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願うは易く、叶うは難し
#6
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店の裏から回ってきた車は高橋の前にピタリと止まる。後部座席のドアノブに手をかける間もなく、サイドブレーキをひいた入間が運転席から下りてきたと思えば、助手席のドアを開けた。
「…こんなことしなくていい。俺はお前のSubじゃない」
「これくらいはさせて欲しいな。目の前でストレスためていく男を見たくはないだろう?」
Domは一般的に、パートナーのSubに対して世話焼きだ。昨夜のようなプレイとまではいかなくとも好意を寄せているSubの世話を焼くことで、欲求不満からくるストレスはなくなる。
「それも…そうか」
「でしょ? さ、乗って」
「でも仕事中はやめてくれ」
そう言って車に乗り込んだ。運転席に座った入間が静かに車を発進させる。
「仕事中は…ってことはプライベートならいいのかな」
「…」
はたと気づいて押し黙る。浅くても自分にピッタリな墓穴を掘ってしまった。沈黙が返事だと解釈した入間は見るも上機嫌にハンドルを握っている。
店から30分ほどで車は停まった。静かな住宅街のはずれに藤波精神科医院はひっそりとたたずんでいる。
「こんにちは。ご予約はされてますか」
受付の女性の看護師はにこやかに聞いてきた。「こういう者です」と高橋は警察手帳を出す。
「…先生に確認いたします。席におかけになって、お待ちください」
さして驚いた様子もなく、すっと看護師は奥に消えていった。平日なこともあり、待合室に患者はいない。
「さすがに慣れてるようだね」
「慣れてる?」
「ああ。精神疾患を持ってる人が警察にやっかいになるなんて、そう珍しいことでもないだろうし」
それは少し失礼な物言いではないだろうかと高橋は鼻の頭を掻いた。実際の数字はそうでなくても、身の周りにそういう事例が多くあれば人は多く発生していると錯覚することがある。「そうとは限らないだろ」
数分も待つことなく、看護師は戻って来た。
「ただいま先生は診察中です。終わり次第、対応いたしますので奥の部屋でお待ちください。ご案内いたします」
病院というには不思議なほど、人の気配がしない。少しベージュがかった白を基調として、全体的に淡い壁紙が続く。奥に進むと、ベビールームやキッズルームがあった。ところどころに花が飾られ、簡素な室内が明るく感じられる。
「お茶をお持ちしますね。こちらにおかけください」
「お気遣いどうも」
出されたお茶を前に、ソファーに座り待つこと十数分。こんこんと扉が鳴り、白衣の男が入ってきた。その髪には白髪が混じり、深いしわと相まって物腰柔らかそうな雰囲気を纏っている。
「いやあ、お待たせしました。あと2組予約がありまして、少ししか時間はありませんが…今日はどんなご用でしょうか?」
「こちらの患者である楠木慧人が昨日、事件の犯人として逮捕されました。しかしながら取調室で黙秘を続けておりまして。先生のご助力をいただけないかとこちらを伺った次第です」
「なるほど…。楠木さんは確か…ちょっと待ってくださいね」
向かいのソファーに座りかけた藤波は、その後ろに整然と並ぶファイルの中から一つを取り出し机に広げた。
「…刑事さん、楠木さんは今どんな感じかわかりますか」
「昨夜2時間程度取り調べたと聞いています。一向に喋ってくれてない状況です」
「そうですか…」
「今は心理師がついてます」
「ならば、問題は起きにくいでしょうが、なるべくひとりにはしないでください。薬は服用していますか?」
「いえ…」
「ではなおのこと、ひとりにしてはいけません。話を聞く限り、いつ発作が起きてもおかしくない状況です。明日、朝いちばんに署に行きます。できれば明日の取り調べの前にふたりで話をさせてください」
「分かりました」
「もしかして彼は、双極性障害ですか?」
入間がそう言うと、藤波は少し驚いたようにして「そうです」と答えた。
「守秘義務がありますので、ここまでしかお話しできませんが」
こんこんと扉が鳴り、看護師が入ってきた。
「先生、お時間です」
「そうか。すみません、ここまででよろしいですか。のちほど看護師が案内しますので、ここで待っててください」
「分かりました。では明日、署でお待ちしております」
にっこりと笑って、藤波は部屋を出て行った。少しして高橋と入間も部屋を後にした。
「送っていくよ。家と警察署、どっち?」
エンジンをかけながら入間は言う。
「署に」
「了解。眠かったら寝ててもいいからね。着く前に起こすから」
「…今は仕事中だ」
「ストイックだねぇ」
そうは言ったものの、エンジン音と心地いい静寂が睡魔を呼び、高橋を襲う。意地でも眠るかと、手帳を取り出した。
「Usualに転化、か…」
「毒の出所がこの事件の肝だね。まあ、青酸カリではなかっただけましかな。昔と違って今はそうやすやすと出回る薬ではないからね。どこかの管理問題とかになったらそれこそめんどくさくなるでしょう?」
「そう…だな」
青酸カリと聞き、昨日楠木がその言葉を口にしていたことを思い出した。
「…お前、昨日のワインの中身が青酸カリじゃないって気づいてたな?」
「もちろん。青酸性の毒物は即効性だからね。本当に飲んでいたならあんなにパニックになるはずがないだろう」
「じゃあ、ワインを飲もうとしてたのは…」
「いきなり叩かれるからびっくりしたよ。香りでなんの薬かわかるかなと思ったんだ」
「…すまない」
「いいや、優斗が謝る必要はないよ。私を助けようとしてくれたんだよね」
そうこう話しているうちに車が署に停まる。サイドブレーキをかけた入間は高橋の頭を撫でた。
「ありがとう」
「…っ」
顔が、熱い。きっとわかりやすく紅潮しているだろう。胸いっぱいに温かいものが広がって、これ以上ないほどの満足感を覚えた。嬉しい、もっと褒めて欲しい。身体が、内のSub性がそう叫んでいた。
「…帰るのか」
ぼそりと言ってしまったあとで、はたと気づく。これでは帰ってほしくないようではないか。
「俺はエスだからね。署に入るのは避けたい。…今日の夜は空いてるかい? 食事でもどうかな」
「…」
頷きかけたところで、握りしめた警察手帳が高橋の理性を呼んだ。まだ、仕事は終わっていない。
「遠慮しておく。…またな」
まるで逃げるように車を降りた。高橋が署に入るまで、車が出て行くことはなかった。
「…こんなことしなくていい。俺はお前のSubじゃない」
「これくらいはさせて欲しいな。目の前でストレスためていく男を見たくはないだろう?」
Domは一般的に、パートナーのSubに対して世話焼きだ。昨夜のようなプレイとまではいかなくとも好意を寄せているSubの世話を焼くことで、欲求不満からくるストレスはなくなる。
「それも…そうか」
「でしょ? さ、乗って」
「でも仕事中はやめてくれ」
そう言って車に乗り込んだ。運転席に座った入間が静かに車を発進させる。
「仕事中は…ってことはプライベートならいいのかな」
「…」
はたと気づいて押し黙る。浅くても自分にピッタリな墓穴を掘ってしまった。沈黙が返事だと解釈した入間は見るも上機嫌にハンドルを握っている。
店から30分ほどで車は停まった。静かな住宅街のはずれに藤波精神科医院はひっそりとたたずんでいる。
「こんにちは。ご予約はされてますか」
受付の女性の看護師はにこやかに聞いてきた。「こういう者です」と高橋は警察手帳を出す。
「…先生に確認いたします。席におかけになって、お待ちください」
さして驚いた様子もなく、すっと看護師は奥に消えていった。平日なこともあり、待合室に患者はいない。
「さすがに慣れてるようだね」
「慣れてる?」
「ああ。精神疾患を持ってる人が警察にやっかいになるなんて、そう珍しいことでもないだろうし」
それは少し失礼な物言いではないだろうかと高橋は鼻の頭を掻いた。実際の数字はそうでなくても、身の周りにそういう事例が多くあれば人は多く発生していると錯覚することがある。「そうとは限らないだろ」
数分も待つことなく、看護師は戻って来た。
「ただいま先生は診察中です。終わり次第、対応いたしますので奥の部屋でお待ちください。ご案内いたします」
病院というには不思議なほど、人の気配がしない。少しベージュがかった白を基調として、全体的に淡い壁紙が続く。奥に進むと、ベビールームやキッズルームがあった。ところどころに花が飾られ、簡素な室内が明るく感じられる。
「お茶をお持ちしますね。こちらにおかけください」
「お気遣いどうも」
出されたお茶を前に、ソファーに座り待つこと十数分。こんこんと扉が鳴り、白衣の男が入ってきた。その髪には白髪が混じり、深いしわと相まって物腰柔らかそうな雰囲気を纏っている。
「いやあ、お待たせしました。あと2組予約がありまして、少ししか時間はありませんが…今日はどんなご用でしょうか?」
「こちらの患者である楠木慧人が昨日、事件の犯人として逮捕されました。しかしながら取調室で黙秘を続けておりまして。先生のご助力をいただけないかとこちらを伺った次第です」
「なるほど…。楠木さんは確か…ちょっと待ってくださいね」
向かいのソファーに座りかけた藤波は、その後ろに整然と並ぶファイルの中から一つを取り出し机に広げた。
「…刑事さん、楠木さんは今どんな感じかわかりますか」
「昨夜2時間程度取り調べたと聞いています。一向に喋ってくれてない状況です」
「そうですか…」
「今は心理師がついてます」
「ならば、問題は起きにくいでしょうが、なるべくひとりにはしないでください。薬は服用していますか?」
「いえ…」
「ではなおのこと、ひとりにしてはいけません。話を聞く限り、いつ発作が起きてもおかしくない状況です。明日、朝いちばんに署に行きます。できれば明日の取り調べの前にふたりで話をさせてください」
「分かりました」
「もしかして彼は、双極性障害ですか?」
入間がそう言うと、藤波は少し驚いたようにして「そうです」と答えた。
「守秘義務がありますので、ここまでしかお話しできませんが」
こんこんと扉が鳴り、看護師が入ってきた。
「先生、お時間です」
「そうか。すみません、ここまででよろしいですか。のちほど看護師が案内しますので、ここで待っててください」
「分かりました。では明日、署でお待ちしております」
にっこりと笑って、藤波は部屋を出て行った。少しして高橋と入間も部屋を後にした。
「送っていくよ。家と警察署、どっち?」
エンジンをかけながら入間は言う。
「署に」
「了解。眠かったら寝ててもいいからね。着く前に起こすから」
「…今は仕事中だ」
「ストイックだねぇ」
そうは言ったものの、エンジン音と心地いい静寂が睡魔を呼び、高橋を襲う。意地でも眠るかと、手帳を取り出した。
「Usualに転化、か…」
「毒の出所がこの事件の肝だね。まあ、青酸カリではなかっただけましかな。昔と違って今はそうやすやすと出回る薬ではないからね。どこかの管理問題とかになったらそれこそめんどくさくなるでしょう?」
「そう…だな」
青酸カリと聞き、昨日楠木がその言葉を口にしていたことを思い出した。
「…お前、昨日のワインの中身が青酸カリじゃないって気づいてたな?」
「もちろん。青酸性の毒物は即効性だからね。本当に飲んでいたならあんなにパニックになるはずがないだろう」
「じゃあ、ワインを飲もうとしてたのは…」
「いきなり叩かれるからびっくりしたよ。香りでなんの薬かわかるかなと思ったんだ」
「…すまない」
「いいや、優斗が謝る必要はないよ。私を助けようとしてくれたんだよね」
そうこう話しているうちに車が署に停まる。サイドブレーキをかけた入間は高橋の頭を撫でた。
「ありがとう」
「…っ」
顔が、熱い。きっとわかりやすく紅潮しているだろう。胸いっぱいに温かいものが広がって、これ以上ないほどの満足感を覚えた。嬉しい、もっと褒めて欲しい。身体が、内のSub性がそう叫んでいた。
「…帰るのか」
ぼそりと言ってしまったあとで、はたと気づく。これでは帰ってほしくないようではないか。
「俺はエスだからね。署に入るのは避けたい。…今日の夜は空いてるかい? 食事でもどうかな」
「…」
頷きかけたところで、握りしめた警察手帳が高橋の理性を呼んだ。まだ、仕事は終わっていない。
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