5 / 22
願うは易く、叶うは難し
#5
しおりを挟む
警察署を出て数十分、警部のナビゲートのもとで高橋は車を走らせた。
「ここだ」
片道に寄って車を停める。繁華街から遠く離れたところにぽつんとある寂れたバーに入った。
ちりんちりんとドアベルが鳴る。開店前のようで、照明はカウンターのみで薄暗かった。
「遅かったな。待ちくたびれたよ」
ひゅっと喉が閉まる。姿を見ずとも声だけでわかる。耳の奥に残ったコマンドがよみがえってくるような気がした。
「そんなに待たせてはないだろう。話を聞いてすっ飛んできたんだ。…で? やってくれるんだな?」
「もちろん。男に二言はない」
「そうか、それはよかった。…こいつだ」
「おや…」
背中を押され、前に出ざるを得なくなった高橋はうつむき気味に会釈した。
「面白いこともあるものだね」
「なんのことだ」
「まったく知らない人とやるよりはいいか。…刑事さん、もう帰っていいよ」
「そうはいかない。このあと行かなきゃならん場所があるんだ」
「それは私たちで行こう。どうせ、精神科医のところだろう? 署まで連れていけばいいかな?」
「相変わらず耳が早い。…まあいい。行くならこの前やった手帳を使え」
「はいはい。じゃあねぇ」
出ていく警部に車の鍵を渡す。見送ったまま振り返れなかった。しばらくの静寂の後、見かねたように入間は言った。
「…まずはお茶にしようか。その様子だと、何も聞いてないようだし」
コーヒーを落とす入間を前に、高橋はカウンターに座った。暇を持て余してよくよく見れば、鳴宮医師と同じように長髪ではあるけれど、少し癖っ毛でこちらはしっかり手入れされていてきれいだ。顔横に前髪をさげ、あとは後ろで束ねている。うつむくそのまつ毛は女性のように長く、カウンターの端にあるつまようじが乗るのではと変なことを考えてしまった。
「そんなに見られると穴が開くよ」
「あ…すまない」
「ふふ、見惚れてた?」
「まさか」
悲しげに眉が下がる。長身の男に似合わない顔だ。
「…失礼なこと考えてるでしょ」
「いいや」
「相変わらずわかりやすいね。…はい、できたよ」
出された湯気の立つコーヒーを一口飲む。熱すぎて味などわかったものではなかった。それでも喉を通った後に鼻に抜ける香りが、コーヒーの良さを物語っている。
「ラテにしようか? ごめん、猫舌だったよね」
「いい。治った」
「ほら、かして。そんな涙目で言われても説得力ないよ。コーヒーは美味しく飲んでほしいからね」
慣れた手つきで牛乳を入れ、マドラーで混ぜて再び高橋の前に置かれる。
「そろそろ説明してくれるか。先輩には何も聞いてないんだ」
「ああ、そうだね。端的に言うと、私はエスだよ。それも、君専属の」
「…は? 俺はSMには興味ないぞ」
高橋がそう言うと、目を丸くした入間はふっと笑った。
「ちがうちがう。そっちじゃなくて、情報源となる人の方」
「あ、そういう…」
ただひたすらに恥ずかしい。やらしいこと覚えたての中学生かと赤面した。下げた視線に入ったラテを飲む。
「でね、今回の事件が初仕事ってこと」
「…そうか」
「よろしく、優斗」
今度は高橋が目を丸くした。名前で呼ばれたことなど一度もなかったから、内心どころか細胞単位で喜んでいる気がする。
「こちらこそ、よろしく」
「うん。で、ここからは私的な話。…昨日は本当にすまなかった!」
「え、いや、どちらかというと俺が謝らないといけないんじゃないか? その、ぬ、抜いてもらったし…」
「あれは思わぬ幸せだったよ。問題はその前だ。無理やりグレアをあててしまっただろう? そのうえ朝まで一緒にいなかった。急な電話が入ったからと出て行ってしまったことに後悔しかないよ。ドロップはしなかったかい?」
「いや、それはなかった。それにケアは完璧で…」
DomとSubのプレイのあとには、必ずケアが欠かせない。それがないとSubが精神的に不安定になり、最悪の場合Subドロップしてしまうのだ。Subが落ち着くまで褒めてやったり、抱きしめてやったりとケアの内容は人によって違い、プレイの前にSubの要望を聞いておくのが主流だ。
身体の怠さや、頭痛などは今朝の高橋にはなかった。むしろ、数日間の欲求不満が解消され、清々しい心地だ。
「そっか、よかった。これで堂々と言える」
「何を?」
「私のSubになってくれないか」
「…」
その言葉は、長年望み続けた言葉―――のはずだった。
入間は高校の時から長身で釣り目なせいで目つきが強く、話したことない人間には嫌煙されがちだったが、その実、性根はすこぶる優しかった。今では物腰柔らかな雰囲気に変わっているけれど、その根っこの部分は変わっていないのだろう。きっと、『グレアをあててしまったから』その責任を、と考えての言葉だ。
そんな言葉は、いらない。
「そこまで責任を感じなくていい」
「いや、そうじゃなくて、」
「精神科医のところに行くんだろ? あいにく俺には足がない。連れてってくれ。ラテはごちそうさま。…おいしかったよ」
千円札をカウンターにおいて、先に出てるからな、と入ってきたドアを開ける。今は仕事中で、まだ事件は解決していない。自分のことを考えるのはすべてが終わってからでも遅くないだろう。深呼吸をして、高橋は刑事の顔を作り直した。
「ここだ」
片道に寄って車を停める。繁華街から遠く離れたところにぽつんとある寂れたバーに入った。
ちりんちりんとドアベルが鳴る。開店前のようで、照明はカウンターのみで薄暗かった。
「遅かったな。待ちくたびれたよ」
ひゅっと喉が閉まる。姿を見ずとも声だけでわかる。耳の奥に残ったコマンドがよみがえってくるような気がした。
「そんなに待たせてはないだろう。話を聞いてすっ飛んできたんだ。…で? やってくれるんだな?」
「もちろん。男に二言はない」
「そうか、それはよかった。…こいつだ」
「おや…」
背中を押され、前に出ざるを得なくなった高橋はうつむき気味に会釈した。
「面白いこともあるものだね」
「なんのことだ」
「まったく知らない人とやるよりはいいか。…刑事さん、もう帰っていいよ」
「そうはいかない。このあと行かなきゃならん場所があるんだ」
「それは私たちで行こう。どうせ、精神科医のところだろう? 署まで連れていけばいいかな?」
「相変わらず耳が早い。…まあいい。行くならこの前やった手帳を使え」
「はいはい。じゃあねぇ」
出ていく警部に車の鍵を渡す。見送ったまま振り返れなかった。しばらくの静寂の後、見かねたように入間は言った。
「…まずはお茶にしようか。その様子だと、何も聞いてないようだし」
コーヒーを落とす入間を前に、高橋はカウンターに座った。暇を持て余してよくよく見れば、鳴宮医師と同じように長髪ではあるけれど、少し癖っ毛でこちらはしっかり手入れされていてきれいだ。顔横に前髪をさげ、あとは後ろで束ねている。うつむくそのまつ毛は女性のように長く、カウンターの端にあるつまようじが乗るのではと変なことを考えてしまった。
「そんなに見られると穴が開くよ」
「あ…すまない」
「ふふ、見惚れてた?」
「まさか」
悲しげに眉が下がる。長身の男に似合わない顔だ。
「…失礼なこと考えてるでしょ」
「いいや」
「相変わらずわかりやすいね。…はい、できたよ」
出された湯気の立つコーヒーを一口飲む。熱すぎて味などわかったものではなかった。それでも喉を通った後に鼻に抜ける香りが、コーヒーの良さを物語っている。
「ラテにしようか? ごめん、猫舌だったよね」
「いい。治った」
「ほら、かして。そんな涙目で言われても説得力ないよ。コーヒーは美味しく飲んでほしいからね」
慣れた手つきで牛乳を入れ、マドラーで混ぜて再び高橋の前に置かれる。
「そろそろ説明してくれるか。先輩には何も聞いてないんだ」
「ああ、そうだね。端的に言うと、私はエスだよ。それも、君専属の」
「…は? 俺はSMには興味ないぞ」
高橋がそう言うと、目を丸くした入間はふっと笑った。
「ちがうちがう。そっちじゃなくて、情報源となる人の方」
「あ、そういう…」
ただひたすらに恥ずかしい。やらしいこと覚えたての中学生かと赤面した。下げた視線に入ったラテを飲む。
「でね、今回の事件が初仕事ってこと」
「…そうか」
「よろしく、優斗」
今度は高橋が目を丸くした。名前で呼ばれたことなど一度もなかったから、内心どころか細胞単位で喜んでいる気がする。
「こちらこそ、よろしく」
「うん。で、ここからは私的な話。…昨日は本当にすまなかった!」
「え、いや、どちらかというと俺が謝らないといけないんじゃないか? その、ぬ、抜いてもらったし…」
「あれは思わぬ幸せだったよ。問題はその前だ。無理やりグレアをあててしまっただろう? そのうえ朝まで一緒にいなかった。急な電話が入ったからと出て行ってしまったことに後悔しかないよ。ドロップはしなかったかい?」
「いや、それはなかった。それにケアは完璧で…」
DomとSubのプレイのあとには、必ずケアが欠かせない。それがないとSubが精神的に不安定になり、最悪の場合Subドロップしてしまうのだ。Subが落ち着くまで褒めてやったり、抱きしめてやったりとケアの内容は人によって違い、プレイの前にSubの要望を聞いておくのが主流だ。
身体の怠さや、頭痛などは今朝の高橋にはなかった。むしろ、数日間の欲求不満が解消され、清々しい心地だ。
「そっか、よかった。これで堂々と言える」
「何を?」
「私のSubになってくれないか」
「…」
その言葉は、長年望み続けた言葉―――のはずだった。
入間は高校の時から長身で釣り目なせいで目つきが強く、話したことない人間には嫌煙されがちだったが、その実、性根はすこぶる優しかった。今では物腰柔らかな雰囲気に変わっているけれど、その根っこの部分は変わっていないのだろう。きっと、『グレアをあててしまったから』その責任を、と考えての言葉だ。
そんな言葉は、いらない。
「そこまで責任を感じなくていい」
「いや、そうじゃなくて、」
「精神科医のところに行くんだろ? あいにく俺には足がない。連れてってくれ。ラテはごちそうさま。…おいしかったよ」
千円札をカウンターにおいて、先に出てるからな、と入ってきたドアを開ける。今は仕事中で、まだ事件は解決していない。自分のことを考えるのはすべてが終わってからでも遅くないだろう。深呼吸をして、高橋は刑事の顔を作り直した。
0
あなたにおすすめの小説
【BL】捨てられたSubが甘やかされる話
橘スミレ
BL
渚は最低最悪なパートナーに追い出され行く宛もなく彷徨っていた。
もうダメだと倒れ込んだ時、オーナーと呼ばれる男に拾われた。
オーナーさんは理玖さんという名前で、優しくて暖かいDomだ。
ただ執着心がすごく強い。渚の全てを知って管理したがる。
特に食へのこだわりが強く、渚が食べるもの全てを知ろうとする。
でもその執着が捨てられた渚にとっては心地よく、気味が悪いほどの執着が欲しくなってしまう。
理玖さんの執着は日に日に重みを増していくが、渚はどこまでも幸福として受け入れてゆく。
そんな風な激重DomによってドロドロにされちゃうSubのお話です!
アルファポリス限定で連載中
二日に一度を目安に更新しております
世界で一番優しいKNEELをあなたに
珈琲きの子
BL
グレアの圧力の中セーフワードも使えない状態で体を弄ばれる。初めてパートナー契約したDomから卑劣な洗礼を受け、ダイナミクス恐怖症になったSubの一希は、自分のダイナミクスを隠し、Usualとして生きていた。
Usualとして恋をして、Usualとして恋人と愛し合う。
抑制剤を服用しながらだったが、Usualである恋人の省吾と過ごす時間は何物にも代えがたいものだった。
しかし、ある日ある男から「久しぶりに会わないか」と電話がかかってくる。その男は一希の初めてのパートナーでありSubとしての喜びを教えた男だった。
※Dom/Subユニバース独自設定有り
※やんわりモブレ有り
※Usual✕Sub
※ダイナミクスの変異あり
やっと退場できるはずだったβの悪役令息。ワンナイトしたらΩになりました。
毒島醜女
BL
目が覚めると、妻であるヒロインを虐げた挙句に彼女の運命の番である皇帝に断罪される最低最低なモラハラDV常習犯の悪役夫、イライ・ロザリンドに転生した。
そんな最期は絶対に避けたいイライはヒーローとヒロインの仲を結ばせつつ、ヒロインと円満に別れる為に策を練った。
彼の努力は実り、主人公たちは結ばれ、イライはお役御免となった。
「これでやっと安心して退場できる」
これまでの自分の努力を労うように酒場で飲んでいたイライは、いい薫りを漂わせる男と意気投合し、彼と一夜を共にしてしまう。
目が覚めると罪悪感に襲われ、すぐさま宿を去っていく。
「これじゃあ原作のイライと変わらないじゃん!」
その後体調不良を訴え、医師に診てもらうととんでもない事を言われたのだった。
「あなた……Ωになっていますよ」
「へ?」
そしてワンナイトをした男がまさかの国の英雄で、まさかまさか求愛し公開プロポーズまでして来て――
オメガバースの世界で運命に導かれる、強引な俺様α×頑張り屋な元悪役令息の元βのΩのラブストーリー。
隠れSubは大好きなDomに跪きたい
みー
BL
ある日ハイランクDomの榊千鶴に告白してきたのは、Subを怖がらせているという噂のあの子でー。
更新がずいぶん遅れてしまいました。全話加筆修正いたしましたので、また読んでいただけると嬉しいです。
鎖に繋がれた騎士は、敵国で皇帝の愛に囚われる
結衣可
BL
戦場で捕らえられた若き騎士エリアスは、牢に繋がれながらも誇りを折らず、帝国の皇帝オルフェンの瞳を惹きつける。
冷酷と畏怖で人を遠ざけてきた皇帝は、彼を望み、夜ごと逢瀬を重ねていく。
憎しみと抗いのはずが、いつしか芽生える心の揺らぎ。
誇り高き騎士が囚われたのは、冷徹な皇帝の愛。
鎖に繋がれた誇りと、独占欲に満ちた溺愛の行方は――。
親友が虎視眈々と僕を囲い込む準備をしていた
こたま
BL
西井朔空(さく)は24歳。IT企業で社会人生活を送っていた。朔空には、高校時代の親友で今も交流のある鹿島絢斗(あやと)がいる。大学時代に起業して財を成したイケメンである。賃貸マンションの配管故障のため部屋が水浸しになり使えなくなった日、絢斗に助けを求めると…美形×平凡と思っている美人の社会人ハッピーエンドBLです。
【完結】俺だけの○○ ~愛されたがりのSubの話~
Senn
BL
俺だけに命令コマンドして欲しい
俺だけに命令して欲しい
俺の全てをあげるから
俺以外を見ないで欲しい
俺だけを愛して………
Subである俺にはすぎる願いだってことなんか分かっている、
でも、、浅ましくも欲張りな俺は何度裏切られても望んでしまうんだ
俺だけを見て、俺だけを愛してくれる存在を
Subにしては独占欲強めの主人公とそんな彼をかわいいなと溺愛するスパダリの話です!
Dom/Subユニバース物ですが、知らなくても読むのに問題ないです! また、本編はピクシブ百科事典の概念を引用の元、作者独自の設定も入っております。
こんな感じなのか〜くらいの緩い雰囲気で楽しんで頂けると嬉しいです…!
家事代行サービスにdomの溺愛は必要ありません!
灯璃
BL
家事代行サービスで働く鏑木(かぶらぎ) 慧(けい)はある日、高級マンションの一室に仕事に向かった。だが、住人の男性は入る事すら拒否し、何故かなかなか中に入れてくれない。
何度かの押し問答の後、なんとか慧は中に入れてもらえる事になった。だが、男性からは冷たくオレの部屋には入るなと言われてしまう。
仕方ないと気にせず仕事をし、気が重いまま次の日も訪れると、昨日とは打って変わって男性、秋水(しゅうすい) 龍士郎(りゅうしろう)は慧の料理を褒めた。
思ったより悪い人ではないのかもと慧が思った時、彼がdom、支配する側の人間だという事に気づいてしまう。subである慧は彼と一定の距離を置こうとするがーー。
みたいな、ゆるいdom/subユニバース。ふんわり過ぎてdom/subユニバースにする必要あったのかとか疑問に思ってはいけない。
※完結しました!ありがとうございました!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる