ハチミツ色の絵の具に溺れたい

桃本もも

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第19話

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 目が覚めると、就寝したときと同じように、まほろが目の前にいた。閉じたまぶたには綺麗な二重のラインが刻まれ、長いまつげは作り物のように綺麗に生え揃っている。

 ふたりとも寝返りを打って、さすがに抱きあってはいなかったが、それでも普通の生活ではありえない至近距離だった。
 まぶたはときどきぴくっと震え、頬にはみずみずしい赤みが差している。病院のベッドで眠っているまほろの何倍も、生き生きとしていた。

 あたし、今……生きてる気がする。

 眠りにつく直前、まほろは綿あめのようにふわふわした声音でささやいた。今までに見たことのない、恍惚とした表情を見せたまほろ。わたし以外に見た人はいないと勝手に決めつけてみると、なぜか無敵になれたような気分になった。

 まほろの頭の輪郭に触れられる位置に、手を浮かせた。耳の上辺りを指でそっと撫でる。髪の毛を撫でてもあたたかくないのは、生身の人間も同じだ。髪をかき分けるように、少しだけまほろの内側に手を伸ばす。頭皮に触れたようなあたたかさが、指先に伝わってくる。

 まほろは生きている。
 生きていなかったら、こんなにあたたかいはずがない。

 まほろの頬がくにくにと動いた。くちびるには淡い笑みが浮かんでいる。まほろの夢の中でも何かが起きているのだろうか。

 人間が追い求めるしあわせっていうのは、こういうゆったりとした時間と気持ちのことなのではないだろうか。
 たくさんのお金や欲しいものを手に入れることではなく、権力や名声を得ることでもなく。

 誰かの健やかな寝顔を眺めてしあわせだなと思えることが、しあわせの正体なのかもしれない……。

 寝起きの頭でぼんやりと考えていたら、またまぶたが重くなってきた。連休は今日含め、あと二日ある。急ぐ用事は何もない。
 まほろの頭に手を置いたまま、ふたたび眠りに落ちていった。



 次に目を開けたとき、廊下から差してくる光がさっきよりも強くなっていた。めずらしく二度寝してしまったと気づき、今が何時か少しだけ気になった。
 最初に起きたときと同じ姿勢で寝ていた。ぼんやりとまほろの顔が見えてくる。どのくらいうとうとしていたのかわからないが、まほろはまだ寝ているみたいだ。しょぼしょぼする目で瞬きを繰り返す。

「おはようございます、先輩」

 一瞬で眠気が吹き飛んだ。まぶたをこすり、視界をなるべく早くクリアにする。
 まほろはまぶしそうに目を細めながらも、ちゃんと起きていた。朝日が直接差しこんでいる訳ではない。この目はほほえんでいるのだと気づく。

 しかも、まほろはわたしの左手を枕にしていた。まほろは両手でわたしの手を包みこむように挟み、その上に左のこめかみ辺りをのせている。
 さっさと左手を取り返したいのに動かない。実際に掴まれている訳でも、頭が重い訳でもないのに。
 ただまほろのぬくもりに捕らえられている。

「まほろ……いつから起きてたの」
「十分くらい前です。先輩、よく眠ってましたね」

 わたしは恥ずかしすぎて言葉を失った。どんな顔をして寝ていたのだろうか。右手で口もとを探るが、よだれは垂らしていなかったみたいで安心する。
 まほろの寝顔を眺めてしあわせについて考えておきながら、自分の寝顔は恥ずかしいだなんて、その一連の思考が恥ずかしい。

「先輩、かわいい寝顔でしたよ」
「そんなの嘘」
「こんな嘘ついて何になるんですか。あたしが先輩の手をこうやって両手で包みこんだら、先輩、何か言おうとするみたいに口をちょこっと開けたのがかわいくて……」
「そんなの報告しなくていい! 手離して……」
「離しても何も、もとから先輩の手は自由ですよ」

 まほろは上に重ねた手を動かしてわたしの手首を掴み、あらわになった手の甲に頬をすり寄せた。

「ほらほら、早く逃げないとこれだけじゃ済みませんよ」

 手の甲と頬の温度があまり変わらないのか、それほどあたたかくは感じない。それなのに、わたしの心臓は急激に心拍数を上げた。頬の柔らかさ、そしてこの次のまほろの行動を想像してしまったのだ。

 まほろは想像と相違なく、でも想像より恥じらいの表情を見せながら、手の甲にくちびるを触れさせた。くちびるが特別熱いわけでもないのに、薬指つけ根にじんわりと熱が灯る。

 まほろははっと正気の目に戻って、わたしの手を離した。背中が壁にめりこむほど、距離をとった。

「先輩がなかなか逃げないから、変なことしちゃったじゃないですか。もう、先輩のせいです」

 まほろの顔がみるみる赤くなっていく。わたしは妙に熱い左手を眺めながら、まほろは本当はこんなことに慣れてはいないんだろうな、と思った。そういうわたしも慣れていないどころか経験がないから、きっと顔は真っ赤になっているだろう。



 朝食は昨日のけんちん汁と冷凍してあるごはんで簡単に済ませた。もともと朝はたくさん食べられない方だから、それだけで十分だった。
 まほろはちょっと散歩してきます、と言って部屋を出て、二十分ほどで戻ってきた。そのころには顔の赤みは引き、目もあわせられるようになった。

 今日は一日中漫画に集中できる。つまり、まほろと一日中ふたりきりということだ。ふたりあいだの空気がぎくしゃくしていては、冷静に、効率よく作業ができない。朝のできごとは今は頭から追い出すことにした。

 ぬいぐるみを着たまほろも、朝のことなど忘れたように、指定した背景の資料をわたしのケータイで探している。想像だけで描けないものに関しては、取材に行かなければならない。

 これはどうでしょう、と見せてくる画像がわたしのイメージとずれていることがあり、それを指摘すると、大げさに慌てふためいた。
 わたしは別に「気持ちをぜんぜんわかってくれない」と文句を言った訳じゃないのに、まほろは必要以上に謝った。いや、それもわたしが考えすぎているだけだろうか。

 結局は、わたしもまほろも朝の一件を気にしまくりだったのだ。

 それでも、次第に作業が波に乗ってくると、頭の中が空っぽに近づいていく。邪魔なものがなくなると、時間の流れもゆるやかになる。鉛筆の音が心地よい。

 わたしが手を止めたのは、ネームを一気に十ページ描ききったあとだった。肩や首を回し、ネームを頭から見直してみる。
 時刻は十一時前。このペースなら、明日にはネームは完成させられそうだ。そのあと修正を重ねて、ついに原稿用紙に描きはじめるのだ。

「先輩、すごい集中力でしたね。あたし、途中から話しかけられなくなっちゃいました」

 まほろはわたしが作業を中断するのを待っていたらしく、控えめに声をかけてきた。まほろもぬいぐるみ姿のまま、緊張をほぐすように伸びをしている。

「あ……ごめん。どこかいいとこあった?」

 わたしはスケッチブックを置き、まほろが操作するケータイをのぞきこんだ。画面には、水平線の写真が並んでいる。

 まほろには、終盤のシーンでヒロインが天国に帰るときの背景を探してもらっていた。
 ページを見開きで使い、見せ場にしたいと考えている。空へとのぼっていくヒロインが、海や街や森を一望するというシーンにしたいのだ。

「いくつかイメージにあいそうなものはありましたけど……」
 
 まほろはダウンロードした画像を表示し、画面をこちらに向けた。
 たしかに、海が見え、街が広がり、山や森が遠くに見える。しかし、それらの画像は空と地上を定規で線引きしたように、地平線がまっすぐだった。
 画面をスクロールすると、海や山の位置が異なっていたり、空が青かったり夕日に燃えていたりとさまざまなバリエーションの景色が出てくる。
 しかし、どれも地平線は直線的だった。

「うーん……何かもっとこう……地球って丸いんだなって感じの景色にしたいんだよね」
「こういう景色をちょっと歪めて描くのではダメなんですか?」
「景色を想像とか画像編集でただ単に歪めると、どこかでボロが出ちゃうからなぁ……。それを修正しながら描けるほど技量ないし」

 最後だから、できるだけ完璧に近づけたい。
 わたしにとってこの漫画はまほろと描く最後の漫画であり、わたしの人生にとっても最後の漫画になるという予感がしていた。

 わたしはきっと、これを最後にペンは捨てるだろう。描きためた原稿も、まほろといっしょに描いたもの以外は処分するかもしれない。

 まほろといっしょに描けないのなら「若狭あかね」ではいられない。

 わたしのそんな思いは露知らず、まほろは「これとか見せゴマにはすごい良いと思うんだけどなぁ」と未練がましく画面を眺めている。

「取材に行くには、国内で、しかも東日本だと助かるんだよなぁ。日帰り……とは言わないけど、せめて一泊二日くらいで済むところ」
「高校のときも行きましたね。あのときは日帰りで世界一周」
「はは、世界一周。たしかに、あれは世界一周だった」

 ふたりで顔を見あわせ、くすくすと笑う。集中が切れ、お茶のかおりが恋しくなる。
 そう思った絶妙なタイミングで、まほろがぽつりとつぶやいた。

「まほろカフェ、開店したいなぁ」

 美術室で開いていた、秘密のティータイム。
 まほろは視線を遠くに投げかけて、ただの吐息ともため息ともつかない息を吐いた。細めた琥珀色の瞳が、夕日を写すかのように輝いている。

「じゃあ、まほろカフェ、開店しよう」
「え?」

 わたしは座椅子から立ち上がり、まほろを見下ろした。まほろはぬいぐるみから抜け出すと、親鳥からのえさを待つ雛のように、首を伸ばしてわたしを見上げた。

「わたしがまほろの代わりにまほろカフェやるよ」
「先輩、コーヒーとか紅茶、買ってあるんですか?」
「一応……まほろが使ってたのといっしょかはわからないけど」
「飲んでるとこ見たことないんですけど」
「それは……自分で淹れる習慣がなさすぎて……ちょっと、忘れてた」

 まほろはうつむきがちに口もとをほころばせた。妻に先立たれた旦那じゃないんだから、と言われ、なぜかしっくりきた。

「でも、先輩がやったらまほろカフェじゃないですよね。佐保カフェ……は語呂が悪いから……うめわカフェで!」
「何か急にダサくなってない?」

 わたしはまほろが見守るなか、見よう見まねでコーヒーと紅茶を淹れた。マグカップがひとつしかないから、茶碗も使う。カップにティーバッグを、茶碗にインスタントコーヒーの顆粒を入れる。

「斬新ですね。茶道のお抹茶みたい」

 電気ケトルはないので、小鍋でお湯を沸かす。こぼす自信があったので直接注ぐことはせず、おたまを使ってカップと茶碗、それぞれをお湯で満たした。

「先輩、紅茶とコーヒーどっちも飲むんですか」
「えっ、まほろが紅茶飲むかなって……」
「あたしが飲もうとしたら、床がびしょ濡れになりますよ」

 わたしは頭の中で、まほろの口もとでカップをかたむけ紅茶を飲ませてみる。まほろは味を感じるだけだから、当然液体はからだに取りこまれることなく床へこぼれ落ちる。

「たしかに……」
「かおりは感じられますから、それだけで十分です」

 片づけたこたつの上に、カップと茶碗を運ぶ。黒々とした液体をたたえる茶碗というのは、かなり異質だった。
 茶碗の縁の近くを指先でそっと持ち上げる。取っ手の大切さが身に染みて感じられる。まほろはカップから立ちのぼる湯気を顔に受けてかおりを楽しみながら、ちらちらとわたしの方を見ている。

「先輩、もしまたお茶をするときは、あたしのを茶碗にしていいですよ」
「わたしもちょっとだけそう思ってた。まほろから言ってもらえて助かった」

 いつになく熱を帯びた茶碗に口をつけ、静かにかたむけた。ひと口……いや、ひと舐めしかできなかった。

「濃すぎですか?」

 わたしは涙目でうなずく。まほろが作っていたのと同じようにやったつもりなのに、どうしてこうも違うのだろう。

「コーヒーじゃない。もはやエスプレッソだよ」
「大丈夫、濃いならちょうどいいところまで薄めるか、牛乳を入れてカフェオレにしちゃえばいいんです。あ、それがもはやエスプレッソなら、カフェラテになりますね」

 まほろは茶碗に顔を近づけて「あー、これは苦そうですね」と笑った。嗅いだ苦み成分が顔から滲み出たような苦笑いだった。

「まほろカフェを引き継ぐのは先輩しかいないんですから、しっかりしてください」
「ええ、わたし、まほろカフェ引き継ぐの?」
「うめわカフェの方がいいですか?」

  わたしが頭を横に振ると、まほろは「よかった」となぜか安心したような表情で肩をすくめた。
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