陰キャの俺が学園のアイドルがびしょびしょに濡れているのを見てしまった件

暁ノ鳥

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第26章:絶望の底で

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 世界から、色が消えた。

 あの日、屋上で、美月さんに、俺の世界そのものである彼女に、拒絶されてから、数日。
 俺の日常は、味も、匂いも、温度も感じない、灰色のモノクロフィルムみたいになってしまった。

 学校には、来る。
 ゾンビみたいに、のろのろと廊下を歩き、死んだ魚みたいな目で、黒板を眺める。
 親友の健太が、何か面白いことを言って、俺を笑わせようとしてくれているのが分かる。
 でも、その声は、分厚い壁の向こう側から聞こえるようで、俺の心には、届かない。

 ただ、目だけが、勝手に、彼女の姿を追ってしまう。

 教室の窓際の席。
 そこには、氷のように冷たい、完璧な美貌の女王様が座っている。
 その隣には、常に、氷室雅人が、まるで忠実な騎士のように、あるいは、彼女を捕らえた看守のように、寄り添っている。

 二人は、時折、言葉を交わす。
 そのたびに、俺の胸の奥で、砕け散ったはずの心が、さらに、粉々になって、チリヂリに霧散していくのを感じた。

 もう、いいんだ。
 俺なんかが、彼女の隣にいるべきじゃなかった。
 俺が、彼女の「遊び」に、舞い上がっていただけなんだ。
 そう、自分に言い聞かせる。
 そうやって、この、胸を抉るような痛みに、蓋をしようとする。

 文化祭を数日後に控えた、放課後。
 ざわめきが引いていく教室で、俺が、重い体を椅子から引き剥がそうとした、その時だった。

「――田中くん」

 声をかけられ、俺は、ビクリと肩を震わせた。
 そこに立っていたのは、桜井花音だった。
 その顔は、後悔と、罪悪感と、そして、親友を想う悲痛な想いで、ぐしゃぐしゃに歪んでいる。

「ごめんなさい……!」

 彼女は、俺の机の前で、深々と、頭を下げた。
 
「私の、せいよね……。私が、あなたにあんな酷いことを言ったから……。でも、違うの! 今の美月、絶対におかしい!」

 花音は、顔を上げる。
 その瞳は、赤く泣き腫らされていた。
 
「氷室先輩といても、美月、全然笑わないの。ずっと、どこか遠くを見てるみたいで……。まるで、心が、ここにないみたいで……。私が望んだのは、こんなのじゃなかった!」

 彼女の、悲痛な叫び。
 その言葉が、俺の、死んだはずの心に、小さな、ささくれを作る。

「これ……」
 
 花音は、おずおずと、一冊のパンフレットを俺に差し出した。
 それは、今度の文化祭の、プログラム冊子だった。

「昨日、美月が、カバンから落としたの。なんだか、ずっと強く握りしめてたみたいで、少し、クシャクシャになってた……。私には、これが何なのか分からない。でも、もしかしたら、田中くんなら……何か、分かるかもしれないから……」

 俺は、まるで、幽霊にでも触るかのように、その冊子を、受け取った。
 彼女の、残り香が、するような、気がした。

 自室に戻った俺は、ベッドの上に、大の字で倒れ込む。
 手の中には、花音から渡された、一枚の、薄っぺらい紙の束。
 こんなものに、何の意味がある。
 もう、終わったんだ。

 俺は、それを、ゴミ箱に、投げ捨てようとした。
 その、瞬間だった。
 不意に、部屋の蛍光灯の光が、冊子のある一点を、反射した。

 ――ボールペンで付けられた、ごく、ごく、小さな、点。

 それは、文化祭二日目、クラス展示の、ある、特定の時刻の欄に、記されていた。
 その日は――俺と彼女が、あの、美術準備室で、二人きりの「実験」をした日。

 なんだ……?
 
 心臓が、ドクン、と、久しぶりに、大きな音を立てた。
 俺は、まるで、何かに憑かれたように、そのページを、食い入るように見つめる。
 そして、見つけた。

 ページの、隅っこ。
 他の文字よりも、明らかに小さく、そして、震えるような、か細い筆跡で書かれた、三桁の数字。

『248』

「にひゃく、よんじゅう、はち……?」

 なんだ、この数字は。
 ロッカーの番号か? それとも、何かの、暗号か?
 
 その数字が、頭の中で、ぐるぐると、渦を巻く。
 そして――。

 ――雷に、打たれた。

「……まさか……!」

 俺は、ベッドから跳ね起きると、部屋の隅で、漫画や雑誌の山に埋もれていた、一冊の本を、必死に、掘り起こした。
 『改訂版・人体の構造と機能』
 彼女が、俺に、託した、俺たちの、秘密の教科書。

 震える指で、ページをめくる。
 100、200、240……245、246、247……。

 ――248。

 そのページに書かれていた、見出しの文字を、俺の目は、確かに、捉えた。

『――極度の精神的負荷(ストレス)下における身体的反応について』

 ――瞬間。
 全ての、点が、線で、繋がった。

 あの、屋上での、氷のような瞳。
 能面のような、無表情。
 「飽きた」という、あまりにも、残酷な、言葉。

 違う。
 違う、違う、違う!

 あれは、彼女の、本心じゃない。
 あれは、彼女からの、SOSだったんだ!

「飽きたんじゃない……! 嘘なんだ! 美月さんは、氷室に、脅されてるんだ!」

 俺は、叫んでいた。
 灰色の世界に、鮮やかな、色が、戻ってくる。
 
 絶望の底に沈んでいた俺の心に、熱い、熱い、炎が、灯った。

 それは、氷室雅人に対する、燃えるような、怒りの炎。
 そして、俺の、たった一人の女王様を、必ず、救い出すという、絶対的な、使命感。

 俺は、窓ガラスに映る、自分の顔を見た。
 そこにいたのは、もう、死んだ魚みたいな目をした、抜け殻じゃない。
 獲物を前にした、飢えた獣の目が、爛々と、輝いていた。

「――待ってろよ、氷室」

 俺は、静かに、しかし、心の底からの、殺意を込めて、呟いた。
 
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