ハチミツ色の絵の具に溺れたい

桃本もも

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第26話

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  美術部の引退式は、九月一日に開かれた。残暑の厳しい日の午後、めずらしく人が大勢集まって、クーラーのない美術室は熱気がこもっていた。

 高まる気温とは裏腹に、式はごく簡素であっさりとしたものだった。部長として代表で引退のあいさつをし、次の部長にまほろを指名した。毎日活動しているのがまほろだけだから当然の人選だった。幽霊部員たちのまばらな拍手の中、まほろは少し小さくなってはにかんでいた。

 式は一時間もせずに閉会した。幽霊部員も含め、全員が集まった美術室は居心地が悪く息がしづらかった。ひとり、またひとりと名残惜しむことなく部員たちが出ていくにつれて、やっと深く息が吸えるようになった。
 すぐに、美術室はいつものふたりきりの空間になった。日が短くなってきており、射しこむ陽射しはすでに重たい金色になっていた。

 引退式を終えたからには、今からキャンバスを立てて絵の具をいじりはじめるわけにもいかない。とはいえ、さっさと帰るのも惜しい気がして、帰り支度の済んだバッグを持ち上げられずにいた。
 それはまほろも同じようだった。夕日に染まる校舎とグラウンドを眺めながら、ときおりこちらに視線を寄越してくる。それを横目で感じながら、わたしは何も言えないまま夕焼けに沈みはじめる街を見つめていた。

 帰りたくなかった。

 美術部を引退したという現実を受け止めたくないからか、まほろとの時間を早送りしたくないからか、この夕焼けがあまりにきれいだからか……何のせいだかわからなかった。
 まほろが小さく一歩、右に動いて距離を縮めてきた。喪失感に侵食されそうだった左手に、まほろのスカートが揺れて起こした風を感じた。

「先輩、今日……これから時間ありますか?」
「まあ、帰ってもすることないし……って、受験生が言う言葉じゃないけど」
「じゃあ、佳作受賞記念に、ごはん……食べて帰りませんか?」

 おどろいてまほろを見ると、彼女もわたしを見上げていた。くちびるを噛んで、あごを引いて、不安げに眉を寄せて。琥珀色の瞳は、西日に照らされていっそう透き通って見えた。
 まほろはそんな表情を髪で隠すようにうつむいて、少し震えた声でつづける。

「クラス発表の日……先輩、ごはん誘ってくれたじゃないですか。あのときはうやむやになっちゃったし、あたしから誘っていいのかなって躊躇っているうちに、タイミング失っちゃって……」
「そんな気を遣わなくていいのに」
「だって、先輩、仮にも受験生ですよ? あたしのせいで先輩が勉強に集中できなくなったらと思うと……」

 まほろとまだいっしょにいられる。
 そう思うと嬉しくて、嬉しすぎて、でもそれがまほろに伝わってしまうのは恥ずかしくて、わたしはおどけて肩をすくめた。

「毎日いっしょに漫画描いてた人がそれ言う?」
「えへへ、たしかに。今さらでした」

 まほろは緊張のとけた顔でへらっと笑い、バッグを肩にかけた。汗ばんだ額に前髪がちょっと張りついていた。
 美術室を出て、階段を降りる。身長差があるせいで普段はあうことのない足音が、階段ではころん、ころんと同じリズムで鳴り響く。それが心地よく、わたしは踊り場で少し歩幅を狭めて、まほろの足音に自分の足音を重ねあわせた。

「で、どこ行く? まほろは何が食べたい?」
「今日の主役は先輩なんですから、先輩の好きなものにしましょう。好きなものは何ですか?」
「好きなもの……って改めて言われると、ぱっと出てこないなぁ……。何だろうね?」
「あたしに訊かれても……。先輩っていつも炭水化物のみのお昼ごはんだから、好みが見えてこないんですよね」

 散々考えたけど、おにぎりの具だったらこんぶ、くらいしか思いつかない。とはいえ、その答えが今の状況にそぐわないことはわかる。

「これと言って好きなものはないけど、嫌いなものも特にないよ。出されれば何でも食べられるっていうか」
「もー先輩、デートでそんなこと言ったら幻滅されちゃいますよ」

 まほろは頬をふくらませて、かわいらしい怒り顔を見せる。そんな不意打ちの表情に、「ごめん」と謝る声が妙に固くなってしまう。

「じゃあ……洋風なもので……とかでいいの?」

 まほろは見定めるように目を細めたあとで、にっこりと笑った。

「相手があたしだから許されるんですからね?」



 わたしたちは学校から徒歩十分ほどのレストランに入った。窓が大きく、植えこみには小さな花々の咲いた、イタリアンのお店だ。夕方でちょうど空いている時間帯だからか、客はわたしたちふたりしかいなかった。四人がけの大きなテーブルに案内され、窓際に向かいあって座った。

 ふたりで外食するのは、日光へ取材旅行に行ったとき以来だ。美術室ではいつも横並びに座っているから、向かいあわせになるとどこを見たらいいかわからなくなる。わたしは出窓に飾ってある木彫りの人形や、ワインのボトルがずらりと並んだ吊り棚に視線をうつろわせた。

「まほろ、こんなおしゃれなお店知ってるんだ。わたしひとりじゃ入れないよ」
「あたしだってはじめてですよ。でも、前から気になってたんです。いつか来たいなって」

 メニューを開き、ふたりで覗きこむ。たくさんの種類のピザとパスタが写真つきで載っている。ボロネーゼ、ペペロンチーノ、マルゲリータなどの定番はもちろん、パスタグラタン、きんぴらごぼうのピザ、フルーツピザなど、変わり種もある。

「ピザかパスタか……。まずそこから迷っちゃうね」

 まほろは髪を耳にかけ、食い入るようにメニューを吟味している。

「どうせなら両方食べたいですよね……。そうだ、ひとつずつ頼んでシェアしませんか? あ、先輩がいやじゃなければ、ですけど」
「もちろん。あと、わたしはサラダセットにしようかな。炭水化物ばっかりって言われたし」

 まほろはぱっと顔を上げ、わたわたと手を動かしている。漫画だったら顔の周りに汗が飛んでいるであろう、あせりの表情を浮かべている。

「すみません。さっきあたしが言ったこと、気にしてるんですか?」
「まあ……自覚はあるし」

 パスタとピザを一種類ずつ選び、ベルを鳴らす。ここは先輩らしく、わたしがオーダーする。

「カルボナーラとマルゲリータ、サラダセットが……」

 そう言えば、まほろはどうするのか聞いていなかった。視線を向けると、まほろは指を二本立てて、「ふたつで」とほほえんだ。店員さんはすぐに伝票には記入せず、メニューを指さしてきた。

「お客さま、サラダセットにプラス二百円でデザートをおつけすることもできますが、いかがですか?」
「二百円か……一応お祝いだし、奮発してもいいかな」

 ぼそっとつぶやくと、まほろは急に前のめりになって怖い顔をした。

「先輩、デザートはやめておきましょう。ほら、あれです……そう! パスタもピザも糖質が高いから、デザートまでつけたらカロリーオーバーです」
「え? いや、別にダイエットはしてないけど……まあ、そこまで食べたいわけじゃないし……」

 わたしがのけぞっているのに気づいたのか、まほろは慌てて背もたれに背中をつけた。デザートセットを断ると、店員さんは「失礼いたしました」と、深めにお辞儀をしてキッチンへと戻っていった。
 再び店内は静かになり、かすかにかかっている音楽が日本語ではないことに気づいた。まほろはおしぼりで手をぬぐいながら、小さな声で話しはじめた。

「あーあ、ついに先輩も引退。半年後には卒業しちゃうのかぁ。しかも、大学は県外だなんて」

 わたしはこの前ようやく、進路希望調査票に第一志望の大学名を記入して提出することができた。三年の夏にやっと志望校を決めるなんて、のんきにもほどがあると自分でもわかっている。

「いや、まだ決まったわけじゃないけど」
「でも、安全圏なんでしょ? 先輩は受かります。絶対」

 まほろは一度未来に行ってきたかのように、自信たっぷりにそう言った。まっすぐな視線にたじろぎつつ、まほろに話題を差し向けた。

「まほろは、志望校考えてるの? 去年の冬は適当な進路希望出してたけど」

『将来就きたい職業……おもしろそうなこと』と書いた用紙を意気揚々と見せつけてきたまほろが頭に浮かんだ。あれから、まほろに進路相談をされることはなかった。

「適当って……書かせた張本人が言います?」
「べ、別に書けって言ったわけじゃないけど」
「ふふ、冗談です」

 まほろは肩を揺らして笑い、おもむろにまじめな顔をした。テーブルのまんなか辺りに視線を落とし、頬をかいている。

「あたしも、やっと志望校決められました」
「ほんと? どこ?」
「えっ、それは……まだ言えません。先輩みたいに安全圏ではないし、また変えるかもしれないし」
「まほろなら大丈夫だと思うけどな。がんばり屋だし、吸収が速いし、もともと成績も悪くないでしょ?」
「もう……先輩はすぐ褒め言葉の安売りするんだから……」

 まほろは口をとがらせて、髪をくるくると指に巻きつけている。照れているまほろはかわいらしく、危うくそのまま口にしてしまうところだった。思いとどまったのは、店員が料理を運んでくる気配に気づいたからだ。

「お待たせいたしました」


 店員は料理をテーブルに置き、伝票をくるりと巻いて籐細工の筒に差して戻っていった。
 トマトソースの赤に、モッツァレラチーズの白とバジルの緑が映えるマルゲリータ。耳はふんわりとふくらみ、焼き色がついて香ばしいかおりが立ち上っている。カルボナーラも玉子をふんだんに使っているのか、イメージよりも濃い黄色をしていた。カリッと焦げたベーコンに振りかかった粉チーズは、ほんのりととけていた。
 まほろは料理に目を輝かせ、そしてわたしを見て笑った。

「おいしそうですね!」
「うん。食べよう」

 ふたりで「いただきます」と手をあわせて、料理に手を伸ばす。わたしはさっそくマルゲリータに、まほろはガラスの器に盛りつけられたサラダに。
 まほろは眉を寄せ、口をへの字にゆがめる。小言を言うときの顔だ。

「先輩、血糖値の急激な上昇を抑えるために、サラダを先に食べた方が健康にいいんですよ」
「え……でも、ピザは冷めないうちに食べた方がおいしいよ。カルボナーラだって、麺ふやけちゃうし」

 ピザの耳をつまんで持ち上げると、とろけたチーズが糸を引くように伸びた。トマトソースのかおりは、口の中に酸味を呼び起こす。ごくり、とまほろは切なげな表情でのどを鳴らした。

「……きょ、今日だけですからねっ」

 そう言って、まほろもピザに手を伸ばしたのだった。



 わたしたちが食事を終えたころから、ようやく客席が埋まりはじめた。外は薄紫のカーテンを引いたかのように、影を帯びていた。
 ドリンクでも追加してもう少しのんびりしてもいいなと思っていたけど、まほろが案外あっさりと席を立ったのでわたしは何も言えなかった。名残惜しい気持ちを押し隠して、店をあとにした。

 わたしたちはもと来た道を辿るように帰路に就いた。国道を行く車のヘッドライトに照らされ、ふたりの影はさまざまな方向へと伸びたり縮んだりしている。

「先輩、パスタもピザもおいしかったですね」
「うん、すごくおいしかった。連れてきてくれてありがとう、まほろ」
「先輩こそ、おつきあいくださってありがとうございました」
「また行きたいね。わたしが卒業するまでにさ。マルゲリータのトマトソースがおいしかったってことは、トマト系のパスタも絶対おいしいよね。チーズをかけ流ししてくれるピザも気になるし――」

 そこで言葉を切ったのは、まほろがくすくすと笑い出したからだ。何かおかしいことを言っただろうか。

「ごめんなさい。食にこだわりのない先輩が、こんなに食べものを熱く語るなんてめずらしくて」
「まあ……こだわりはないけど、おいしいものは普通に好きだからね」

 まほろはまだ、耳たぶをくすぐるような笑い声を立てている。恥ずかしくなってきてまほろの横顔をにらんでいると、不意にまほろもわたしの方を見た。予定外に視線があってしまい、わたしはうろたえてしまう。そんなわたしの様子を見たまほろは、余裕の笑みを浮かべている。

「ねぇ、先輩。まだ……もうちょっとだけ、時間ありますか?」
「あるよ。受験生なのに申し訳なくなるくらいにね」

 照れ隠しのためぶっきらぼうに答える。まほろは少し笑って、それから波が引くようにすっと静かな表情になった。

「あの……ちょっとだけ、家に寄ってくれませんか?」
「えっ? まほろの家に?」

 まほろとは、お互いの家を行き来したことはない。それほど遠くないらしいという程度しか、場所も知らない。
 わたしが怪訝そうな表情をしたからだろう。優位にいたはずのまほろは、急に慌てた様子で「違うんです」と言った。

「先輩にあげたいものがあるんですけど、持ち歩けるようなものじゃなくて……。だから、家まで来てほしくて」
「ああ、そういうことならいいけど……何? あげたいものって」
「それは……あとでのお楽しみです」

 まほろは「ふふんふん」と鼻歌だか笑い声だかわからない声を漏らした。夕日の名残もなくなった交差点に、軽やかな足音を響かせた。
 だいぶ早い夕食だったから、まだ七時前だ。だけど、普通の部活の日は五時半ごろに校門を出るので、いつもより遅くなってしまった。そのことに気づいて、わたしは「あっ」と声を上げた。

「まほろ、寄り道しちゃって大丈夫だったの? お父さんとお母さん、遅いって心配してないかな」
「えっ?」

 まほろは訝しげに首をかしげた。

「だって、まほろって基本、部活終わったらまっすぐ帰るでしょ。だから、親が厳しくて門限があるのかなって思ってたんだけど」
「門限なんてないですよ。ちょっと……家でやることがあるだけで」

 まほろは国道をそれ、住宅地に挟まれた路地へと足を向けた。等間隔に街灯と電柱が並ぶ、見通しのいい道だった。車通りはあまりなく、わたしたちは深夜の道を歩くように幅を取って歩いた。
 一度来ただけじゃ覚えられないほど、右へ左へと曲がり、ようやく「あそこです」とまほろは二階建ての一軒家を指さした。暗いからよくわからないが、外壁は白く、小さな庭には若木が植わっていた。二台分の駐車スペースは空いており、隅に枯葉がたまっていた。

「まだどっちも帰ってきてないみたいです」
「えっ、そ、そう」

 玄関の鍵を開けるまほろの背後で、なぜか言葉をつまらせてしまう。解錠が済み、ドアが半分だけ開かれる。自宅とは違う、生活のにおいが流れてくる。はじめてなのにいやな感じがしないのは、まほろがうっすらと纏っていたこのかおりを、毎日そばで嗅いでいたからだろうか。
 まほろはちらりと振り返り、うっすらとえくぼを作った。琥珀色の眼差しに貫かれる。

「……ちょっとあがっていきませんか?」

 わたしはてっきり、玄関先で手渡されるものだと思っていた。友人の家あがったことなど、小学生のころに数回あったくらいだ。心の準備もなしにやってのけられることではない。

「いやいや、ぜんぜんおかまいなく……」
「どうしたんですか、先輩。大丈夫です。両親はあと二時間は帰ってきませんから」
「そういうことじゃ……」

 いや、それどういうこと? などと訊く暇もなく、手を掴まれ、玄関に引っ張りこまれる。いつになく心臓がばくばくと高鳴って、つないだ手から伝わってしまわないか心配になるほどだった。そのくせ、靴を脱ぐためにあっさりと手を離されると、少し残念に思うのが不思議だった。

 まほろは玄関を上がってすぐのドアを開けた。恐る恐るついていくと、広々としたキッチンとリビングだった。慣れない空気感に肩が強ばる。
 まほろはすたすたとキッチンへと入っていった。何やら、冷蔵庫を探っている様子だ。手持ち無沙汰ながら、人の家をじろじろと見るのも躊躇われるのでうつむいていると、まほろが戻ってきた。なぜか救世主のように感じてしまい、ぱっと顔を上げ――息をのんだ。

「これ……この前の……佳作受賞のお祝いです」

 まほろが手にしていたのは、小さなホールケーキだった。直径十五センチほどだろうか。ホイップクリームが塗られ、オレンジやキウイ、ぶどうなどがふんだんにトッピングされている。薄紅色のバラも、何かの果物で作ってあるのだろうか。本物と見紛うほどに、花びら一枚一枚が繊細に折り重なっている。
 そして、まんなかにはチョコのプレートがのっていた。そのプレートには、かわいらしい丸文字で『佳作受賞おめでとう』と書かれていた。

 食べたいというよりも、描きたいと思うような、美しいケーキだった。

 わたしは息をのんだまま、呼吸すら忘れてしまっていた。つまっていた息を吐き出すと、気の抜けた笑い声のような音が出た。
 リアクションが薄すぎてまほろががっかりしていないか。そんなことが心配になったけど、ケーキから視線を上げると、笑顔を通り越してちょっと泣きそうなまほろの顔があった。その潤んだ琥珀色の瞳に、精いっぱいの笑みを見せた。

「すごい……すごくきれいだよ。これ、わざわざ注文してくれたの?」

 そう訊ねると、まほろは目を見開き、忙しなく視線を泳がせた。

「あ、えっと……実はこれ、買ったんじゃなくて……ですね」

 しばし、沈黙。まほろはうつむき、ひざをもじもじとこすりあわせている。わたしはケーキとまほろを交互に見て、つっかえながら声を出した。

「も、もしかして……作ったの?」

 まほろはまぶたをぎゅっと閉じてこくこくと小刻みにうなずいた。

「手作りなんて重いかなって思ったんですけど……でも、やっぱり心をこめたくて……」

 顔を真っ赤にして、上目遣いでちらちらと見上げてくるまほろ。恥じらいとひたむきな思いがこもった瞳にくすぐられるようで、わたしまで照れてしまう。

「ありがとう……すごいよ、手作りのケーキなんてはじめてもらった。すごく嬉しい。ありがとう」

 月並みだけど、これが素直な気持ちだった。本当に嬉しいときは、うまい言葉なんて出てこないのだ。そして、その下手くそな言葉こそ、ちゃんと相手に伝わるらしい。まほろはとろけるような、満面の笑みを浮かべている。わたしもこんなふうに笑えたらいいのに、と思うくらい、かわいらしい表情だった。

「あの、先輩……いつものまほろカフェは出張版で……今日はまほろカフェ本店に来たつもりで、一杯だけ、いかがですか?」

 まほろは口ごもりながら、そう訊ねてきた。レストランで注文したとき、まほろがデザートセットを禁止してきたのを思い出した。このサプライズのためだったと思うと、嬉しくもあり、ちょっとおかしくもあった。

「だからさっき、あんなにムキになってたんだ」
「もう、店員さんがご親切に教えてくれなければもっとスマートに誘えたのに……」

 まほろは口をとがらせた。ケーキをテーブルに置き、椅子にかかっていたエプロンをつける。その椅子を引いてわたしに座るよう手で促してくれる。

「先輩。ご注文は?」
「じゃあ、コーヒーひとつ」
「ふふっ。かしこまりました。本店はもちろん、インスタントじゃないですよ。挽くところからやりますからね」

 まほろはそう言うと、ぱたぱたとキッチンへ向かった。まほろがミルにコーヒー豆を入れ、ガリガリとハンドルを回すと、早くもコーヒーのかおりが漂いはじめる。
 こんな穏やかな時間も……まほろカフェの開店も、あと少ししか残されていないんだな。ずっとこのコーヒー豆を挽く音がつづけばいいのに――。
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