ハチミツ色の絵の具に溺れたい

桃本もも

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第9話

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 わたしは床に座り、ベッドに腰かけたまほろと向かいあった。
 窓の外は夕焼けから夜の色に変わりはじめている。かなり古いらしい蛍光灯に照らされた室内は、外よりも薄暗く感じた。

「先輩、会いたかったです。ずっとずっと……」

 まほろは胸の前で両手を組み、絞り出すように言った。顔のわきに垂れた髪がかすかに揺れている。

「先輩がお見舞いに来てくれてるの、ちゃんとわかってたんですよ。身体の外から見てました」
「身体の外……」
「あたし、事故にあったじゃないですか。約束してた、あの日」

 まほろは自分の人生を変えたできごとを、まるで昨日の夕食を話題にするかのように切り出した。
 わたしは眉を寄せ、くちびるを噛みしめる。まほろは目を丸くしたかと思うと、軽やかな笑い声を上げた。

「先輩、そんな顔しないでください。お葬式じゃないんですから」
「だって……わたしと約束したせいで、まほろは……」
「先輩のせいじゃないですよ。むしろ、あたしの方が申し訳なく思ってるんです。先輩との約束の日に事故にあっちゃって……。あたしが無理やり約束を取りつけたようなものでも、先輩は自分のことを責めるだろうなって、想像ついちゃって。実際、そうみたいだし。ごめんなさい、先輩」
「わたしの方こそ……ごめん」

 わたしは何に対してだか自分でもわからないまま、つぶやいた。まほろは軽くため息をつき、立ち上がってこちらに歩み寄ってきた。
 カーペットを敷いただけの床に体育座りをし、肩を寄せてくる。触れている感覚はないのに、やっぱりかすかなぬくもりを感じる。
 スカートの裾からのぞくひざは思いのほか血色が良く、やわらかそうな髪からはいつもまほろが纏っていた柚子のかおりがしてきそうだ。
 今となりにいるまほろは、病室で眠っていた姿よりも、生きている感じがする。

「先輩、お互いに謝ったところで、もうごめんなさいはナシにしましょう。ていうか、あたしは先輩とごめんなさいって言いあうために来たんじゃないんです」

 まほろは横からわたしを見つめてきた。半透明になった大きな瞳は、本物の琥珀みたいに澄んだ輝きに満ちている。

「あたし、やりたいことがあって、先輩のところに来たんです」
「やりたいこと……?」
「あたし……先輩ともう一度、漫画を作りたいんです」

 まほろの言葉に、息が止まった。
 まほろといっしょに漫画を描きはじめたのは、わたしが二年、まほろが一年の冬のことだった。それから新年度を迎えるも、新入部員はおらず、美術部は相変わらずふたりきりだった。漫画や絵を描き、まほろカフェでひと息つき、ふたりきりの放課後はのんびりとして心地よかった。

 わたしが部活を引退したのは、夏休みが終わってからだった。周りと比べたら遅すぎるくらいだ。ようやく受験モードに切り替えてからも、美術室にはよく入り浸っていた。自分の部屋で勉強するよりも、まほろといっしょにいた方が集中できたし、穏やかな気持ちでいられたからだった。
 漫画は受験が終わるまで描かないことにした。もし合格したら引っ越すことになるのはわかっていた。漫画を再開できる可能性は低いと知りながら、その問題から目を背けるように美術室では笑って過ごしていた。

「あたし、大学は先輩と同じとこにしようって決めてたんです。そしたら、近くのアパートを借りて、また先輩と遊べるなって、勝手に想像してて」
「また遊べるって……まほろは美術部で、わたしと遊んでるつもりだったわけ?」
「だってあんなに楽しかったのに、遊んでなかったら何だって言うんですか」

 たしかに、わたしも一年のころは部活をしてたけど、あるときを境に遊んでいたかもしれない。

「でも、事故にあって、叶うかもわからない夢も絶対叶えられなくなって……あたし、身体を取り残して、意識だけ先に死んじゃったんです」

 まほろは立ち上がり、わたしの目の前でくるりと回って見せた。髪はふわりと跳ね上がり、スカートは朝顔のように広がる。しかし、まほろが起こしたはずの風はまったく感じられなかった。

「あたし、一回天国に行ってきたんですよ。って言っても、入り口までしか入れなかったんですけど。あと、神さまにも会いました。……あ、先輩、信じてないって顔してますね」

 わたしは慌てて、寄っていた眉を離し、ぽかんと開いていた口を結んだ。

「信じてないわけじゃないけど……そもそもわたし、無宗教だし」
「あたしだってそうですよ。苦しいときしか神さまにお祈りしないですもん。でも、天国はあって、神さまもいて、あたしは神さまにお願いを叶えてもらって、こうして先輩に会いに来られたんです」

 まほろは勢いよくしゃがみこみ、スカートを派手にふくらませた。わたしと目の高さをあわせ、顔を近づけてくる。

「神さまに言われたんです。意識が先に死んだ場合は厄介なんだって。身体の死を待たずに天国に入ってもいいけど、急に意識の受け入れが可能になることもあるらしいんですよね。昏睡状態から半年越しに目覚めたとか、脳死から奇跡の復活とか……確率はすっごく低いみたいですけどね。そういう場合は身体に戻ることもできる。でも、天国に入っちゃったらあと戻りできない。選択肢は、諦めるか、望み薄で待つか、どっちかなんですよね」
「まほろは……どっちを選んだの?」
「諦める方です」

 まほろはあっけらかんと答えた。肩をすくめて笑ってみせる。

「だって、戻れるまでなんて待てないですよ。天国の門の外って、なーんもないんですよ? おっきい門がどーんとあって、門番がいて、たまーに神さまが来たりする。それ以外は真っ白。下界の様子は見れるけど、この世で眠ったままの自分の身体から見える範囲内だけですよ。病室だけ。魚なんているかわからない池に、餌もついてない糸を垂らしてるようなものです。そんな生活をつづけてたらおかしくなっちゃいます。それに……」

 まほろは言葉を切り、ゆっくりと息を吸いこんだ。ように見えた。その姿で呼吸をしているとは思えないが、生身の身体に染みついた習慣が出てきたのだろう。

「身体に戻れたとしても、もとの自分に戻れるとは限らないから」
「歩けなくなっていたり、とか……?」
「歩けないだけならまだ何とかなります。でも、もし手を使えなかったら……指一本すら動かなかったら……。もう美味しいものも食べられないかもしれないし、呼吸器を外せるようになるかもわからないし」

 まほろの声は淡々としていた。だけど、口もとはゆがみ、笑っているのか感情を押さえつけているのかわからない。まばたきが少なく、頬はときどき引き攣るように震えた。

「そんな身体に戻るのって、怖いじゃないですか。意識はこんなにまともなのに、見知らぬ車に壊された身体に戻ったら、頭の中までおかしくなっちゃいそう。だからあたしは、待たないことに決めたんです」

 まほろはまぶたを閉じ、くちびるを結び、肩を大きく上下させて呼吸を整えている。最初はいつも通り能天気なまほろだったけど、やはり感情を押し殺していたのだろう。関節が白くなるほど強く握りしめた両手が、小刻みに震えている。

  わたしはひざ立ちになり、まほろの肩に腕を回した。腕がすり抜けてしまわないように、半透明になったからだの輪郭を不器用に抱きしめる。

 不意に、肩や胸や背中に、かすかなぬくもりが押しつけられた。まほろはわたしの身体を一生懸命抱きしめ返していた。

「神さまは、諦めた人の最後のお願いを叶えてくれるんです。この姿を見せられるのはひとりだけって決まりみたいなんですけど」
「ひとりだけ? まほろは……わたしを選んだの? 家族じゃなくてよかったの?」
「だって、あたし……もっと、ずっといっしょにいたかったのは、先輩だけだったから」

 わたしは何とも言葉を返すことができず、ただ黙ってまほろを抱きしめていた。たしかに温度があるのに、触れられない。

 気づけば、腕の中からまほろが消えていた。すきま風といっしょに夜の闇まで忍びこんできたかのように、部屋がほの暗い。

 今わたしは、まほろの夢を見ていたのだろうか。そう思って部屋を見回すと、まほろはわたしの背後にいた。まほろもきょとんとした顔でこっちを振り返っている。

「どうにかして触れられないかと一生懸命になってたら、通り抜けちゃったみたいです」

  まほろは頬を染めて肩をすくめた。


      .*・.゚・*.・:*


「先輩、ごはん食べないんですか?」

 再会の余韻に浸っているわたしに、まほろはのんきに尋ねてきた。
 こたつに置いた時計を見ると、午後七時を過ぎていた。そういえば、雨戸もまだ閉めていない。夢みたいなことが起こったせいで、頭がぼーっとしている。

「ごはん……何かもう、おなかいっぱいな気分」
「あたしとの再会が嬉しくって?」

 雨戸を閉め、ガラス戸の鍵をかける。背後から問いかけてくるまほろの姿は、ガラスに映っていない。
 振り返ると、上目遣いで見上げてくるまほろがいる。わたしは窓から目を背けたまま、カーテンを隙間なく閉めた。

「おどろきすぎて、だよ」
「でも、ちゃんと食べないとダメですよ。それに夕食って、そのときはいらないかなって思っても、寝るころになって超おなか空いてきちゃって、やっぱ食べとけばよかったなあってなる確率高しですよ」
「まあ、それも一理あるけど」
「あたし、年上の人にこんなこと言うのも何ですけど、先輩がひとり暮らしするって、すごく不安だったんです」

 まほろは真剣な顔で訴えてくる。「ええ?」と間抜けな声が出た。

「だって、先輩って食べものにあんまり執着ないじゃないですか。高校のときのお昼はおにぎり一個とか、パン一個とかだったし。自分から休憩しないってとこも、ひとりになったら不摂生になりそう感漂ってましたし。お部屋が二階だったのと、表札を出してないとこは、ちょっと安心しました」
「そ、そこまで心配しなくても」
「じゃあ、今日の夕ごはん、見せてください」

 まずい、と思った。今日も今日とてコンビニ飯。冷蔵庫には限られた調味料と飲みもの、冷凍庫には冷凍食品と氷枕しか入っていない。シンク下の戸棚にも、食材らしきものはない。

 ごまかしはきかない。渋い思いが顔に出ていたのだろうか。まほろは目を細め、じとーっと見据えてきた。

「先輩。もしかして、コンビニご飯ですか?」
「えっ、あ……いや」
「あの袋、コンビニのですよね」

 まほろは部屋と廊下のあいだに落ちていた袋を指さした。まほろの姿におどろいて取り落としたまま放置していた。

 まほろは袋の前まで駆けていってしゃがみこんだ。手を伸ばして掴もうとするが、ビニール袋は少しも音を立てない。
 まほろは袋を睨みつけ、息を吹きかけはじめた。やはり微動だにしない。両手で引っかき回し、しまいには殴りつけるかのように乱暴な動きになっていく。

「あーもー! もどかしいっ」
「ご、ごめん。見せる。見せるから」

 わたしはまほろに駆け寄り、ビニール袋の中身をこたつに並べた。ひとつ取り出すたびに、まほろの眉間が狭まっていく。

「あんかけ焼きそば、たまごサンド、メロンパン、バターロール……どういうことですか!」
「あんかけ焼きそばが夕ごはんで、たまごサンドは明日の朝ごはん。明日は講義がなくて出かける予定がないから昼夜はメロンパンとバターロールで……」
「振り分けを訊いてるんじゃないです。先輩は栄養素のこと考えたことありますか」
「え、栄養素」

 半透明のはずなのに、迫力は十分すぎるほどある。わたしは目をそらして首をすくめた。

「先輩、ここにあるもの、ほとんど炭水化物ですよ。野菜とかお肉、お魚をバランスよく摂らないと不健康になりますって、小学生のころ習いませんでした?」
「野菜なら、冷蔵庫に野菜ジュースが……」

 まほろの瞳があまりに冷たいため、最後まで言えずに口を閉ざした。まほろは腕を組み、大きなため息をついた。

「まあ、今日のところはしかたないですね。今からスーパーに出かけるなんて危ないですし。野菜ジュースで大目に見ましょう」

 ようやくまほろのお許しが出て、わたしはほっとひと息ついた。食べものを見ていたら、心なしか食欲がわいてきた。

「先輩。少しは自分の身体のこと気にかけてください。コンビニのごはんが悪いとは言いませんよ。買ってすぐ食べられるって便利ですばらしいです。でも、毎日毎食はいけません。先輩、明日はお休みなんですよね」
「え、うん……はい」
「そしたら、お買いもの行きましょう」
「え、ま、まほろと? わたしで?」
「そうです。先輩に、健康的な食生活をお教えしたいと思います」
「まほろって料理できるの?」
「まあ、人並みには」

 まほろは平然と答えた。わたしは「人並み」以下なのかと思うと、少し愕然とした。

「今日のところはいいですよ。……あんかけ焼きそば、おいしいですもんね。あたしも好きです」

 まほろのお許しを得たところで、プラスチック容器をレンジに入れ、温める。まほろはこたつにひじをつき、並んだパンを眺めている。

「まほろは……食べ、られないよね」
「食べることはできない……っていうか、意識にとって食事は必要ないですからね。あ、でも、においはわかるみたいです。あんかけ焼きそばのおいしそうなにおいがしてきました」

 まだレンジが停止していないのも気にせず、扉を開けて焼きそばを取り出す。わたしはまほろがじーっと見つめる中、ほそぼそと夕飯を食べた。

「まほろ、わたしのお母さんになりにきたの?」
「ちがいますよ。だって、先輩が予想通りあたしを心配させるような食生活をしてるから……」

 まほろはパンのパッケージをひとつずつつつくような仕草をした。それからわたしを見て、静かにうなずいた。

「先輩。あたしがいるあいだに、生活力つけてもらいます」
「え、漫画を描きたかったんじゃないの?」
「それもですけど、先輩の食生活の乱れは、漫画以上の問題ですから!」

 まほろの目の中で、炎が燃え盛っているように見えた。着火したいわけじゃなかったのにな、と思ってももう遅いみたいだ。
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