あやかし吉原 ~幽霊花魁~

菱沼あゆ

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第一章 幽霊花魁

遊郭の日常

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 川沿いの柳が涼やかな川風に揺れていた。

 那津なつに送られながら、咲夜さくやが言う。

「一人で大丈夫だったのに。
 お兄様ったら、心配性だから」

「咲夜、お前はあいつの妹なのか?」

 そう訊きながら、那津は、それにしては、顔が似ていないようだが、と思っていた。

 道具屋も顔は整っているが、咲夜の華やかな顔立ちとは造りが全然違っている。

「違うわ。
 昔からお世話になってはいるけど。

 私の姉がね、あの人と親しかったのよ」

 過去形か、と思いながら、咲夜の手にある包みを見る。
 そこから本が覗いていた。

「手習いの帰りか?」

「そう。
 他に自由はないからね」

 余程の深窓の姫なのかという感じだが。
 それにしては、供のひとりも連れずに歩いている。

 だが、そういえば、着物は普通の町娘風なのだが、仕立てもいいし、生地も良さそうだった。

「ねえ、さっきの話だけどさ。
 幽霊花魁は階段下の霊だって、今評判の花魁、桧山が言ったの?」

 ああ、と頷くと、咲夜は、ふうん、と言う。

「でもさ、幽霊花魁の話、結構聞くんだけど。
 ただ階段下に居たってだけじゃないのも多いのよ。

 同じ扇花屋の中でも違う場所で見たって話もあるし。
 なんなのかしらね?」

「階段下に出ることが多いってだけで、別の場所に出ることもあるんだろ。
 ただ、目撃証言が多いのはちょっと気になるけどな」

 相手は霊だ。
 其処此処に霊は居るが、大抵の人間には見えてはいない。

 道の端、家の前の縁台で年寄り連中が碁を打っている。

 それを覗き込んでいる大工姿の男が居るのだが。
 誰も彼には気づいていないし、騒ぎにもならない。

 そんなものだ。

 霊が見える人間は圧倒的に少ないはず。

 なのに、何故、幽霊花魁だけは、あんなにもたくさんの目撃証言があるのだろう。

 那津がそんなことを考えていると、咲夜が近くの紅屋の前で足を止めた。

「じゃあ、此処で。
 ありがとうございます、お坊様」

「おい。
 誰か迎えが来るんじゃないのか?」

 それらしき人物は見当たらなかったが、

「人が居ると現れない人なのよ」
と言って咲夜は笑う。

 忍者か……?

 やはり、何処ぞの姫かなにかなのだろうか、と思ったとき、

「じゃあね」
ともう一度、咲夜は言った。

 早く行け、と言うように。

 人に命令するのが板についている感じがあった。

 那津は言われた通り、歩き出したが。
 少し行ったところで、やはり気になり、振り返ろうとした。

 だが、そのとき、騒がしい声が自分を呼び止めた。

「あっ、エセ坊主っ」

 ……めんどくさい奴が現れたな。

 近くの問屋から知り合いの同心が顔を覗けていた。

 小平こだいらという若い同心だ。

 呑み屋で顔を合わせて以来、何かと絡んでくるので、閉口していた。




 やれやれ行ったか、と思いながら、咲夜は那津を見送った。

 坊主の格好をしてはいるが、生業としているのは除霊と絵描きという不思議な男らしい。

 だが、整った顔の中の切れ長の目は、不思議に澄んでいる。

 那津は少し行ったところで、こちらを振り返りかけたが。
 近くの問屋から出てきた若い同心に引きずられ、何処かに行ってしまった。

 咲夜は、ほっとし、紅屋の店先にずらりと並べられた紅を見る。
 紅は貝殻に塗られて売られていた。

 あ、これいいな、と手を伸ばしかけたとき、ようやく店近くの柳の傍に気配を感じた。

 そこに現れた細目の男を見上げ、
「なんでさっと出て来ないの? いつも」
と訊いてみる。

 だが、無言だ。

 余計なことを言わないので、主人に信頼されているようだったが。
 咲夜からすれば、必要なことすら言わない男だった。

 さっさと前を歩いて帰ろうとする男に向かい、咲夜は言った。

「待って、待ってっ。
 せっかく街に出たんだから、なにか……

 あっ、田楽っ」

 咲夜の目線は、もう紅から柳の木の下にある田楽の屋台へと移っていた。

 焼けた味噌のいい香りがしている。

「木の芽のやつ、食べたくない?」

 咲夜が男を見上げて笑うと、彼は溜息をつきながらも屋台に向かい、歩き出してくれた。

 それに付いて歩く咲夜の横を大八車が威勢良く駆け抜けていく。

 江戸の町はいつもせわしなく、楽しげだ。
 ずっとこの空気に浸っていたい気もするのだが。

 まあ、たまにだから楽しいのかもしれないな、と咲夜は思った。




 遊郭にも明るい日差しの差し込む頃。

 桧山は広い自室で馴染みの客に手紙を書いていた。

 昼見世と呼ばれるこの時間帯には客はあまり来ないので、みな本を読んだり、お稽古ごとをしたりしている。

 ふと桧山は筆を止めた。

 障子の向こうに誰かが居たからだ。

 チラとそちちらを見たが、普通の霊だった。

 桧山は再び文字を綴りながら思っていた。

 ご苦労なことだな、こんな昼間から。

 いや、霊たちも、夜だと相手にしてもらえないとわかっているからか。

 此処、吉原は夜でも明るく、いや、夜こそが明るく忙しく。

 誰もが霊など突き飛ばすくらいのせわしなさで、この町を回している。

 桧山はいつも衝立にしがみつくようにして、こちらを見ている女の霊を見た。

 着崩れた着物姿の女だ。

 自分を見ているようだが、特に恨みがあるというわけでもないようだ。

 いつの頃からかそこに居て。

 ただ、なんとなく、いつまでもそこに居る――。

 あの男には見えていただろうに、何も言わなかったな。

 桧山は、あの那津とかいう不思議な坊主を思い出していた。

 息を呑むほど、整ったかんばせ

 ああいうのに、奥方連中が入れ込んで寄進するのだろうなと思う。

 だが、那津の美しい顔も、桧山の心を動かすことはない。

 桧山は、側にある螺鈿の鏡に映る、己れの顔を眺めた。

 私は誰にもなにも求めてはいない。

 男にも――。

 この世で美しくあればいいのは、私のこの顔だけ。

 明るい窓を眺めた。

 衝立の女は、まだ自分を見つめている。

 あの坊主は何故、訊かなかったのだろう。

 どうして、これらの霊を先に始末しないのかと。

 桧山は窓越しに空を見上げ呟いた。

「……それはね。
 生きている人間の方が厄介だからよ」

 そのとき、誰かが桧山の足を掴んだ。

 振り返ると、畳の上を見覚えのある顔の女が這っていた。

 自分の居る場所まで引きり落とそうとするように、足を掴んでいる。

 それは自分の前に、この部屋を所有していた女だった。

 身請けしたいと引く手あまただったときに、誰かの囲われ者にでもなっておけばよかったのに。

 もっと上をと望み、時期を逃して、吉原一の遊女の座から転落し、病で死んだ。

 死ぬ前に病んだ身体を引きずるようにして、吉原にある九郎助稲荷に願掛けしに行っていたというが。

 この女のことだ。

 自分の病の平癒より、私を引き摺り落とそうと祈っていたに違いない。

 今、此処にこうしているのがその証拠だ。

 だが、こんな風に呪われるのも悪くない、と桧山は思っていた。

 それは、自分が勝利したあかしだからだ。

 だが、こんな話をすると、あの女は眉をひそめるのだろう。

 あの、幽霊花魁は――。

 桧山は立ち上がり、障子を開けた。

 油さしを呼ぶ。

 油をさし、行灯を掃除する若い者は、不寝者ねずのばんとも呼ばれていた。

 彼らは寝ずに、遊女の逃亡などを見張っているからだ。

 だが、近くには居なかったのか、返事はなかった。

 しんと静まり返る廊下の角を見つめた。

 その先の壁に、一箇所だけ、真新しい木の匂いを放つ場所があるのだが。

 この扇花屋では、そのことを口にするものは誰も居なかった。


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