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雨上がりは突然に
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『ねぇねぇ、なんであやかちゃんのおかあさんは授業参観にきてないの?』
───それはね、彩夏ちゃんのお母さんは娼婦だからよ。夜に仕事をすることが多いから、今は多分お家で寝てるんじゃないかしら。だから来てないのよ。
『ママ、どうしてあやかちゃんとは遊んじゃダメっていうの?』
───それはね、彩夏ちゃんは娼婦の娘だからよ。旦那もいるのに体でお金を稼ぐような母親の元で育った子と遊ぶのは、あなたに悪影響だわ。
そんなこと、ないよ……。わたしのママは頑張ってるんだよ。
体が弱くて入院しているお父さんの代わりに、毎日頑張って働いているんだよ……。それの、なにがイケナイの?
純粋無垢な子供の質問に答える母親の容赦ない言葉がわたしの胸に突き刺さる。
教室の後ろには沢山のお母さんがいるのに、わたしのママだけそこにはいない。
『わたしのママは、悪くないもん……。わたしは、悪影響なんかじゃないもん!!』
沢山の視線を感じる。
嫌なものを見るような、冷たい視線。
こそこそと呟かれるママとわたしの悪口を聞いていると、どうしようもなく悲しくなって、椅子をガタンと倒して立ち上がった。
突然、激しい激情に見舞われた、小学1年生の時のわたし。
怒りと悲しみの感情の渦から抜け出せなくなるような苦しくてつらい感覚の中で、小学生の時のわたしは眠るようにして気を失った。
除け者にされるのが悲しくて、大きな教室の中に自分のお母さんだけがいないというのが苦しくて。
自分が他の子と同じじゃないってことが、どうしようもないくらい寂しかった。
娼婦の娘だから。体を売るような母親の元で育った卑しい娘だから。
そんな理由のせいで、わたしはいつまでもこの孤独から抜け出せないでいた。
つらい過去の記憶は、時が経てば段々と薄れていくものだって、先生は言っていたけど、全然そんなことないじゃない。
暗闇の中。起こした体は信じられないくらい重かった。
「……また、あの頃の夢を見たんだ」
頬に伝う涙を拭って、ベッドの上から自分以外は誰もいない小さくて孤独な部屋を見渡す。
部屋の中は暗くてほとんど何も見えなかったけど、今のわたしにはそれが心地良かった。
ほんのしばらくの間、無の空間で無の時間を過ごす。
真っ暗で、真っ黒で、深い闇に包まれた自分の部屋。
どこまでも光が差すことはなさそうな、希望なき孤独な部屋。
わたしが幼い頃から、ずっとそう。
もうママはわたしの元へと戻ってきてくれないんじゃないかと不安になって、部屋の隅で蹲ってすすり泣いていた小さなわたし。
激しく轟く大きな雷の亀裂音に、耳をふさいだ幼き頃の小さな手。
窓もカーテンもしっかり閉めてあるのに、家の中にまで入ってくる激しい豪雨と容赦ない雷の張り裂けるような音。
………ああ、やだな。
この音を聞いたら、自然と体が震えてしまう。
今日の天気予報では、豪雨になるなんて言ってなかったのに。神様はいじわるだよ。
どうしてわたしばかりに、こんな酷い仕打ちをするの。
独りきりの夜に、この音を聞いたら必然的に思い出してしまう。
というか、体があの時の恐怖心を覚えてしまっているのだから、どうしようもないのだ。
「っ、だれか……、助けて」
わたしの口から力なく漏れ出た小さな弱音は、誰にも届くことなく、どこまでも続く闇夜に溶けて消えていく。
───あやかちゃんのお母さんって、インランなんだね。あやかちゃんもそうなの?
───あやかちゃんは卑しい家の娘だから、ままがもう遊んじゃいけないって。だから、ばいばいっ。
沢山、たくさん、傷つけられた。
心臓が抉られるくらいに、その心無い言葉がわたしの心をダメにしていった。
激しい雨音と雷の音を聞くと体が震えてしまうのは、幼い頃のトラウマが原因。
雷が鳴るほど激しい豪雨の夜は、お母さんは家に帰ってきてくれない。
どれだけ待ち望んでも、その姿を現してはくれない。
空を真っ二つに引き裂くくらい激しい雷の音を聞きながら、まだ3、4歳だった頃のわたしは溢れ出そうになる不安と悲しみを必死に押し殺して、我慢した。
お利口にしていたら、もしかするとお母さんが帰ってきてくれるかもしれない。
そんな叶わぬ願望を、胸に抱いて。
………結局、お母さんはわたしの元へと帰ってきてはくれなかったけれど。
普通の家庭の子からしてみれば、このことはなんてことないことなのかもしれない。
だけど、誰もいない雷の鳴る雨の夜に、いつまでも独りぼっちで、帰ってくるはずもない人を待ち続けた過去の記憶が、わたしの最大のトラウマ。
部屋の壁に取り付けられた時計が、静かに時を刻む音だけがこの部屋の中に流れている。
ベッドの上で体育座りをして、膝に顔をうずめる。
ギュッと結び合わせた両手は、驚くほどに冷たかった。
冷たくて、温かみのかけらもない自分の体を抱きしめながら、ふと今日の交流会の時のことが脳裏をよぎる。
そう言えばわたし、……美結ちゃんが伊吹くんと話してるとこ見ても、嫉妬しなかったんだ。
そのことに、どれだけ絶望したことか。
「伊吹くんのこと、まだ好きでいたいのに……、」
大好きだったはずの彼氏を怖いと思ってしまっていた時点で、わたしの幸せは終わりを告げていたのだ。
それなのに、初めての恋にずるずると未練がましくしがみついて、伊吹くんに多大な期待を寄せてしまっていたのはわたし。
幸せという言葉に貪欲になりすぎて、自ら首を絞めてしまったのも、わたしのせい。
だから、伊吹くんは何にも悪くない。
───そう思えるわたしでいたかった。
今夜だけは、月明かりに照らされることもないわたしの心の内を、激しい雨風が消し去ってくれる。
わたしの汚い心を、綺麗さっぱり洗い流してくれる。
伊吹くんに早く伝えないと。
わたしの決心を、恐れることなく正直に言わないと。
電源を落としたまま机の上に無造作に置いてあるスマホに目を向ける。
電源を落としていなければ、きっと今頃何度も着信がかかってきているであろうはずのスマホ。
実は今日、わたしは伊吹くんにひと言も伝えずに勝手に1人で家まで帰ったのだ。
それは決して、許されないこと。
伊吹くんという人間の中のルールにおいて、わたしは伊吹くんと毎日一緒に帰らなければならないという暗黙の了解があった。
絶対に破ってはいけない伊吹くんの中での決まりを、わたしは今日ついに破ってしまった。
もうそのことだけで頭が割れそうになるくらい重苦しいのに、わたしがもっと頭を抱えたくなるくらい憂鬱なことが、これから始まろうとしている。
上手く、やり過ごせるだろうか……。
あのお方の機嫌を損ねてしまわないように、言葉も行動も慎まなくちゃ……。
現時刻20時38分。
あのお方の迎えが来るまで、あと22分。
時間はわたしの意に逆らって、刻々と時を刻んでいる。
21時が、来ないでほしい。またあの身の毛がよだつほどの恐怖を味わいたくないと思う自分がいる。
ぐぅ~……!
暗い気持ちのままベッドの上で膝を抱えていたわたしのお腹が、突然すんごい大きな音を立てた。
そう言えば夜ご飯食べるの忘れてたな……。
盛大な音を立てたお腹に手を添えながら、ふとそんなことを思う。
何か食べなきゃ……。
もし飛鳥馬様の御前でお腹が鳴ったりすれば、それこそ気分を害した罪とかで存在ごと消されるんじゃないか。
それはさすがに考え過ぎだと分かっていたけれど、わたしは重い腰を上げてベッドから下りた。
こんな遅い時間に、自分の部屋を出るのは初めてじゃないかと思いながら、部屋の扉に手をかける。
冷蔵庫にまだ何か食べれるものはあったかな……。
今日は伊吹くんを置いて勝手に家に帰ってしまったから、もし外で鉢合わせしてしまったらと思うと怖くて、スーパーに行けてなかったんだ。
ほんと、自分が最低な女過ぎて情けなさを通り越して笑えてくる。
裸足で廊下を歩き、階段を下りて1階のリビングに向かう。
家中のすべての窓やカーテンを閉め切っているせいか、家の中だと言うのに驚くほどに不気味な真っ暗闇に覆われている1階。
……まあ、2階も対して変わらないんだけど。
リビングの扉を開けて、部屋の中へ1歩踏み出し、壁に取り付けられているスイッチをカチッと押す。
途端に明るくなった部屋が暗闇に慣れた目には眩しくて、思わず目をスッと細める。
こじんまりとした小さなリビングには、ご飯を食べる机と、調理をする台所と、食器を片付けている棚と、冷蔵庫くらいしか置かれていない。
我ながら、寂しすぎる家だ。
テレビもソファも置かれていないリビングなんて、もはやリビングじゃない。
だけど、わたしにとってのリビングは、小さい頃から家族が集う団らんの場ではなかった。
リビングに温かみなんて求めていない。
冷蔵庫から昨日作ったカレーの残りを取り出し、お皿に注ぐ。冷凍してあったご飯をそこによそいで、レンジで温める。
温め終わったら、それをトレーに乗せて、水を入れたコップやスプーンも乗せて、机まで運ぶ。
早く食べないと……。
迎えが来ちゃう。
椅子を引いて、その上に腰を下ろし、手を合わせて「…いただきます」と小さく呟いた。
無言で手だけを動かし、カレーを口に運ぶ。元々食べる量が少なかったおかげで、僅か5分で食べ終わることが出来た。
コップとお皿、スプーンをささっと洗い終えて、わたしはリビングを後にした。
洗面所で歯磨きをして、身なりを整える。さっきまで寝ていたせいで少し乱れてしまった長い髪を櫛でとかして、一応準備は完了した。
洗面所に置かれた小さな時計を見ると、時刻はもうすぐで21時に差し掛かろうとしていた。
───あと少しで、飛鳥馬様が直々にわたしの家までお迎えに上がりにいらっしゃる。
じっと息を潜めて、深く深呼吸をする。
これから起こるであろうことを考えただけで、今すぐここから逃げ出したい気分に襲われるけれど、それは決して許されないこと。
薄い壁の向こうから、バサバサっと音を立てて飛んでいく鳥の羽音が聞こえてきた。
もう、夜の世界に足を踏み入れることは2度とないと思っていたのに。
あの日、シャー芯を買いに行こうと軽い気持ちで足を踏み入れてしまったわたしが馬鹿だったのだ。
そして、あの夜のことがなければ、この街のトップとこれから会わなければならないという約束も結ばされることはなかったのに。
全ては、わたし自身のせい。
そこまで、考えた時だった。
────ピーンポーン。
その音は、今までで1番重く、厳格な雰囲気を醸し出してこの家中に響き渡った。
キュッと喉を締められた感じがして、思わず肩が震える。
鏡に映し出されたわたしの顔は、これから処刑される人間なのかと疑ってしまいたくなるほど青白く顔面蒼白になっていた。
鉛のように重たくなった足を引きずりながら、わたしは洗面所を出て、玄関へ繋がる廊下を歩く。
怖い、こわいよ……。
青紫色に染まった唇がわなわなと震えて、手足さえもこきざみに震える。
ああ、ああ。今すぐにこの世界から消える方法があるのなら、それに縋りたいよ。
飛鳥馬麗仁というお方が、どんなに冷酷で、残酷で、卑劣な人間なのか、ウワサで聞く限りは最悪だ。
人々は皆、彼のことを神よりも上の存在だと言う。
神よりも美しく、麗しく、尊いと崇め奉る。
みんなは知らない。気づかない。
神よりも尊いお方だと信じ続けるこの街の民を支配している人間こそが、飛鳥馬様だということを。
気づかない、フリをしている。
人間は皆、自分に都合の悪いことは見ないように、そして考えないようにしようとする習性がある。
それと同じだ。
飛鳥馬様という、名前だけにも物凄い価値があるお方は絶対にわたしたちを守ってくれる神様だと信じていないと、やっていられないのだ。
飛鳥馬様の存在はわたしたち東ノ街の住民にとって得だと、嘘でも信じていないと、わたしたちの人生は終わるのだ。
だって、わたしたちは生まれた瞬間から全ての個人情報を霜蘭花に提示しているのだから。
毎日何かに見張られ、言葉では言い表せないほどの何か大きすぎるものに支配されているのを感じながら生きていかねばならないのだから。
そんな恐怖に襲われたまま生活するのは、御免だから。
───だからこの街の住民のほとんどが、飛鳥馬様は素晴らしいお方だと、自分たちをお守りくださる神様だと、洗脳されたように信じて疑わないのだ。
なんて、残酷なことなのだろう。
なんて、残虐な仕組みなのだろう。
生まれたその瞬間から、わたしたちは自由を奪い取られる。この街で生まれたことによって、2度と檻から出られない。
息もできない毎日が続いていく。
わたしは覚悟を決めて、強く握った拳の力を抜いて玄関扉の取っ手に触れた。
「……ふぅ、」
わたしはこれから、皆に神だと謳われるその高貴で気高い見目麗しき今世紀最強の完璧な神様に、会いに行く。
♦
取っ手を握る手に力が入り、ゆっくりと開いていくその時間は永遠のように長く思えた。
わたしの視界に、夜の空の漆黒が映る。
家の周りに植えてあった木々の葉が風に吹かれて互いを擦り合わせるように揺れ、ザワザワと不気味な音を立てる。
扉が開いていくごとに、わたしの家の目の前の道路に、1台の黒塗りのベンツが停められているのが見えた。
それを見て、緊張感がより一層増す。
そして、扉を完全に開け放った。
その瞬間。
「───七瀬彩夏さん。あなたをお迎えに参りました。さあ、お手を」
わたしの目の前で、飛鳥馬様が左胸に右手を添えて恭しくお辞儀をした。
ああ、このお方はなんてことをするのだ。
庶民でしかないわたしに、どうしてお辞儀をするのだ。わたしの立場を、もっと考慮して行動してほしい。
当然、そんな生意気なお願いは口に出すことさえ出来ないのだけど。
「……っ、あ、飛鳥馬様。わたし───」
「問題ないよ。君が心配してることは、おれが何とかしてあげるから」
「へっ……!?まだわたし、何も言ってな、」
わたしが何かを言う前に、それを理解したらしい飛鳥馬様が、にっこりと優しく笑った。
思わず、その笑顔から目が離せなくなる。
わたしごときが飛鳥馬様のお顔をジロジロと見つめてはいけないのに、飛鳥馬様のその笑顔には、人を引きつける何か特別なものがある気がした。
「夜の世界に足を踏み入れてはいけない。そう思ってたんでしょ?」
やけに機嫌の良い飛鳥馬様の声が、頭上から注がれる。
一定の音程で発される凪いだ波のように穏やかなその低い声に、思考が停止しそうになる。
何から何まで完璧にできてるの、本当にやめてほしい。
どっちの意味でも、わたしの心臓が持たない。
そして、わたしが考えていたことさえも当てにくる、常人ではないそのお方の手がわたしに近づいてくる。
一体何をする気だろうと身構えたわたしに、苦笑いを浮かべた飛鳥馬様は「大丈夫。怖いことは何もしない」と優しい声音で囁いた。
それからは、されるがままだった。
わたしの太ももに飛鳥馬様のひんやりとした冷たい手が触れて、次の瞬間には足が宙に浮いていた。
上質なスーツを着た飛鳥馬様の方腕が、わたしをお姫様抱っこするように太ももの裏に回され、もう一方の腕はわたしの背中を支えるように、肩に優しく添えられた。
………え。
ええ……っ??
突然のことに、脳内がパニックを迎える。
わ、わた、わたわたし……っ。飛鳥馬様にお姫様抱っこされてる!?
首を少し横にずらしただけで、飛鳥馬様の陶器のように透き通る白い肌と、美しすぎるパーツがこれまた素晴らしく配置されているお顔が至近距離で瞳に映る。
少しでも身動きを取れば、鼻と鼻がくっついてしまいそうになるくらい近い。
どうしよう。不可抗力の心臓のドキドキが止まらない。
非現実的なこの状況に、わたしの体中が驚いていて、物凄いスピードで血が全身に流れる。
そのせいで、真っ赤に染まってしまったわたしの頬。
「地に足が付かなかったら、夜の街に足を踏み入れたことにはならない。なかなか良い良策でしょ?」
首を傾げ、わたしの目をまっすぐに見つめてくる飛鳥馬様が、僅かに微笑みながらそんなことを言った。
飛鳥馬様にお姫様抱っこをされたことで行き場がなくなっていたわたしの両手は、熱を持った両頬に添えられる。
「ね、七瀬サン。これからおれになんて呼ばれたい?」
こんな状況で、爽やかな笑顔でそんなことを聞かれても、何も答えられないのに。
わたしの困った顔を見るために、飛鳥馬様はわざとそんなことを聞いてくる。
そんなに人が困っているのを見るのは面白いんだろうか。
視線を飛鳥馬様の首元あたりに向けて、なんて返すのが正解なのか切羽詰まっていると、
頭上からクスクスと楽しそうな笑い声が聞こえた。
わたしはその笑い声を聞いて少しムッとして、「別に何でもいいです」と語気を荒げた。
「………なんでも、いいの?」
少し間をおいてから、返されたそのお言葉。
その質問の意図を探るために、恐る恐る覗き込んだ飛鳥馬様の漆黒の瞳には、何かがキラキラと光るような、そんなわんぱく感がある気がした。
視線が交わり、飛鳥馬様の漆黒がわたしの気弱な瞳を射抜く。
「じゃあ、“あやちゃん”って呼ぶ」
「……っ、!!?」
これは恐らく、言うまでもなく、過去イチ番の衝撃。
驚いてカチンコチンに固まってしまったわたしを見て、楽しげに笑った飛鳥馬様の笑顔は、やっぱりどこか純粋無垢な幼さを感じた。
足が長い長身の飛鳥馬様に抱き上げられていると、少しだけ見える世界が変わったように思える。
きっと、わたしの身長は157センチと小さいから、恐らく180センチは余裕で超えているであろう飛鳥馬様に抱き上げられると、今まで見えていなかったものが見えたのだろう。
綺麗なスーツに身を包み、闇夜に黒光りする高級そうな革靴を履いた飛鳥馬様が、ゆっくりと歩を進め始める。
そこにはやっぱり、荘厳で神聖な雰囲気が漂っていた。
飛鳥馬様がわたしの家の庭に敷かれた石畳の道を歩いていくと、さっきまでザワザワと鳴り止まなかった木々の音が一瞬にして鳴り止み、辺りは静寂に包まれた。
聞こえるのは、わたしと飛鳥馬様の僅かな呼吸音だけ。
木々たちはまるで、飛鳥馬様が道を通るためだけに鳴り止んだように静まり返っている。
そして、驚いたことにさっきまで激しい雷と共にこの街を覆っていた豪雨は過ぎ去り、綺麗な月明かりが雲の間から覗いている。
きっと、飛鳥馬様がこの夜の地に降り立ったから、激しく降っていた豪雨も、ザワザワと音を立てていた草木も、一瞬にして時が止まったようにその動きを静止したのだ。
飛鳥馬様のお顔をこっそりと盗み見る。
そこには、相変わらず整いすぎたお顔があった。
浮世離れした輪郭に、スッと通った鼻筋。まつげは女子よりも長いんじゃないかと思うくらい綺麗で、瞳が伏せられた時により一層色気が増す。
切れ長の瞳は流れるように綺麗な二重で、何も映さない漆黒の瞳がその存在を主張していた。そして何より、人間のものとは思えないほどの、麗しき唇。
その位置も、その形も、その色さえ、完璧にできている。
男の人らしい眉毛は、そのお顔を完璧に仕上げるための最後の役割を担っていると思うほど、長く綺麗だった。
この世の中には、本当に言葉だけじゃ言い表せないくらい美しいお方がいるのだと、飛鳥馬様を見て実感させられた。
飛鳥馬様はわたしを抱えたまま黒塗りのベンツの後部座席に座った。
その際、ベンツの観音開き仕様になっているドアを開けてくれたのは、なぜか顔中痣だらけになっている真人と呼ばれるあの夜の従者だった。
あまりにも酷い有り様だったので、少し気になりはしたが、相手はわたしを殺そうと首にナイフを突きつけてきた危険人物だ。
心配なんてしてられない。
飛鳥馬様のお膝の上に乗ったまま、身動きが取れない。
「……ねえ、あやちゃん。今日はおれの言うこと、何でも聞いてくれるんでしょ」
「……っ、??」
驚いたことは、2つ。
1つは、飛鳥馬様が本当にわたしのことを“あやちゃん”と呼ぶ気でいること。
そしてもう1つは、言うことを何でも聞くという約束なんてしたっけ、という疑問。
でも、約束してるしてないにしても、飛鳥馬様の言うことに否定なんて端からできないんだ。
わたしには最初から、選択肢など与えられていない。
「は、い……」
だから、飛鳥馬様が望む1番の返しを、慎重にしなければならない。
「じゃあ、おれの膝の上に跨って」
………っ!?
ああ、もう、本当に敵わない。
こんな恥ずかしいでしかない行為を涼し気なお顔をして命じてくるなんて。
並の皇帝でも、こんなことは命じないよ……。
今、わたしの中の飛鳥馬様が皇帝から鬼畜へと昇格した瞬間だった。
「は、はい……っ」
勇気を振り絞って、飛鳥馬様のお膝の上に跨った。恐る恐る、腰を下ろしてその上に座った。
飛鳥馬様との距離がゼロになり、心臓がバクバクと鳴って口から飛び出そうだ。
向き合って座ったせいか、飛鳥馬様の漆黒の瞳と視線が交わってしまう。
てっきり、困りきっているわたしを満足げな表情で見つめていると思っていたから、わたしはその表情を見て思わず目を見開いた。
豆鉄砲でも食らったような、拍子抜けしたお顔がそこにはあった。
「………え、?」
思わず、声が漏れる。飛鳥馬様が動揺したように瞳を揺るがすから、わたしも何かマズいことをしたのかと不安になった。
「飛鳥馬様、どうされたのですか……?」
「……っ、いや、まさか本当にしてくれるとは思わなくて」
わたしから目線を逸らした飛鳥馬様の頬が、暗闇の中僅かに赤く染まっているのが見えた。
キュッと強く結ばれた唇は、少し震えている気がした。
もしかして、もしかしてだけど……いやでもそんなはずは。飛鳥馬様、照れていらっしゃる……?
口には出さないものの、そんな考えが頭に浮かぶ。
ていうか、“本当にしてくれるとは思わなくて”ってことは、さっきの命令は冗談だったってこと……?
それなら、今わたしがやってることって、結構恥ずかしいんじゃない……っ!?
そして、軽くパニックに陥ってしまったわたしは、どうすることも出来ずに飛鳥馬様のお膝の上で、顔を俯け火照った頬を手で隠すのみだった。
「……あやちゃん?どうしたの」
俯いたままでいるわたしを訝しく思ったのか、飛鳥馬様の両手がわたしの両手に触れて、優しく前を向かされる。
頬を冷ましていた両手に飛鳥馬様のものが添えられて、わたしの両手は頬を冷ます効力を瞬時に失ってしまったようにして熱く火照った。
飛鳥馬様によって前を向かされたせいで、わたしはまた彫刻よりも美しいお顔を目にしてしまう。
神様が利き手で丁寧に丁寧に、数え切れないくらい膨大な時間をかけて作り上げた芸術品のように、浮世離れした現実味のないそのお顔。
「……っ、や、その…」
「顔真っ赤だけど、もしかして熱あるの?」
両眉を下げて、心配そうにわたしの顔を覗う飛鳥馬様。
心配なんて……、そんなわけないのに。
「ね、熱はありません……っ」
「そっか……、よかった」
「……!?」
よ、よかった……って、なにが。
まさか、わたしが熱がないと言ったことに対しての言葉じゃあるまいし……。
飛鳥馬様のお口から発せられる理解不能の言葉に込められた意味を探ろうと頭の中で考えあぐねていると、突然、飛鳥馬様の大きな手が、わたしの腰に添えられた。
「……っ、ぁ」
突然のことに驚きの声が漏れる。
異性の手が自分の腰に触れたことなんて今まで1度もなかったせいで、大げさにビクッと震えてしまう。
さっきまで心配そうな色をしていたその瞳は、今は挑発的にわたしを見下ろしている。
「ねぇあやちゃん。熱がないなら、おれのこといっぱい楽しませてくれるよね」
漆黒の瞳が、夜闇の中妖しげに光る。
満足気に綺麗な弧を描いた形の良すぎる唇。
それは赤色にほんのりと色付いていて、逆に女の人に襲われてしまいそうなほどの艶やかな色気を醸し出していた。
「飛鳥馬様を、たのしませる……?」
「うん、そう。あやちゃんが、おれをたくさん満足させてよ」
「……っ、どうやっ、て?」
「んー、そうだね。こうやって」
飛鳥馬様は、わたしの腰に添えていた両手をそこから離して、わたしの両手を掴み、自分の肩の上に置いた。
こ、これ……っ。わたしが飛鳥馬様に抱きついているみたいな図になるんじゃ……っ。
「あ、あすま様……っ。それはちょっと…、」
わたしのような庶民が飛鳥馬様に触れるなんて、無礼にも程がある気がします……っ!
「なに?これじゃ不満なの?あやちゃんって、大人しそーな見た目によらず本当ははしたないんだね」
「は、はしたない……?」
さっきから会話が噛み合っていない気がする。
そのせいで、飛鳥馬様に対するわたしの敬語が乱れてきてしまっている始末だ。
「あやちゃん、顔真っ赤。おれのために無理してくれてるの?」
こうやって質問をしてくるくせに、その漆黒の瞳は自らが望む答えしか許さないというように、わたしをじっと見つめてくる。
「そ、そりゃあしてますよ……。飛鳥馬様は、わたしみたいな庶民なんかには手も届かないくらい上の存在の、凄いお方なのですから」
伊吹くんとだって、こんなことしたことないのに……。
そんなことを頭の片隅で思いながらも、その大半は失礼に当たらないような言葉を必死に選んで、それを震える声で紡いでいる。
「はは、うん。───おれは凄いひとだね」
小さく首を傾げて、僅かにはにかむそのお姿は、本当にわたしの目が溶けてなくなっちゃうんじゃって心配になるくらい、様になっていた。
飛鳥馬様の大きくて綺麗な手が、わたしの腰に近づき、ぎゅっと両腕を腰に回される。
柔く、優しく、静かに抱きしめられた。
飛鳥馬様のお顔が、どんどんわたしに近づいてくる。
ぎゅっと強く目を瞑り、これから起ころうとしているであろうことを覚悟した。
「……っ、え?飛鳥馬、さま……?」
キス、されるのかと思った……。
────けれど。
わたしの首元に、ゆっくりと顔をうずめた飛鳥馬様。
直に触れた飛鳥馬様の肌は、生まれたばかりの赤ちゃんのように柔らかくて、ずっと触れてたいって思ってしまうくらい、優しい触れ心地をしていた。
まるで小さな赤ん坊が母親に甘えるような行動をしてきたので、わたしの顔も必然的に飛鳥馬様の首近くに触れる。
「ねぇ、あやちゃん。……今おれがしてることって、迷惑じゃない?」
今、飛鳥馬様がしてること……?
それは、こうして首元に顔をうずめていることかな……。
それとも、わたしを連れ去っていること……?
飛鳥馬様の質問に、どう答えるのが正解なのか、こればかりは分からなかった。
だけど、唯一分かるのは、わたしにそう訊ねる飛鳥馬様の声音が、ほんの少しだけ暗めの気迫のない沈んだ声に聞こえたこと。
その声音からは、ウワサに聞く冷酷さは全く垣間見えなくて、戸惑う。
飛鳥馬麗仁というお方は、誰に対しても冷たくて、思慮のかけらもない残酷で横暴な人間なのだと、勝手に想像してしまっていたけれど……。
思い返せば、わたしが初めて飛鳥馬様に出会ったあの夜の日も、真人という男から救ってくれたのは他でもない飛鳥馬様だ。
その数日後、日が昇りきった世界になぜか飛鳥馬様がいて、わたしを路地裏に連れ込み勝手にキスをしてきた。
だけど、それは理由なくしてきたわけではないはず。
きっと何か理由があって、わたしにキスをしてきたのだ。
……もちろん、その理由は想像さえつかないのだけど。
「わたしは、……迷惑とは思っていま、せん」
よく考えて、出した答え。
そこにウソは含まれていない。
それは、皇帝相手にウソをつくなど、それこそ反逆罪で処されると恐れたというのが半分。
もう半分は、その質問を投げかけた飛鳥馬様が、少しだけ寂しそうな、そんなお顔をしていたから。
この街において、最強と謳われるお方が寂しげな表情を浮かべているのを見て、驚いた。
だけど、それと同時に既視感を覚えたんだ。
眉を下げて、瞳を悲しげに伏せて、色のない瞳をする。そのくせ、何かに期待して、だけどそれは最初から叶わないものだと諦めている。
飛鳥馬様のその表情が、雨の降る夜に絶対に帰っては来ないお母さんをただ1人薄暗い部屋の中で待ち続けていた、幼き頃のわたしの横顔と重なった。
窓を伝う雨のしずくを永遠と見つめる、寂しげな横顔のあの頃のわたしに。
「……っ、本当に、ほんとうにそう思ってくれてるの?」
「はい、思ってます」
だから、伝えよう。
寂しそうな表情をするあなたに、真っ直ぐに伝えよう。
「…ふふっ、うれしい」
わたしのその言葉によって、あなたの瞳に光が戻るのなら。あなたが、もうそんなふうに悲しそうな表情をしなくて済むのなら。
飛鳥馬様が、笑ってくださるのなら。
「あやちゃんは、おれを喜ばすのがじょーずだね」
「別に、そんなことは……」
わたしの言葉に、満足気に弧を描く形の良い唇。
嬉しそうに微笑んだ飛鳥馬様の表情は、やっぱり幼き子供のように、どこまでも曇りない純粋無垢な笑顔だった。
わたしたちが座る後部座席の様子は、運転席に座って車を運転している真人という従者からは見えない。
それは、その間に仕切りが設けられているからだ。
さすが超高級車と言うべきだろうか。
前と後ろで仕切られた今も、後部座席のある空間はとても広い。ここで生活出来るんじゃないかと思うほどに。
「──飛鳥馬様、お話中のところ失礼ですが、もう少しで皇神居に到着致します」
運転席の方から、真人という男の声がした。
飛鳥馬様はそれに、「ああ、分かった」とだけ返して、そっと伏し目がちな瞳になる。
そして、わたしと目線の位置を合わせ、にっこりと微笑んだ。
「───あやちゃん、霜蘭花に入る準備、できてる?」
「……っ、は、い」
わたしたち2人を包む空気感が、さっきよりもより一層重くなり、脳内をピリリとした緊張感が走った。
───それはね、彩夏ちゃんのお母さんは娼婦だからよ。夜に仕事をすることが多いから、今は多分お家で寝てるんじゃないかしら。だから来てないのよ。
『ママ、どうしてあやかちゃんとは遊んじゃダメっていうの?』
───それはね、彩夏ちゃんは娼婦の娘だからよ。旦那もいるのに体でお金を稼ぐような母親の元で育った子と遊ぶのは、あなたに悪影響だわ。
そんなこと、ないよ……。わたしのママは頑張ってるんだよ。
体が弱くて入院しているお父さんの代わりに、毎日頑張って働いているんだよ……。それの、なにがイケナイの?
純粋無垢な子供の質問に答える母親の容赦ない言葉がわたしの胸に突き刺さる。
教室の後ろには沢山のお母さんがいるのに、わたしのママだけそこにはいない。
『わたしのママは、悪くないもん……。わたしは、悪影響なんかじゃないもん!!』
沢山の視線を感じる。
嫌なものを見るような、冷たい視線。
こそこそと呟かれるママとわたしの悪口を聞いていると、どうしようもなく悲しくなって、椅子をガタンと倒して立ち上がった。
突然、激しい激情に見舞われた、小学1年生の時のわたし。
怒りと悲しみの感情の渦から抜け出せなくなるような苦しくてつらい感覚の中で、小学生の時のわたしは眠るようにして気を失った。
除け者にされるのが悲しくて、大きな教室の中に自分のお母さんだけがいないというのが苦しくて。
自分が他の子と同じじゃないってことが、どうしようもないくらい寂しかった。
娼婦の娘だから。体を売るような母親の元で育った卑しい娘だから。
そんな理由のせいで、わたしはいつまでもこの孤独から抜け出せないでいた。
つらい過去の記憶は、時が経てば段々と薄れていくものだって、先生は言っていたけど、全然そんなことないじゃない。
暗闇の中。起こした体は信じられないくらい重かった。
「……また、あの頃の夢を見たんだ」
頬に伝う涙を拭って、ベッドの上から自分以外は誰もいない小さくて孤独な部屋を見渡す。
部屋の中は暗くてほとんど何も見えなかったけど、今のわたしにはそれが心地良かった。
ほんのしばらくの間、無の空間で無の時間を過ごす。
真っ暗で、真っ黒で、深い闇に包まれた自分の部屋。
どこまでも光が差すことはなさそうな、希望なき孤独な部屋。
わたしが幼い頃から、ずっとそう。
もうママはわたしの元へと戻ってきてくれないんじゃないかと不安になって、部屋の隅で蹲ってすすり泣いていた小さなわたし。
激しく轟く大きな雷の亀裂音に、耳をふさいだ幼き頃の小さな手。
窓もカーテンもしっかり閉めてあるのに、家の中にまで入ってくる激しい豪雨と容赦ない雷の張り裂けるような音。
………ああ、やだな。
この音を聞いたら、自然と体が震えてしまう。
今日の天気予報では、豪雨になるなんて言ってなかったのに。神様はいじわるだよ。
どうしてわたしばかりに、こんな酷い仕打ちをするの。
独りきりの夜に、この音を聞いたら必然的に思い出してしまう。
というか、体があの時の恐怖心を覚えてしまっているのだから、どうしようもないのだ。
「っ、だれか……、助けて」
わたしの口から力なく漏れ出た小さな弱音は、誰にも届くことなく、どこまでも続く闇夜に溶けて消えていく。
───あやかちゃんのお母さんって、インランなんだね。あやかちゃんもそうなの?
───あやかちゃんは卑しい家の娘だから、ままがもう遊んじゃいけないって。だから、ばいばいっ。
沢山、たくさん、傷つけられた。
心臓が抉られるくらいに、その心無い言葉がわたしの心をダメにしていった。
激しい雨音と雷の音を聞くと体が震えてしまうのは、幼い頃のトラウマが原因。
雷が鳴るほど激しい豪雨の夜は、お母さんは家に帰ってきてくれない。
どれだけ待ち望んでも、その姿を現してはくれない。
空を真っ二つに引き裂くくらい激しい雷の音を聞きながら、まだ3、4歳だった頃のわたしは溢れ出そうになる不安と悲しみを必死に押し殺して、我慢した。
お利口にしていたら、もしかするとお母さんが帰ってきてくれるかもしれない。
そんな叶わぬ願望を、胸に抱いて。
………結局、お母さんはわたしの元へと帰ってきてはくれなかったけれど。
普通の家庭の子からしてみれば、このことはなんてことないことなのかもしれない。
だけど、誰もいない雷の鳴る雨の夜に、いつまでも独りぼっちで、帰ってくるはずもない人を待ち続けた過去の記憶が、わたしの最大のトラウマ。
部屋の壁に取り付けられた時計が、静かに時を刻む音だけがこの部屋の中に流れている。
ベッドの上で体育座りをして、膝に顔をうずめる。
ギュッと結び合わせた両手は、驚くほどに冷たかった。
冷たくて、温かみのかけらもない自分の体を抱きしめながら、ふと今日の交流会の時のことが脳裏をよぎる。
そう言えばわたし、……美結ちゃんが伊吹くんと話してるとこ見ても、嫉妬しなかったんだ。
そのことに、どれだけ絶望したことか。
「伊吹くんのこと、まだ好きでいたいのに……、」
大好きだったはずの彼氏を怖いと思ってしまっていた時点で、わたしの幸せは終わりを告げていたのだ。
それなのに、初めての恋にずるずると未練がましくしがみついて、伊吹くんに多大な期待を寄せてしまっていたのはわたし。
幸せという言葉に貪欲になりすぎて、自ら首を絞めてしまったのも、わたしのせい。
だから、伊吹くんは何にも悪くない。
───そう思えるわたしでいたかった。
今夜だけは、月明かりに照らされることもないわたしの心の内を、激しい雨風が消し去ってくれる。
わたしの汚い心を、綺麗さっぱり洗い流してくれる。
伊吹くんに早く伝えないと。
わたしの決心を、恐れることなく正直に言わないと。
電源を落としたまま机の上に無造作に置いてあるスマホに目を向ける。
電源を落としていなければ、きっと今頃何度も着信がかかってきているであろうはずのスマホ。
実は今日、わたしは伊吹くんにひと言も伝えずに勝手に1人で家まで帰ったのだ。
それは決して、許されないこと。
伊吹くんという人間の中のルールにおいて、わたしは伊吹くんと毎日一緒に帰らなければならないという暗黙の了解があった。
絶対に破ってはいけない伊吹くんの中での決まりを、わたしは今日ついに破ってしまった。
もうそのことだけで頭が割れそうになるくらい重苦しいのに、わたしがもっと頭を抱えたくなるくらい憂鬱なことが、これから始まろうとしている。
上手く、やり過ごせるだろうか……。
あのお方の機嫌を損ねてしまわないように、言葉も行動も慎まなくちゃ……。
現時刻20時38分。
あのお方の迎えが来るまで、あと22分。
時間はわたしの意に逆らって、刻々と時を刻んでいる。
21時が、来ないでほしい。またあの身の毛がよだつほどの恐怖を味わいたくないと思う自分がいる。
ぐぅ~……!
暗い気持ちのままベッドの上で膝を抱えていたわたしのお腹が、突然すんごい大きな音を立てた。
そう言えば夜ご飯食べるの忘れてたな……。
盛大な音を立てたお腹に手を添えながら、ふとそんなことを思う。
何か食べなきゃ……。
もし飛鳥馬様の御前でお腹が鳴ったりすれば、それこそ気分を害した罪とかで存在ごと消されるんじゃないか。
それはさすがに考え過ぎだと分かっていたけれど、わたしは重い腰を上げてベッドから下りた。
こんな遅い時間に、自分の部屋を出るのは初めてじゃないかと思いながら、部屋の扉に手をかける。
冷蔵庫にまだ何か食べれるものはあったかな……。
今日は伊吹くんを置いて勝手に家に帰ってしまったから、もし外で鉢合わせしてしまったらと思うと怖くて、スーパーに行けてなかったんだ。
ほんと、自分が最低な女過ぎて情けなさを通り越して笑えてくる。
裸足で廊下を歩き、階段を下りて1階のリビングに向かう。
家中のすべての窓やカーテンを閉め切っているせいか、家の中だと言うのに驚くほどに不気味な真っ暗闇に覆われている1階。
……まあ、2階も対して変わらないんだけど。
リビングの扉を開けて、部屋の中へ1歩踏み出し、壁に取り付けられているスイッチをカチッと押す。
途端に明るくなった部屋が暗闇に慣れた目には眩しくて、思わず目をスッと細める。
こじんまりとした小さなリビングには、ご飯を食べる机と、調理をする台所と、食器を片付けている棚と、冷蔵庫くらいしか置かれていない。
我ながら、寂しすぎる家だ。
テレビもソファも置かれていないリビングなんて、もはやリビングじゃない。
だけど、わたしにとってのリビングは、小さい頃から家族が集う団らんの場ではなかった。
リビングに温かみなんて求めていない。
冷蔵庫から昨日作ったカレーの残りを取り出し、お皿に注ぐ。冷凍してあったご飯をそこによそいで、レンジで温める。
温め終わったら、それをトレーに乗せて、水を入れたコップやスプーンも乗せて、机まで運ぶ。
早く食べないと……。
迎えが来ちゃう。
椅子を引いて、その上に腰を下ろし、手を合わせて「…いただきます」と小さく呟いた。
無言で手だけを動かし、カレーを口に運ぶ。元々食べる量が少なかったおかげで、僅か5分で食べ終わることが出来た。
コップとお皿、スプーンをささっと洗い終えて、わたしはリビングを後にした。
洗面所で歯磨きをして、身なりを整える。さっきまで寝ていたせいで少し乱れてしまった長い髪を櫛でとかして、一応準備は完了した。
洗面所に置かれた小さな時計を見ると、時刻はもうすぐで21時に差し掛かろうとしていた。
───あと少しで、飛鳥馬様が直々にわたしの家までお迎えに上がりにいらっしゃる。
じっと息を潜めて、深く深呼吸をする。
これから起こるであろうことを考えただけで、今すぐここから逃げ出したい気分に襲われるけれど、それは決して許されないこと。
薄い壁の向こうから、バサバサっと音を立てて飛んでいく鳥の羽音が聞こえてきた。
もう、夜の世界に足を踏み入れることは2度とないと思っていたのに。
あの日、シャー芯を買いに行こうと軽い気持ちで足を踏み入れてしまったわたしが馬鹿だったのだ。
そして、あの夜のことがなければ、この街のトップとこれから会わなければならないという約束も結ばされることはなかったのに。
全ては、わたし自身のせい。
そこまで、考えた時だった。
────ピーンポーン。
その音は、今までで1番重く、厳格な雰囲気を醸し出してこの家中に響き渡った。
キュッと喉を締められた感じがして、思わず肩が震える。
鏡に映し出されたわたしの顔は、これから処刑される人間なのかと疑ってしまいたくなるほど青白く顔面蒼白になっていた。
鉛のように重たくなった足を引きずりながら、わたしは洗面所を出て、玄関へ繋がる廊下を歩く。
怖い、こわいよ……。
青紫色に染まった唇がわなわなと震えて、手足さえもこきざみに震える。
ああ、ああ。今すぐにこの世界から消える方法があるのなら、それに縋りたいよ。
飛鳥馬麗仁というお方が、どんなに冷酷で、残酷で、卑劣な人間なのか、ウワサで聞く限りは最悪だ。
人々は皆、彼のことを神よりも上の存在だと言う。
神よりも美しく、麗しく、尊いと崇め奉る。
みんなは知らない。気づかない。
神よりも尊いお方だと信じ続けるこの街の民を支配している人間こそが、飛鳥馬様だということを。
気づかない、フリをしている。
人間は皆、自分に都合の悪いことは見ないように、そして考えないようにしようとする習性がある。
それと同じだ。
飛鳥馬様という、名前だけにも物凄い価値があるお方は絶対にわたしたちを守ってくれる神様だと信じていないと、やっていられないのだ。
飛鳥馬様の存在はわたしたち東ノ街の住民にとって得だと、嘘でも信じていないと、わたしたちの人生は終わるのだ。
だって、わたしたちは生まれた瞬間から全ての個人情報を霜蘭花に提示しているのだから。
毎日何かに見張られ、言葉では言い表せないほどの何か大きすぎるものに支配されているのを感じながら生きていかねばならないのだから。
そんな恐怖に襲われたまま生活するのは、御免だから。
───だからこの街の住民のほとんどが、飛鳥馬様は素晴らしいお方だと、自分たちをお守りくださる神様だと、洗脳されたように信じて疑わないのだ。
なんて、残酷なことなのだろう。
なんて、残虐な仕組みなのだろう。
生まれたその瞬間から、わたしたちは自由を奪い取られる。この街で生まれたことによって、2度と檻から出られない。
息もできない毎日が続いていく。
わたしは覚悟を決めて、強く握った拳の力を抜いて玄関扉の取っ手に触れた。
「……ふぅ、」
わたしはこれから、皆に神だと謳われるその高貴で気高い見目麗しき今世紀最強の完璧な神様に、会いに行く。
♦
取っ手を握る手に力が入り、ゆっくりと開いていくその時間は永遠のように長く思えた。
わたしの視界に、夜の空の漆黒が映る。
家の周りに植えてあった木々の葉が風に吹かれて互いを擦り合わせるように揺れ、ザワザワと不気味な音を立てる。
扉が開いていくごとに、わたしの家の目の前の道路に、1台の黒塗りのベンツが停められているのが見えた。
それを見て、緊張感がより一層増す。
そして、扉を完全に開け放った。
その瞬間。
「───七瀬彩夏さん。あなたをお迎えに参りました。さあ、お手を」
わたしの目の前で、飛鳥馬様が左胸に右手を添えて恭しくお辞儀をした。
ああ、このお方はなんてことをするのだ。
庶民でしかないわたしに、どうしてお辞儀をするのだ。わたしの立場を、もっと考慮して行動してほしい。
当然、そんな生意気なお願いは口に出すことさえ出来ないのだけど。
「……っ、あ、飛鳥馬様。わたし───」
「問題ないよ。君が心配してることは、おれが何とかしてあげるから」
「へっ……!?まだわたし、何も言ってな、」
わたしが何かを言う前に、それを理解したらしい飛鳥馬様が、にっこりと優しく笑った。
思わず、その笑顔から目が離せなくなる。
わたしごときが飛鳥馬様のお顔をジロジロと見つめてはいけないのに、飛鳥馬様のその笑顔には、人を引きつける何か特別なものがある気がした。
「夜の世界に足を踏み入れてはいけない。そう思ってたんでしょ?」
やけに機嫌の良い飛鳥馬様の声が、頭上から注がれる。
一定の音程で発される凪いだ波のように穏やかなその低い声に、思考が停止しそうになる。
何から何まで完璧にできてるの、本当にやめてほしい。
どっちの意味でも、わたしの心臓が持たない。
そして、わたしが考えていたことさえも当てにくる、常人ではないそのお方の手がわたしに近づいてくる。
一体何をする気だろうと身構えたわたしに、苦笑いを浮かべた飛鳥馬様は「大丈夫。怖いことは何もしない」と優しい声音で囁いた。
それからは、されるがままだった。
わたしの太ももに飛鳥馬様のひんやりとした冷たい手が触れて、次の瞬間には足が宙に浮いていた。
上質なスーツを着た飛鳥馬様の方腕が、わたしをお姫様抱っこするように太ももの裏に回され、もう一方の腕はわたしの背中を支えるように、肩に優しく添えられた。
………え。
ええ……っ??
突然のことに、脳内がパニックを迎える。
わ、わた、わたわたし……っ。飛鳥馬様にお姫様抱っこされてる!?
首を少し横にずらしただけで、飛鳥馬様の陶器のように透き通る白い肌と、美しすぎるパーツがこれまた素晴らしく配置されているお顔が至近距離で瞳に映る。
少しでも身動きを取れば、鼻と鼻がくっついてしまいそうになるくらい近い。
どうしよう。不可抗力の心臓のドキドキが止まらない。
非現実的なこの状況に、わたしの体中が驚いていて、物凄いスピードで血が全身に流れる。
そのせいで、真っ赤に染まってしまったわたしの頬。
「地に足が付かなかったら、夜の街に足を踏み入れたことにはならない。なかなか良い良策でしょ?」
首を傾げ、わたしの目をまっすぐに見つめてくる飛鳥馬様が、僅かに微笑みながらそんなことを言った。
飛鳥馬様にお姫様抱っこをされたことで行き場がなくなっていたわたしの両手は、熱を持った両頬に添えられる。
「ね、七瀬サン。これからおれになんて呼ばれたい?」
こんな状況で、爽やかな笑顔でそんなことを聞かれても、何も答えられないのに。
わたしの困った顔を見るために、飛鳥馬様はわざとそんなことを聞いてくる。
そんなに人が困っているのを見るのは面白いんだろうか。
視線を飛鳥馬様の首元あたりに向けて、なんて返すのが正解なのか切羽詰まっていると、
頭上からクスクスと楽しそうな笑い声が聞こえた。
わたしはその笑い声を聞いて少しムッとして、「別に何でもいいです」と語気を荒げた。
「………なんでも、いいの?」
少し間をおいてから、返されたそのお言葉。
その質問の意図を探るために、恐る恐る覗き込んだ飛鳥馬様の漆黒の瞳には、何かがキラキラと光るような、そんなわんぱく感がある気がした。
視線が交わり、飛鳥馬様の漆黒がわたしの気弱な瞳を射抜く。
「じゃあ、“あやちゃん”って呼ぶ」
「……っ、!!?」
これは恐らく、言うまでもなく、過去イチ番の衝撃。
驚いてカチンコチンに固まってしまったわたしを見て、楽しげに笑った飛鳥馬様の笑顔は、やっぱりどこか純粋無垢な幼さを感じた。
足が長い長身の飛鳥馬様に抱き上げられていると、少しだけ見える世界が変わったように思える。
きっと、わたしの身長は157センチと小さいから、恐らく180センチは余裕で超えているであろう飛鳥馬様に抱き上げられると、今まで見えていなかったものが見えたのだろう。
綺麗なスーツに身を包み、闇夜に黒光りする高級そうな革靴を履いた飛鳥馬様が、ゆっくりと歩を進め始める。
そこにはやっぱり、荘厳で神聖な雰囲気が漂っていた。
飛鳥馬様がわたしの家の庭に敷かれた石畳の道を歩いていくと、さっきまでザワザワと鳴り止まなかった木々の音が一瞬にして鳴り止み、辺りは静寂に包まれた。
聞こえるのは、わたしと飛鳥馬様の僅かな呼吸音だけ。
木々たちはまるで、飛鳥馬様が道を通るためだけに鳴り止んだように静まり返っている。
そして、驚いたことにさっきまで激しい雷と共にこの街を覆っていた豪雨は過ぎ去り、綺麗な月明かりが雲の間から覗いている。
きっと、飛鳥馬様がこの夜の地に降り立ったから、激しく降っていた豪雨も、ザワザワと音を立てていた草木も、一瞬にして時が止まったようにその動きを静止したのだ。
飛鳥馬様のお顔をこっそりと盗み見る。
そこには、相変わらず整いすぎたお顔があった。
浮世離れした輪郭に、スッと通った鼻筋。まつげは女子よりも長いんじゃないかと思うくらい綺麗で、瞳が伏せられた時により一層色気が増す。
切れ長の瞳は流れるように綺麗な二重で、何も映さない漆黒の瞳がその存在を主張していた。そして何より、人間のものとは思えないほどの、麗しき唇。
その位置も、その形も、その色さえ、完璧にできている。
男の人らしい眉毛は、そのお顔を完璧に仕上げるための最後の役割を担っていると思うほど、長く綺麗だった。
この世の中には、本当に言葉だけじゃ言い表せないくらい美しいお方がいるのだと、飛鳥馬様を見て実感させられた。
飛鳥馬様はわたしを抱えたまま黒塗りのベンツの後部座席に座った。
その際、ベンツの観音開き仕様になっているドアを開けてくれたのは、なぜか顔中痣だらけになっている真人と呼ばれるあの夜の従者だった。
あまりにも酷い有り様だったので、少し気になりはしたが、相手はわたしを殺そうと首にナイフを突きつけてきた危険人物だ。
心配なんてしてられない。
飛鳥馬様のお膝の上に乗ったまま、身動きが取れない。
「……ねえ、あやちゃん。今日はおれの言うこと、何でも聞いてくれるんでしょ」
「……っ、??」
驚いたことは、2つ。
1つは、飛鳥馬様が本当にわたしのことを“あやちゃん”と呼ぶ気でいること。
そしてもう1つは、言うことを何でも聞くという約束なんてしたっけ、という疑問。
でも、約束してるしてないにしても、飛鳥馬様の言うことに否定なんて端からできないんだ。
わたしには最初から、選択肢など与えられていない。
「は、い……」
だから、飛鳥馬様が望む1番の返しを、慎重にしなければならない。
「じゃあ、おれの膝の上に跨って」
………っ!?
ああ、もう、本当に敵わない。
こんな恥ずかしいでしかない行為を涼し気なお顔をして命じてくるなんて。
並の皇帝でも、こんなことは命じないよ……。
今、わたしの中の飛鳥馬様が皇帝から鬼畜へと昇格した瞬間だった。
「は、はい……っ」
勇気を振り絞って、飛鳥馬様のお膝の上に跨った。恐る恐る、腰を下ろしてその上に座った。
飛鳥馬様との距離がゼロになり、心臓がバクバクと鳴って口から飛び出そうだ。
向き合って座ったせいか、飛鳥馬様の漆黒の瞳と視線が交わってしまう。
てっきり、困りきっているわたしを満足げな表情で見つめていると思っていたから、わたしはその表情を見て思わず目を見開いた。
豆鉄砲でも食らったような、拍子抜けしたお顔がそこにはあった。
「………え、?」
思わず、声が漏れる。飛鳥馬様が動揺したように瞳を揺るがすから、わたしも何かマズいことをしたのかと不安になった。
「飛鳥馬様、どうされたのですか……?」
「……っ、いや、まさか本当にしてくれるとは思わなくて」
わたしから目線を逸らした飛鳥馬様の頬が、暗闇の中僅かに赤く染まっているのが見えた。
キュッと強く結ばれた唇は、少し震えている気がした。
もしかして、もしかしてだけど……いやでもそんなはずは。飛鳥馬様、照れていらっしゃる……?
口には出さないものの、そんな考えが頭に浮かぶ。
ていうか、“本当にしてくれるとは思わなくて”ってことは、さっきの命令は冗談だったってこと……?
それなら、今わたしがやってることって、結構恥ずかしいんじゃない……っ!?
そして、軽くパニックに陥ってしまったわたしは、どうすることも出来ずに飛鳥馬様のお膝の上で、顔を俯け火照った頬を手で隠すのみだった。
「……あやちゃん?どうしたの」
俯いたままでいるわたしを訝しく思ったのか、飛鳥馬様の両手がわたしの両手に触れて、優しく前を向かされる。
頬を冷ましていた両手に飛鳥馬様のものが添えられて、わたしの両手は頬を冷ます効力を瞬時に失ってしまったようにして熱く火照った。
飛鳥馬様によって前を向かされたせいで、わたしはまた彫刻よりも美しいお顔を目にしてしまう。
神様が利き手で丁寧に丁寧に、数え切れないくらい膨大な時間をかけて作り上げた芸術品のように、浮世離れした現実味のないそのお顔。
「……っ、や、その…」
「顔真っ赤だけど、もしかして熱あるの?」
両眉を下げて、心配そうにわたしの顔を覗う飛鳥馬様。
心配なんて……、そんなわけないのに。
「ね、熱はありません……っ」
「そっか……、よかった」
「……!?」
よ、よかった……って、なにが。
まさか、わたしが熱がないと言ったことに対しての言葉じゃあるまいし……。
飛鳥馬様のお口から発せられる理解不能の言葉に込められた意味を探ろうと頭の中で考えあぐねていると、突然、飛鳥馬様の大きな手が、わたしの腰に添えられた。
「……っ、ぁ」
突然のことに驚きの声が漏れる。
異性の手が自分の腰に触れたことなんて今まで1度もなかったせいで、大げさにビクッと震えてしまう。
さっきまで心配そうな色をしていたその瞳は、今は挑発的にわたしを見下ろしている。
「ねぇあやちゃん。熱がないなら、おれのこといっぱい楽しませてくれるよね」
漆黒の瞳が、夜闇の中妖しげに光る。
満足気に綺麗な弧を描いた形の良すぎる唇。
それは赤色にほんのりと色付いていて、逆に女の人に襲われてしまいそうなほどの艶やかな色気を醸し出していた。
「飛鳥馬様を、たのしませる……?」
「うん、そう。あやちゃんが、おれをたくさん満足させてよ」
「……っ、どうやっ、て?」
「んー、そうだね。こうやって」
飛鳥馬様は、わたしの腰に添えていた両手をそこから離して、わたしの両手を掴み、自分の肩の上に置いた。
こ、これ……っ。わたしが飛鳥馬様に抱きついているみたいな図になるんじゃ……っ。
「あ、あすま様……っ。それはちょっと…、」
わたしのような庶民が飛鳥馬様に触れるなんて、無礼にも程がある気がします……っ!
「なに?これじゃ不満なの?あやちゃんって、大人しそーな見た目によらず本当ははしたないんだね」
「は、はしたない……?」
さっきから会話が噛み合っていない気がする。
そのせいで、飛鳥馬様に対するわたしの敬語が乱れてきてしまっている始末だ。
「あやちゃん、顔真っ赤。おれのために無理してくれてるの?」
こうやって質問をしてくるくせに、その漆黒の瞳は自らが望む答えしか許さないというように、わたしをじっと見つめてくる。
「そ、そりゃあしてますよ……。飛鳥馬様は、わたしみたいな庶民なんかには手も届かないくらい上の存在の、凄いお方なのですから」
伊吹くんとだって、こんなことしたことないのに……。
そんなことを頭の片隅で思いながらも、その大半は失礼に当たらないような言葉を必死に選んで、それを震える声で紡いでいる。
「はは、うん。───おれは凄いひとだね」
小さく首を傾げて、僅かにはにかむそのお姿は、本当にわたしの目が溶けてなくなっちゃうんじゃって心配になるくらい、様になっていた。
飛鳥馬様の大きくて綺麗な手が、わたしの腰に近づき、ぎゅっと両腕を腰に回される。
柔く、優しく、静かに抱きしめられた。
飛鳥馬様のお顔が、どんどんわたしに近づいてくる。
ぎゅっと強く目を瞑り、これから起ころうとしているであろうことを覚悟した。
「……っ、え?飛鳥馬、さま……?」
キス、されるのかと思った……。
────けれど。
わたしの首元に、ゆっくりと顔をうずめた飛鳥馬様。
直に触れた飛鳥馬様の肌は、生まれたばかりの赤ちゃんのように柔らかくて、ずっと触れてたいって思ってしまうくらい、優しい触れ心地をしていた。
まるで小さな赤ん坊が母親に甘えるような行動をしてきたので、わたしの顔も必然的に飛鳥馬様の首近くに触れる。
「ねぇ、あやちゃん。……今おれがしてることって、迷惑じゃない?」
今、飛鳥馬様がしてること……?
それは、こうして首元に顔をうずめていることかな……。
それとも、わたしを連れ去っていること……?
飛鳥馬様の質問に、どう答えるのが正解なのか、こればかりは分からなかった。
だけど、唯一分かるのは、わたしにそう訊ねる飛鳥馬様の声音が、ほんの少しだけ暗めの気迫のない沈んだ声に聞こえたこと。
その声音からは、ウワサに聞く冷酷さは全く垣間見えなくて、戸惑う。
飛鳥馬麗仁というお方は、誰に対しても冷たくて、思慮のかけらもない残酷で横暴な人間なのだと、勝手に想像してしまっていたけれど……。
思い返せば、わたしが初めて飛鳥馬様に出会ったあの夜の日も、真人という男から救ってくれたのは他でもない飛鳥馬様だ。
その数日後、日が昇りきった世界になぜか飛鳥馬様がいて、わたしを路地裏に連れ込み勝手にキスをしてきた。
だけど、それは理由なくしてきたわけではないはず。
きっと何か理由があって、わたしにキスをしてきたのだ。
……もちろん、その理由は想像さえつかないのだけど。
「わたしは、……迷惑とは思っていま、せん」
よく考えて、出した答え。
そこにウソは含まれていない。
それは、皇帝相手にウソをつくなど、それこそ反逆罪で処されると恐れたというのが半分。
もう半分は、その質問を投げかけた飛鳥馬様が、少しだけ寂しそうな、そんなお顔をしていたから。
この街において、最強と謳われるお方が寂しげな表情を浮かべているのを見て、驚いた。
だけど、それと同時に既視感を覚えたんだ。
眉を下げて、瞳を悲しげに伏せて、色のない瞳をする。そのくせ、何かに期待して、だけどそれは最初から叶わないものだと諦めている。
飛鳥馬様のその表情が、雨の降る夜に絶対に帰っては来ないお母さんをただ1人薄暗い部屋の中で待ち続けていた、幼き頃のわたしの横顔と重なった。
窓を伝う雨のしずくを永遠と見つめる、寂しげな横顔のあの頃のわたしに。
「……っ、本当に、ほんとうにそう思ってくれてるの?」
「はい、思ってます」
だから、伝えよう。
寂しそうな表情をするあなたに、真っ直ぐに伝えよう。
「…ふふっ、うれしい」
わたしのその言葉によって、あなたの瞳に光が戻るのなら。あなたが、もうそんなふうに悲しそうな表情をしなくて済むのなら。
飛鳥馬様が、笑ってくださるのなら。
「あやちゃんは、おれを喜ばすのがじょーずだね」
「別に、そんなことは……」
わたしの言葉に、満足気に弧を描く形の良い唇。
嬉しそうに微笑んだ飛鳥馬様の表情は、やっぱり幼き子供のように、どこまでも曇りない純粋無垢な笑顔だった。
わたしたちが座る後部座席の様子は、運転席に座って車を運転している真人という従者からは見えない。
それは、その間に仕切りが設けられているからだ。
さすが超高級車と言うべきだろうか。
前と後ろで仕切られた今も、後部座席のある空間はとても広い。ここで生活出来るんじゃないかと思うほどに。
「──飛鳥馬様、お話中のところ失礼ですが、もう少しで皇神居に到着致します」
運転席の方から、真人という男の声がした。
飛鳥馬様はそれに、「ああ、分かった」とだけ返して、そっと伏し目がちな瞳になる。
そして、わたしと目線の位置を合わせ、にっこりと微笑んだ。
「───あやちゃん、霜蘭花に入る準備、できてる?」
「……っ、は、い」
わたしたち2人を包む空気感が、さっきよりもより一層重くなり、脳内をピリリとした緊張感が走った。
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