ハチミツ色の絵の具に溺れたい

桃本もも

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第18話

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 その日の晩ごはんは、けんちんうどんとほうれん草の白和えを、まほろに教えてもらいながら作った。
 わたしの手際もだんだんよくなってきたのだろうか。まほろがどう説明したらいいか困り果て、地団駄を踏む回数が少なくなった。

「ちょっと時間がないときとか、疲れて帰ってきた日なんかは、おうどんと野菜中心のおかずひと品で済ませられちゃうんですよ。主食と汁ものをひとつにできて、しかもお肉とか野菜を入れて具だくさんにすれば、主菜の役割も果たせちゃえます。足りない彩りをサラダとかおひたしで補えば、ちゃんとした食卓に見えるでしょう?」

 まほろはベテラン主婦のように力説した。

「料理は毎日がんばらなくてもいいんだ」
「毎日がんばってたらもちませんよ」

 まほろが細かく味噌や顆粒だしの量をチェックしてくれたおかげで、わたしにしては会心の出来になった。
 ほうれん草の白和えも、豆腐を一度電子レンジで加熱して水分を抜いたおかげで、仕上がりが水っぽくならず、豆腐の味が凝縮されて美味しかった。
 今度帰省したときに作ってみようと思ったら、今から家族の反応が楽しみになった。

 風呂に入ったあと、新しく買ったスケッチブックを開き、ネームを描きはじめた。
 まほろと描くさいごの漫画のストーリーは、すでに頭の中にできていた。できあがったと言うと大仕事をしたように聞こえるが、実際は現実を少し変えただけのことだ。
 ヒロインはほとんどまほろそのままで、わたしのキャラクターを男の子にしただけなのだ。

 ネームは、どんなコマ割りにして、どんなキャラクターを描くかなどを決める、漫画の設計図のようなものだ。漫画を作る工程の中で、描き手らしさがもっとも出るのはネームだと思っている。楽しくもあるが、ときに苦しい作業でもある。
 なるべく早くネームを仕上げて、ペン入れを済ませないと、まほろの仕事が生まれない。
 ぬいぐるみの身体に慣れたのか、まほろは以前と変わらない仕事をするようになっていた。練習で描いた教室の風景は、夏休みのときよりも上達しているくらいだ。

「すごいね、まほろ。半年以上もブランクあって、こんなに上手くなってるなんて」

 率直な感想を伝えると、まほろは正座したふとももに両手を挟み、もじもじと目を泳がせた。

「えーっと、ブランクは……ない、って言いますか……」

 わたしはスケッチブックを破りとった画用紙と、まほろの顔を交互に見た。

「もしかして……夏休み以降もずっと練習してたの?」
「まあ、こっそりと……。だって、もしまた先輩と漫画を描けることになって、そのときに下手になってるのは絶対嫌だったから」

 まほろはえへへ、と身をよじるようにはにかんだ。わたしの隣に移動してきて、スケッチブックをのぞきこんでくる。わたしの手の動きはぎこちなくなってしまう。
 まほろの顔をちらりとのぞき見ると、まほろもわたしの顔を見ていた。目があうと、まほろはあたたかいそよ風を浴びたように、やわらかくほほえんだ。

「あの……見られてると描きにくいっていうか……」
「注目されてないときこそ実力を発揮できるタイプっていうか?」

 まほろは楽しそうに、いつかわたしが言った言葉を口にした。ふふ、と笑うとえくぼができた。
 わたしはなるべくまほろの視線を意識しないよう、目の前の画用紙に集中した。鉛筆でざかざかと、大まかなコマ割りや素体に名前を書き入れただけのキャラクターを描きこんでいく。
 少しだけ、足が触れあっているのだろうか。正座した左のひざのあたりだけが、ほんのりとあたたかい。

 アパートの八畳一間から、木くずと紙と絵の具のにおいが染みついた美術室に戻ったかのような時間だった。



 ネームを三ページほど進め、今日は寝ることにした。電車での長時間の移動で、少し疲れていた。
 電気からぶら下がった紐を引こうとしたとき、まほろが「あのっ」と声を発した。のどにつかえていたものが、何かの拍子にぽろっと飛び出したかのような声だった。

「先輩……いっしょに寝ても……いいですか?」

 まほろはもじもじと足の指を動かしている。手の甲でくちびるを隠し、上目遣いをしてくる。わたしは顔が熱くなるのを感じながら、電気の紐を手放した。

「い、いっしょに? ベッドで?」

 まほろはこくりと頭を揺らす。もう片方の手は、ワンピースのふとももの辺りの布を握りしめている。

 まほろはいつも、床に座ってベッドを背もたれにするか、座椅子に寄りかかって眠っている。
 とはいえ、そのからだには重力が作用せず、ずっと浮いているようなものだから、極端な話立ち姿のままでも寝られるらしい。ベッドに腰かけたり、床に座ったりするのも、そういう体勢を作っているだけで、空気椅子をしているようなことにはなっていないらしい。
 だから、ベッドに横たわるのも、フローリングに寝そべるのも、何ら変わらないはずなのだ。事実、まほろが寝床に文句を言ったことは一度もない。

「別にどこで寝たって、あたしにとってはおんなじです。でも、あの……」

 まほろはわたしがいないあいだ、誰とも接することなく過ごしていた。唯一存在を認めてくれる人がいなくなり、まほろは自分が消えてしまったような、世界がなくなってしまったような焦燥感を抱いていたのかもしれない。
 わたしは布団をめくり、まほろにほほえみかけた。

「いいよ。今日と昨日とおとといの分、いっぱい話そう」

 まほろは目を丸くして、わたしの顔を眺めている。顔が赤くなっているのをあんまり見られると困るので、がちがちと紐を二回引いて部屋を暗くした。
 雨戸をぴっちり閉めているので、光は廊下のガス台わきにある、小さな空気取りからしか入ってこない。それも外灯のかすかな光だけだから、目が慣れるまでは何も見えない。

「先輩、あたし、壁側に寝ましたから……来てください」
「う、うん」

 わたしはいつになくぎこちない動きでベッドに寝そべった。手前側の半分……いや、三分の一くらいのスペースに縮こまる。
 まほろの方を向けばいいのか、このままあお向けでいていいのか……。さすがに背中を向けるべきではないことはわかるが、自分のベッドなのに落ち着くことができない。

 だんだん目が慣れてきた。ぼんやりと部屋の様子が見えてくる。思い切って壁の方に首を曲げると、うっすらとまほろの輪郭が見えた。
 闇にとけこむように、半透明の肌は暗い色を透かしている。だけど、そこにいることはちゃんとわかった。

「先輩も、こっち向いてください」

 ほろにやわらかい声で促され、わたしは躊躇いつつお腹に力を入れて身体の向きを変えた。
 至近距離でまほろと目があう。そらしても、まほろの視線はおもちゃにじゃれる子猫のように絡みついてくる。わたしは根負けして、まほろと見つめあった。

 ベッドに寝そべったまほろは小さかった。小さくて、儚かった。暗闇を泳ぐ、骨や内臓が透けるくらいからだの薄い魚みたいだった。

「……まほろ」
「はい?」

 あまりに頼りない姿に、わたしはつい呼びかけていた。この世にまほろをつなぎ止めようとするかのように。
 まほろにかかった掛け布団は、彼女のからだを通り抜けてベッドに落ちている。ベッドには、わたしの分のふくらみしかない。幅の広い枕にできたへこみも、ひとつしかない。

 まほろは話のつづきをせがむようにゆっくりと瞬きをしている。だけど、呼んだだけだったので、話したいことがすぐには思いつかない。
 しばらく黙ったまま見つめあい、話を切り出したのは、結局まほろだった。

「先輩、お見舞いに行ってくれたとき、母は何か言ってました?」
「ああ、うん。言ってたよ。料理が上手なのよって。そうだ。まほろ、今度さ、茄子とトマトの冷製パスタの作り方教えて」
「え? いいですけど……どうしていきなり冷製パスタ?」
「まほろのお母さんが言ってたよ。まほろが作った中で、いちばん美味しかったって」

 まほろは「ええー」とふたりきりの夜には似合わない大きな声を出した。

「作った覚えもないくらいの適当料理ですよ、それ。他にもいっぱい得意料理あるのに……煮魚とかミートローフとかコロッケとか……そういう手のこんだものについては何か言ってませんでした?」
「あー……まほろが作ったのは何でも美味しいって言ってたよ」
「何ですかそれー。ショックですよ」
「でもさ」

 まほろはくちびるをとがらせたまま、ちらっとわたしを見た。

「まほろのお母さん、すごく感謝してるって言ってた。あと、まほろに甘えてたって」
「甘えてた?」
「共働きで大変だから、まほろが家事をやってくれるのは助かるけど、それでいいのかなって思ってたんだって。中学生のころから、夕食はまほろの担当だったんだって? ありがたいって気持ちもあるし、まほろはもっと遊びたいだろうな、勉強に集中させてやらないとな、って思いながら、嫌な顔ひとつしないまほろにふたりで寄りかかってた。ほんとは、共働きで大変だってことを、まほろに感じさせちゃいけなかったのにな……って」

 言葉ひとつひとつの手触りを確かめるような表情で、まほろはしばらく口を閉ざしていた。おもむろにくちびるを開く音が聞こえた気がした。

「まあ、別に嫌だった訳じゃないし……あーもー! お母さんがそこまで気にしてるとは思わなかった……言ってくれたら、あたしも別にいいよって言えたのに」
「家族だからこそ言いにくかったんだと思うよ。わたしに話してくれたとき、まほろのお母さん、ちょっと泣いてた」

 まほろは目を伏せて、少しくちびるを震わせた。それから無理やり口角を上げ、強がるような表情を見せた。

「もっともっと、ごはん作ってあげたかったなぁ。作りたいけどまだ挑戦してなかったもの、いっぱいあったんです。テーブルが回る中華屋さんみたいに中華料理でいっぱいにしたいとか、スパイスから作るカレーとか、ローストビーフとか」
「えっ、ローストビーフって家で作れるの?」
「先輩、がんばれば何だってお家で作れるんですよ」

 まほろはほほえみ、少し間をあけて訊ねてきた。

「先輩、そっち、落ちちゃいませんか? もうちょっとこっち来てもいいですよ」

 目を細め、ベッドをぽんぽんと叩くまほろ。
 わたしは逆に遠ざかろうとし、危うく落ちかけながら腹筋で何とか耐える。

「い、いいよ。大丈夫、平気平気」
「何でですか。先輩、ハグはしてくれるくせに」

 まほろは恨みがましく睨みつけてくる。わたしは顔まで布団を引き上げ、熱くなった頬を隠した。

「いや、それとこれとは違うでしょ。急にハードルが上がってるっていうか」
「そんなに上がってません。先輩が嫌なら、あたしがそっちに行きますよ」
「そ、それ、ただ近づきたいだけじゃん」
「ダメですか? 近づきたがっちゃ」

 まほろに見つめられ、射すくめられる。そんなにストレートに言われたら、鈍感なふりなんてできない。

「まほろって、そんなに近づきたがりじゃなかったよね」
「近づきたがりって何ですか。あたし、今まで黙ってましたけど……このからだでも、先輩があったかいのがわかるんです」

 まほろは力のこもった瞳を暗闇で光らせた。

「先輩と触れあったところ……というか、先輩のからだと重なったところが、あったかくなるんです。ほんわりした空気に包まれてるみたいに。すごく気持ちいいんです」

 まほろは十センチほど寄ってきた。まつげの本数が数えられそうな距離に人の顔があるのははじめてだった。
 まほろに心臓の音が聞こえてしまうのではと思うほど、大きく高鳴っている。

「先輩……ぎゅって……してほしい」

 わたしは催眠術にかかったかのように、まほろが求める通りに近づいた。まほろは呼吸の音も衣擦れの音も立てずに、からだをさらに寄せてくる。

 なめらかなおうとつを描く鎖骨。かすかなふくらみのある胸。薄っぺらい腰回り。
 からだのラインがぴたりとくっついているのが、伝わってくる温度でわかった。子鹿のような華奢な脚が、わたしの脚に絡みついてくるのも感じられた。

 まほろのからだを透過している布団をめくり上げ、その下に腕を入れる。空気のように淡い色になったワンピースの背中を抱き寄せる。まほろもわたしの首に腕を回してきた。
 まほろは甘い声音でくすくすと笑った。耳に綿毛が入りこんだかのように、わたしはぶるっと身震いしてしまう。それに気づいたのか、まほろがまた笑い声を漏らす。

「わたしも言ってなかったけど……まほろのぬくもり、ちゃんと感じてた。だから、わたしの体温も、まほろに伝わってたらいいなって思ってた」
「あたしも、そんな感じのこと思ってました」

 まほろはわたしの胸の上……肋骨のはじまりの辺りに頬をすり寄せている。慣れない刺激に、つい息をつまらせてしまう。

「先輩、撫でてください」
「どこを……?」
「頭……よしよしって、してほしい」

 まほろは少し震えた、泣きそうな声で言った。
 わたしはまほろを抱いていた腕を動かし、手のひらをまほろの後頭部に当てた。まほろはびくりとからだを震わせる。頭の輪郭を探るようにゆっくり撫でる。

「あたし、今……生きてる気がする」

 まほろはふわふわした口調でつぶやいた。わたしは手を止めずにささやく。

「生きてるよ、まほろは」

 わたしたちは抱きあったまま眠りについた。
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