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変わり果てた日常
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あれから何週間が過ぎたのか、あまり覚えていない。
伊吹くんがいなくなった日々は、わたしにとっては不自然なものだったと思う。
何か大切なものを失ってしまったように、ポッカリと空いた心の穴は塞がることを知らない。
「あーやかっ!なぁに悩んでんの」
「……あ、美結ちゃん、おはよう。早いね」
スクールバッグを背負い、朝早くに登校してきた美結ちゃんに、机に伏せていた顔を上げて挨拶をする。
「おはよ。てか彩夏だって相当早いじゃん」
「うん、まあね。あはは」
わたしは最近、あることに相当頭を悩まされている。
それも、誰にも想像できないような“あり得ないこと”に。
きっと、この悩みを打ち明けても「頭打ったの?大丈夫?」と心配されて、信じてももらえないような気さえする。
「ねえねえ、彩夏ー。何か悩み事があるならいつでも私に相談していいんだからね!私、いつでも準備できてるから!」
「…う、うん。ありがとう美結ちゃん」
はぁ……、親友に心配かけちゃうなんて、ほんと情けないなわたし。
わたしがもっと器用な人間だったら、悩みがあるなんて一切感じさせない振る舞いが出来たのに。
少しの後悔に見舞われながらも、わたしは朝の会が始まるまで美結ちゃんとお喋りに花を咲かせていた。
それから、山西先生がいつものごとく猫背で教室に入ってきて朝の会が進み、いつもと変わらないような1日を過ごして、放課後が来た。
……ああ、ついに来てしまった。この放課後が。
来るな来るなと願っている時こそ、時の流れが早く感じるのは気のせいだろうか。
「じゃあ彩夏、また明日っ!」
「うん、ばいばい美結ちゃん。部活頑張ってねっ」
「ふふっ、うん!頑張るぅー!」
美結ちゃんはぎゅうっとわたしを抱きしめた後、バレーボールやら何やらが入った大きな部活用のリュックサックを背負って教室を出て行った。
伊吹くんと付き合っていた頃だったら、このままみんなが下校する時刻まで教室で勉強をしたりして時間を潰していたんだけど……。
もうそんなこともする必要はなくなってしまったから、わたしはそのまま学生鞄を手に提げて教室を出る。
廊下を進み階段を下りて、昇降口を通り過ぎ、正門を抜ける。
そして、東宮内高校の生徒はほとんどいない人通りの少ない家路に差し掛かり、いつも乗る電車の駅に向かおうとしたところで。
「あーやちゃん」
その声は、もうすっかり聞き慣れてしまったように、わたしの耳にスッと入ってきた。
「……何ですか、飛鳥馬様」
「何かって?そんなのあやちゃんに会いに来たに決まってるでしょ」
───わたしの最近の悩み。
それは、毎日のように飛鳥馬様がわたしの前に現れるようになったこと。
それも、決まって放課後。
あの春の朝、飛鳥馬様がわたしの前に急に現れて廃墟が立ち並ぶ小さな通りへ引き連れてキスをしてきた場所と、今わたしがいる場所は全く同じ所だ。
季節はもう梅雨が明け、本格的に夏へ移ろうとしている。
飛鳥馬様から半強制的にラインを交換させられたのは、つい先日のこと。
「わたし、昨日も言いましたよね。もう2度とこんな真似はしないでください、って」
「ふふっ、あやちゃんが怒ってるー」
「……ふざけないでください」
飛鳥馬様はベンツの後部座席の窓を開け、そこから外にいるわたしに話しかけている。
そしてわたしは、もう飛鳥馬様に対して気は使わないと決めていた。
「あやちゃんさ、おれに対して当たり強くない?おれの気のせい?」
「……っ、そ、そんなことないです!」
だけど、今でもこの漆黒の瞳にじっと見つめられると、少し怖かったりもする。
「あははっ、全力否定!」
「……!」
飛鳥馬様って、こんな風に思いっきり笑うお方だったっけ……?
未だにくつくつと肩を揺らして笑っている飛鳥馬様の表情は、本当に楽しそうだ。
「わ、わたし今日は自分1人で帰りますから!さようならっ」
飛鳥馬様にここまで笑われるとは思っていなくて、顔に熱が集まる。その赤い顔を絶対に見られたくなくて、わたしは家に向かって歩き始めた。
……が。
「ちょ、あやちゃんひどい……っ。真人、早く車出して!」
後ろから、飛鳥馬様の慌てた声が嫌でも聞こえてくる。
まだ太陽の出ている明るい時間帯に、飛鳥馬様がこの世界にいるというだけでも異常事態なのに、一体何なんだ。
ただの庶民のわたしに、皇帝である飛鳥馬様がここまで付き纏う理由は。
もしかして飛鳥馬様って変人なのかな……?
なんていう失礼過ぎることも考えたけど。
「あやちゃん……!いつも言ってると思うけど、お願いだからおれに家まで送らせて」
「ど、どうして…ですか。なぜ飛鳥馬様がわたしにここまで……、」
飛鳥馬様の車がわたしに追いつき、そこでわたしも足を止めてそう言った。
縋るようなその声に、動揺が隠せない。
わたしみたいな庶民に、ここまで纏わりつくのはどうしてだろう。その理由は、一体何……?
考えられる理由は、ただ1つ。
───こうなってしまったのは、あの夜のわたしの判断ミスが問題なのかもしれない。
♦️
月日はおよそ2週間前に遡る。
わたしと伊吹くんが、別れた日だ。
あの日、仁科さんが慌ててベンツの方へと戻ってきて、わたしの家の前に西ノ街の皇帝である伊吹くんがいると飛鳥馬様に伝えた時。
これまで1年間付き合ってきた伊吹くんが西ノ街の皇帝だという事実に頭が真っ白になりかけたけど、わたしはそれとは別のことで頭がいっぱいだった。
このことを利用して、何とか飛鳥馬様を騙せないか。
『───西ノ街、10代目霜花派皇帝、天馬伊吹は、わたしの“彼氏”です』
自らの敵である伊吹くんの彼女がわたしだったという事実を知れば、飛鳥馬様がわたしに好意を向けてくることはない……。
───そう、思っていたのに。
『……だからなに?』
飛鳥馬様は、平然とした口振りでそう述べた。
なんで、どうして……。
これでも、飛鳥馬様はわたしを敵として見ないの……?
敵の彼女なのに……、わたしは飛鳥馬様にとって最大限利用できるただの手駒だと分かったはずなのに……。
『だから何って……、わたしは、言わば飛鳥馬様の敵なんですよ……?なのにどうして、』
『どうしてあやちゃんのことを悪く見れないのかって?そんなの、最初から決まってるでしょ』
『……?』
暗闇の車内の中。堂々たる表情で微笑みを浮かべる飛鳥馬様のお顔が月明かりに照らされる。
『おれにとってあやちゃんは、1番大切で大事なひとだから』
ふわっと蕾が咲いたように柔らかく笑う飛鳥馬様。
……分からないよ、何もかも。
何も持っていない、こんな良いとこなしなわたしを“大事なひと”だって言ってくれる飛鳥馬様のこと、全く理解できない。
『……っ、わたしは、人を不幸にするのが得意なんです。わたしがいたら、わたしなんかと一緒にいたら、飛鳥馬様はきっと不幸になっちゃう、から……っ』
『誰があやちゃんにそんな風に思わせたの。……おれ、一回言ったよね。自分のことを“なんか”って蔑まないでって』
優しく静かに、けれど諌めるように力強い声が振り落とされる。
『だけど、わたしはいつまでも疫病神なままで……』
『なに、まだ続ける気?』
ぐっと眉をしかめたその表情に、喉元がヒュッと締め付けられる。
この方は、今、とてつもなく怒っている。
『ごめ、なさ……っ、』
喉が緊張によって締め付けられているせいで、謝罪の言葉が上手く言えない。
『あ゛ー、……別に謝らなくていいから』
宙を仰いで、掠れた声と共にそう吐き出す飛鳥馬様。
『……っ、』
『……、ねえあやちゃん』
俯けたわたしの視界に、飛鳥馬様の長細い手が遠慮がちに入ってきたかと思うと、クイッと顎を柔く持ち上げられて漆黒の瞳に囚われた。
───そして、状況は次の一言によって一変する。
『協力、してあげようか。西ノ街の皇帝と別れたいんでしょ』
『…ぇ、……え?』
『あいつはね、強そーに見えて案外“ここ”が弱いんだよ』
そう言って、自らの心臓の辺りにトンと手を添えた彼は、漆黒の瞳を妙な具合にスッと細めた。
『あやちゃんが自分を裏切っておれと関係を築いてたってことを見せつければ、あいつは弱いからすぐに心が折れてどっかに行っちゃうよ』
『…は、はぁ……』
急に饒舌になった飛鳥馬様に、正直頭が追いついていない。
今唯一脳内で考えられることは、どうして飛鳥馬様がわたしのためにそんなことまでしようとしているのか、だ。
本当に、どうしちゃったんだろう……?
今の飛鳥馬様は、わたしの知っている穏やかな飛鳥馬様じゃなくて、ちょっとだけ怖くなる。
『だからさ、あやちゃん。早くあんな奴とは別れて、……おれにしときなよ』
最後の方、ボソリと小さな声で呟かれたせいで聞こえなかった。
『えっと……、その』
どうしようかと考えあぐねていたわたしだったけど、それは次の瞬間にはその迷いが消えることになる。
飛鳥馬様が、何とも言えない切なそうな表情をして、無理に笑っているように見えたから。
わたしは、こういう悲しそうな表情に凄く弱いのだ。
『……分かり、ました。ご協力願えますか』
『うん、もちろん。あやちゃんのためなら、何だってする』
……、本当に、もう。
この方はどれだけわたしを困らせたら気が済むのだろう。
そんな風に尽くされても、わたしは何も返せるものがないというのに……。
それでも、きっと。
そんな言い訳は飛鳥馬様には通用しないんだろうなって、その時のわたしは靄がかった頭で確信していた。
♦
「……あやちゃん」
急に低く落とされたトーンに、肩がビクリと震える。
わたしを呼び捨てにすることなく、出会った時から“ちゃん”付けで名前を呼んでくれていた優しい声音は、今はどこか陰りが見られた。
「…っ、な、何ですか」
「いつになったらおれのことちゃんと見てくれるの」
ベンツの後部座席のドアが開き、太陽の世界に足を踏み入れた飛鳥馬様がわたしの前まで歩いてきて。
そっとわたしの背に腕を回し、そう吐き出した。
わたしを包む体温はひどく冷たい。
だけど、その冷たさの裏に垣間見えるこの方の弱さが、触れた肌からじわり…、と感じられる。
「……っ、わたし、は。飛鳥馬様と一緒にはいれません」
「……どうして?」
「もう、幸せは願わないと決めたからです」
わたしが寂しいから、1人はどうしても孤独だからと、伊吹くんの手を取った1年前。
今思えば、わたしはあの手を取るべきじゃなかった。
あんな風に伊吹くんを傷つけて終わる最後なら、わたしはもう幸せなんて願わない。
自分の我儘のせいで、他人まで不幸にしてしまったら、元も子もないんだから。
「おれ、あやちゃんと一緒にいれるなら不幸になってもいいよ」
「どう、して……」
「ふふ、おれが今ここにいるのがその証拠」
太陽を背に、笑う飛鳥馬様。
わたしを抱きしめる腕を緩めて、そっと首筋に顔を埋めた。
「おれね、本当は太陽が昇った街に足を踏み入れたらいけないっていう家の掟があるんだよね」
「……っ、へ」
平然とした様子で爆弾を落とされて、素っ頓狂な声が漏れる。
「これ、破ったらどうなると思う?」
「え、えっと……どうなるんですか」
これに関しては質問を質問で返すしかない。
飛鳥馬様の住む裏社会の世界なんて、想像できるはずがない。
もし想像できたとしても、それはあっち側に生きる夜の世界の人間だけだ。
「少なくとも皇帝っていう身分は剥奪されるだろうね。ひどい場合には飛鳥馬家から追放を命じられるかも」
そんなことをハツラツとした笑顔で言う飛鳥馬様が怖い。
それって、とんでもなく大変なことなんじゃないかって。
庶民のわたしでも分かることなのに。
「……そんなに危険なのに、どうして出てきちゃったんですか。こんな所にいたら、飛鳥馬様が危ないです」
「心配してくれてるの?優しーね」
そう言って大きな手がわたしの頭を優しく撫でる。
「とにかく、早く車の中に戻ってください。わたしなんかといたら余計怪しまれます。目立つので」
「……、あやちゃんがおれに送られてくれるなら乗るよ」
じっと、漆黒の瞳に見つめられる。
そこには何を言っても揺るがない思いがあった。
「はぁ……、分かりました。わたしも乗りますので」
わたしの小さなため息は聞こえていたはずだろうに、飛鳥馬様はそんなことは気にせずに嬉しそうに笑っていた。
ぎゅっと手を握られて、飛鳥馬様とベンツに乗り込み、車が発車した。
車内は相変わらず薄暗い。
飛鳥馬様の隣にちょこんと座っているわたしは、身をできるだけ小さく縮めていた。
どうして2度も3度もこうして皇帝の車に乗っているのか。
不思議でならないよ……。それに……、
「……どうしてそんなにくっついてくるんですか。飛鳥馬様」
「んー、あやちゃんに触れてたいから」
そう言って、もっと距離を詰めてくる飛鳥馬様。
肩から足先までがピッタリとくっついているせいで、だんだんと鼓動が速くなる。
……よくもそんな恥ずかしい言葉が簡単に出てくるな。
少しでもドキドキしてしまった自分が許せなくて、ムスッとした表情を露わにする。
「……それと、いつになったらおれのこと名前で呼んでくれるのかなーとも思ってる」
ずっと様付けなんて、堅苦しいでしょ、と続けた飛鳥馬様がわたしの方へとチラリと視線を送るのを感じた。
「それは、……」
「難しい、んだよね。……はは、分かってるよ。無理にとは言わないから」
そう自嘲気味に笑う飛鳥馬様に違和感を覚えて、そっとその横顔を盗み見る。
「……───またいつか、“あの頃”みたいに名前で呼んで欲しいな」
誰かに聞かせるでもなく小さく呟かれたその声が、わたしにはしっかりと聞こえた。
一言一句、はっきりと。
だけどそれは、あまりにも理解し難くて。
「今、なんと……?」
わたしは恐る恐る聞き返した。
「…っ、え? ああ、別になんでもないよ」
飛鳥馬様は動揺していた。今までそんな素振りをあまり見せてこなかった飛鳥馬様が、今。
明らかに焦っていた。
“あの頃”って、いつのこと……?
わたしと飛鳥馬様に、過去なんてものはあるはずないのに。
うだうだと悩んでいるうちに、仁科さんが運転している車はわたしの家の前に着いたみたいで。
悩みの種はなくならずにむしろどんどん増えていく気がした。
そのままベンツから降りて、家の扉の前まで歩いてガチャリと鍵を開け、家の中に入り、鍵を閉める。
わたしが家に入ったのを確認できたからか、ベンツが家の前から離れていく走行音を背に聞きながら、わたしは暫し呆然としていた。
「どういう、ことなの……?」
焦った表情。揺れ動く瞳。あからさまな態度。
その全部が、さっき飛鳥馬様が言ったことの真実性を助長している。
わたしと飛鳥馬様の間には、過去がある……?
初めて出くわしたあの夜の日よりもずっと前に、出会っていた……?
だけど、そんなこと、現実にあるはずがない……。
もしあるとしたら、それはわたしが上流階級の名家の令嬢で、夜の世界に住む側の人間だった場合だけだ。
そういう家の令嬢は、もしかすると飛鳥馬家へ縁談を申し込めるというのを学校のご令嬢方の噂話で聞いたことがある。
それを聞いたのは、東宮内高校で交流会があったあの日のことだ。
「もう、わけが分からないよ……っ」
いつまでも玄関で突っ立ってるままでいるのは時間の無駄だと思って、落ちていた学生鞄を手に靴を脱いでフローリングに上がる。
いつものように各窓のカーテンを閉めながら、階段を上っていく。
一気に暗くなる家の中。カーテンに遮られた真っ赤な夕日は、カーテンを鮮明な茜色に染め上げる。
いつもはその光景に綺麗だな、という感想を心の中で呟くのだけど。
今日はそんなことを思っている余裕もなく。
2階に上がって自室の扉を開け、パチっと電気のスイッチをつけたわたしは、すぐさまベッドにダイブした。
そしてすぐに、ウトウトと瞼が重たくなって、わたしは部屋の明かりをつけたまま深い眠りに落ちていた。
♦
『りと~~…っ!どこに行っちゃったの、わたしを置いていかないで』
よたよたと頼りない足取りの少女が不安そうなか細い声を上げる。
まっさらな白色のワンピースを着た少女は、どこかに向かって歩いているようだ。
『お前……っ!そっちに行っちゃだめだって、いつもそう言ってんだろ』
少女の後ろを、バタバタと慌てた足取りで駆け寄ってくる1人の少年の顔が、廊下の灯りに照らされる。
陶器のように透き通った色白の肌。触ったらマシュマロのように柔らかそうなピンク色に染まった小さな頬。
どこまでも完璧な彫刻のようなその顔は、その子を少年と言うにはあまりにも言い難いほど、異常に綺麗だ。
『…っあ!りといた!良かったぁ~』
『はぁ…、おれの側を離れんなって命令したばっかだろ。もうどこにも行くな、心配させるな』
心底安心しきった声を吐き出して、その少年は大切なものを優しく包み込むような手つきで、その少女を抱きしめた。
『あははっ、りと心配した?あやがいなくなってあせった?』
『………』
にこにこと笑顔を浮かべる少女を、眉をしかめて怖い顔で見つめる少年。
『───…お前、あんま調子に乗んな』
突如、冷酷な声がその少女に向けて放たれた。
先程までにこにこと嬉しそうに笑っていた少女は、すぐに顔を真っ青にさせて、恐怖からか顔を俯けた。
……その時。
『……っ、うそ嘘。本当はめっちゃ心配したし、焦りも、した……』
『……!ほんとう??』
『うん、ほんと。……怖がらせてごめんな。そんなつもりはなかったんだ』
別人かと疑うほどに角が取れて柔らかくなった声音に、少女はほっと胸を撫で下ろした。
『ふふっ、嬉しい!わたし、しあわせっ』
少年を今まで以上にぎゅっと強く抱きしめ返す少女は、満面の笑みを浮かべていた。
それはどこまでも純粋で、底しれない透明感がある。
『……おれ、お前のこと幸せにできてんの』
『うんっ。あや、りとと居れて幸せ!』
嬉しそうに笑う少女とは反対に、その少年は少しだけ泣きたそうな、苦しさを押し殺したような、そんな歪んだ表情をしていた。
♦
ピピピピッ、ピピピピッ……。
スマホのアラーム音が、遠い意識の先で微かに聞こえてくる。
わたし、今何してたんだっけ……。
飛鳥馬様に家まで送ってもらって、2人の間に過去があるのかもしれないと悩んで、部屋に着いてベッドにダイブしてそれから……。
それから、眠りに落ちちゃってたんだ。
そうだ、そうだった。
やっと思い出した。
だんだんとはっきりと覚醒していく意識の中、わたしはさっきまで見ていた夢の内容を、ぼんやりとした脳内で思い返していく。
「あの場所、確か霜蘭花の皇神居……だったような」
小さな少女は少年のことを『りと』、少年は少女のことを『お前』って言ってた。
少女の名前は……、えっと。
そこまで考えて、はっとしたわたし。背筋が冷えていく。
唇がわなわなと震えて、それが全身へと伝染していく。
───あの少女は、自分のことを『あや』って言っていた。
ああ゛、もう、どうして。
……どうして、今になってようやくあの夢を見たの。
妙にハッキリとした夢だった。
妄想でも想像でもなく、確実にあれは実際に起こった出来事をわたしに見せていた。
「あの夢の少女と少年は───確かにわたしと、飛鳥馬様、だった……」
♦
とんでもない事実が判明してから、1週間が経つ。
時の流れはあり得ないほどに速い。高校生になってから、よく思う。
「な、七瀬さん……っ。もしよかったら俺と、つつつ付き合ってください!」
この人、きっと凄く緊張してるんだろうな……。
噛み噛みな告白で悟っちゃうよ。
「ありがとう。……でも、ごめんなさい。あなたとは付き合えません」
唯一良かったと思えるのは、伊吹くんという存在がわたしの世界から消えて、こんなわたしなんかにも告白してくれた男の子たちにちゃんと“ありがとう”を言えることだ。
それ以外は、何1つ嬉しくも何ともない。
庶民生の中でもずば抜けてイケメンだと騒がれていた男の子に告白されても、わたしの心は動かない。
もう幸せに貪欲にはならないと決めたわたしの心は、そんな簡単には開くことが出来ないだろう。
金属の玩具で無理矢理にこじ開けようとしても、効かない。
それくらい、ここ数日でわたしの意思は揺るがないものになった。
「どうして……、?」
「……え?」
わたし、ごめんなさいって断ったよね。
初めて返されるその言葉に、動揺してしまう。
床に落としていた視線を成瀬くんに向ける。
「俺のどこがダメなのか教えてくれない?ねえ、なんで俺とは付き合えないの?」
……あ、これ、超面倒くさいタイプの男の子だ。
やけにプライドが高くて、まさか自分が振られるなんて微塵にも思っていなかった、的な……。
ジリジリと迫ってくる成瀬くんは、正直怖い。
控えめに言うけど、すごく怖い。
だってこんな状況、初めてだもん。
大抵の人は、わたしが告白を断れば肩を落としてすぐに去っていくのに。
「え、えっと……それは、」
「ほら、理由が出てこないんでしょ。ならいいじゃん。付き合おうよ」
ここは人通りが全くない旧校舎の踊り場で。
逃げ場ならいくらでもあるけど、走って逃げたとしても男子の足の速さには勝てないわけで。
ついには大きな手が伸びてきて、それがわたしの腕を掴もうとした。
─────…その時。
「───彩夏」
そこにいるはずのない人の声が、確かに聞こえた。
刹那、ふわっとした甘い香りに背後から包まれた。
それは今1番会いたくなかった、だけど助けを求める時に1番に頭に浮かんだ、優しい人の冷たい体温。
……ああ、どうしよう。
わたし、今、この体温を“愛しい”って思ってしまった。
普通の人間とは違う、血の通っていないような冷たい体温に、心から安堵してしまっている。
「りと、くん……っ」
夢の中で、彼に対してわたしが呼んでいた呼び名。
意識せずとも、その名が口から零れた。
背後で、飛鳥馬様が驚いたように息を呑み、目を見張る様子が伝わってくる。
「“麗仁”って呼んだら助けてあげるって言おうとしたのに、先に言われちゃあねえ……。心の準備できねぇっつうの」
そう言って、わたしの腰のあたりに両腕を巻きつける飛鳥馬様。
こつん、と顎をわたしの肩に乗せた飛鳥馬様は、すっと細めた瞳を、成瀬くんの方へ投げた。
突然の登場に、何が何だか分からずフリーズしていた成瀬くんが、はっとした表情をする。
「……ねえ、お前。その汚ねぇ手で何に触れようとしてた?」
「……っは、え?」
「だーかーら、聞いてんでしょ。誰のものに触ろうとしてたんだって!!」
穏やかそうに聞こえた声は一変、荒々しい声に変わった。
「そ、その…えっと……っ」
成瀬くんは飛鳥馬様の威圧感に耐えられなくなったのか、「すいませんでしたーー!!許してください~~っ」と尻凄みしながら反対側へと駆け出して逃げて行く。
その光景を、わたしはポカンと口を開けて見つめることしか出来ない。
この数秒間で一体何が起こった……の?
「あーやちゃん」
甘えた声が、わたしのすぐ耳元で聞こえる。
わたしを抱きしめる腕の力がさっきよりもっと強くなる。
「なん、ですか」
飛鳥馬様のことを“りとくん”と呼んでしまった手前、ちょっとだけ居心地が悪い。
距離を取ろうにも、飛鳥馬様がとんでもない力でわたしを抱きしめているから、逃げられない。
「へへ、あーやちゃんっ」
何なんだ、この方は。一体どうしちゃったんだろう。
さっきからだらしなく頬を緩めてこれはこれは幸せそうに笑っている飛鳥馬様は見たことがない。
「どう、しましたか……」
「もっかいおれの名前呼ーんで」
「それは、命令ですか。命令じゃないのなら……、」
「命令じゃないけど、皇帝の“お願い”。叶えてくれるよね」
「っ、~~~」
本当に、このお方という人はずるい……っ!
そう言ったらわたしが断れないのを知っていて、あえて巧みな言葉選びをする様子がひどく恨めしい。
……けど。
飛鳥馬様を名前呼びするのは別に嫌じゃないから、素直に従おう。
「……───りと、くん」
「なぁに、あやちゃん」
「麗仁、くん。……名前で呼んでも、無礼に当たらないのですか」
「うーん、本当だったらそうなるんだろうけど。でも、あやちゃん限定で許してあげる。てか、おれがあやちゃんにそう呼んでもらいたい」
もう、諦めよう。わたしはこの方から、飛鳥馬様から……、麗仁くんから、逃げられない。
いつまでもわたしばかりを特別扱いする麗仁くんの言動にはもう慣れたものだ。
「……わたしも、お願いしていいでしょうか」
「うん、何でも言って。おれが全部叶えたげる」
「どんなことでも?」
「うん、どんなことでも」
そうオウム返しする麗仁くんの声に、冗談の色は含まれていなかった。
わたしが豪華客船クルーズの世界一周旅行に連れて行ってと言ったらきっと叶えてしまうんだろう。
何十億円もする豪邸に住みたいと言っても、それでさえも麗仁くんは叶えてしまうんだろう。
それは、相手がわたしだから───…。
「それじゃあ、この腕を早く離してください」
「それは却下。おれでも叶えてあげられない」
その即答ぶりに、思わず笑ってしまう自分がいるのは、心に少しだけ余裕が生まれたからだろうか。
「ふふ、こんなに小さな願いなのに」
「それ以外でお願いね」
わたしを後ろから抱きすくめる麗仁くん。
この冷たい体温は、わたしみたいにいてもいなくてもどうでもいい人間を必要としてくれているのだろうか。
そうだったら嬉しいな……。
なんて思うのは今日限りだから。
麗仁くんは、わたしなんかを助けてくれた強くて優しい人。
周りの人は皆このお方を冷酷無慈悲と言うけれど、わたしにとっての麗仁くんは、もうそうではない。
わたしだけに甘い顔を見せる彼。
わたしがいくら突き放そうとも、帰りの迎えの車を毎日準備していた彼。
こうしてわざわざ学校まで足を運び、わたしを恐怖から救ってくれた彼。
初めて足を踏み入れた夜の世界で、わたしを仁科さんの手から逃れさせてくれた彼。
突然キスをしてきた彼。
わたしが自分のことを蔑んだら、それを叱って、怒ってくれた彼。
自分の身の上を、手が冷たい理由を、打ち明けてくれた彼。
伊吹くんとの別れを協力してくれた彼。
彼の体温に包まれながら、今までのことをゆっくりと振り返っていく。
ああ、やっぱり、こんなにも優しい。
こんな人の隣にいれたら、さぞ幸せだろう。
……それならなおさら、わたしは彼から離れないとね。
この街を支配する皇帝は、冷酷なんかじゃなかった。
それを知れただけで、わたしは十分幸福だ。
この街の将来が、安泰なものになるから。
「麗仁くん。……麗仁くんの方を向いたらダメですか」
「…ん、いいよ」
そっと緩められた腕の力。
わたしはくるりと体の向きを変えて、麗仁くんに向き直る。
そして、どこまでも漆黒な底しれぬ瞳を真っ直ぐに射抜いた。もう、この瞳から目を逸らすことはない。
「麗仁くん───…」
伝えよう、わたしの思いを。
そして、今度こそ永遠に、わたしは麗仁くんの前から姿を消すんだ。
存在ごと、しっかりと。
麗仁くんが不幸にならないために。
「───あなたが好きです。今まで、本当にありがとうございました」
そう言って、2つの影が重なった。
冷たい両頬に手を添えて、つま先を上げる。
そして今度はわたしから、あまい甘いキスを落とした。
重なった2つの唇は、1度だけ触れてすぐに離れていき……。
麗仁がようやく正気を取り戻した時にはもう、そこに七瀬彩夏の姿はなかった。
伊吹くんがいなくなった日々は、わたしにとっては不自然なものだったと思う。
何か大切なものを失ってしまったように、ポッカリと空いた心の穴は塞がることを知らない。
「あーやかっ!なぁに悩んでんの」
「……あ、美結ちゃん、おはよう。早いね」
スクールバッグを背負い、朝早くに登校してきた美結ちゃんに、机に伏せていた顔を上げて挨拶をする。
「おはよ。てか彩夏だって相当早いじゃん」
「うん、まあね。あはは」
わたしは最近、あることに相当頭を悩まされている。
それも、誰にも想像できないような“あり得ないこと”に。
きっと、この悩みを打ち明けても「頭打ったの?大丈夫?」と心配されて、信じてももらえないような気さえする。
「ねえねえ、彩夏ー。何か悩み事があるならいつでも私に相談していいんだからね!私、いつでも準備できてるから!」
「…う、うん。ありがとう美結ちゃん」
はぁ……、親友に心配かけちゃうなんて、ほんと情けないなわたし。
わたしがもっと器用な人間だったら、悩みがあるなんて一切感じさせない振る舞いが出来たのに。
少しの後悔に見舞われながらも、わたしは朝の会が始まるまで美結ちゃんとお喋りに花を咲かせていた。
それから、山西先生がいつものごとく猫背で教室に入ってきて朝の会が進み、いつもと変わらないような1日を過ごして、放課後が来た。
……ああ、ついに来てしまった。この放課後が。
来るな来るなと願っている時こそ、時の流れが早く感じるのは気のせいだろうか。
「じゃあ彩夏、また明日っ!」
「うん、ばいばい美結ちゃん。部活頑張ってねっ」
「ふふっ、うん!頑張るぅー!」
美結ちゃんはぎゅうっとわたしを抱きしめた後、バレーボールやら何やらが入った大きな部活用のリュックサックを背負って教室を出て行った。
伊吹くんと付き合っていた頃だったら、このままみんなが下校する時刻まで教室で勉強をしたりして時間を潰していたんだけど……。
もうそんなこともする必要はなくなってしまったから、わたしはそのまま学生鞄を手に提げて教室を出る。
廊下を進み階段を下りて、昇降口を通り過ぎ、正門を抜ける。
そして、東宮内高校の生徒はほとんどいない人通りの少ない家路に差し掛かり、いつも乗る電車の駅に向かおうとしたところで。
「あーやちゃん」
その声は、もうすっかり聞き慣れてしまったように、わたしの耳にスッと入ってきた。
「……何ですか、飛鳥馬様」
「何かって?そんなのあやちゃんに会いに来たに決まってるでしょ」
───わたしの最近の悩み。
それは、毎日のように飛鳥馬様がわたしの前に現れるようになったこと。
それも、決まって放課後。
あの春の朝、飛鳥馬様がわたしの前に急に現れて廃墟が立ち並ぶ小さな通りへ引き連れてキスをしてきた場所と、今わたしがいる場所は全く同じ所だ。
季節はもう梅雨が明け、本格的に夏へ移ろうとしている。
飛鳥馬様から半強制的にラインを交換させられたのは、つい先日のこと。
「わたし、昨日も言いましたよね。もう2度とこんな真似はしないでください、って」
「ふふっ、あやちゃんが怒ってるー」
「……ふざけないでください」
飛鳥馬様はベンツの後部座席の窓を開け、そこから外にいるわたしに話しかけている。
そしてわたしは、もう飛鳥馬様に対して気は使わないと決めていた。
「あやちゃんさ、おれに対して当たり強くない?おれの気のせい?」
「……っ、そ、そんなことないです!」
だけど、今でもこの漆黒の瞳にじっと見つめられると、少し怖かったりもする。
「あははっ、全力否定!」
「……!」
飛鳥馬様って、こんな風に思いっきり笑うお方だったっけ……?
未だにくつくつと肩を揺らして笑っている飛鳥馬様の表情は、本当に楽しそうだ。
「わ、わたし今日は自分1人で帰りますから!さようならっ」
飛鳥馬様にここまで笑われるとは思っていなくて、顔に熱が集まる。その赤い顔を絶対に見られたくなくて、わたしは家に向かって歩き始めた。
……が。
「ちょ、あやちゃんひどい……っ。真人、早く車出して!」
後ろから、飛鳥馬様の慌てた声が嫌でも聞こえてくる。
まだ太陽の出ている明るい時間帯に、飛鳥馬様がこの世界にいるというだけでも異常事態なのに、一体何なんだ。
ただの庶民のわたしに、皇帝である飛鳥馬様がここまで付き纏う理由は。
もしかして飛鳥馬様って変人なのかな……?
なんていう失礼過ぎることも考えたけど。
「あやちゃん……!いつも言ってると思うけど、お願いだからおれに家まで送らせて」
「ど、どうして…ですか。なぜ飛鳥馬様がわたしにここまで……、」
飛鳥馬様の車がわたしに追いつき、そこでわたしも足を止めてそう言った。
縋るようなその声に、動揺が隠せない。
わたしみたいな庶民に、ここまで纏わりつくのはどうしてだろう。その理由は、一体何……?
考えられる理由は、ただ1つ。
───こうなってしまったのは、あの夜のわたしの判断ミスが問題なのかもしれない。
♦️
月日はおよそ2週間前に遡る。
わたしと伊吹くんが、別れた日だ。
あの日、仁科さんが慌ててベンツの方へと戻ってきて、わたしの家の前に西ノ街の皇帝である伊吹くんがいると飛鳥馬様に伝えた時。
これまで1年間付き合ってきた伊吹くんが西ノ街の皇帝だという事実に頭が真っ白になりかけたけど、わたしはそれとは別のことで頭がいっぱいだった。
このことを利用して、何とか飛鳥馬様を騙せないか。
『───西ノ街、10代目霜花派皇帝、天馬伊吹は、わたしの“彼氏”です』
自らの敵である伊吹くんの彼女がわたしだったという事実を知れば、飛鳥馬様がわたしに好意を向けてくることはない……。
───そう、思っていたのに。
『……だからなに?』
飛鳥馬様は、平然とした口振りでそう述べた。
なんで、どうして……。
これでも、飛鳥馬様はわたしを敵として見ないの……?
敵の彼女なのに……、わたしは飛鳥馬様にとって最大限利用できるただの手駒だと分かったはずなのに……。
『だから何って……、わたしは、言わば飛鳥馬様の敵なんですよ……?なのにどうして、』
『どうしてあやちゃんのことを悪く見れないのかって?そんなの、最初から決まってるでしょ』
『……?』
暗闇の車内の中。堂々たる表情で微笑みを浮かべる飛鳥馬様のお顔が月明かりに照らされる。
『おれにとってあやちゃんは、1番大切で大事なひとだから』
ふわっと蕾が咲いたように柔らかく笑う飛鳥馬様。
……分からないよ、何もかも。
何も持っていない、こんな良いとこなしなわたしを“大事なひと”だって言ってくれる飛鳥馬様のこと、全く理解できない。
『……っ、わたしは、人を不幸にするのが得意なんです。わたしがいたら、わたしなんかと一緒にいたら、飛鳥馬様はきっと不幸になっちゃう、から……っ』
『誰があやちゃんにそんな風に思わせたの。……おれ、一回言ったよね。自分のことを“なんか”って蔑まないでって』
優しく静かに、けれど諌めるように力強い声が振り落とされる。
『だけど、わたしはいつまでも疫病神なままで……』
『なに、まだ続ける気?』
ぐっと眉をしかめたその表情に、喉元がヒュッと締め付けられる。
この方は、今、とてつもなく怒っている。
『ごめ、なさ……っ、』
喉が緊張によって締め付けられているせいで、謝罪の言葉が上手く言えない。
『あ゛ー、……別に謝らなくていいから』
宙を仰いで、掠れた声と共にそう吐き出す飛鳥馬様。
『……っ、』
『……、ねえあやちゃん』
俯けたわたしの視界に、飛鳥馬様の長細い手が遠慮がちに入ってきたかと思うと、クイッと顎を柔く持ち上げられて漆黒の瞳に囚われた。
───そして、状況は次の一言によって一変する。
『協力、してあげようか。西ノ街の皇帝と別れたいんでしょ』
『…ぇ、……え?』
『あいつはね、強そーに見えて案外“ここ”が弱いんだよ』
そう言って、自らの心臓の辺りにトンと手を添えた彼は、漆黒の瞳を妙な具合にスッと細めた。
『あやちゃんが自分を裏切っておれと関係を築いてたってことを見せつければ、あいつは弱いからすぐに心が折れてどっかに行っちゃうよ』
『…は、はぁ……』
急に饒舌になった飛鳥馬様に、正直頭が追いついていない。
今唯一脳内で考えられることは、どうして飛鳥馬様がわたしのためにそんなことまでしようとしているのか、だ。
本当に、どうしちゃったんだろう……?
今の飛鳥馬様は、わたしの知っている穏やかな飛鳥馬様じゃなくて、ちょっとだけ怖くなる。
『だからさ、あやちゃん。早くあんな奴とは別れて、……おれにしときなよ』
最後の方、ボソリと小さな声で呟かれたせいで聞こえなかった。
『えっと……、その』
どうしようかと考えあぐねていたわたしだったけど、それは次の瞬間にはその迷いが消えることになる。
飛鳥馬様が、何とも言えない切なそうな表情をして、無理に笑っているように見えたから。
わたしは、こういう悲しそうな表情に凄く弱いのだ。
『……分かり、ました。ご協力願えますか』
『うん、もちろん。あやちゃんのためなら、何だってする』
……、本当に、もう。
この方はどれだけわたしを困らせたら気が済むのだろう。
そんな風に尽くされても、わたしは何も返せるものがないというのに……。
それでも、きっと。
そんな言い訳は飛鳥馬様には通用しないんだろうなって、その時のわたしは靄がかった頭で確信していた。
♦
「……あやちゃん」
急に低く落とされたトーンに、肩がビクリと震える。
わたしを呼び捨てにすることなく、出会った時から“ちゃん”付けで名前を呼んでくれていた優しい声音は、今はどこか陰りが見られた。
「…っ、な、何ですか」
「いつになったらおれのことちゃんと見てくれるの」
ベンツの後部座席のドアが開き、太陽の世界に足を踏み入れた飛鳥馬様がわたしの前まで歩いてきて。
そっとわたしの背に腕を回し、そう吐き出した。
わたしを包む体温はひどく冷たい。
だけど、その冷たさの裏に垣間見えるこの方の弱さが、触れた肌からじわり…、と感じられる。
「……っ、わたし、は。飛鳥馬様と一緒にはいれません」
「……どうして?」
「もう、幸せは願わないと決めたからです」
わたしが寂しいから、1人はどうしても孤独だからと、伊吹くんの手を取った1年前。
今思えば、わたしはあの手を取るべきじゃなかった。
あんな風に伊吹くんを傷つけて終わる最後なら、わたしはもう幸せなんて願わない。
自分の我儘のせいで、他人まで不幸にしてしまったら、元も子もないんだから。
「おれ、あやちゃんと一緒にいれるなら不幸になってもいいよ」
「どう、して……」
「ふふ、おれが今ここにいるのがその証拠」
太陽を背に、笑う飛鳥馬様。
わたしを抱きしめる腕を緩めて、そっと首筋に顔を埋めた。
「おれね、本当は太陽が昇った街に足を踏み入れたらいけないっていう家の掟があるんだよね」
「……っ、へ」
平然とした様子で爆弾を落とされて、素っ頓狂な声が漏れる。
「これ、破ったらどうなると思う?」
「え、えっと……どうなるんですか」
これに関しては質問を質問で返すしかない。
飛鳥馬様の住む裏社会の世界なんて、想像できるはずがない。
もし想像できたとしても、それはあっち側に生きる夜の世界の人間だけだ。
「少なくとも皇帝っていう身分は剥奪されるだろうね。ひどい場合には飛鳥馬家から追放を命じられるかも」
そんなことをハツラツとした笑顔で言う飛鳥馬様が怖い。
それって、とんでもなく大変なことなんじゃないかって。
庶民のわたしでも分かることなのに。
「……そんなに危険なのに、どうして出てきちゃったんですか。こんな所にいたら、飛鳥馬様が危ないです」
「心配してくれてるの?優しーね」
そう言って大きな手がわたしの頭を優しく撫でる。
「とにかく、早く車の中に戻ってください。わたしなんかといたら余計怪しまれます。目立つので」
「……、あやちゃんがおれに送られてくれるなら乗るよ」
じっと、漆黒の瞳に見つめられる。
そこには何を言っても揺るがない思いがあった。
「はぁ……、分かりました。わたしも乗りますので」
わたしの小さなため息は聞こえていたはずだろうに、飛鳥馬様はそんなことは気にせずに嬉しそうに笑っていた。
ぎゅっと手を握られて、飛鳥馬様とベンツに乗り込み、車が発車した。
車内は相変わらず薄暗い。
飛鳥馬様の隣にちょこんと座っているわたしは、身をできるだけ小さく縮めていた。
どうして2度も3度もこうして皇帝の車に乗っているのか。
不思議でならないよ……。それに……、
「……どうしてそんなにくっついてくるんですか。飛鳥馬様」
「んー、あやちゃんに触れてたいから」
そう言って、もっと距離を詰めてくる飛鳥馬様。
肩から足先までがピッタリとくっついているせいで、だんだんと鼓動が速くなる。
……よくもそんな恥ずかしい言葉が簡単に出てくるな。
少しでもドキドキしてしまった自分が許せなくて、ムスッとした表情を露わにする。
「……それと、いつになったらおれのこと名前で呼んでくれるのかなーとも思ってる」
ずっと様付けなんて、堅苦しいでしょ、と続けた飛鳥馬様がわたしの方へとチラリと視線を送るのを感じた。
「それは、……」
「難しい、んだよね。……はは、分かってるよ。無理にとは言わないから」
そう自嘲気味に笑う飛鳥馬様に違和感を覚えて、そっとその横顔を盗み見る。
「……───またいつか、“あの頃”みたいに名前で呼んで欲しいな」
誰かに聞かせるでもなく小さく呟かれたその声が、わたしにはしっかりと聞こえた。
一言一句、はっきりと。
だけどそれは、あまりにも理解し難くて。
「今、なんと……?」
わたしは恐る恐る聞き返した。
「…っ、え? ああ、別になんでもないよ」
飛鳥馬様は動揺していた。今までそんな素振りをあまり見せてこなかった飛鳥馬様が、今。
明らかに焦っていた。
“あの頃”って、いつのこと……?
わたしと飛鳥馬様に、過去なんてものはあるはずないのに。
うだうだと悩んでいるうちに、仁科さんが運転している車はわたしの家の前に着いたみたいで。
悩みの種はなくならずにむしろどんどん増えていく気がした。
そのままベンツから降りて、家の扉の前まで歩いてガチャリと鍵を開け、家の中に入り、鍵を閉める。
わたしが家に入ったのを確認できたからか、ベンツが家の前から離れていく走行音を背に聞きながら、わたしは暫し呆然としていた。
「どういう、ことなの……?」
焦った表情。揺れ動く瞳。あからさまな態度。
その全部が、さっき飛鳥馬様が言ったことの真実性を助長している。
わたしと飛鳥馬様の間には、過去がある……?
初めて出くわしたあの夜の日よりもずっと前に、出会っていた……?
だけど、そんなこと、現実にあるはずがない……。
もしあるとしたら、それはわたしが上流階級の名家の令嬢で、夜の世界に住む側の人間だった場合だけだ。
そういう家の令嬢は、もしかすると飛鳥馬家へ縁談を申し込めるというのを学校のご令嬢方の噂話で聞いたことがある。
それを聞いたのは、東宮内高校で交流会があったあの日のことだ。
「もう、わけが分からないよ……っ」
いつまでも玄関で突っ立ってるままでいるのは時間の無駄だと思って、落ちていた学生鞄を手に靴を脱いでフローリングに上がる。
いつものように各窓のカーテンを閉めながら、階段を上っていく。
一気に暗くなる家の中。カーテンに遮られた真っ赤な夕日は、カーテンを鮮明な茜色に染め上げる。
いつもはその光景に綺麗だな、という感想を心の中で呟くのだけど。
今日はそんなことを思っている余裕もなく。
2階に上がって自室の扉を開け、パチっと電気のスイッチをつけたわたしは、すぐさまベッドにダイブした。
そしてすぐに、ウトウトと瞼が重たくなって、わたしは部屋の明かりをつけたまま深い眠りに落ちていた。
♦
『りと~~…っ!どこに行っちゃったの、わたしを置いていかないで』
よたよたと頼りない足取りの少女が不安そうなか細い声を上げる。
まっさらな白色のワンピースを着た少女は、どこかに向かって歩いているようだ。
『お前……っ!そっちに行っちゃだめだって、いつもそう言ってんだろ』
少女の後ろを、バタバタと慌てた足取りで駆け寄ってくる1人の少年の顔が、廊下の灯りに照らされる。
陶器のように透き通った色白の肌。触ったらマシュマロのように柔らかそうなピンク色に染まった小さな頬。
どこまでも完璧な彫刻のようなその顔は、その子を少年と言うにはあまりにも言い難いほど、異常に綺麗だ。
『…っあ!りといた!良かったぁ~』
『はぁ…、おれの側を離れんなって命令したばっかだろ。もうどこにも行くな、心配させるな』
心底安心しきった声を吐き出して、その少年は大切なものを優しく包み込むような手つきで、その少女を抱きしめた。
『あははっ、りと心配した?あやがいなくなってあせった?』
『………』
にこにこと笑顔を浮かべる少女を、眉をしかめて怖い顔で見つめる少年。
『───…お前、あんま調子に乗んな』
突如、冷酷な声がその少女に向けて放たれた。
先程までにこにこと嬉しそうに笑っていた少女は、すぐに顔を真っ青にさせて、恐怖からか顔を俯けた。
……その時。
『……っ、うそ嘘。本当はめっちゃ心配したし、焦りも、した……』
『……!ほんとう??』
『うん、ほんと。……怖がらせてごめんな。そんなつもりはなかったんだ』
別人かと疑うほどに角が取れて柔らかくなった声音に、少女はほっと胸を撫で下ろした。
『ふふっ、嬉しい!わたし、しあわせっ』
少年を今まで以上にぎゅっと強く抱きしめ返す少女は、満面の笑みを浮かべていた。
それはどこまでも純粋で、底しれない透明感がある。
『……おれ、お前のこと幸せにできてんの』
『うんっ。あや、りとと居れて幸せ!』
嬉しそうに笑う少女とは反対に、その少年は少しだけ泣きたそうな、苦しさを押し殺したような、そんな歪んだ表情をしていた。
♦
ピピピピッ、ピピピピッ……。
スマホのアラーム音が、遠い意識の先で微かに聞こえてくる。
わたし、今何してたんだっけ……。
飛鳥馬様に家まで送ってもらって、2人の間に過去があるのかもしれないと悩んで、部屋に着いてベッドにダイブしてそれから……。
それから、眠りに落ちちゃってたんだ。
そうだ、そうだった。
やっと思い出した。
だんだんとはっきりと覚醒していく意識の中、わたしはさっきまで見ていた夢の内容を、ぼんやりとした脳内で思い返していく。
「あの場所、確か霜蘭花の皇神居……だったような」
小さな少女は少年のことを『りと』、少年は少女のことを『お前』って言ってた。
少女の名前は……、えっと。
そこまで考えて、はっとしたわたし。背筋が冷えていく。
唇がわなわなと震えて、それが全身へと伝染していく。
───あの少女は、自分のことを『あや』って言っていた。
ああ゛、もう、どうして。
……どうして、今になってようやくあの夢を見たの。
妙にハッキリとした夢だった。
妄想でも想像でもなく、確実にあれは実際に起こった出来事をわたしに見せていた。
「あの夢の少女と少年は───確かにわたしと、飛鳥馬様、だった……」
♦
とんでもない事実が判明してから、1週間が経つ。
時の流れはあり得ないほどに速い。高校生になってから、よく思う。
「な、七瀬さん……っ。もしよかったら俺と、つつつ付き合ってください!」
この人、きっと凄く緊張してるんだろうな……。
噛み噛みな告白で悟っちゃうよ。
「ありがとう。……でも、ごめんなさい。あなたとは付き合えません」
唯一良かったと思えるのは、伊吹くんという存在がわたしの世界から消えて、こんなわたしなんかにも告白してくれた男の子たちにちゃんと“ありがとう”を言えることだ。
それ以外は、何1つ嬉しくも何ともない。
庶民生の中でもずば抜けてイケメンだと騒がれていた男の子に告白されても、わたしの心は動かない。
もう幸せに貪欲にはならないと決めたわたしの心は、そんな簡単には開くことが出来ないだろう。
金属の玩具で無理矢理にこじ開けようとしても、効かない。
それくらい、ここ数日でわたしの意思は揺るがないものになった。
「どうして……、?」
「……え?」
わたし、ごめんなさいって断ったよね。
初めて返されるその言葉に、動揺してしまう。
床に落としていた視線を成瀬くんに向ける。
「俺のどこがダメなのか教えてくれない?ねえ、なんで俺とは付き合えないの?」
……あ、これ、超面倒くさいタイプの男の子だ。
やけにプライドが高くて、まさか自分が振られるなんて微塵にも思っていなかった、的な……。
ジリジリと迫ってくる成瀬くんは、正直怖い。
控えめに言うけど、すごく怖い。
だってこんな状況、初めてだもん。
大抵の人は、わたしが告白を断れば肩を落としてすぐに去っていくのに。
「え、えっと……それは、」
「ほら、理由が出てこないんでしょ。ならいいじゃん。付き合おうよ」
ここは人通りが全くない旧校舎の踊り場で。
逃げ場ならいくらでもあるけど、走って逃げたとしても男子の足の速さには勝てないわけで。
ついには大きな手が伸びてきて、それがわたしの腕を掴もうとした。
─────…その時。
「───彩夏」
そこにいるはずのない人の声が、確かに聞こえた。
刹那、ふわっとした甘い香りに背後から包まれた。
それは今1番会いたくなかった、だけど助けを求める時に1番に頭に浮かんだ、優しい人の冷たい体温。
……ああ、どうしよう。
わたし、今、この体温を“愛しい”って思ってしまった。
普通の人間とは違う、血の通っていないような冷たい体温に、心から安堵してしまっている。
「りと、くん……っ」
夢の中で、彼に対してわたしが呼んでいた呼び名。
意識せずとも、その名が口から零れた。
背後で、飛鳥馬様が驚いたように息を呑み、目を見張る様子が伝わってくる。
「“麗仁”って呼んだら助けてあげるって言おうとしたのに、先に言われちゃあねえ……。心の準備できねぇっつうの」
そう言って、わたしの腰のあたりに両腕を巻きつける飛鳥馬様。
こつん、と顎をわたしの肩に乗せた飛鳥馬様は、すっと細めた瞳を、成瀬くんの方へ投げた。
突然の登場に、何が何だか分からずフリーズしていた成瀬くんが、はっとした表情をする。
「……ねえ、お前。その汚ねぇ手で何に触れようとしてた?」
「……っは、え?」
「だーかーら、聞いてんでしょ。誰のものに触ろうとしてたんだって!!」
穏やかそうに聞こえた声は一変、荒々しい声に変わった。
「そ、その…えっと……っ」
成瀬くんは飛鳥馬様の威圧感に耐えられなくなったのか、「すいませんでしたーー!!許してください~~っ」と尻凄みしながら反対側へと駆け出して逃げて行く。
その光景を、わたしはポカンと口を開けて見つめることしか出来ない。
この数秒間で一体何が起こった……の?
「あーやちゃん」
甘えた声が、わたしのすぐ耳元で聞こえる。
わたしを抱きしめる腕の力がさっきよりもっと強くなる。
「なん、ですか」
飛鳥馬様のことを“りとくん”と呼んでしまった手前、ちょっとだけ居心地が悪い。
距離を取ろうにも、飛鳥馬様がとんでもない力でわたしを抱きしめているから、逃げられない。
「へへ、あーやちゃんっ」
何なんだ、この方は。一体どうしちゃったんだろう。
さっきからだらしなく頬を緩めてこれはこれは幸せそうに笑っている飛鳥馬様は見たことがない。
「どう、しましたか……」
「もっかいおれの名前呼ーんで」
「それは、命令ですか。命令じゃないのなら……、」
「命令じゃないけど、皇帝の“お願い”。叶えてくれるよね」
「っ、~~~」
本当に、このお方という人はずるい……っ!
そう言ったらわたしが断れないのを知っていて、あえて巧みな言葉選びをする様子がひどく恨めしい。
……けど。
飛鳥馬様を名前呼びするのは別に嫌じゃないから、素直に従おう。
「……───りと、くん」
「なぁに、あやちゃん」
「麗仁、くん。……名前で呼んでも、無礼に当たらないのですか」
「うーん、本当だったらそうなるんだろうけど。でも、あやちゃん限定で許してあげる。てか、おれがあやちゃんにそう呼んでもらいたい」
もう、諦めよう。わたしはこの方から、飛鳥馬様から……、麗仁くんから、逃げられない。
いつまでもわたしばかりを特別扱いする麗仁くんの言動にはもう慣れたものだ。
「……わたしも、お願いしていいでしょうか」
「うん、何でも言って。おれが全部叶えたげる」
「どんなことでも?」
「うん、どんなことでも」
そうオウム返しする麗仁くんの声に、冗談の色は含まれていなかった。
わたしが豪華客船クルーズの世界一周旅行に連れて行ってと言ったらきっと叶えてしまうんだろう。
何十億円もする豪邸に住みたいと言っても、それでさえも麗仁くんは叶えてしまうんだろう。
それは、相手がわたしだから───…。
「それじゃあ、この腕を早く離してください」
「それは却下。おれでも叶えてあげられない」
その即答ぶりに、思わず笑ってしまう自分がいるのは、心に少しだけ余裕が生まれたからだろうか。
「ふふ、こんなに小さな願いなのに」
「それ以外でお願いね」
わたしを後ろから抱きすくめる麗仁くん。
この冷たい体温は、わたしみたいにいてもいなくてもどうでもいい人間を必要としてくれているのだろうか。
そうだったら嬉しいな……。
なんて思うのは今日限りだから。
麗仁くんは、わたしなんかを助けてくれた強くて優しい人。
周りの人は皆このお方を冷酷無慈悲と言うけれど、わたしにとっての麗仁くんは、もうそうではない。
わたしだけに甘い顔を見せる彼。
わたしがいくら突き放そうとも、帰りの迎えの車を毎日準備していた彼。
こうしてわざわざ学校まで足を運び、わたしを恐怖から救ってくれた彼。
初めて足を踏み入れた夜の世界で、わたしを仁科さんの手から逃れさせてくれた彼。
突然キスをしてきた彼。
わたしが自分のことを蔑んだら、それを叱って、怒ってくれた彼。
自分の身の上を、手が冷たい理由を、打ち明けてくれた彼。
伊吹くんとの別れを協力してくれた彼。
彼の体温に包まれながら、今までのことをゆっくりと振り返っていく。
ああ、やっぱり、こんなにも優しい。
こんな人の隣にいれたら、さぞ幸せだろう。
……それならなおさら、わたしは彼から離れないとね。
この街を支配する皇帝は、冷酷なんかじゃなかった。
それを知れただけで、わたしは十分幸福だ。
この街の将来が、安泰なものになるから。
「麗仁くん。……麗仁くんの方を向いたらダメですか」
「…ん、いいよ」
そっと緩められた腕の力。
わたしはくるりと体の向きを変えて、麗仁くんに向き直る。
そして、どこまでも漆黒な底しれぬ瞳を真っ直ぐに射抜いた。もう、この瞳から目を逸らすことはない。
「麗仁くん───…」
伝えよう、わたしの思いを。
そして、今度こそ永遠に、わたしは麗仁くんの前から姿を消すんだ。
存在ごと、しっかりと。
麗仁くんが不幸にならないために。
「───あなたが好きです。今まで、本当にありがとうございました」
そう言って、2つの影が重なった。
冷たい両頬に手を添えて、つま先を上げる。
そして今度はわたしから、あまい甘いキスを落とした。
重なった2つの唇は、1度だけ触れてすぐに離れていき……。
麗仁がようやく正気を取り戻した時にはもう、そこに七瀬彩夏の姿はなかった。
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