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ところが――嫁いでみれば、話が違っていた。
レオン様にご両親がいるのは、もちろん想定内だった。お母様のお話しか聞いたことはなく、どんな方かも知らないけれど、お母様はいるのだなとは知っていたし。ならば、当然お父様も一緒に暮らしていて、多分私たちは離れにでも新婚夫婦として暮らすのだろうと思っていた。
けれど、彼の口から一度も聞いたことのなかった姉レイカや妹アーヤ、それに祖父母までが、広くもない屋敷にひしめくように暮らしていた。
「田舎の領地で二人で穏やかに暮らそう」と言っていたのに、実際には人の多さが、むしろ息苦しく感じられる家だった。伯爵家だというのに、ここには離れもない。
そして何より、屋敷内も庭園も、手入れが行き届いていないことに驚いた。廊下の絨毯はところどころ擦り切れ、壁の装飾画は色褪せて、額縁の金箔はほとんど剥がれ落ちている。
食堂の長いテーブルは艶を失い、ひび割れた脚を金具で留めて使われていた。
庭は雑草が伸び放題で、噴水には濁った水がたまっている。
レオン様は学園でいつも身なりが整っていて、貴族の中でも特に上品な方だった。だから、彼の家がこれほどまでに困窮しているなんて、夢にも思わなかった。
伯爵家ならそれなりの暮らしをしているものだとばかり思っていたのに。まるで華やかな仮面の裏側を見せつけられたようで、胸の奥がひやりとした。
「田舎の領地」という言葉を、私は穏やかな自然と、静かで豊かな暮らしのことだと信じていた。
けれど実際は――私の予想とは全く違っていた暮らしがそこには広がっていた。
結婚式は、領地内の小さな教会で行われた。 参列したのは彼の家族だけ。私は学園時代の友人すら呼ぶことができなかった。
「こういうのは、たくさんの人を呼んで賑やかにするのもいいけど……僕は君とだけ、ひっそりと小さな結婚式をしたかったんだ。本当は二人きりの方が良かったんだけどね。僕の家族がどうしても、僕たちの門出を祝いたいと言ってくれてさ」
彼の言葉は優しくて、まるで恋物語の一場面のようだった。私はそれを嬉しく感じた――ほんの少しの違和感を胸に抱えたまま。
その式で、私は初めて彼の従姉妹、エレナ・ドレイカー子爵令嬢と顔を合わせた。私よりも少し年上で、淡いピンクブロンドの髪に、同じ色を映した瞳。華やかで、レオン様の隣に立つ姿がよく似合っていた。
「まあ、あなたが王都から連れてきた花嫁さんなのね? なんて可愛らしいのかしら。何かあったら相談に乗ってあげるわ。だって私、レオン様とは幼馴染なの。彼のことは誰よりもよくわかってるのよ。うふふっ」
その声は明るく柔らかだったけれど、どこかマウントを取るような響きがあった。
私はそれに気づきながらも、ただ微笑んで挨拶を交わす。
「……そうですか。 よろしくお願いします」
「そうそう。エレナは昔からレオンと仲が良くてね。将来、二人は結婚するんじゃないかと思っていたのよ」
レイカはクスクスと笑っていたが、私と目が合うとごまかすように微笑み、私の腕を取った。
「もちろん、今はリリアさんが、レオンのお嫁さんに来てくれてとても嬉しいのよ。王都でも一番の大商会の一人娘だったんでしょう? リリアさんのドレスも宝石も素敵だものね」
「え? 私のドレスや宝石をいつ見たんですか?」
「あぁ……いえ、メイドから聞いたの。お掃除の時に見かけたって。クローゼットには色とりどりのドレスが並んでいて、宝石箱には大きなダイヤやエメラルド、ルビーが山のように入っていたって」
「すごい! リリアお義姉様、私に一つちょうだい? そんな宝石、身につけてみたいもの」
義理の妹になったアーヤが、背後から抱きつき甘ったるい声でねだった。姉妹のいなかった私には、こういうやり取りが普通なのかどうか分からない。
結婚式を終え、レオン様と共に暮らす部屋は、当主夫妻用の一番日当たりの良い部屋だった。
とはいえ、すぐ隣にはレイカとアーヤの部屋があり、落ち着けるとは言いがたい。
そんな新婚生活の中でも、レオン様はいつも優しかった。
「ごめんね。こんなに人が多いとは思わなかっただろう? それにこの屋敷も、ずいぶん長いこと手を入れていないんだ。家具も古くて、もうボロボロでね。実は父上が事業を失敗してから、バルネス伯爵家には余裕がないんだよ。恥ずかしくて、今まで言えなかった。姉上も一度結婚して出戻ってきている……それも少し気まずくてね。妹は来年、王都の学園に通う年齢なんだが、学費も出せそうにないんだ……情けなくてごめん……」
そう言いながら、レオン様は私をそっと抱きしめた。
その声は苦しげで、悲しそうで――私は胸の奥がツキンと痛む。
「あの……アーヤさんの学費なら心配いりません。義理の妹になったのですから、私が出しますわ。それに、屋敷内の家具も買い替えましょう。お庭も整えて、もっと住み心地よくしたらどうでしょう? この屋敷は少し狭いですから、離れを作って、そこに私たちが暮らすのも素敵だと思うの」
「本当にいいのかい? それは助かるよ……ありがとう、恩に着るよ」
お母様が遺した宝石や貴金属は、王都商業ギルド銀行の貸金庫に保管されている。それらは、お父様がお母様のために集めた品々であり、どれも大切な思い出の詰まったものだった。
嫁ぐ際に実際に持ってきたのは、自分の宝石とドレス、遺産が入った王都商業ギルド口座の通帳と印鑑、そして貸金庫の鍵だ。
「ちょうど王都に行く用事があるんだ。通帳と印鑑を貸してくれないかな? 家具や庭を整えるためのお金をおろしてこなきゃいけないし。君はゆっくり、この自然の中でくつろいでいていいからね。王都に行けば、ご両親との思い出が蘇って、辛い気持ちになるだろう? 僕の思いやりだよ」
その言葉に、胸の奥がじんと熱くなった。
疑う理由なんてどこにもなかった。
私は素直に、ギルド口座の通帳と印鑑をレオン様に手渡した。
……今思えば、貸金庫の鍵だけは渡さなかった自分を褒めてあげたい。
それだけが、今も私を支えている唯一の希望なのだから……
レオン様にご両親がいるのは、もちろん想定内だった。お母様のお話しか聞いたことはなく、どんな方かも知らないけれど、お母様はいるのだなとは知っていたし。ならば、当然お父様も一緒に暮らしていて、多分私たちは離れにでも新婚夫婦として暮らすのだろうと思っていた。
けれど、彼の口から一度も聞いたことのなかった姉レイカや妹アーヤ、それに祖父母までが、広くもない屋敷にひしめくように暮らしていた。
「田舎の領地で二人で穏やかに暮らそう」と言っていたのに、実際には人の多さが、むしろ息苦しく感じられる家だった。伯爵家だというのに、ここには離れもない。
そして何より、屋敷内も庭園も、手入れが行き届いていないことに驚いた。廊下の絨毯はところどころ擦り切れ、壁の装飾画は色褪せて、額縁の金箔はほとんど剥がれ落ちている。
食堂の長いテーブルは艶を失い、ひび割れた脚を金具で留めて使われていた。
庭は雑草が伸び放題で、噴水には濁った水がたまっている。
レオン様は学園でいつも身なりが整っていて、貴族の中でも特に上品な方だった。だから、彼の家がこれほどまでに困窮しているなんて、夢にも思わなかった。
伯爵家ならそれなりの暮らしをしているものだとばかり思っていたのに。まるで華やかな仮面の裏側を見せつけられたようで、胸の奥がひやりとした。
「田舎の領地」という言葉を、私は穏やかな自然と、静かで豊かな暮らしのことだと信じていた。
けれど実際は――私の予想とは全く違っていた暮らしがそこには広がっていた。
結婚式は、領地内の小さな教会で行われた。 参列したのは彼の家族だけ。私は学園時代の友人すら呼ぶことができなかった。
「こういうのは、たくさんの人を呼んで賑やかにするのもいいけど……僕は君とだけ、ひっそりと小さな結婚式をしたかったんだ。本当は二人きりの方が良かったんだけどね。僕の家族がどうしても、僕たちの門出を祝いたいと言ってくれてさ」
彼の言葉は優しくて、まるで恋物語の一場面のようだった。私はそれを嬉しく感じた――ほんの少しの違和感を胸に抱えたまま。
その式で、私は初めて彼の従姉妹、エレナ・ドレイカー子爵令嬢と顔を合わせた。私よりも少し年上で、淡いピンクブロンドの髪に、同じ色を映した瞳。華やかで、レオン様の隣に立つ姿がよく似合っていた。
「まあ、あなたが王都から連れてきた花嫁さんなのね? なんて可愛らしいのかしら。何かあったら相談に乗ってあげるわ。だって私、レオン様とは幼馴染なの。彼のことは誰よりもよくわかってるのよ。うふふっ」
その声は明るく柔らかだったけれど、どこかマウントを取るような響きがあった。
私はそれに気づきながらも、ただ微笑んで挨拶を交わす。
「……そうですか。 よろしくお願いします」
「そうそう。エレナは昔からレオンと仲が良くてね。将来、二人は結婚するんじゃないかと思っていたのよ」
レイカはクスクスと笑っていたが、私と目が合うとごまかすように微笑み、私の腕を取った。
「もちろん、今はリリアさんが、レオンのお嫁さんに来てくれてとても嬉しいのよ。王都でも一番の大商会の一人娘だったんでしょう? リリアさんのドレスも宝石も素敵だものね」
「え? 私のドレスや宝石をいつ見たんですか?」
「あぁ……いえ、メイドから聞いたの。お掃除の時に見かけたって。クローゼットには色とりどりのドレスが並んでいて、宝石箱には大きなダイヤやエメラルド、ルビーが山のように入っていたって」
「すごい! リリアお義姉様、私に一つちょうだい? そんな宝石、身につけてみたいもの」
義理の妹になったアーヤが、背後から抱きつき甘ったるい声でねだった。姉妹のいなかった私には、こういうやり取りが普通なのかどうか分からない。
結婚式を終え、レオン様と共に暮らす部屋は、当主夫妻用の一番日当たりの良い部屋だった。
とはいえ、すぐ隣にはレイカとアーヤの部屋があり、落ち着けるとは言いがたい。
そんな新婚生活の中でも、レオン様はいつも優しかった。
「ごめんね。こんなに人が多いとは思わなかっただろう? それにこの屋敷も、ずいぶん長いこと手を入れていないんだ。家具も古くて、もうボロボロでね。実は父上が事業を失敗してから、バルネス伯爵家には余裕がないんだよ。恥ずかしくて、今まで言えなかった。姉上も一度結婚して出戻ってきている……それも少し気まずくてね。妹は来年、王都の学園に通う年齢なんだが、学費も出せそうにないんだ……情けなくてごめん……」
そう言いながら、レオン様は私をそっと抱きしめた。
その声は苦しげで、悲しそうで――私は胸の奥がツキンと痛む。
「あの……アーヤさんの学費なら心配いりません。義理の妹になったのですから、私が出しますわ。それに、屋敷内の家具も買い替えましょう。お庭も整えて、もっと住み心地よくしたらどうでしょう? この屋敷は少し狭いですから、離れを作って、そこに私たちが暮らすのも素敵だと思うの」
「本当にいいのかい? それは助かるよ……ありがとう、恩に着るよ」
お母様が遺した宝石や貴金属は、王都商業ギルド銀行の貸金庫に保管されている。それらは、お父様がお母様のために集めた品々であり、どれも大切な思い出の詰まったものだった。
嫁ぐ際に実際に持ってきたのは、自分の宝石とドレス、遺産が入った王都商業ギルド口座の通帳と印鑑、そして貸金庫の鍵だ。
「ちょうど王都に行く用事があるんだ。通帳と印鑑を貸してくれないかな? 家具や庭を整えるためのお金をおろしてこなきゃいけないし。君はゆっくり、この自然の中でくつろいでいていいからね。王都に行けば、ご両親との思い出が蘇って、辛い気持ちになるだろう? 僕の思いやりだよ」
その言葉に、胸の奥がじんと熱くなった。
疑う理由なんてどこにもなかった。
私は素直に、ギルド口座の通帳と印鑑をレオン様に手渡した。
……今思えば、貸金庫の鍵だけは渡さなかった自分を褒めてあげたい。
それだけが、今も私を支えている唯一の希望なのだから……
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