◇ ◇
(どうして…この人は『私と暮らす』なんて、言ったんだろう)
差し伸べられた手を取った時、男は「死ぬまでの間、一緒に暮らしてほしい」と言った。
男女が一緒に暮らすことの意味を、円はすぐに理解した。
だが同棲していた婚約者にアパートを追い出されて、行く宛のなかった円には好都合だった。
その夜、男は円に指一本触れてはこなかった。
『すぐ死ぬ女と後腐れもなく共に過ごす』という前提の提案だと思ったのに、男が誘うことは一度もなかった。
(どうして? それ以外に…私に価値なんかないのに…)
――婚約者だって、元は『客』だった男だ。
お金はある。
だから店を辞めさせ、アパートに住まわせてくれた。
愛してくれてたと思っていたのに、結局ただの都合のいい女でしかなかった。
悲しかったが、自分には男を引き止めさせる魅力がないのだから、それは仕方がない。
(むしろ、私のこと…汚いと思ってるのかな)
円は、色んな男を相手にして生計を立てていた。
そんな女は汚いと言ってくる男は、少なからずいた。
だが、この男には名前以外のことは何も教えてない。
男女の関係が一切なく、男が『一緒に暮らしたい』と言った理由が、円には分からなかった。
男が愛想を尽かすような態度を、円はあえてしていた。
男の前で甘える演技なんか、仕事で慣れている。
だが、この男に対してだけは、わざわざ嫌われるような真逆の行動を取っていた。
それは男への警戒心からの行動ではあったが、その一方で男を試していた節があった。
――男が、『自分のどんな姿でも側にいたい』と思ってくれることを、円はどこか期待をしていたのだ。
◇ ◇ ◇
「……ねえ」
ベッドに横たわり、側の椅子に腰を下ろす男に声をかける。
「どうしました?」
男は、りんごの皮を剥きながら尋ねる。
「私…水族館に行きたい」
一週間、共に過ごしてきたなかで、円が具体的に何かをねだったことは一度もなかった。
――自分に心を開いてくれたのか。
そう思うほど、最近の円はありのままの自分の姿を見せることが多くなっていった。
少し幼さが残る、話し方。
素っ気なく振舞っているが、本当はとても甘えん坊。
男は、そんな円のすべてをとても愛おしく思っていた。
――彼女の願いなら、なんだって叶えてやりたかった。
円に、残されている時間は極僅かだ。
一緒に食卓を囲んだ頃の元気さが、今の円にはもうない。
ベッドで横になることが、日に日に多くなっていった。
――これが、円の最後の願いになるかもしれない。
「……そうですね」
男は果物ナイフをサイドテーブルに置き、ふきんで手を拭う。
そして皮がうさぎの耳をしたリンゴを、円に見える位置に置いた。
母親にだって、リンゴを剥いてもらったことがなかっ
た円は、それを見て、とても嬉しそうな顔をした。
そんな愛おしい彼女の姿に、男は無性に涙がこみ上げてきた。
円の喜んだ顔を、自分はあと何回見ることができるのだろうか。
なんとかこの感情を呑み込み、男はいつものように優しい眼差しで微笑む。
「なら、明日にでも水族館に行きましょうか」
男の言葉を聞いた途端、円は「うん!」と嬉しそうに頷いた。
◇ ◇ ◇
――虚空を見上げる少女。
身体は骨が浮き彫りになるほどやせ細っており、服は薄汚れていて、何日もお風呂に入っていない肌は垢で黒ずんでいた。
カップ麺の容器やペットボトルなど、多くのゴミに囲まれ、悪臭の漂うような劣悪な環境下の中に――彼女はいた。
『ねぇ、天使さん。…私を早く天国のお父さんのところに連れて行って』
少女は幾度も涙を流して、目は赤く腫れていた。
何度も袖で涙を拭った目元。
涙の跡を残した頬は、彼女本来の白い肌を如実に映し出していた。
『…どうして?』
“天使”が、問いかけた。
『ここは、地獄だから…』
生気のない虚ろな瞳で、少女は何度も何度も『ここは地獄』だと繰り返した。
『地獄はもっと……いや…そうだな。…確かに君にとってここは地獄かな』
天使は「地獄はもっと酷いところだ」と言おうとしたが、それを口に出せなかった。
地獄なんて、人の苦痛なんて、人それぞれ感じ方がまるで違う。
彼女がこの状況を地獄というのなら、そうなのだろう。
『うん…だから天使さん。…早く、私を天国に連れて行ってよ』
『……そうしてあげたいけど。君の寿命は…まだまだ先なんだよ』
天使は、申し訳なさそうに告げる。
『この地獄がまだまだ続くの?』
少女は俯き、両膝を抱えた。
『い、いや。君が寿命を迎える時は…きっと、君は自分の人生を“幸福”だったと感じるはずだ』
『……なんで、そう思うの?』
少女は、胡乱な目で天使を見上げる。
『私は、天使だから分かるんだよ。だから、もっと生きてごらん』
天使の言葉に、少女は納得いかない顔をした。
『天使が言うんだから。…ほら! 信じるものは救われる、だ』
天使は、そう言って微笑む。
『…うん、わかった…』
急に眠くなったのか、少女はうつらうつらと答えた。
『君は、とてもいい子だね』
天使は、少女の頭を優しくそっと撫でた。
◇ ◇ ◇
円は、ゆっくりと瞼を押し上げた。
辺りは、街灯の明かりのみで暗い。
水族館前のベンチ。
男に膝枕されて、円は横になっていた。
「ごめん…寝すぎちゃった」
弱々しい声で、謝る。
入場前で体調を崩し、すぐ治るからと言ってベンチで休むことにしたのだ。
だが目を覚ました頃には、水族館はすでに閉館していた。
「終わっちゃったか…」
円は、残念そうに呟く。
「……大丈夫。少し目を閉じてごらん」
男は、少し寂しそうに微笑んだ。
「…うん」
円は言われたまま、静かに目を閉じる。
◇ ◇ ◇
気づけば、海底に一人佇み、海面を見上げていた。
穏やかに波立つ海面が、太陽の屈折した光でキラキラときらめいて見える。
濁りのない透き通った水。
海面近くを、銀色の小魚の群れが泳いでいる。
ゆっくりと視線を下げると、海底には鮮やかなサンゴ礁があり、その周りを色とりどりの熱帯魚が優雅に泳いでいた。
これは夢だな、と思った。
いや、もしかしたら自分は、もう死んでしまったのかもしれない。
病に蝕まれた身体の痛みが、今はまったくない。
「よかった…これで…やっと」
この苦しみからやっと解放されたと、円は心の底から安堵し、涙を流す。
「円…」
ふいに名を呼ばれ、振り返る。
「…聖?」
円が、男の名を口にした。
聖はいつものように、白いシャツと黒いズボン姿で微笑んでいる。
ただ一つだけ違うのは、その背中には純白の羽根が生えて見えた。
だがそれは、両方とも途中で無理に引きちぎられたように失い、赤黒い血が絶えず滴り落ちている。
「聖、どうしたの!?」
円は、慌てて聖のもとに駆け寄った。
そして両膝を折り、倒れかけた聖の身体をしっかり抱きとめる。
「すまない…円。もっと…君を長生きさせてあげたかったけど…もう代価になるものが…なくって…ね」
聖が、弱々しい声音で言った。
「…代価って?…なに…それ…」
聖の背に手を回し、円は思わず聞き返した。
「円に約束したのに…“幸福な最後”を迎えさせるって。…なのに…すまない」
聖は、円の問いかけに答えない。
その代わりに、うわ言のように「すまない」と何度も何度も、懺悔の言葉を繰り返すだけだった。
――彼の言う、「幸福な最後」。
その言葉に、円はあの時のことを思い出した。
そして、今わかった。
――なぜ、あの時だけ、天使の姿が見えたのか。
「聖。…あの時…本当は…私、死ぬはずだったんでしょう?」
息が詰まりそうになりながらも、震えた声で問いかける。
聖は、押し黙った。
「でも…その羽根と、引き換えに…私の寿命を伸ばしてくれたの?」
聖は、何も答えてくれない。
円の目からとめど無く、涙が溢れ出た。
「私のためなんかに…馬鹿だよ。…ねぇ…どうして…?」
円は泣きながら、聖をきつく抱きしめる。
「…円が地獄って言った…この世界で。私は…君に幸せを見せてあげたかった…」
聖の願いは、円の幸せだった。
彼女の言う地獄で、ただただ死なせたくなかった。
「なぜ、君にだけこんな感情を抱くのか……わからないが、私は君のことが愛しくてたまらない。……君を見守る時間が…私の、何よりの幸福な時間だった…」
聖は、そう言って少し笑った。
「逆に…私の方が…君から幸せをもらってしまっていたな」
円の肩に寄りかかる聖の顔はとても穏やかで、満たされた笑みを浮かべていた。
「私もだよ。…聖と一緒に過ごして…私…すごく幸せだったよ。20年生きてきて…聖と一緒に過ごしたあの一週間が…私の一番かけがえのない…幸せな時間だったの」
――ずっと孤独な人生を送っていた。
だが、最後にこんな幸せな時間を過ごせたのだから、自分はこの世界で一番幸せな人間だ。
「きっと…今までのくだらないと思ってた人生すべては…聖と過ごすための…あの日々のための試練だったんだね」
今、そう断言できる。
――今までの地獄のような人生がすべて、この時のためのものなら、自分は十分すぎるほど報われた。
「聖…あなたが言ったとおりの“幸せな最後”を、私にくれて…ありがとう」
円は、聖の身体を強く抱きしめた。
「………」
聖は、ひと息ついてから静かに笑みを浮かべると、ゆっくりとその瞼を下ろした。
――ぽこ、ぽこ。
生み出された泡が海面に向かって浮上する音がする。
泡になって消えていく聖の身体を抱きしめながら、円はその光景を静かに見つめた。
「本当に、幸せだったよ…聖」
円もまた、静かに自身の瞼を下ろす。
――ぽこ、ぽこ。
新に生み出された泡が、ゆっくりと揺蕩いながら、海上へと向かっていく。
泡となった、二つの魂の還る場所は、同じ蒼き天上の世界。
ぞっとするほど、浮世離れした美貌を持った男は、蠱惑的な笑みを浮かべ、円に向かって手を差し伸ばしてきた。
『……意味が分からない』
円は警戒を滲ませながら、差し出された手をじっと見た。
『だって貴女、今から死ぬつもりなのでしょう?』
『っ…』
図星を指されて、屋上の縁に立っていた円はたじろぐ。
ーーまさに男の言う通りだった。
円は進行性の乳がんと診断され、他臓器の転移も見つかり、残り数週間との余命宣告を受けた。
それを同居している婚約者に告げたら、あっさりと別れを切り出されて、アパートから追い出された。
円には、家族がいない。
幼い頃、父親が死に、母親に育児放棄され、気づいたら施設で暮らしていた。
親がいないから、施設育ちだからと言う理由だけで、同級生に見下されて、友達といえる存在もいない。
円は、屋上の縁から地上を見下ろす。
足下では、多くの通行人の姿が見えるが、誰一人として、円に気づく様子はなく通り過ぎていく。
――この世界には、こんなにたくさんの人がいるのに、誰も私のことを見てくれない。
――自分の死を悲しんでくれる人は、誰一人いない。
完全に独りぼっちだということを実感し、円は生きる意味を失った。
(もう、どうでもいいや)
そう思っていた時、男に声をかけられたのだった。
◇ ◇ ◇
「円さん」
優しく自分の名前を呼ぶ声に、円はゆっくりと瞼を押し上げた。
「ああ、やっと起きましたか。もう死んだかと思いましたよ」
男は寄せていた顔をゆっくりと離すと、胡散臭い笑みを浮かべながら、辛辣な言葉を吐いた。
この男はいつも笑っている。
いわゆるポーカーフェイスと言うやつだ。
心の内が全く見えない。
それが気に食わないのに、超絶イケメンなのがさらにムカつく。
「…死んでなくって……悪かったね」
円は不機嫌な顔で、横向きになり、毛布をかぶりなおした。
「おや、二度寝ですか?」
「そう! あなたのせいで最悪な目覚めだったから寝直すの!」
目を固く閉じたまま、男に言い放つ。
「…そうですか。せっかく朝食を用意したのに…残念ですが、片付けるしかないですね」
男は露骨にため息をつくと、テーブルに置いた料理を下げ始めた。
カチャカチャ、と虚しく響く食器の音に、円は居たたまれなくなって飛び起きる。
「あ~~~!!もう!!」
寝起きの髪のまま、乱暴に椅子に腰を下ろした。
「おや、二度寝はもういいんですか?」
男は、わざと驚いた顔をする。
「…ご飯よそってよ」
ぷいっ、とそっぽを向き、ぼそりと呟く。
「はいはい」
男は、ぶっきらぼうな彼女の態度にそっと微笑んだ。
円は、せっかく作ってくれた料理を無駄するなんてことは絶対しない。
「今日は、円さんの好きな『落し卵のお味噌汁』を用意しましたからね」
そう告げ、男は味噌汁を木製のお椀によそった。
「!!」
円は目を輝かせて、熱い視線でエプロン姿の男の背中を見つめる。
視線に気づいて男が振り返ると――円はぷぃ、とそっぽを向いた。
『ふっ』
自然と笑みを深め、円の前に湯気の立つお椀をそっと置く。
「……ん?」
いつまで経っても食べ始めないことに、男は不思議になって首を傾げる。
いつもなら無言で、出された食事を食べるのに、一向に食べる様子がない。
「…食欲ないですか? もしかして体調が…」
「あなたは?」
「え?」
「あなたは、食べないの?」
円の言葉に、男は“初めて”本当に驚いた顔をした。
「…ああ、そうですね。一緒に食べましょうか」
『一緒に食べたい』と思ったのだろう。
円は、言葉足らずで不器用なところがある。
そんな彼女のことを微笑ましく思いながら、男は自分の食事を用意し始めた。
その間に、円は電気ケトルのお湯を急須に注ぎ、二人分のお茶を用意する。
席につき、男は自分のお茶が用意されていることに気づいた。
「円さん、ありがとう」
男は、微笑む。
「別に…いつも、あ、あなたが用意してくれるし、たまには…そ…それと――」
その後に続く言葉が出てこず、円は静かに俯く。
円が何を言おうとしたのか、男はちゃんとわかっていた。
その後に続く言葉は『ありがとう』に違いない。
言うのが照れくさいのか、お礼を言い慣れていないのか。
円は自分の気持ちを言葉にするのが、お世辞にも上手いとは言えない。
「はい。では、揃ったので食べましょうか」
男が手を合わせて『いただきます』と言う。
一方、円は手を合わせることはしなかったが、『いただきます』と消え入りそうな声で返した。
◇ ◇ ◇
(どうして…この人は『私と暮らす』なんて、言ったんだろう)
差し伸べられた手を取った時、男は「死ぬまでの間、一緒に暮らしてほしい」と言った。
男女が一緒に暮らすことの意味を、円はすぐに理解した。
だが同棲していた婚約者にアパートを追い出されて、行く宛のなかった円には好都合だった。
その夜、男は円に指一本触れてはこなかった。
『すぐ死ぬ女と後腐れもなく共に過ごす』という前提の提案だと思ったのに、男が誘うことは一度もなかった。
(どうして? それ以外に…私に価値なんかないのに…)
――婚約者だって、元は『客』だった男だ。
お金はある。
だから店を辞めさせ、アパートに住まわせてくれた。
愛してくれてたと思っていたのに、結局ただの都合のいい女でしかなかった。
悲しかったが、自分には男を引き止めさせる魅力がないのだから、それは仕方がない。
(むしろ、私のこと…汚いと思ってるのかな)
円は、色んな男を相手にして生計を立てていた。
そんな女は汚いと言ってくる男は、少なからずいた。
だが、この男には名前以外のことは何も教えてない。
男女の関係が一切なく、男が『一緒に暮らしたい』と言った理由が、円には分からなかった。
男が愛想を尽かすような態度を、円はあえてしていた。
男の前で甘える演技なんか、仕事で慣れている。
だが、この男に対してだけは、わざわざ嫌われるような真逆の行動を取っていた。
それは男への警戒心からの行動ではあったが、その一方で男を試していた節があった。
――男が、『自分のどんな姿でも側にいたい』と思ってくれることを、円はどこか期待をしていたのだ。
◇ ◇ ◇
「……ねえ」
ベッドに横たわり、側の椅子に腰を下ろす男に声をかける。
「どうしました?」
男は、りんごの皮を剥きながら尋ねる。
「私…水族館に行きたい」
一週間、共に過ごしてきたなかで、円が具体的に何かをねだったことは一度もなかった。
――自分に心を開いてくれたのか。
そう思うほど、最近の円はありのままの自分の姿を見せることが多くなっていった。
少し幼さが残る、話し方。
素っ気なく振舞っているが、本当はとても甘えん坊。
男は、そんな円のすべてをとても愛おしく思っていた。
――彼女の願いなら、なんだって叶えてやりたかった。
円に、残されている時間は極僅かだ。
一緒に食卓を囲んだ頃の元気さが、今の円にはもうない。
ベッドで横になることが、日に日に多くなっていった。
――これが、円の最後の願いになるかもしれない。
「……そうですね」
男は果物ナイフをサイドテーブルに置き、ふきんで手を拭う。
そして皮がうさぎの耳をしたリンゴを、円に見える位置に置いた。
母親にだって、リンゴを剥いてもらったことがなかっ
た円は、それを見て、とても嬉しそうな顔をした。
そんな愛おしい彼女の姿に、男は無性に涙がこみ上げてきた。
円の喜んだ顔を、自分はあと何回見ることができるのだろうか。
なんとかこの感情を呑み込み、男はいつものように優しい眼差しで微笑む。
「なら、明日にでも水族館に行きましょうか」
男の言葉を聞いた途端、円は「うん!」と嬉しそうに頷いた。
◇ ◇ ◇
――虚空を見上げる少女。
身体は骨が浮き彫りになるほどやせ細っており、服は薄汚れていて、何日もお風呂に入っていない肌は垢で黒ずんでいた。
カップ麺の容器やペットボトルなど、多くのゴミに囲まれ、悪臭の漂うような劣悪な環境下の中に――彼女はいた。
『ねぇ、天使さん。…私を早く天国のお父さんのところに連れて行って』
少女は幾度も涙を流して、目は赤く腫れていた。
何度も袖で涙を拭った目元。
涙の跡を残した頬は、彼女本来の白い肌を如実に映し出していた。
『…どうして?』
“天使”が、問いかけた。
『ここは、地獄だから…』
生気のない虚ろな瞳で、少女は何度も何度も『ここは地獄』だと繰り返した。
『地獄はもっと……いや…そうだな。…確かに君にとってここは地獄かな』
天使は「地獄はもっと酷いところだ」と言おうとしたが、それを口に出せなかった。
地獄なんて、人の苦痛なんて、人それぞれ感じ方がまるで違う。
彼女がこの状況を地獄というのなら、そうなのだろう。
『うん…だから天使さん。…早く、私を天国に連れて行ってよ』
『……そうしてあげたいけど。君の寿命は…まだまだ先なんだよ』
天使は、申し訳なさそうに告げる。
『この地獄がまだまだ続くの?』
少女は俯き、両膝を抱えた。
『い、いや。君が寿命を迎える時は…きっと、君は自分の人生を“幸福”だったと感じるはずだ』
『……なんで、そう思うの?』
少女は、胡乱な目で天使を見上げる。
『私は、天使だから分かるんだよ。だから、もっと生きてごらん』
天使の言葉に、少女は納得いかない顔をした。
『天使が言うんだから。…ほら! 信じるものは救われる、だ』
天使は、そう言って微笑む。
『…うん、わかった…』
急に眠くなったのか、少女はうつらうつらと答えた。
『君は、とてもいい子だね』
天使は、少女の頭を優しくそっと撫でた。
◇ ◇ ◇
円は、ゆっくりと瞼を押し上げた。
辺りは、街灯の明かりのみで暗い。
水族館前のベンチ。
男に膝枕されて、円は横になっていた。
「ごめん…寝すぎちゃった」
弱々しい声で、謝る。
入場前で体調を崩し、すぐ治るからと言ってベンチで休むことにしたのだ。
だが目を覚ました頃には、水族館はすでに閉館していた。
「終わっちゃったか…」
円は、残念そうに呟く。
「……大丈夫。少し目を閉じてごらん」
男は、少し寂しそうに微笑んだ。
「…うん」
円は言われたまま、静かに目を閉じる。
◇ ◇ ◇
気づけば、海底に一人佇み、海面を見上げていた。
穏やかに波立つ海面が、太陽の屈折した光でキラキラときらめいて見える。
濁りのない透き通った水。
海面近くを、銀色の小魚の群れが泳いでいる。
ゆっくりと視線を下げると、海底には鮮やかなサンゴ礁があり、その周りを色とりどりの熱帯魚が優雅に泳いでいた。
これは夢だな、と思った。
いや、もしかしたら自分は、もう死んでしまったのかもしれない。
病に蝕まれた身体の痛みが、今はまったくない。
「よかった…これで…やっと」
この苦しみからやっと解放されたと、円は心の底から安堵し、涙を流す。
「円…」
ふいに名を呼ばれ、振り返る。
「…聖?」
円が、男の名を口にした。
聖はいつものように、白いシャツと黒いズボン姿で微笑んでいる。
ただ一つだけ違うのは、その背中には純白の羽根が生えて見えた。
だがそれは、両方とも途中で無理に引きちぎられたように失い、赤黒い血が絶えず滴り落ちている。
「聖、どうしたの!?」
円は、慌てて聖のもとに駆け寄った。
そして両膝を折り、倒れかけた聖の身体をしっかり抱きとめる。
「すまない…円。もっと…君を長生きさせてあげたかったけど…もう代価になるものが…なくって…ね」
聖が、弱々しい声音で言った。
「…代価って?…なに…それ…」
聖の背に手を回し、円は思わず聞き返した。
「円に約束したのに…“幸福な最後”を迎えさせるって。…なのに…すまない」
聖は、円の問いかけに答えない。
その代わりに、うわ言のように「すまない」と何度も何度も、懺悔の言葉を繰り返すだけだった。
――彼の言う、「幸福な最後」。
その言葉に、円はあの時のことを思い出した。
そして、今わかった。
――なぜ、あの時だけ、天使の姿が見えたのか。
「聖。…あの時…本当は…私、死ぬはずだったんでしょう?」
息が詰まりそうになりながらも、震えた声で問いかける。
聖は、押し黙った。
「でも…その羽根と、引き換えに…私の寿命を伸ばしてくれたの?」
聖は、何も答えてくれない。
円の目からとめど無く、涙が溢れ出た。
「私のためなんかに…馬鹿だよ。…ねぇ…どうして…?」
円は泣きながら、聖をきつく抱きしめる。
「…円が地獄って言った…この世界で。私は…君に幸せを見せてあげたかった…」
聖の願いは、円の幸せだった。
彼女の言う地獄で、ただただ死なせたくなかった。
「なぜ、君にだけこんな感情を抱くのか……わからないが、私は君のことが愛しくてたまらない。……君を見守る時間が…私の、何よりの幸福な時間だった…」
聖は、そう言って少し笑った。
「逆に…私の方が…君から幸せをもらってしまっていたな」
円の肩に寄りかかる聖の顔はとても穏やかで、満たされた笑みを浮かべていた。
「私もだよ。…聖と一緒に過ごして…私…すごく幸せだったよ。20年生きてきて…聖と一緒に過ごしたあの一週間が…私の一番かけがえのない…幸せな時間だったの」
――ずっと孤独な人生を送っていた。
だが、最後にこんな幸せな時間を過ごせたのだから、自分はこの世界で一番幸せな人間だ。
「きっと…今までのくだらないと思ってた人生すべては…聖と過ごすための…あの日々のための試練だったんだね」
今、そう断言できる。
――今までの地獄のような人生がすべて、この時のためのものなら、自分は十分すぎるほど報われた。
「聖…あなたが言ったとおりの“幸せな最後”を、私にくれて…ありがとう」
円は、聖の身体を強く抱きしめた。
「………」
聖は、ひと息ついてから静かに笑みを浮かべると、ゆっくりとその瞼を下ろした。
――ぽこ、ぽこ。
生み出された泡が海面に向かって浮上する音がする。
泡になって消えていく聖の身体を抱きしめながら、円はその光景を静かに見つめた。
「本当に、幸せだったよ…聖」
円もまた、静かに自身の瞼を下ろす。
――ぽこ、ぽこ。
新に生み出された泡が、ゆっくりと揺蕩いながら、海上へと向かっていく。
泡となった、二つの魂の還る場所は、同じ蒼き天上の世界。
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