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6 あなたには頼らない
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『ベス!』
イヴァンが去った後も床に座り込んだまま呆然としていた私は、愛称を大声で呼ばれ、のろのろと顔を上げた。
周囲はすっかり暗くなっていた。皇宮の奥でも外灯のお陰で周囲を何とか伺える。
『……ハンク兄様?』
目の前に心配そうなハンク兄様が立っていた。
『まだ部屋に戻ってないと聞いて捜しにきた』
妹相手だからか、ハンク兄様はテューダ語で話しかけてきた。
目線を合わせるためだろう。ハンク兄様は目の前で膝をついた。
『……泣いていたのか?』
『……あ、これは』
目が赤いのか、頬に涙の痕が残っていたのか、気づかれてしまった。どう言い訳すべきかと考えていると今訊いてほしくない事を訊かれてしまった。
『……皇弟殿下と何かあったか?』
ぎくりと肩を揺らしてしまったが、この反応では「何かあった」と肯定するようなものだ。
聡明なハンク兄様が、それに気づかないはずがない。
『……これは、皇弟殿下が?』
ハンク兄様は私の両手を取った。両手首は赤くなっていた。イヴァンに押さえつけられた痕だ。
これも言い訳が思いつかない。
私をじっと見るハンク兄様から顔を背けた私は、私の首筋を見た彼の顔色が変わった事に気づかなかった。
『……あの、野郎!』
突然、ハンク兄様が壁を拳で殴りつけた。
普段穏やかな次兄らしからぬ行動にぎょっとしたが、彼の顔を見てさらに息を呑んだ。
冷静沈着で穏やかで優しく聡明な美丈夫。
それが常に周囲に見せているハンク兄様の姿だ。
けれど、今の彼は――。
『……ハンク、兄様?』
恐る恐る呼びかける妹の声で我に返ったらしく、いつもの穏やかな顔に戻るとハンク兄様は立ち上がり手を差し伸べた。
『部屋に送って行くよ』
ハンク兄様に手を引っ張られて立ち上がった私は、そのまま彼と手を繋いで歩き出した。
幼い頃は、よくこうして手を繋いで歩いたし、沈黙が落ちても苦ではなかったのに。
ハンク兄様は、もうイヴァンと何かあったのか訊いてこなかった。
それを安堵していいはずだのに。
先程の、壁を殴りつけた後のハンク兄様の目が忘れられない。
私の首筋を凝視して、ぎらついていた紫眼。
初めてハンク兄様を怖いと思った。
あれは、紛れもなく「男」の目だった。
私に無体な真似をしたイヴァンと同じ――。
皇宮の宛がわれた部屋の近くなると、ほっとした。
一刻も早くハンク兄様から離れたいのだ。
……気づいてしまったから。
彼の今まで隠していた想いに――。
『ベス、エチェバリアに来ないか?』
黙ったまま歩いていたのに、突然、ハンク兄様がこんな事を言いだした。
『いいですね。この婚約破棄騒動が一段落ついたら、お母様達と』
『家族で来訪しにこいと言っているんじゃない』
ハンク兄様は私の言葉を遮った。
『はっきり言う。俺は皇弟が大嫌いだ。君の婚約者が馬鹿皇子だったのも嫌だったが、皇弟はそれ以上に嫌なんだ』
皇弟が「大嫌い」だから、彼に対して、あんな態度だった?
だが、そうだとしても普段の彼なら、それを絶対表に出さないはずだ。
だのに、イヴァンに対してだけは、それができなかった?
それくらいイヴァンが嫌いなのか?
『君だって婚約者になった途端、無体を働くような男など嫌だろう?』
ハンク兄様は、どうやら私とイヴァンの間にあった事をおおよそ見抜いているようだ。
だが、それを面と向かって言われると居たたまれず顔が赤くなった。
『俺はエチェバリアの国王だ。あの国でなら俺は大抵の事はできる。皇弟から逃がしてやる。君を守ってみせる』
ハンク兄様はそう言うが、政略で決められた婚約だ。いくら私の兄であっても介入できるはずがない。まして、今の彼はエチェバリア王国の国王なのだ。下手に介入すれば、テューダ王国やラズドゥノフ帝国との関係が悪くなる。
聡明なハンク兄様が、それを分からないはずがないのに。
……それだけ、妹が大嫌いなイヴァンの妻になるのが耐えられないのだろうか?
ハンク兄様の気持ちがどうであれ、私は――。
『――いいえ。逃げられないわ』
政略で決められた婚約だからではない。
『彼からは逃げられない』
私は繰り返した。
おそらく彼は、あの人と同じ種の人間だ。
無表情で冷静沈着なあの人とは違い表情豊かで激しい気性のイヴァン。
それでも根本は同じだと分かるのだ。
唯一の人にだけ価値を見出し執着する人間からは絶対に逃げられない。
『それに、私も逃げる気はないの』
あの人でないなら誰だって同じだ。
どんなに似ていてもイヴァンでも誰でも、あの人にはなれない。
『王女として生まれた以上、政略結婚は私の義務だし……だったら、彼が相手でなくても、あれは、しなきゃいけない事だし』
ハンク兄様は「婚約者になった途端、無体を働く男」とイヴァンを責めたけれど、実際、周囲が彼が責める事はないだろう。結婚まで純潔を守れば婚約者同士の親密な触れ合いは多少大目に見てくれるからだ。
『心配かけて、ごめんなさい。ハンク兄様。私なら大丈夫だから』
『……ベスが決めた事なら。でも、逃げたくなったら、いつでも俺の所に来い。守ってやる』
『ありがとう。ハンク兄様』
ハンク兄様に微笑みながら私は心の中で呟いた。
(あなたには頼らない。ハンク兄様)
ついさっき気づいてしまった彼の想い。
その想いに応えられない以上、頼る訳にはいかない。
だから、私はもう、この美しく誰よりも私に優しい次兄には頼らない――。
イヴァンが去った後も床に座り込んだまま呆然としていた私は、愛称を大声で呼ばれ、のろのろと顔を上げた。
周囲はすっかり暗くなっていた。皇宮の奥でも外灯のお陰で周囲を何とか伺える。
『……ハンク兄様?』
目の前に心配そうなハンク兄様が立っていた。
『まだ部屋に戻ってないと聞いて捜しにきた』
妹相手だからか、ハンク兄様はテューダ語で話しかけてきた。
目線を合わせるためだろう。ハンク兄様は目の前で膝をついた。
『……泣いていたのか?』
『……あ、これは』
目が赤いのか、頬に涙の痕が残っていたのか、気づかれてしまった。どう言い訳すべきかと考えていると今訊いてほしくない事を訊かれてしまった。
『……皇弟殿下と何かあったか?』
ぎくりと肩を揺らしてしまったが、この反応では「何かあった」と肯定するようなものだ。
聡明なハンク兄様が、それに気づかないはずがない。
『……これは、皇弟殿下が?』
ハンク兄様は私の両手を取った。両手首は赤くなっていた。イヴァンに押さえつけられた痕だ。
これも言い訳が思いつかない。
私をじっと見るハンク兄様から顔を背けた私は、私の首筋を見た彼の顔色が変わった事に気づかなかった。
『……あの、野郎!』
突然、ハンク兄様が壁を拳で殴りつけた。
普段穏やかな次兄らしからぬ行動にぎょっとしたが、彼の顔を見てさらに息を呑んだ。
冷静沈着で穏やかで優しく聡明な美丈夫。
それが常に周囲に見せているハンク兄様の姿だ。
けれど、今の彼は――。
『……ハンク、兄様?』
恐る恐る呼びかける妹の声で我に返ったらしく、いつもの穏やかな顔に戻るとハンク兄様は立ち上がり手を差し伸べた。
『部屋に送って行くよ』
ハンク兄様に手を引っ張られて立ち上がった私は、そのまま彼と手を繋いで歩き出した。
幼い頃は、よくこうして手を繋いで歩いたし、沈黙が落ちても苦ではなかったのに。
ハンク兄様は、もうイヴァンと何かあったのか訊いてこなかった。
それを安堵していいはずだのに。
先程の、壁を殴りつけた後のハンク兄様の目が忘れられない。
私の首筋を凝視して、ぎらついていた紫眼。
初めてハンク兄様を怖いと思った。
あれは、紛れもなく「男」の目だった。
私に無体な真似をしたイヴァンと同じ――。
皇宮の宛がわれた部屋の近くなると、ほっとした。
一刻も早くハンク兄様から離れたいのだ。
……気づいてしまったから。
彼の今まで隠していた想いに――。
『ベス、エチェバリアに来ないか?』
黙ったまま歩いていたのに、突然、ハンク兄様がこんな事を言いだした。
『いいですね。この婚約破棄騒動が一段落ついたら、お母様達と』
『家族で来訪しにこいと言っているんじゃない』
ハンク兄様は私の言葉を遮った。
『はっきり言う。俺は皇弟が大嫌いだ。君の婚約者が馬鹿皇子だったのも嫌だったが、皇弟はそれ以上に嫌なんだ』
皇弟が「大嫌い」だから、彼に対して、あんな態度だった?
だが、そうだとしても普段の彼なら、それを絶対表に出さないはずだ。
だのに、イヴァンに対してだけは、それができなかった?
それくらいイヴァンが嫌いなのか?
『君だって婚約者になった途端、無体を働くような男など嫌だろう?』
ハンク兄様は、どうやら私とイヴァンの間にあった事をおおよそ見抜いているようだ。
だが、それを面と向かって言われると居たたまれず顔が赤くなった。
『俺はエチェバリアの国王だ。あの国でなら俺は大抵の事はできる。皇弟から逃がしてやる。君を守ってみせる』
ハンク兄様はそう言うが、政略で決められた婚約だ。いくら私の兄であっても介入できるはずがない。まして、今の彼はエチェバリア王国の国王なのだ。下手に介入すれば、テューダ王国やラズドゥノフ帝国との関係が悪くなる。
聡明なハンク兄様が、それを分からないはずがないのに。
……それだけ、妹が大嫌いなイヴァンの妻になるのが耐えられないのだろうか?
ハンク兄様の気持ちがどうであれ、私は――。
『――いいえ。逃げられないわ』
政略で決められた婚約だからではない。
『彼からは逃げられない』
私は繰り返した。
おそらく彼は、あの人と同じ種の人間だ。
無表情で冷静沈着なあの人とは違い表情豊かで激しい気性のイヴァン。
それでも根本は同じだと分かるのだ。
唯一の人にだけ価値を見出し執着する人間からは絶対に逃げられない。
『それに、私も逃げる気はないの』
あの人でないなら誰だって同じだ。
どんなに似ていてもイヴァンでも誰でも、あの人にはなれない。
『王女として生まれた以上、政略結婚は私の義務だし……だったら、彼が相手でなくても、あれは、しなきゃいけない事だし』
ハンク兄様は「婚約者になった途端、無体を働く男」とイヴァンを責めたけれど、実際、周囲が彼が責める事はないだろう。結婚まで純潔を守れば婚約者同士の親密な触れ合いは多少大目に見てくれるからだ。
『心配かけて、ごめんなさい。ハンク兄様。私なら大丈夫だから』
『……ベスが決めた事なら。でも、逃げたくなったら、いつでも俺の所に来い。守ってやる』
『ありがとう。ハンク兄様』
ハンク兄様に微笑みながら私は心の中で呟いた。
(あなたには頼らない。ハンク兄様)
ついさっき気づいてしまった彼の想い。
その想いに応えられない以上、頼る訳にはいかない。
だから、私はもう、この美しく誰よりも私に優しい次兄には頼らない――。
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