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追想
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♦
「七瀬様……っ!飛鳥馬様は大丈夫ですか」
その後、ものの数分後にけたましいサイレンの音と共に救急車の中から仁科さんが降りてきた。
「……っ、はい。でも、急がないと…っ!」
顔を真っ青にさせて仁科さんの肩を必死に掴むと、仁科さんは僅かに顔を歪めて、わたしの瞳の奥をじっと見据えた。
「七瀬様、落ち着いてください。よく頑張りましたよ、あなたのおかげで飛鳥馬様は助かります。だからもう、肩の荷を降ろしてもいいんです」
仁科さんは、もう取り乱してなどいなかった。
落ち着きのある声で、静かに先を見据えた目をして、ゆったりと構えている。
あの夜、わたしの首に刃物を当てた男と同一人物なのかと疑うほど、今の仁科さんは切なく優しい表情でわたしを諭してくれていた。
そのおかげで、わたしの乱れた呼吸も、重苦しい肩の荷も、だんだんと軽くなっていく。
「さあ、七瀬様も参りましょう。あなたも着いて来るべきお方ですから」
救急隊員の人たちに抱えられ、ストレッチャーに乗せられて救急車の中へ搬送された麗仁くんに続き、わたしもその救急車に乗せてもらった。
麗仁くんの体に沢山のチューブが繋がれ、応急処置が施されていくのをただぼんやりと見つめていることしかできない。
それが、どうしようもなく悔しくて、不甲斐なかった。
「仁科さん、……。この救急車は…、その」
「あ、やっぱ気づきましたか」
「……はい」
何に気付いたかは明確ではないけれど、きっと、そういうことだと思う。
「そうです、この救急車は、夜の世界の住民専用の物。そして、今向かっている先の病院は、飛鳥馬様が入院すると時があるかもしれないからというだけの理由で建てられた、専用病院なのです」
仁科さんの説明を聞いて、わたしはうわあ、と感銘を受ける。わたし、ここまで生きる世界が違う人のこと、好きになっちゃったんだ……。
かんっぜんにやらかした……。
でも、不思議と後悔はないの。
麗仁くんを好きになったことを、もうなかったことには出来ないの。
それくらい、わたしはこのお方に溺れてしまっている。
会っていない間も、ずっと。
むしろ、会えないからこそ麗仁くんの存在がわたしの中でとても大きなものだったんだって実感できた。
「麗仁くん、どうか目を覚まして……。先に逝っちゃうなんて、そんなのいやだよ」
そんな弱々しい声が聞こえたかどうかは分からない。
だけど、わたしが握っていた麗仁くんの手の指が、ピクリ…、と震えた気がした。
「……っ、飛鳥馬様」
隣に座る仁科さんも、その手の震えに気づいたみたいだ。
眉間にシワを作って、ずっと俯いていた状態だって仁科さんがバッと顔を上げる。
……そうだよね。仁科さんだって、きっと物凄く不安なはずだ。自分の主たる方が、今日突然にして中に撃たれたというのだから。
いつも堂々とした面持ちで、何にも恐れることはなく人間の最高点に位置しているような麗仁くんが、今、こんなにも弱りきっている。
……不安にならないはずがない。
「麗仁くん、わたしのことを守ってくれて、ありがとうございます……っ、」
───わたしは、人を不幸にすることが得意な、疫病神。
……だけど。
こんなことがあったのに、わたしは麗仁くんの側にいたいって思ってしまっている。
なんて身の程知らずな、大馬鹿者だろう。
だけど、それでもいい。
神様がわたしに数多もの矢を向けても、わたしはそれに歯向かう悪人になってみせる。
麗仁くんの所へ行きたいと強く思った時、そんな決意もしたんだ。
♦
-麗仁side-
終わりなんてないように思えた。
一体どこまで走ってきたのだろう。
もう何日も深い深い闇を彷徨っていたように思える。
「あや、ちゃん……」
いとしい子の名前を呼ぶ。
会いたい。会いたくて仕方がない。
何日も、何週間も街中をくまなく探し回ったのに、見つけられなかった。
触れるだけのキスを残して、おれの前から消えたあやちゃん。
やっと触れられたと思った瞬間、おれの幸せはどこか遠くへと消え去ってしまう。
“おれを不幸にさせてしまうから”
そんな理由で、おれから逃げ続けるその子は、何も知らない。
おれの幸せは、君の存在があってこそなんだってこと。
君の幸せの先に、幸せだと感じる瞬間の延長線上に、おれがいて欲しいって思うのは、さすがにわがままかな。
……それでも、おれだけがあやちゃんの心の中にいたいんだ。それは、独占欲に近い、おれの淡い願い。
そんなことを願ったら、君を困らせてしまうだけなのに。
おれは、君が“昔のこと”を思い出さないことを強く願って、その上で隣にいる卑怯者だ。
君が忘れてくれているから、おれは気丈に振る舞える。
“優しくて強くて、かっこいい麗仁くん”でいられる。
───本当は、そんなことないのに。
『おれの言うことが聞けねーの?おれに逆らえる権力、お前は持ち合わせてないと思うんだけど』
目を閉じれば、今でもはっきりと聞こえてくる声。
冷たくて、残酷な言葉たち。
『───あ、言っとくけどお前、おれに命握られてるから』
『だからたーっぷり、おれを満足させてね』
傍若無人さが隠しきれていない、幼き少年の声。
───最低だったんだ、おれは。
あやちゃんに向かって、最低なことばかりした。
愛を知らなかったから、人に優しく接する方法も知らない。
そんな言い訳は、もう聞き飽きた。
幼少期時代、おれとあやちゃんは主従関係にあった。
『ねー、お前さ、なんでいっつも泣いてるわけ?不愉快なんだけど』
『…っひっく、うぅ~~、ごめんなさぃ』
『ほら、早く泣き止めって。慰めてなんかやらねぇからな』
白い花がらのワンピースを着たあやちゃんが、蹲って泣いている。
それなのにおれは、そんな言葉ばかり投げつけて。
……あやちゃんを余計、怖がらせた。
好きが意地悪に繋がって、自分勝手に振る舞って。
あの頃のおれは、本当に情けなかった。幼すぎた。
『麗仁、数日後にお前の所に女の子がやって来る。私が直々に指名した少女だ。そしてその子はいずれ───お前の婚約者となる』
いつもはおれに何の興味もない父上が、おれの部屋を訪れてそう言い放った時は驚いた。
それと同時に、随分と強引で、あんまりだと思った。
その少女とやらに会うことにおれは全く気乗りしなかった。むしろ、その時間が心底面倒だとも思っていた。
……だけど。
あの日、初めてその少女を見た時。
おれの心は、一瞬でその子のものとなった。
赤いチェック柄のスカートを履いて、上はフリルがふんだんにあしらわれた白の洋服。
おれの前で、怯え続けるその子がすごく、凄く可愛かった。大きな瞳には涙が浮かんで、今すぐに溢れてきそうなほど。
それを見て、おれがこの子を泣かせている状況に、柄にもなく心臓が震えた。
つまり、興奮したんだ。
色白の肌は夜闇の中美しく映えて、長い黒髪は部屋の照明に照らされて艶やかに煌めき、瞳を伏せた少女の長い睫毛が幻想的で……。
おれはその全てに、一瞬で恋に落ちた。
『おれが直々にこの霜蘭花に呼んであげたのに、いつまで口を噤んで黙っている気?』
その子の反応が気になって、おれはわざと脅かすようなことを言う。
『───っ、』
少女の肩がビクリと震えた。
おれの一言一句に、大げさに反応する彼女がかわいい。
皇帝というおれを前にして、新鮮な反応を見せてくれる彼女をもっと見ていたい。
当時まだ6歳だったおれは、1つ年下だという少女に釘付けだった。
おれの年齢は普通に考えれば小学1年生で、学校にも行き始めている頃だったけれど……。
おれは両親からのスパルタ教育で小学校6年間で習う全てのことを叩き込まれていた。
だからこれからは、中学生の内容をして、それが終れば高校、大学……。
こんな調子だから、学校にも通わせてもらえない。
おれが幼い頃は、まだ両親の目もあったから太陽が昇った明るい世界を見たことさえなかった。
『麗仁くぅーん、今日はお姉さんたちと何して遊ぼっか?』
『麗仁くん、今日もかっこいいね~。ワタシ、好きになっちゃうかも~』
『ちょっとー!抜け駆けはずるいわよ!』
……吐き気がした。
この女たちにも、自分の子供の側にこんな色女ばかりを置く両親にも。……そして、抵抗しなかった自分にも死ぬほど吐き気がした。嫌なことは嫌だって、面倒くさがらずに、最初からあきらめずに言えばよかったのに。
何が、おれが寂しくならないように、だ。
そんなのただの言い訳じゃねぇか。
育児放棄をしているってことに、あの人たちは気づいていない。
自分たちの行いこそが正しいと洗脳されたように、馬鹿みたいに信じ切っている。
女の愛に溺れているだの、それで寂しさを紛らわしているだの。
そんなウワサ、聞き飽きたんだよ。
真実性を疑われるようなウワサにこそ、尾ひれはついていくものだ。
それは、ウワサをする奴らにとって価値のある話題だから。
東ノ街の皇帝なんざの話は、みんな興味があるのだろう。
『おれといっしょの空間にいるの、そんなに怖い?』
自嘲気味な笑みと共にそんな質問をする。
『……これからおれと、外に出るよ』
『………っ、え?』
両親に愛されていないおれは、誰からも愛されない。
だからきっとこの子も、おれのことを愛してはくれないだろう。母親譲りのきれーな顔とは大違いなおれの醜さを知ったら、きっとこの子も離れて行ってしまうのだろう。
……どうせおれは、独りがお似合いなんだ。
だから、期待はしないさ。
ただ、ちょっと興味が湧いたというだけ。
だけどもう、恋に落ちてしまった時点で、そんな強がりは許されなかった。
誰もが崇拝する皇帝の住まう皇神居。
それは、おれのためだけに作られた、おれを閉じ込めておくためのただの“檻”。
何の幸せもない冷たい監獄の中で、今日だけはおれは独りじゃなかった。
おれの隣には、あやちゃんがいてくれた───。
『………っ、』
おれが促した後も、あやちゃんは一向に動こうとしない。
それが少し不服で、玉座からゆっくりと腰を上げたおれは、あやちゃんの元へと歩いて行く。
『ねぇ……、いつまで待たせんの?お前は命令されないと、動けないタチ?』
『めんどくせぇ……』
ただ、格好つけたかったんだと思う。
顎を柔く掴んで、おれの方を向かせる。
瞬間、おれはその綺麗な茶色の瞳に吸い込まれそうになった。
『っ、……っ!?』
あやちゃんのビックリした顔がすぐそこにある。
そんなあやちゃんをじっと見据えて、おれは大広間の観衆へと目を向ける。
正確に言えば、おれの護衛や配下たちの方へと。
『今日からこの女がおれの最愛のひと、ね』
そんなセリフを、言い放った。
きっと、その場で1番驚いていたのは言うまでもなくあやちゃんだった。
『へ……、』
あやちゃんの小さな声が聞こえたのを境に、大広間にいた人間たちが皆交互に顔を見合わせ、そこに驚愕の色の浮かべている。
『あ、飛鳥馬様……。今何とおっしゃいましたか』
『え?だーかーら、こいつが今日からおれの最愛のひとだって言ったの』
配下の中の1人が手を挙げて質問をする。
『ですが、……』
食い下がる配下にイライラが募る。
『なに?まだなんかあるわけ』
それに丁寧に答えてあげる優しいおれ。
……小さい頃は、そんな横暴極まりないことを思っていた。まるで自分が特別であるかのような態度ばかり取っていた。
周りの人間を自分と対等に見たことがなかった。
そんなおれに、彼女はなんて言ったと思うか。
迷いなき真っ直ぐな瞳で、こう言ったんだ。
『どうして、そんな態度が取れるのですか……っ。あなたは確かに皇帝だけど、それでもその権力を傘に使ってえらそーな態度を取るのは間違っていると思います!!』
あやちゃんの手はブルブルと震えていた。
皇帝に歯向かうなんて、そんなことができる人間はそうそういない。
そして、あやちゃんに言われた言葉を聞いても、不思議と全く嫌な気はしなかった。
むしろ、確かにそうだな、とどこか納得していた。
『へえ。君、言うね』
おれが少し声のトーンを落として、目をすっと細めただけで、蛇に睨まれた蛙のように身を縮こまらせてしまうあやちゃん。
そんな反応をもっと見たいって思うのは、鬼畜だろうか。
おれを叱るあやちゃんを見て、もっと相手に興味が湧いた。この子は、他の誰とも違う強さがある。
……この子なら、おれの醜いところを知っても前からいなくなるのではなく、今みたいに叱ってくれるんじゃないか。
マズいと分かっているのに、あやちゃんへの期待はますます大きくなっていく。
『ねえ、七瀬サン。おれ、君のことなんて呼んだらいい?』
『…っえ、えっと……。飛鳥馬様が、決めた呼び名で…』
その“様”が気に入らない。おれのことを名字で呼ぶことも。
だけど、今おれがあやちゃんに名前で呼んでと言っても、きっと困らせてしまうだけだろうから、言わない。
『んー、じゃあ“彩夏”って呼ぶ』
『……!』
『なに?』
おれがあやちゃんの下の名前を呼んだ時、すごくビックリされたからおれも気になった。
『いや、その違くて……飛鳥馬様は、わたしの名前、知っていたんだなぁって』
その顔が、綻ぶ表情が、少しだけ嬉しそうで。
『……そんなの当たり前でしょ』
その時だけは、なぜか素直になれた。
あやちゃんはそんなおれの言葉により一層嬉しそうな顔をする。そんな顔を見られるのなら、もっと本音を打ち明けようか。
『じゃ、じゃあ……わたしもっ、りとくんって呼びます!』
……おれのことを、名前で呼んでほしいっていう願いを。
『は、……?』
『…っぁ、ごめんなさい……。出しゃばりすぎました』
まさか、おれが頼む前に相手がその願いを叶えてくれるとは思わないだろ。
『───おれはおれの名前がきらいだ』
打ち明けたい。己の心の内を。
その言葉に、あやちゃんの顔が真っ青になっていく。
違う、そんな顔をさせたいんじゃない……。聞いてほしいんだ、おれのこと。
『妙に綺麗で、よそよそしくて、おれとは似ても似つかないこの“麗仁”って名前が大キライだった』
……そう、きらい“だった”。
『……だけどね、お前が呼んでくれる名前は、キライじゃないよ』
『……!』
色白の頬がほんのりとピンク色に染まる。
大きくてくりくりとした瞳が、ゆっくりと見開かれていく。どこまでも透き通った薄茶色に、呑まれてしまいそうだった。
『わ、わたしは……っ、りとくんの名前、好きです!』
『…え、?』
今度がおれが目をまん丸くする番だった。
『“麗”しく“仁”徳のあるお方、それがりとくん。りとくんにとっても似合っています!』
それを聞いた時、おれがどんなに嬉しかったか君は知っているだろうか。
どんなに胸が震えたか、気づいているのだろうか。
いつも無自覚におれを煽る君が愛おしくてたまらない。
ずっとおれの側に置いておきたい。
……おれのことを、好きになって欲しい。
おれはいつまでも君のことだけを見ているから、君もおれだけを見ていて。
そんなことを願った、幼きあの頃。
♦
どのくらい時間が経ったか分からない。
ただ、麗仁くんの手術が終わるのを待つしかなかったこの時間は、地獄のように長く思えた。
「七瀬様、大丈夫ですよ。あの方はそんな簡単にくたばるような人間ではございませんので」
わたしを安心させるための言葉は、自分自身に言い聞かせているようにも聞こえた。
「……っ、はい、」
仁科さんはそんなわたしに優しく微笑みを返す。
仁科さんは、相手が自分の敵じゃないと分かれば、こんなにも親切に接することが出来る、本当は温かい人。
──それから、約2時間が経過した。
もうすっかりと深夜を周り、夜が更けてきた頃。
ようやく、オペ室の「手術中」の赤いランプが静かに消えた。
その大きな自動開閉扉から麗仁くんの執刀医がやって来る。
その光景をわたしはどこかぼんやりとした面持ちで見つめていた。はっきりと定まらなかった焦点は、執刀医が目の前に来て足を止めたタイミングで、正常になった。
「───…手術は無事に成功いたしました。ですがまだ意識が戻っておらず、安心できる状態ではないので、これから安静な状態で病室待機を願います」
はい、分かりました。ありがとうございました、と丁寧に返事を返すのは隣の仁科さんで。
わたしはただ、その先生の話を聞いていることしか出来なかった。
麗仁くんの腕に沢山の点滴の管が繋がれて、酸素マスクを付けられている姿に心が痛む。
やけに広すぎる病室の一角で、わたしは麗仁くんが眠るベッド脇の椅子に腰を下ろしていた。
その隣には、当然仁科さんが立っている。
「麗仁くん……、お願いだから早く目を覚まして」
縋るように無理難題を押し付けてしまう。
そんな自分が不甲斐ない。
麗仁くんは今も1人闘っているのに、わたしだけ何も出来てあげられないこの状況が辛い。
……自分の力のなさを、実感するそんな瞬間。
時折麗仁くんの瞼がピクッと震えるのに、本人は一向に目を覚ます気配がない。
どんどん不安になってくる。
このまま麗仁くんがずっと目を覚まさなかったらどうしようって……。
そうなったらわたし、もう2度と自分を許せない気がする。いっそ麗仁くんの後を追って死んでしまおうか───なんて恐ろしいことを考えている自分がいる。
「ん、……」
そんな中、静まりきった病室に麗仁くんの声が漏れたから。堪えていた涙が、堰を切ったように一気に溢れ出した。
「麗仁、くん……っ!」
「飛鳥馬様──!」
わたしと仁科さんの切羽詰まった声が重なる。
「んん、……うるさ」
ゆっくりと瞼を開けて、虚ろな瞳で真っ白な天井を見つめる麗仁くんが放った最初の言葉。
そんな言葉でも、声を聞けただけで嬉しくて。
わたしは体に駆け巡る衝動のままに、大好きな人に抱きついた。
「うわ……っ、て、あやちゃん?」
「……っぅ、う~~りとくんだ、りとくんが目を覚ましたぁ……っ」
涙がとめどなく溢れて、ベッドのシーツにどんどんシミを作っていく。
麗仁くんはそんなわたしの背中に腕を回して、抱きしめ返してくれた。
「なに泣いてんの。おれが聞きたいのはあやちゃんの泣き声じゃないんだけど」
そんなの知らない……っ。
わたしは今、心がいっぱいいっぱいなんだ。
「うぅ~、麗仁くんのいじわる!何も言わずに泣かせてくれてもいいのにぃ~~」
いつもの敬語は悲しさからか嬉しさからか取れてしまって、小さな子供のように泣きじゃくる。
「はは、ごめん。おれが目ぇ覚まして安心した?」
「うん……っ、した。すごく、」
もう、自分の気持ちにウソはつかないって決めた。
大切な人の目の前なら、なおさら。
「あやちゃん、“お願いだから早く目を覚まして~~”とか何とか言ってたね。あれ、かわいかったよ」
「………っえ?」
それって……まだ麗仁くんが目を覚まさない時に、わたしが言った……。
そこではっとする。
「り、麗仁くん……っ!起きてたならなんですぐに返事してくれなかったの!」
「あ、やば」
抱きしめる腕の力を緩めて、麗仁くんの表情を覗えば。
そこには意地悪く唇の片端を上げる麗仁くんがいて。
「……~~っわ、わたしがどれだけ心配したと思ってるの」
力なく項垂れたわたしの掠れた声に、麗仁くんの優しい声が被さるようにして重なって。
「ごめんね、あやちゃん。返事したくても、出来なかった。ずっと暗闇を彷徨っているみたいだった。……だけど、あやちゃんがおれをそこから引きずり上げてくれた」
眉を下げて、申し訳無さそうにそう言われれば、わたしはもうこの人を許すことしか出来ない。
「そう、だったんですか……?」
ここで一気に我に返り、敬語に戻ってしまう。麗仁くんが「うん」と力なく頷く。
そうだよ、麗仁くんが返事を返さなかったのはわざとじゃないのに。
朦朧とした意識の中を彷徨って、わたしの声だけを頼りに目を覚ましてくれたんだ。
「麗仁くん、おかえりなさい」
その言葉に、麗仁くんは目を見開いて、すぐにくしゃっとした優しい笑顔になった。
「──うん、ただいま。あやちゃん」
大きくてひんやりとした手が、わたしの頭を撫でる。
慈しむかのように、大事に、愛されてるって分かる優しい撫で方。
もうわたしは、この方の側を一生離れたくない。
──今夜のようなことが、また起こってしまうとしても。
守られるばかりの存在じゃなく、わたしは麗仁くんの力になりたい。
互いの熱い視線が絡まる。
自然と顔を近づけていく。唇が触れる、その寸前で───
「真人、ちょっと出てってくれない」
麗仁くんの視線が、仁科さんに向けられた。
「かしこまりました、飛鳥馬様」
どこまでも忠実なその人は、言われるままに病室を後にする。
「あーやちゃん、おれが目覚まさなくて寂しかった?」
そんなことを聞いてくるあたり、麗仁くんは意地悪だ。わたしが何て答えるか分かった上で、聞いてくるのだから。
「……寂しかったです。凄く」
素直にそう言えば、驚いた顔をした後麗仁くんはまた幸せそうに顔を綻ばせた。
そして、2人の影が重なる───。
「…っん、」
形を確かめる暇もないくらいの触れるだけのキス。
触れた唇の体温は確かに熱くて、麗仁くんが生きてるって実感できる。
離れたかと思うと、またすぐに重ねられる。
2回目のキスは、少し長めの深いキスだった。
「……っ、ん、んぁ」
ヘンな声が出てしまう。それが恥ずかしくて、キスから逃れようとするけれど、麗仁くんがわたしの後頭部に手を添えているから、離れられない。
「声、かわいーね。もっと聞かせて」
どんどん深くなる口づけ。
優しく柔い力で唇を開けさせられて、そこに熱い舌が侵入してくる。
それは口内で甘く交わって、互いの熱を欲するように絡み合う。
いつの間にかわたしがベッドに押し倒されている形で、わたしの上に覆いかぶさる麗仁くん。
「…っはぅ、り、りとくんそこだめ……っ」
服の中に、麗仁くんの冷たい手が侵入して、背中を優しくなぞった。
その瞬間、ぞくぞくっと震えが走るわたしの体。
だけど、その震えは全然嫌なものじゃなくて、気持ち良すぎるからやめて欲しいというだけ。
「ここなぞっただけで震えちゃうとか、あやちゃんは感じやすいんだね」
「……っぁ、んん」
キスは嵐のように降り注いでくる。
それだけでいっぱいいっぱいだというのに、麗仁くんの手は今度は下の太ももの方に下りていき……。
際どい所をそっと撫でる手付きがなんていうか、とてもいやらしくて。
恥ずかしさのせいか、生理的な涙が頬を伝う。
「あやちゃん、泣くほど気持ちいいの?……だったら、気持ちいいこともっとしよーね」
「っん、麗仁、くん……」
初めて人の体温を知った、静かな夜。
大好きな人の低い体温に包まれて、わたしは幸せの中で眠りに落ちた。
─────
────
「───…あやちゃん、大好きだよ」
だから、麗仁くんがそんな甘い告白をしてくれているなんてつゆ知らず、その夜は麗仁くんと共に日常を過ごすという静かな夢を見た。
「七瀬様……っ!飛鳥馬様は大丈夫ですか」
その後、ものの数分後にけたましいサイレンの音と共に救急車の中から仁科さんが降りてきた。
「……っ、はい。でも、急がないと…っ!」
顔を真っ青にさせて仁科さんの肩を必死に掴むと、仁科さんは僅かに顔を歪めて、わたしの瞳の奥をじっと見据えた。
「七瀬様、落ち着いてください。よく頑張りましたよ、あなたのおかげで飛鳥馬様は助かります。だからもう、肩の荷を降ろしてもいいんです」
仁科さんは、もう取り乱してなどいなかった。
落ち着きのある声で、静かに先を見据えた目をして、ゆったりと構えている。
あの夜、わたしの首に刃物を当てた男と同一人物なのかと疑うほど、今の仁科さんは切なく優しい表情でわたしを諭してくれていた。
そのおかげで、わたしの乱れた呼吸も、重苦しい肩の荷も、だんだんと軽くなっていく。
「さあ、七瀬様も参りましょう。あなたも着いて来るべきお方ですから」
救急隊員の人たちに抱えられ、ストレッチャーに乗せられて救急車の中へ搬送された麗仁くんに続き、わたしもその救急車に乗せてもらった。
麗仁くんの体に沢山のチューブが繋がれ、応急処置が施されていくのをただぼんやりと見つめていることしかできない。
それが、どうしようもなく悔しくて、不甲斐なかった。
「仁科さん、……。この救急車は…、その」
「あ、やっぱ気づきましたか」
「……はい」
何に気付いたかは明確ではないけれど、きっと、そういうことだと思う。
「そうです、この救急車は、夜の世界の住民専用の物。そして、今向かっている先の病院は、飛鳥馬様が入院すると時があるかもしれないからというだけの理由で建てられた、専用病院なのです」
仁科さんの説明を聞いて、わたしはうわあ、と感銘を受ける。わたし、ここまで生きる世界が違う人のこと、好きになっちゃったんだ……。
かんっぜんにやらかした……。
でも、不思議と後悔はないの。
麗仁くんを好きになったことを、もうなかったことには出来ないの。
それくらい、わたしはこのお方に溺れてしまっている。
会っていない間も、ずっと。
むしろ、会えないからこそ麗仁くんの存在がわたしの中でとても大きなものだったんだって実感できた。
「麗仁くん、どうか目を覚まして……。先に逝っちゃうなんて、そんなのいやだよ」
そんな弱々しい声が聞こえたかどうかは分からない。
だけど、わたしが握っていた麗仁くんの手の指が、ピクリ…、と震えた気がした。
「……っ、飛鳥馬様」
隣に座る仁科さんも、その手の震えに気づいたみたいだ。
眉間にシワを作って、ずっと俯いていた状態だって仁科さんがバッと顔を上げる。
……そうだよね。仁科さんだって、きっと物凄く不安なはずだ。自分の主たる方が、今日突然にして中に撃たれたというのだから。
いつも堂々とした面持ちで、何にも恐れることはなく人間の最高点に位置しているような麗仁くんが、今、こんなにも弱りきっている。
……不安にならないはずがない。
「麗仁くん、わたしのことを守ってくれて、ありがとうございます……っ、」
───わたしは、人を不幸にすることが得意な、疫病神。
……だけど。
こんなことがあったのに、わたしは麗仁くんの側にいたいって思ってしまっている。
なんて身の程知らずな、大馬鹿者だろう。
だけど、それでもいい。
神様がわたしに数多もの矢を向けても、わたしはそれに歯向かう悪人になってみせる。
麗仁くんの所へ行きたいと強く思った時、そんな決意もしたんだ。
♦
-麗仁side-
終わりなんてないように思えた。
一体どこまで走ってきたのだろう。
もう何日も深い深い闇を彷徨っていたように思える。
「あや、ちゃん……」
いとしい子の名前を呼ぶ。
会いたい。会いたくて仕方がない。
何日も、何週間も街中をくまなく探し回ったのに、見つけられなかった。
触れるだけのキスを残して、おれの前から消えたあやちゃん。
やっと触れられたと思った瞬間、おれの幸せはどこか遠くへと消え去ってしまう。
“おれを不幸にさせてしまうから”
そんな理由で、おれから逃げ続けるその子は、何も知らない。
おれの幸せは、君の存在があってこそなんだってこと。
君の幸せの先に、幸せだと感じる瞬間の延長線上に、おれがいて欲しいって思うのは、さすがにわがままかな。
……それでも、おれだけがあやちゃんの心の中にいたいんだ。それは、独占欲に近い、おれの淡い願い。
そんなことを願ったら、君を困らせてしまうだけなのに。
おれは、君が“昔のこと”を思い出さないことを強く願って、その上で隣にいる卑怯者だ。
君が忘れてくれているから、おれは気丈に振る舞える。
“優しくて強くて、かっこいい麗仁くん”でいられる。
───本当は、そんなことないのに。
『おれの言うことが聞けねーの?おれに逆らえる権力、お前は持ち合わせてないと思うんだけど』
目を閉じれば、今でもはっきりと聞こえてくる声。
冷たくて、残酷な言葉たち。
『───あ、言っとくけどお前、おれに命握られてるから』
『だからたーっぷり、おれを満足させてね』
傍若無人さが隠しきれていない、幼き少年の声。
───最低だったんだ、おれは。
あやちゃんに向かって、最低なことばかりした。
愛を知らなかったから、人に優しく接する方法も知らない。
そんな言い訳は、もう聞き飽きた。
幼少期時代、おれとあやちゃんは主従関係にあった。
『ねー、お前さ、なんでいっつも泣いてるわけ?不愉快なんだけど』
『…っひっく、うぅ~~、ごめんなさぃ』
『ほら、早く泣き止めって。慰めてなんかやらねぇからな』
白い花がらのワンピースを着たあやちゃんが、蹲って泣いている。
それなのにおれは、そんな言葉ばかり投げつけて。
……あやちゃんを余計、怖がらせた。
好きが意地悪に繋がって、自分勝手に振る舞って。
あの頃のおれは、本当に情けなかった。幼すぎた。
『麗仁、数日後にお前の所に女の子がやって来る。私が直々に指名した少女だ。そしてその子はいずれ───お前の婚約者となる』
いつもはおれに何の興味もない父上が、おれの部屋を訪れてそう言い放った時は驚いた。
それと同時に、随分と強引で、あんまりだと思った。
その少女とやらに会うことにおれは全く気乗りしなかった。むしろ、その時間が心底面倒だとも思っていた。
……だけど。
あの日、初めてその少女を見た時。
おれの心は、一瞬でその子のものとなった。
赤いチェック柄のスカートを履いて、上はフリルがふんだんにあしらわれた白の洋服。
おれの前で、怯え続けるその子がすごく、凄く可愛かった。大きな瞳には涙が浮かんで、今すぐに溢れてきそうなほど。
それを見て、おれがこの子を泣かせている状況に、柄にもなく心臓が震えた。
つまり、興奮したんだ。
色白の肌は夜闇の中美しく映えて、長い黒髪は部屋の照明に照らされて艶やかに煌めき、瞳を伏せた少女の長い睫毛が幻想的で……。
おれはその全てに、一瞬で恋に落ちた。
『おれが直々にこの霜蘭花に呼んであげたのに、いつまで口を噤んで黙っている気?』
その子の反応が気になって、おれはわざと脅かすようなことを言う。
『───っ、』
少女の肩がビクリと震えた。
おれの一言一句に、大げさに反応する彼女がかわいい。
皇帝というおれを前にして、新鮮な反応を見せてくれる彼女をもっと見ていたい。
当時まだ6歳だったおれは、1つ年下だという少女に釘付けだった。
おれの年齢は普通に考えれば小学1年生で、学校にも行き始めている頃だったけれど……。
おれは両親からのスパルタ教育で小学校6年間で習う全てのことを叩き込まれていた。
だからこれからは、中学生の内容をして、それが終れば高校、大学……。
こんな調子だから、学校にも通わせてもらえない。
おれが幼い頃は、まだ両親の目もあったから太陽が昇った明るい世界を見たことさえなかった。
『麗仁くぅーん、今日はお姉さんたちと何して遊ぼっか?』
『麗仁くん、今日もかっこいいね~。ワタシ、好きになっちゃうかも~』
『ちょっとー!抜け駆けはずるいわよ!』
……吐き気がした。
この女たちにも、自分の子供の側にこんな色女ばかりを置く両親にも。……そして、抵抗しなかった自分にも死ぬほど吐き気がした。嫌なことは嫌だって、面倒くさがらずに、最初からあきらめずに言えばよかったのに。
何が、おれが寂しくならないように、だ。
そんなのただの言い訳じゃねぇか。
育児放棄をしているってことに、あの人たちは気づいていない。
自分たちの行いこそが正しいと洗脳されたように、馬鹿みたいに信じ切っている。
女の愛に溺れているだの、それで寂しさを紛らわしているだの。
そんなウワサ、聞き飽きたんだよ。
真実性を疑われるようなウワサにこそ、尾ひれはついていくものだ。
それは、ウワサをする奴らにとって価値のある話題だから。
東ノ街の皇帝なんざの話は、みんな興味があるのだろう。
『おれといっしょの空間にいるの、そんなに怖い?』
自嘲気味な笑みと共にそんな質問をする。
『……これからおれと、外に出るよ』
『………っ、え?』
両親に愛されていないおれは、誰からも愛されない。
だからきっとこの子も、おれのことを愛してはくれないだろう。母親譲りのきれーな顔とは大違いなおれの醜さを知ったら、きっとこの子も離れて行ってしまうのだろう。
……どうせおれは、独りがお似合いなんだ。
だから、期待はしないさ。
ただ、ちょっと興味が湧いたというだけ。
だけどもう、恋に落ちてしまった時点で、そんな強がりは許されなかった。
誰もが崇拝する皇帝の住まう皇神居。
それは、おれのためだけに作られた、おれを閉じ込めておくためのただの“檻”。
何の幸せもない冷たい監獄の中で、今日だけはおれは独りじゃなかった。
おれの隣には、あやちゃんがいてくれた───。
『………っ、』
おれが促した後も、あやちゃんは一向に動こうとしない。
それが少し不服で、玉座からゆっくりと腰を上げたおれは、あやちゃんの元へと歩いて行く。
『ねぇ……、いつまで待たせんの?お前は命令されないと、動けないタチ?』
『めんどくせぇ……』
ただ、格好つけたかったんだと思う。
顎を柔く掴んで、おれの方を向かせる。
瞬間、おれはその綺麗な茶色の瞳に吸い込まれそうになった。
『っ、……っ!?』
あやちゃんのビックリした顔がすぐそこにある。
そんなあやちゃんをじっと見据えて、おれは大広間の観衆へと目を向ける。
正確に言えば、おれの護衛や配下たちの方へと。
『今日からこの女がおれの最愛のひと、ね』
そんなセリフを、言い放った。
きっと、その場で1番驚いていたのは言うまでもなくあやちゃんだった。
『へ……、』
あやちゃんの小さな声が聞こえたのを境に、大広間にいた人間たちが皆交互に顔を見合わせ、そこに驚愕の色の浮かべている。
『あ、飛鳥馬様……。今何とおっしゃいましたか』
『え?だーかーら、こいつが今日からおれの最愛のひとだって言ったの』
配下の中の1人が手を挙げて質問をする。
『ですが、……』
食い下がる配下にイライラが募る。
『なに?まだなんかあるわけ』
それに丁寧に答えてあげる優しいおれ。
……小さい頃は、そんな横暴極まりないことを思っていた。まるで自分が特別であるかのような態度ばかり取っていた。
周りの人間を自分と対等に見たことがなかった。
そんなおれに、彼女はなんて言ったと思うか。
迷いなき真っ直ぐな瞳で、こう言ったんだ。
『どうして、そんな態度が取れるのですか……っ。あなたは確かに皇帝だけど、それでもその権力を傘に使ってえらそーな態度を取るのは間違っていると思います!!』
あやちゃんの手はブルブルと震えていた。
皇帝に歯向かうなんて、そんなことができる人間はそうそういない。
そして、あやちゃんに言われた言葉を聞いても、不思議と全く嫌な気はしなかった。
むしろ、確かにそうだな、とどこか納得していた。
『へえ。君、言うね』
おれが少し声のトーンを落として、目をすっと細めただけで、蛇に睨まれた蛙のように身を縮こまらせてしまうあやちゃん。
そんな反応をもっと見たいって思うのは、鬼畜だろうか。
おれを叱るあやちゃんを見て、もっと相手に興味が湧いた。この子は、他の誰とも違う強さがある。
……この子なら、おれの醜いところを知っても前からいなくなるのではなく、今みたいに叱ってくれるんじゃないか。
マズいと分かっているのに、あやちゃんへの期待はますます大きくなっていく。
『ねえ、七瀬サン。おれ、君のことなんて呼んだらいい?』
『…っえ、えっと……。飛鳥馬様が、決めた呼び名で…』
その“様”が気に入らない。おれのことを名字で呼ぶことも。
だけど、今おれがあやちゃんに名前で呼んでと言っても、きっと困らせてしまうだけだろうから、言わない。
『んー、じゃあ“彩夏”って呼ぶ』
『……!』
『なに?』
おれがあやちゃんの下の名前を呼んだ時、すごくビックリされたからおれも気になった。
『いや、その違くて……飛鳥馬様は、わたしの名前、知っていたんだなぁって』
その顔が、綻ぶ表情が、少しだけ嬉しそうで。
『……そんなの当たり前でしょ』
その時だけは、なぜか素直になれた。
あやちゃんはそんなおれの言葉により一層嬉しそうな顔をする。そんな顔を見られるのなら、もっと本音を打ち明けようか。
『じゃ、じゃあ……わたしもっ、りとくんって呼びます!』
……おれのことを、名前で呼んでほしいっていう願いを。
『は、……?』
『…っぁ、ごめんなさい……。出しゃばりすぎました』
まさか、おれが頼む前に相手がその願いを叶えてくれるとは思わないだろ。
『───おれはおれの名前がきらいだ』
打ち明けたい。己の心の内を。
その言葉に、あやちゃんの顔が真っ青になっていく。
違う、そんな顔をさせたいんじゃない……。聞いてほしいんだ、おれのこと。
『妙に綺麗で、よそよそしくて、おれとは似ても似つかないこの“麗仁”って名前が大キライだった』
……そう、きらい“だった”。
『……だけどね、お前が呼んでくれる名前は、キライじゃないよ』
『……!』
色白の頬がほんのりとピンク色に染まる。
大きくてくりくりとした瞳が、ゆっくりと見開かれていく。どこまでも透き通った薄茶色に、呑まれてしまいそうだった。
『わ、わたしは……っ、りとくんの名前、好きです!』
『…え、?』
今度がおれが目をまん丸くする番だった。
『“麗”しく“仁”徳のあるお方、それがりとくん。りとくんにとっても似合っています!』
それを聞いた時、おれがどんなに嬉しかったか君は知っているだろうか。
どんなに胸が震えたか、気づいているのだろうか。
いつも無自覚におれを煽る君が愛おしくてたまらない。
ずっとおれの側に置いておきたい。
……おれのことを、好きになって欲しい。
おれはいつまでも君のことだけを見ているから、君もおれだけを見ていて。
そんなことを願った、幼きあの頃。
♦
どのくらい時間が経ったか分からない。
ただ、麗仁くんの手術が終わるのを待つしかなかったこの時間は、地獄のように長く思えた。
「七瀬様、大丈夫ですよ。あの方はそんな簡単にくたばるような人間ではございませんので」
わたしを安心させるための言葉は、自分自身に言い聞かせているようにも聞こえた。
「……っ、はい、」
仁科さんはそんなわたしに優しく微笑みを返す。
仁科さんは、相手が自分の敵じゃないと分かれば、こんなにも親切に接することが出来る、本当は温かい人。
──それから、約2時間が経過した。
もうすっかりと深夜を周り、夜が更けてきた頃。
ようやく、オペ室の「手術中」の赤いランプが静かに消えた。
その大きな自動開閉扉から麗仁くんの執刀医がやって来る。
その光景をわたしはどこかぼんやりとした面持ちで見つめていた。はっきりと定まらなかった焦点は、執刀医が目の前に来て足を止めたタイミングで、正常になった。
「───…手術は無事に成功いたしました。ですがまだ意識が戻っておらず、安心できる状態ではないので、これから安静な状態で病室待機を願います」
はい、分かりました。ありがとうございました、と丁寧に返事を返すのは隣の仁科さんで。
わたしはただ、その先生の話を聞いていることしか出来なかった。
麗仁くんの腕に沢山の点滴の管が繋がれて、酸素マスクを付けられている姿に心が痛む。
やけに広すぎる病室の一角で、わたしは麗仁くんが眠るベッド脇の椅子に腰を下ろしていた。
その隣には、当然仁科さんが立っている。
「麗仁くん……、お願いだから早く目を覚まして」
縋るように無理難題を押し付けてしまう。
そんな自分が不甲斐ない。
麗仁くんは今も1人闘っているのに、わたしだけ何も出来てあげられないこの状況が辛い。
……自分の力のなさを、実感するそんな瞬間。
時折麗仁くんの瞼がピクッと震えるのに、本人は一向に目を覚ます気配がない。
どんどん不安になってくる。
このまま麗仁くんがずっと目を覚まさなかったらどうしようって……。
そうなったらわたし、もう2度と自分を許せない気がする。いっそ麗仁くんの後を追って死んでしまおうか───なんて恐ろしいことを考えている自分がいる。
「ん、……」
そんな中、静まりきった病室に麗仁くんの声が漏れたから。堪えていた涙が、堰を切ったように一気に溢れ出した。
「麗仁、くん……っ!」
「飛鳥馬様──!」
わたしと仁科さんの切羽詰まった声が重なる。
「んん、……うるさ」
ゆっくりと瞼を開けて、虚ろな瞳で真っ白な天井を見つめる麗仁くんが放った最初の言葉。
そんな言葉でも、声を聞けただけで嬉しくて。
わたしは体に駆け巡る衝動のままに、大好きな人に抱きついた。
「うわ……っ、て、あやちゃん?」
「……っぅ、う~~りとくんだ、りとくんが目を覚ましたぁ……っ」
涙がとめどなく溢れて、ベッドのシーツにどんどんシミを作っていく。
麗仁くんはそんなわたしの背中に腕を回して、抱きしめ返してくれた。
「なに泣いてんの。おれが聞きたいのはあやちゃんの泣き声じゃないんだけど」
そんなの知らない……っ。
わたしは今、心がいっぱいいっぱいなんだ。
「うぅ~、麗仁くんのいじわる!何も言わずに泣かせてくれてもいいのにぃ~~」
いつもの敬語は悲しさからか嬉しさからか取れてしまって、小さな子供のように泣きじゃくる。
「はは、ごめん。おれが目ぇ覚まして安心した?」
「うん……っ、した。すごく、」
もう、自分の気持ちにウソはつかないって決めた。
大切な人の目の前なら、なおさら。
「あやちゃん、“お願いだから早く目を覚まして~~”とか何とか言ってたね。あれ、かわいかったよ」
「………っえ?」
それって……まだ麗仁くんが目を覚まさない時に、わたしが言った……。
そこではっとする。
「り、麗仁くん……っ!起きてたならなんですぐに返事してくれなかったの!」
「あ、やば」
抱きしめる腕の力を緩めて、麗仁くんの表情を覗えば。
そこには意地悪く唇の片端を上げる麗仁くんがいて。
「……~~っわ、わたしがどれだけ心配したと思ってるの」
力なく項垂れたわたしの掠れた声に、麗仁くんの優しい声が被さるようにして重なって。
「ごめんね、あやちゃん。返事したくても、出来なかった。ずっと暗闇を彷徨っているみたいだった。……だけど、あやちゃんがおれをそこから引きずり上げてくれた」
眉を下げて、申し訳無さそうにそう言われれば、わたしはもうこの人を許すことしか出来ない。
「そう、だったんですか……?」
ここで一気に我に返り、敬語に戻ってしまう。麗仁くんが「うん」と力なく頷く。
そうだよ、麗仁くんが返事を返さなかったのはわざとじゃないのに。
朦朧とした意識の中を彷徨って、わたしの声だけを頼りに目を覚ましてくれたんだ。
「麗仁くん、おかえりなさい」
その言葉に、麗仁くんは目を見開いて、すぐにくしゃっとした優しい笑顔になった。
「──うん、ただいま。あやちゃん」
大きくてひんやりとした手が、わたしの頭を撫でる。
慈しむかのように、大事に、愛されてるって分かる優しい撫で方。
もうわたしは、この方の側を一生離れたくない。
──今夜のようなことが、また起こってしまうとしても。
守られるばかりの存在じゃなく、わたしは麗仁くんの力になりたい。
互いの熱い視線が絡まる。
自然と顔を近づけていく。唇が触れる、その寸前で───
「真人、ちょっと出てってくれない」
麗仁くんの視線が、仁科さんに向けられた。
「かしこまりました、飛鳥馬様」
どこまでも忠実なその人は、言われるままに病室を後にする。
「あーやちゃん、おれが目覚まさなくて寂しかった?」
そんなことを聞いてくるあたり、麗仁くんは意地悪だ。わたしが何て答えるか分かった上で、聞いてくるのだから。
「……寂しかったです。凄く」
素直にそう言えば、驚いた顔をした後麗仁くんはまた幸せそうに顔を綻ばせた。
そして、2人の影が重なる───。
「…っん、」
形を確かめる暇もないくらいの触れるだけのキス。
触れた唇の体温は確かに熱くて、麗仁くんが生きてるって実感できる。
離れたかと思うと、またすぐに重ねられる。
2回目のキスは、少し長めの深いキスだった。
「……っ、ん、んぁ」
ヘンな声が出てしまう。それが恥ずかしくて、キスから逃れようとするけれど、麗仁くんがわたしの後頭部に手を添えているから、離れられない。
「声、かわいーね。もっと聞かせて」
どんどん深くなる口づけ。
優しく柔い力で唇を開けさせられて、そこに熱い舌が侵入してくる。
それは口内で甘く交わって、互いの熱を欲するように絡み合う。
いつの間にかわたしがベッドに押し倒されている形で、わたしの上に覆いかぶさる麗仁くん。
「…っはぅ、り、りとくんそこだめ……っ」
服の中に、麗仁くんの冷たい手が侵入して、背中を優しくなぞった。
その瞬間、ぞくぞくっと震えが走るわたしの体。
だけど、その震えは全然嫌なものじゃなくて、気持ち良すぎるからやめて欲しいというだけ。
「ここなぞっただけで震えちゃうとか、あやちゃんは感じやすいんだね」
「……っぁ、んん」
キスは嵐のように降り注いでくる。
それだけでいっぱいいっぱいだというのに、麗仁くんの手は今度は下の太ももの方に下りていき……。
際どい所をそっと撫でる手付きがなんていうか、とてもいやらしくて。
恥ずかしさのせいか、生理的な涙が頬を伝う。
「あやちゃん、泣くほど気持ちいいの?……だったら、気持ちいいこともっとしよーね」
「っん、麗仁、くん……」
初めて人の体温を知った、静かな夜。
大好きな人の低い体温に包まれて、わたしは幸せの中で眠りに落ちた。
─────
────
「───…あやちゃん、大好きだよ」
だから、麗仁くんがそんな甘い告白をしてくれているなんてつゆ知らず、その夜は麗仁くんと共に日常を過ごすという静かな夢を見た。
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