ハチミツ色の絵の具に溺れたい

桃本もも

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第10話

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「まほろ、印のところ、ベタよろしく」
「はーい」

 ペン入れ、消しゴムかけの済んだ原稿を、まほろに渡す。まほろは原稿を両手にのせるようにして受け取ると、すぐには作業を開始せずにしばらく見つめる。
 その顔を盗み見し、わたしはまほろと同じ表情にならないように、くちびるを噛んで視線を戻した。

 まほろがわたしのアシスタントを希望してから二ヶ月。一年が終わり、新しい年がやってきた。
 ふたりきりの美術室で、わたしたちは毎日漫画を描いている。
 まほろがベタと簡単なトーン貼りを施した原稿を眺める。自分の仕事を検分されていると気づいたまほろは、手を止めて横目でうかがってくる。わたしはまほろの目を見て、口もとをゆるめた。

「まほろ、ほんとに上手くなったね。塗りムラもはみ出しもないし、トーンもきれいに貼れてる」
「ほんとですか。やった」

 まほろは顔いっぱいで笑い、小さくガッツポーズをした。

「二ヶ月前までまったくの初心者だったとは思えないよ」
「それは……先輩がていねいに教えてくれたおかげです。漫画描くの、すごく楽しい」

 まほろはへらっと笑い、作業に戻った。真剣な表情でペンを動かす。髪は顔にかからないよう後ろでひとつにくくっており、ふわふわした産毛の生えたうなじが見えていた。いつもは髪に隠れて見えない首筋は、びっくりするほど華奢だった。

「先輩、これ完成したらどこに投稿するんですか」

 まほろは原稿に向かったまま、少しぼんやりした声で訊ねてきた。ペンを動かすスピードやていねいさは変わっていない。

 動きを止めたのは、わたしの手だった。原稿を置き、ペンを取ろうとした手は宙に浮いたままだ。

「と……とうこう……?」
「え? 投稿しないんですか? この前はそのつもりになってきた顔してたじゃないですか」

 まほろも手を止めてこっちに顔を向けてきた。澄んだ池に石を投げこまれ、一気に砂が舞い上がって濁ってしまったかのように、わたしは自分の気持ちを見失っていた。

「いや、そのつもりなんて……」
「ええー、いっしょに漫画家になろうって、先輩言ったじゃないですかぁ」
「そんなこと言ってない」
「えへへ、冗談です」

 まほろが作業に戻り、ペンが紙を塗りつぶしていく音と、まほろの慎重な呼吸の音が聞こえるほどの静寂に戻った。
 わたしはのどの奥で、投稿、とつぶやいてみる。漫画を描く者にとって近い存在のはずなのに、わたしにとってはとてつもなく遠い言葉だ。

 小学生のころは、友だちに読んでもらいたくて絵を描きはじめた。漫画のようなものも描いた。
 中学生になってからは、読者や理解者などいらないと思いながら、自分が描いて楽しむためだけにつづけていた。ネットにアップすることも考えたが、機械にはめっぽう弱いため、スキャナーを選ぶ時点で挫折した。

 まほろにそそのかされているのではないか。
 もちろん、まほろといっしょに漫画を描くのは楽しい。ひとりで描いていたころより、また、読んでもらうだけだったころよりも、特別な充実感があった。夢見たこともなかった景色を見せてもらっている。

 だけど、わたしはプロの漫画家になりたいのだろうか。

 今までは、自分のためだけに漫画を描いてきた。でも今は違う。まほろのためでもあるのだ。まほろと漫画を描くため、と言ったら、結局自分のためになってしまうかもしれないが、そのくらいの気分だった。

「わたし……何で漫画を描いてるのかわかんなくなってきた……」

 まほろの動きがぴたりと止まった。ゆっくりと顔がこちらに向けられる。
 わたしははっと口を手でおおった。頭の中でつぶやいたはずが、声に出てしまっていた。

「先輩……ごめんなさい。そんなに悩ませるつもりじゃなかったんです」

 まほろはペンを手放し、右手を左手で押さえつけるようにひざの上に置いた。視線は定まらず、肩を縮めた姿は、いつもより小さく見えた。

「あたし、人よりも得意なことって、何もないんです。ぜんぶ中の中、みたいな。だから、先輩は絵が描けて、漫画も描けて、すごいなって思って……。それが何か、自分のことのように嬉しくて、誇らしくて……なんか、ひとりで盛り上がっちゃってたみたいです。すみません」
「そんな……、まほろは謝るようなことしてないよ。ていうか、まほろがぜんぶ中の中とか、自分のこと過小評価しすぎだよ。こんなわたしにつきあってくれるいい子だし、わたしみたいに口下手じゃないし、一生懸命漫画のこと勉強して手伝ってくれるし。それに、かわいいし」
「えっ!?」

 まほろは素っ頓狂な声を上げ、固まってしまった。もみじを散らしたように顔がみるみる赤くなる。わたしは自分の口下手を呪った。

 わたし、今「かわいい」って言った?

「先輩……っ、何ていうタイミングで『かわいい』とか言うんですか!」
「まほろもそう思うよね、ごめん、ほんとそういう話じゃないって感じだよね」
「でも……嬉しい。先輩、あたしのこと、ほんとにかわいいって思ってくれてるんですか?」

 急に空気の硬度が上がったかのように、吐こうとした息がのどにつまった。まほろは少しだけ眉を曇らせ、くちびるを隠すように指を当てた。

 琥珀のような輝きを持つ瞳。長いまつげ。小さく低めな鼻が、顔全体を優しげに見せている。
 髪をアップにしたことであらわになった耳には、よく見るとピアスをしているかのように耳たぶに小さなほくろがあった。まほろはそのほくろの存在に気づいているのだろうか。

「お、思ってる。まほろは、かわいい」

 なぜか片言になる。さっきはまほろを最大限褒めようと思うあまりにさらっと言えたが、多用する言葉じゃない。
 顔が熱い。まほろの顔を見られない。だけど、目の端にまほろは見えていて、わたしの方をじーっと見ているのがわかった。

「先輩もかわいい」

 にへっと笑い、おもむろに作業に戻るまほろ。わたしはまだペンを持てそうにない。今描いたら、へろへろの線になってしまう。

「あたし、先輩といっしょに何かしてるってだけで楽しいんです。それだけで十分です。だから、新人賞に投稿するとか、そういう話はなかったことにしてください。高校の思い出作り、みたいな。それで十分楽しいです」

 それからしばらく無言で作業をつづけた。冬の日暮れは早い。四時にはもう陽が傾きはじめていた。

 わたしが「ふうっ」と息を吐き、ペンを置くのを待っていたかのように、まほろはぱちんと手を叩いた。

「よし、先輩、まほろカフェの時間です」

 休憩をうながす声は、いつもより少し固かった。

「先輩はコーヒーでいいですか?」
「……今日はわたしも紅茶にしようかな」

 わたしはコーヒー派で、まほろカフェで紅茶を選んだことはない。まほろは目を丸くして振り返った。それから、内側からにじみ出るように徐々に笑顔になっていった。

「レモンティーがいいですか? それともミルクティー?」
「まほろと同じのがいいな」

 まほろはわたしと反対に紅茶派で、毎日レモンやミルクだけでなく、シナモンやフルーツのシロップなど、いろいろなアレンジを加えて楽しんでいた。

「じゃあ、今日はアプリコット風味の紅茶にしましょう」

 まほろはロッカーの鍵を開け、ケトルやカップを準備しはじめた。ロッカーは今や小さな茶箪笥となっている。まほろは限られた道具で、器用にアレンジティーを作っていく。

 わたしは原稿を邪魔にならないところに移動させ、鞄からエキソンパイを出した。そのころは、まほろがドリンクを作ってくれるお返しに、わたしがお菓子を持っていくようになっていた。そのお菓子が手作りだったら格好がつくのだが、あいにくそんな特技はない。

「あ、エキソンパイ。あたし、これ大好きなんです」
「ほんと? わたしも好きで、たまに買っちゃうんだ」
「県民でももらったら嬉しいおみやげナンバーワンですよね」

 まほろはできあがった紅茶をわたしの前に置きながら言った。市販のものでも、喜んでもらえると嬉しくなる。

 マグカップからは、湯気とともに甘酸っぱいかおりが立ち上っている。紅茶の水色は変わっていないが、わたしには未知の世界をはらんでいるように見えた。
 ひと口飲んでみる。紅茶のほどよい渋みと、アプリコットのフルーティーなかおりが心地よく鼻に抜けていく。甘酸っぱさが口の中に残るが、しつこくない。わたしはカップを見つめ、気の抜けた吐息を漏らしてしまった。

「お口にあいますか?」
「あう。すごくおいしい」

 まほろは「ふふふ」とカップを口もとに寄せ、紅茶に息を吹きかけるように笑った。湯気は揺れるまもなく消えていく。

「ねえ、まほろ」
「はい」

 カップに口をつけたまま返事をするまほろ。声が少しくぐもっている。

「ペンネーム……何にしようか」
「んー、ペンネーム……。えっ?」

 まほろはカップを机に置き、背筋を伸ばした。ポニーテールがさらりと揺れる。見開かれていた目が、すうっと細くなった。

「先輩、今までペンネームすらなかったんですか」
「いや、だって必要なかったから」
「何にするってあたしに訊かれても……何か案はあるんですか?」
「案っていうか……ちょっと思ったことがあるんだけど」

 わたしはスケッチブックの描き損じたページのすみに、鉛筆で文字を書いた。


 うめわかさほ。
 あかねやまほろ。

「わたしたちふたりの名前から、ペンネームを作りたいなって」
「何であたしの名前も……」
「だって、ふたりで描いてるから」
「いやいや、あたしはただのアシスタントですから。ペンネームに入れてもらうなんておこがましい」

 まほろは両手を振って身を引いた。顔の周りに、汗を示す漫符が見える。

「そんなことない。わたしは、まほろとふたりで描いてるって思ってる。まほろがいなかったら、ペンネームをつけようとすら思わなかった。だから、まほろの名前も入れたい」
「……わかりました。先輩がそんなふうに言ってくれるなら……アシスタント冥利につきます」

 まほろは頬をかきながら首をかしげるようにしてはにかんだ。
 その気になったら、まほろは切り替えが早い。前のめりで、スケッチブックの文字にくぎづけになる。

「こういう場合、いちばん単純なのは、名字と名前を組みあわせるパターンですよね。茜谷佐保、梅若まほろ……何か投げやりな感じですね。まあ、あたしたちの本名を知らない人にはわかるはずないですけど」
「そしたら、文字を拾って作る?」

 しばらくふたりして、「あ」「う」「ほがふたつある」「まろ……はないな」なんて、意味のない言葉をぼやぼやとつぶやいた。

 紅茶が冷めきったころ。はっきりとした声を発したのは、まほろだった。

「わかさ」
「わかさ?」
「ほら、『うめわかさほ』の中に『わかさ』ってあるじゃないですか。こういう名字、ありますよね」

 まほろは鉛筆を手に取り、スケッチブックに「若狭」と書いた。

「じゃあ……あかねやまほろから……」

 わたしはまほろの手から鉛筆をそっと抜き取り、「若狭」のとなりに書き足した。まほろが読み上げる。

「若狭……あかね」
「まほろの名前がひらがなだから、『あかね』ってひらがなにしたらいいかなって……」
「若狭あかね……」

 まほろは口の中で何度かつぶやき、ぱっと顔を上げた。その頬には満面の笑みが浮かんでいる。

「すごくいいです! これにしましょう! ……って、決定権があるのは先輩ですよね」
「わたしも、これがいいと思う。もう、これしかないような気がしてきた」

 ふたりで顔を寄せあって笑いあう。

「先輩、投稿の話なら、ほんとに気にしなくていいですよ」
「うん。でも、投稿してみるのも、高校の思い出作りになるかな……なんて」

 わたしは冷めてしまった紅茶を飲んだ。冷めてもおいしさは変わらず、口もとがゆるむ。

「そしたら、ふたりあわせて若狭あかね。がんばりましょう! あたし、トーン削りもできるようになりたいです」
「じゃあ、まほろカフェ閉店したら教えるよ」

 夕陽は山の向こうに沈み、窓ガラスには室内の景色が映りはじめていた。まほろは気づいてないかもしれないけど、ガラスに映ったポニーテールはゆらゆらと楽しげに揺れていた。
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