ハチミツ色の絵の具に溺れたい

桃本もも

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第8話

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 まほろに見せる漫画はこれ以上なく慎重に選んだ。恋愛を主題としたものは小っ恥ずかしいし、二次創作は原作ありきのものだからすすめにくい。

 当時は上手く描けたと思ったものでも、時を経て読み返してみると、達成感によって自己評価が割増になっていただけだということが嫌でもわかる。未熟な作画や得意げに書きこまれたセリフを見ると、冷静でいられなくなってしまう。

  結局、いちばん無難だと思える、童話を現代風にアレンジしたものを選んだ。読み返していて、いちばん冷や汗が少なかったものだ。

 封筒に詰め、紙袋に入れて学校に持っていった。漫画の原稿用紙はかなり大きく、机のわきに提げていると邪魔になるし、クラスメイトの目についてしまう恐れもある。登校直後、迷いなく美術室へと直行することにした。美術室のロッカーには鍵がついているから安心だ。

 朝のホームルームまではまだ一時間もあり、生徒の姿はまばらだった。朝練の運動部の声が、静かな校舎にまで響いてくる。

 美術室のドアを開けると「わっ」と無防備な声がした。人がいるとは微塵も予想していなかったので、わたしまで「わっ」と声を上げてしまう。
 身構えるわたしをまん丸の目で見ていたのは、まほろだった。

「せ……先輩、どうしたんですか?」
「まほろこそ……」

 わたしたちは動悸のおさまっていない、震えた声で言いあった。
 まほろは腕を枕にして寝ていたのか、頬にカーディガンの編み目のあとがついていた。

「まほろ、いつも朝ここにいるの?」
「ああ……えーと……早く着いちゃったときは、ですね」

 まほろは赤くなった頬をかいている。なぜか部活のときの定位置ではなく、いつもわたしが使っている席に座っていた。

 まほろに友だちが少ないというのは、薄々感じていた。
 なぜなら、まほろは暇さえあれば美術室にいたからだ。放課後は最終チャイムが鳴るまでいたし、昼休みにここに来て昼食をとることもあったし、ときには休日まで美術室に来ることもあった。

 なぜここまでまほろの行動を把握できていたかというと、わたしも同じくらい美術室に入り浸っていたからだ。わたしはクラスに気の置けない仲間がいないから、教室にあまりいたくなかった。だから、まほろも同じような理由なのではないかと察していたのだ。

 だけど、まさか始業前までここに来ているとは……。わたしは漫画の原稿を持っているため人目をはばかって、今日に限って早く登校しただけで、予鈴の直前に教室にすべりこむのが通常だった。
 朝にまほろと会うのは、その日がはじめてだった。

 まほろが立ち上がって席を空け渡そうとするのを制し、わたしがまほろの席に腰かける。もともと、荷物を置いたら予鈴が鳴るまでここにいるつもりだった。なんとなく、まほろがいてくれてよかったなと思った。人が苦手なわたしらしくないな、と内心で苦笑する。

「先輩、もしかして、それ……」
「うん。あ、別に朝イチで見せようと思ってたんじゃなくて、ロッカーにしまっておこうと思って来ただけだったんだけど」

 なぜか、言い訳が早口になる。

「今、見てもいいですか?」

  まほろは机にのせた封筒を、熱っぽい瞳で見つめている。

「えっ、今?」
「だって、目の前にあるのにおあずけだなんて、このまま授業に出ても集中できないです」

 真剣な顔で迫ってくるまほろ。わたしはのけぞりつつ、見せるのが早いか遅いかの違いしかないか、と諦めをつけ、封筒の紐をほどいた。十六ページの原稿を、まほろの手に持たせる。

「生の原稿用紙、はじめて見ました。単行本はあんなに小さいのに、本物はこんなに大きいんですね」

 まほろはわたしの原稿を、まるで昔からのファンだった漫画家のものであるかのように、食い入るように読みはじめた。
 わたしの漫画を映す瞳がきらきらと輝いているのを見て、恥ずかしくなって目をそらしてしまう。

 封筒の紐を巻いたりほどいたり、また巻いたり。変に気持ちが高揚している。小学生のころ、友だちに自由帳を見せていたときよりも、心臓が激しく高鳴っている。

 やがて、まほろは原稿を読み終え、しばらく表紙を眺めたあと、両手で返してきた。口もとをほころばせているのを見て、わたしは身体の中心から熱いものが広がっていくように感じた。
 見せたくないと渋っていたときの自分に、今のまほろの顔を見せつけてやりたい。

「先輩……すごいです! プロの漫画家さんみたいです。小さいころ、わくわくしながら漫画を読んだ気持ちがよみがえってきたみたいです」
「そんな……大げさだよ。わたしなんてまだぜんぜん……」
「先輩、漫画家になるんですか?」

 まほろに問われて、わたしの思考は一瞬固まった。小学生のころから漫画を描いておいて、将来は漫画家になりたい、と考えたことは一度もなかった。

「新人賞に投稿したこと、ないんですか?」
「ないよ。考えたこともなかった。最初はただ、読んでもらえるのが楽しくて……だれにも見せなくなってからは、描くだけでも楽しいからつづけてきただけで……」
「もったいない!」

 まほろは急に大きな声を出して立ち上がった。わたしはびっくりして椅子から少し浮いた。まほろは椅子を動かし、わたしの方を向いて座り直す。

「先輩、こんなに上手なのに読者があたしだけだなんてダメです。投稿したら、きっといいことがあります」
「い、いいこと?」
「漫画家デビューです!」

 まほろのいつにない熱量に、わたしは圧倒された。しかし、いつのまにか身体は前に傾いていた。まほろの熱弁に引きつけられているのもたしかだった。

「先輩、あたし、ベタ……っていうんですよね? 黒く塗りつぶすの。それくらいはお手伝いできますよ。あと、トーンも教えてもらえばできるはずです。あたし、先輩のアシスタントになります」
「あ、アシスタント? プロじゃないんだから……バイト代も出ないよ?」
「いいんです。ていうかお金稼ぐためじゃありません。先輩のお手伝いをしたい……先輩と何かを作ってみたいだけです」

 まほろは強い瞳でわたしを見据え、わたしは揺らぐ気持ちでまほろを見返す。とりあえずくちびるを開いてみるが、言葉は出てこない。

 まほろはわたしの返事を待つつもりなのか、くちびるを真一文字に結んだきり、自分からは話そうとしない。まほろの眼差しから逃げるように目をそらすが、沈黙はつづく。

 助けを求めたくなった、そのとき。

 ぴんと張りつめた糸を切るかのように、予鈴が鳴りはじめた。まほろもわたしも、十センチくらい浮いた。

 美術室から教室までは急いでも三分くらいかかる。わたしたちは慌てて原稿を片づけ、美術室を飛び出した。

 うやむやのまま終わってしまったせいで、授業にはまったく身が入らなかった。まほろへの答えを組み立てては壊し、壊しては別のかたちに組み立て……というのをつづけていた。

 考えたこともない未来が、少しだけ頭をよぎった。

 わたしの漫画が掲載された雑誌が並ぶ本屋。
 ずらりと揃った単行本の中から、わたしの作品を手に取ってほほえむ少女。

 ……いやいや、想像が飛躍しすぎている。

『先輩と何かを作ってみたいだけです』

 まほろの言葉が耳の奥ではっきりと聞こえる。

 わたしの中では答えができはじめていた。
 わたしも、まほろといっしょに何かを作ってみたい……かもしれない。
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